第六講 ヨガ哲学

では、インド六派哲学の一つ、ヨガ哲学についてみていきましょう。実践によって解脱を目指すという彼らの思想とは、いったいどのようなものなのでしょうか。ヨーガ学派の思想は、サーンキヤ学派の形而上学を基礎としています。とは言え、相違点もいくつかあり、その中でも一番わかりやすいのが神の存在でしょう。サーンキヤ学派においては神の存在を認めていませんが、ヨーガ学派ではイーシュヴァラという自在神を認めます。イーシュヴァラは世界創造の神ではなく、ヨーガの修行中に祈念する対象の神だとされています。このことからヨーガ学派を有神サーンキヤ哲学と呼称することもあります。ヨーガ学派は実践によって解脱を目指します。元々『yoga』とは、牛馬にくびきをつけて車につなぐ道具『yuj』から派生した名詞です。これが転じて『繋ぐ』という意味を持ち、心を統一するというよう法で使われるようになりました。ちなみに初めてインド哲学において『ヨーガ』という言葉が現れたのは、ウパニシャッドの一つである『カタ・ウパニシャッド』だとされています。ヨーガ学派の経典は『ヨーガ・スートラ』で、作者は紀元前2世紀ごろの文法学者であるパタンジャリだとされています。しかし、現在残る形に編纂されたのは4世紀ごろで、パタンジャリがその原型を作ったことに関しては大きな疑問が残ります。インド哲学史ではよくあることなので気にしないことにしましょう。また、5~6世紀にはヴィヤーサによって「ヨーガ・バーシャ」が編纂され、この二つが経典と位置付けられているようです。ヨーガ学派においては「チッタ」の止滅が必要とされます。チッタとは簡単に表すと、サーンキヤ哲学における『ブッディ』、『アハーンカーラ』、『マナス』のことです。これらを全て滅することで、解脱が可能になるとしているのです。おさらいになりますが、インド哲学の根本には『苦からの解放』という命題があります。苦は過去(前世)の悪行の果報として起こります。当然喜楽も同様に因果律によって起こるのですが、快楽は一過性のものであるため、その間には無限の苦があると考えます。有理数と有理数の間には無限の無理数が存在し、数学的には有理数の無理倍無理数が存在すると規定するのと同様に人生とは一切が苦であると規定するのです。サーキンヤ的な輪廻感では、その根本的な原因は自我によるプルシャの誤認だとしました。すなわち無知による勘違いであると。だからこそ、明知を得て無知を完全に取り除くことで解脱に至ると考えたわけですが、ヨーガ学派はそれを実現するためには心の統一も必要であろうと主張します。心の統一のためには実践(ヨーガ)が必要になるのです。実践の具体的な方法は8段階の工程に分けられています。まずは【ヤマ(制戒)】です。不殺生・真実語・不盗・不淫・無所有などの戒律を守ることで心の浄化をする段階です。次に【ニヤマ(内戒)】です。心を清め、満足を知り、苦行を実践し、経典を唱え、イーシュヴァラを祈念するという工程を経て、心身から無駄なものを排除していきます。3つ目は【アーサナ(座法)】です。ヨーガの実践のために必要な座り方を修練します。意識しなくてもその座り方ができるようになるのが理想とされます。4つ目に【プラーナーヤマ(調息)】です。呼吸法を修練します。最終的に廃棄をするのがゆっくり過ぎて、息をしているのか分からないレベルになるのを理想とします。5つ目は【プラティヤーハーラ(制感)】で、外界との精神的接触を断ちます。五感で物事を捉えるのを辞める。というのが感覚的に近いかと思います。6つ目は【ダーラナー(凝念)】です。ある一転に心を集中し、それ以外のものが心に侵入できないようにします。7つ目は【ディヤーナ(静慮)】です。ダーラナーで集中した感覚を時間的に引き伸ばします。これにより、集中したそのもの自体からも認識が引き離されます。最後に【サマーディ(三昧)】です。思考が停止状態にたどり着き主観と客観の区別がなくなり、心は対象そのものになります。サマーディにもさまざまな種類があるのですが、ここでは解説を割愛します。一般的なサマーディの状態の事を『アーナンダ(喜悦)』と呼びます。ニヤーヤ学派が否定していたのはここです。このように、ヨガを実践することでサマーディ(三昧)に至るわけですが、その行程は、サーンキヤ哲学の世界の発生順序を逆向きにたどっています。つまり、低次の対象から順に止滅して行って、最後はチッタまで止滅することで、プルシャの認識から解放されるわけです。ちなみに、ヨガ学派では、ヨガの過程でとんでもない超能力が得られるとされています。それがこれらの能力です。

