ヨガの道

知的学習を超えた心の知識

 

海洋学や海洋冒険の本を1000冊読んだとしても、自分自身で海に飛び込んで実際に濡れてみなければ、大洋を本当に理解することはできないでしょう。実際に飛び込んでいこそ、海のパワーを感じ、海を尊敬し信頼できるようになるものです。ヨガの大洋(ヨガ・アルナーヴァ)も同様です。ヨガについて多くのことを読んだとしても、それによって得られるのは、ヨガの概観にしかすぎません。ヨガを真に理解するには、ヨガを実践することにより、生きた現実から学ぶしかないのです。

ヨガの実践については、太古からヨガの賢人たちが常に強調してきました。ヴェーダやプラーナの編者といわれるヴィヤーサも、パタンジャリの「ヨーガ・スートラ(ヨガの格言集)」に関する入手可能な最古のサンスクリット語注釈書である著書、「ヨガ・バーシャ(ヨガについての演説)」のなかで、或る古代人の言葉を引用しています。

 

ヨガはヨガを通して知られるべきである。ヨガはヨガを通じて成長します。ヨガに対して熱心な者は長い間ヨガの喜びを享受する。(3・6)

 

それより何百年も前、叙事詩「マハーバーラタ」は同様の考えを次のように表現しています。

 

書物の意味を知らない者はただ重荷を背負っているに過ぎない。だが書物の域の背後にある実存を知るもの、その者にとってその書物が教えるものは無駄ではない。(12・293・25)

 

ヨガについては古くから数多くの多様な文献があり、西洋のヨガの熱狂者たちがそこに膨大な数の書籍を加え続けています。それらの書物の中でつたえられている知識は、実体験に転換されなければ無意味です。知識だけでは適切に変化させる力にはならないのです。

中世のサンスクリット文献「ヨガ・シカ・ウパニシャッド(最高峰の秘密の教義)」では、実践を伴わない書物による学習に言及し、「教本のわな(シャストゥラ・ジャーラ)」に注意するよう警告しています。また、「クラ・アルナーヴァ・タントラ」では、シヴァ神が自分の配偶神にこう語っています。

 

おお、最愛の神よ、哲学の六体系の深い井戸に落ちてしまった人間たち(バシュ)は人生の究極の目的を知らず、人間同士のつながりに束縛されている。

ヴェーダや数多くの教本の荒海のなかでもがきながら、悪魔に取りつかれたかの如く時間の波にとらわれたまま、どうなってしまうのだ?と叫び続けている。(1・86~88)

 

続く節でシヴァは、或る食べ物について多くを知っているのに実際に食べたことのない人間たちを非難することで、心の滋養について説いています。このように、ヨガにおいては権威となる文献が高位に掲げられてはいても、個人の体験や精神的理解により上位には置かれていないのです。すべてのヨガの中軸を成すのは、個々の精神的実践を通じた真実の直接理解(プラティヤークシャ)なのです。「ヨガ・バーシャ」でもそれは明らかです。

 

読誦(スヴァーディヤーヤ)を通じてヨガを修めるべきである。ヨガを通じて読誦を修めるべきである。読誦とヨガを組み合わせることで、至高の〈自己〉が現れるのだ(1・28)

 

知識と経験の両方をしかるべく重視せよというヴィヤーサの忠告は、バランスを実現するという、ヨガ修行者が常に掲げているテーマを反映しています。ヨガの伝統に対する格好たる理解に基づかない実践を行えば、時に自己欺瞞が生じます。逆に、実践に根をおろしていない読誦(学習)では、精神的に何も得ないままに偽りの達成感を感じてしまうことになります。しかし最終的なところでは、ヨガは頭より心を、考えより経験を上位に置いています。

このように、古来、多くのヨガ経典や権威たちが常に指導の必要性を強調してきました。その道を通ったことのある者だけが、そのどこに落とし穴があるか知っているのであり、自分の足跡をたどってついてくる者たちが、明らかな落とし穴に落ちたり目立たない罠に引っかかったりしないよう、力を貸すことができるのです。