ヨガの実践で得られる能力

・過去と未来を全て知ることができる

・動物の言語が理解できる

・前世を認識する

・他者の心がわかる

・透明化 ・千里眼 ・地獄耳 ・小人化 ・巨人化 ・飛行

整合性を厳密に追求した理論の中に、いきなり非現実的な超能力が出てくるのがインド哲学らしく、真偽はともかく、非常に好感が持てます。

続いて、インド哲学の主流ともいわれる、【ヴェーダンタ学派】についてみていきましょう。

第七講 ヴェーダンタ学派

次に、インド六派哲学の一つ、【ヴェーダンタ学派】についてみていきましょう。インド哲学の本流と呼ばれるヴェーダンタ学派とはどのようなものなのでしょうか。

ヴェーダンタ学派は現在のインド哲学の主流だとされています。『ヴェーダンタ』には『ヴェーダの終わり』という意味があり、ウパニシャッドの別名だとされることからもそれがわかります。ウパニシャッド哲学を最も正統的に受け入れた学派なので、その思想の中心は梵我一如です。六派哲学の中では、一番仏教に近いものでもあります。経典はヴァーダラーヤナが記した『ブラフマ・スートラ』で、他にウパニシャッドやバガヴァッド・ギータ―も経典とされています。梵我一如の思想においては、ブラフマンとアートマンという実在を定義し、それらが本来一つのものであると説きます。本来一つのものを語っているので一元論なのですが、一元論の説明に二つの要素が出てきてしまうので、見方によっては非常に二元論的でもあります。また、一元論においては世界の説明が難しくなります。根本である一者は完全に自己完結しているはずです。そのような存在から多様な世界が生まれることにどうしても疑問が生じてしまうのです。ウパニシャッド哲学をはじめ、ヴァーダラーヤナが残した思想についても他の学派からこれらの隙についての攻撃を受けました。

そこで現れたのがインド最大の哲学者の一人である『シャンカラ』です。8世紀ごろ、シャンカラは不二一元論(アドヴァイタ)を唱え、それまでのヴェーダンタ的一元論の補強を行いました。シャンカラは、私と世界が別物だと思う理由は無知によるものだとします。私たちが見ている世界はすべて幻であって、それに気が付かないのは無知だからと言ったのです。サーンキヤ哲学においては、純粋精神であるプルシャと、根本原質であるプラクリティという二つの存在を規定し、二元論的に世界を解脱しました。そして、実在論的にプルシャ以外はすべて物質だと考えます。極論にはなりますが、シャンカラはサーンキヤ哲学におけるプラクリティ以下の全ての物質を幻だとしたのです。これにより、真の実在はサーンキヤでいうプルシャ、ヴェーダンタでいうブラフマンのみということになり、一元論か二元論に陥ってしまう欠陥を解消しました。サーンキヤ哲学において、最初から逆向きにプルシャに還ろうとしたのに対し、シャンカラは「そもそも最初から世界=私」であるとしたわけです。このような一元論と二元論の根本的な性質による衝突は、ずっと後にデカルトとスピノザにおいて繰り返されることとなります。シャンカラは、この世界はブラフマンが「未展開の名称・形態」を展開することで作られると考えました。未展開の名称・形態とは表現できない未確定・未分化の状態にあるものとされていて、もうこれについては理解不能なので、「謎の状態」としてもよいと思います。ブラフマンが展開するとまず虚空が作られ、ついで風・火・水・地の五大が作られ、五大によって身体が作られ、生じた体にブラフマンが『アートマン』として入り込む。つまり、アートマンは物質的な身体とは全く別の存在であり、人の個我とされるアートマンはブラフマンと全く同一のものであるとします。このようにブラフマンから展開した謎の状態によって形作られた『世界』は、無知によって見せられている幻なのです。その幻においては様々な経験の影響で自分以外に沢山の個我があるように感じます。そのような経験から、人間は自分の感覚機能などをアートマンだと誤認してしまい、それによりアートマンとブラフマンが別物だと思ってしまう。このことから『自分という精神主体』があると勘違いし、その勘違いが原因で苦の連鎖を断ち切ることができない。つまり、無知こそが輪廻を抜け出せない原因であるとしたのです。ブラフマンが唯一無二の実在者であることのみが真実なので、誤った知識を全て正してアートマンを正しく認識し、アートマンがブラフマンと同一であることを真に理解することで、現象界が実在しないものであると悟り、解脱に至る。不二一元論ではこのように考えられました。このことから、ヴェーダンタ学派では、サーンキヤがヨガの思想である知行併合を、心の浄化のためには間接的に行為は必要だと一部認めつつも、基本的には否定します。必要なのは煩悩をなくす努力ではなく、そもそも梵我一如であると気付く事。そのための知識こそが何よりも重要だとしたのです。ヴェーダンタ学派と対をなすミーマーンサー学派では、古来より続く祭式の作法について研究がなされます。彼らは『神は祭式の一要素でしかない』という祭式至上主義の立場に立ち、バラモンの立場をより強固なものにしていきました。ヴェーダやウパニシャッドの正統解釈であるヴェーダンタ学派がインド哲学の主流になったことと、現在でもインドの大多数の国民がヒンドゥー教徒であり、カースト制度が根強く残っていることには間違いなく相関があると感じます。次回は六派哲学と対極にある沙門の思想、その中でも【六師外道】についてみていきましょう。

第八講 沙門

それでは、バラモン教の思想とは異なった考え方を提示した沙門の思想、その中でも代表的な【六師外道】についてご紹介していきます。仏教側の視点から外道と位置付けられた彼らの思想とは、一体どのようなものだったのでしょうか。

古代インドでは、バラモン教の影響が絶大でした。主たる産業が農耕だった間は特にそうで、自然をコントロールできると考えられていたバラモン教。そしてその司祭階級であるバラモンはカーストの最上位として強力な力を持っていたのです。しかし、国家が発達し、商業や軍事力が目覚ましく発展をすると、カースト次点のクシャトリヤ(王族)やヴァイシャ(商業民)が力を持つようになります。相対的にバラモンの力は弱まり、その思想に反する思想が盛り上がりを見せます。その際に表れた反バラモン的な自由思想家たちを沙門と総称します。この運動の中から仏教やジャイナ教が生まれ、当然釈迦も沙門の一人に数えられます。沙門の中でも初期の代表的な思想家たちを【六師外道】と呼びます。紀元前6世紀ごろのインドにあったコーサラ国の王であるプラセーナジットは、六師外道を年長者、釈迦を年少者と呼びました。このことから、六師外道の自由な思想をきっかけにして、仏教の誕生につながっていったと考えることもできるでしょう。六師外道の一人【プラーナ・カッサパ】は、行為の善悪否定論を唱えます。行為には善悪などなく、善悪がないのだから、それが何かの因果関係をもたらすことはない。このように因果応報を批判することで、因果応報に支えられているカースト制度を否定しました。【マッカリ・ゴーサーラ】は宿命論を主張します。彼は【アージーヴィカ教】という修行も解脱も否定した宗教の始祖です。インドに現存する最古の文字資料であるアショーカ王碑文には、仏教、ジャイナ教、バラモン教と並んで、アージーヴィカの名前が記されています。彼は、万物は細部に至るまで宇宙を支配する宿命によって定められていると考えます。輪廻も宿命的に決まっていて、8400000劫(カルパ)もの長い間、誰しもが輪廻し続ける運命であると言いました。劫(カルパ)の長さについては国により諸説ありますが、ヒンドゥー教においては、おおよそ43億年だとされます。仏教の書物では一片2000kmの岩を100年に一度布で撫で、岩がすり減って完全に無くなっても劫に満たないとされています。つまり、それだけの長い間輪廻を繰り返すことはすでに決まっており、行為にその宿命を変えるだけの力は無いと言うのです。正に業の否定です。『アジタ・ケーサカンバリン』は唯物論者です。彼は西洋で言うエピクロス教団のような快楽主義的な集団を作りました。これを『ローカーヤタ』または『順世派』と呼びます。彼は四要素説を唱え、人は地・火・水・風の要素で構成されている物質で、死ねばその四要素に還るだけだと考えました。だから、生きているうちに楽しんだ方が良い、『生きているうちはギー(バターを溶かしたもの)を飲むべきだ。なぜなら死んだら何も残らないからだ』という言葉も残しています。一方で、人勢が苦しみだということは認めており、それを『魚を貰えば骨が付いてくるでしょ』と表現しています。このような反宗教的な考え方は、危険思想として攻撃対象になりました。そはいえ、紀元前3世紀ごろには、サーンキヤ・ヨガと並んで、主要な思想だったとされています。『パクダ・カッチャーナ』は七要素説を唱えます。世界は地・火・水・風・楽・苦・生命で構成されていると考え、これらの各要素は何かを作るものでも作られるものでもなく、普遍不動で互いに影響することもないとしました。つまり、この世界は七要素だけが存在しているのであり、その他の存在はあり得ないとしたのです。だから、例えば誰かの首を剣で落としたとしても、それは命が奪われたわけではなく、ただ七要素の間に隙間ができただけだと考えます。非常に実存論的な思想だと言えるでしょう。『サンジャヤ』は不可知論を唱えます。不可知論とは、真理をあるがままに認識し、説明するのは不可能であるとする思想です。形而上学的な問題には解答することを放棄し、思考停止(エポケー)します。仏教に伝わる『沙門果経』には、彼の言葉が紹介されています。

もしもあなたが『あの世はあるか』と問うた場合、わたしが「あの世はある」と考えたならば、「あの世はある」と、あなたに答えるでしょう。しかしながら、わたしはそうしない。わたしはその通りだとも考えないし、それとは異なるとも考えないし、そうでないとも考えないし、そうでないのではないとも考えない。

この思想は仏教に大きく影響を与えます。仏教には『無記』という表現があります。これは釈迦が形而上学的な問いに対して回答を避けたことを表す言葉ですが、まさにその思想の先駆けと言えるでしょう。事実、釈迦の弟子であった【シャーリプトラ(舎利弗)】や、【モッガラーナ(目連)】は、元々サンジャヤの弟子であったとされています。それぞれバリエーションに富んだ思想展開をしていますが、それらは全て、ヴェーダの権威に対する議論から始まりました。この運動はのちに大きく発展し、仏教などへと結びついていくのです。

それでは、六師外道の最後の一人で、ジャイナ教の開祖である【ニガンタ・ナータプッタ(マハーヴィーラ)】についてみていきましょう。

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