グル  ~~重要な助言をする人~~

 

サンスクリット語には「教師」を意味する単語が多いですが、グルという呼称だけが、精神的な案内人という、教師の本質的な役割を捉えています。この語は「重い」あるいは「重要な」という意味であり、その助言が重きをなすものを指します。ある語源学よると、グルは、闇を意味する「グ」と、追い散らす者を意味するといわれる「ル」の音節に分けられるそうです。つまり、グルとは、生徒の精神の闇、無知を取り除くことのできる教師なのです。

このような教師は、しばしばサドゥ・グルと呼ばれ、これは「真の教師」と「真実を教える教師」のどちらの意味にもなります。サトゥ(音韻上の理由から、軟音の子音あるいは母音が続くときはサドゥに変化します)という語は形容詞、名詞のどちらでも使われます。名詞の場合は一般的に、究極の〈実在〉、〈真実〉を暗示します。ラマナ・マハリシは次のように説明をしています。

 

〈グル〉はいかなる時も〈自己〉の奥深くに居続けることである。彼は自分自身と他人との間に何の違いも見出さず、賢明なものであるだとか解放されたもの妥当か言う考えから完全に自由であるが、彼の周りにいる人々はとらわれ、無知の闇の中にいる・・・(略)・・・・。神とグルと〈自己〉の間には何の違いもないのだ。

 

何にもまして、サドゥ・グルは霊的な存在であり、影響を受けやすい者を変化させる絶大な力を持ちます。それゆえに権威たちはみな、熱心な探究者はできるだけそういった者たちとかかわるようにと勧めています。偉大で賢明な師の下に集って行う鍛錬は、サトゥ・サンガ、すなわち、「〈実在〉との接触」として知られます。

サンスクリット語経典ではサドゥ・グルが教師の中でも稀であることを認めています。「クラ・アルナーヴァ・タントラ」には次のようにあります。

 

おお、デヴィ、この世に〈自己〉以外の物を与えるグルは多いが、世界のどこを見ても〈自己〉をあきらかにするグルを見つけるのは難しい(13・106)

 

多くのグルは〈真実〉あるいは〈実存〉へ向かう道の一部しか巡礼していないのですが、それでも自分自身が達したレベルに求道者を導く位置にいます。しかし、教えを繰り返す方法は知っていても、経験的知識がないために信頼できず危険な案内人となりうる教師もいます。更には諸教本も認めている通り、単なる偽物も存在します。再び「クル・アルナーヴァ・タントラ」を引用します。

 

弟子から財産を盗むグルは多くいるが、で生の精神的苦痛を取り除くグルは稀である(13・108)

 

ゆえに生徒は、長期の師弟関係を結ぶ前に教師のレベルをよく確かめる必要があります。純粋な意思が意志が生徒自身の身を守ることもあるし、つらい経験から学ぶことが多いのも事実です。幸運なことに、現代にも古典ヨガの智慧を伝承できるサドゥ・グルは存在しますが、彼らは注目を浴びたり弟子を強く要求したりはしません。サドゥ・グルは全く関心を示さなかったり完全に拒絶したりすることで、求道者をためすかもしれませんが、真に精神の道に専念している者、指導を渇望している者、そしてある程度成熟し、自己理解をしている者だけが、そうしたサドゥ・グルの振る舞いに意欲をそがれることなく、留まることができます。そうして本物の試練と自己変革の修業が始まるのです。

求道者が全身全霊で献身と知性を投じてこそ、弟子制度は花開くのです。優れた見識を意味する知性は、グルの指示に適切に従うために必要なだけではありません。グルを一人の人間としてだけでなく、常に、弟子の利己的な部分をなくす「機能」ととらえているためにも必要なのです。十分な見識がなければ、弟子たちはいともたやすく個々人の衝突だとか勘定投影だとかに惑わされて、グルによってはじめられた精神的プロセスは台無しになってしまいます。「クラ・アルナーヴァ・タントラ」は言います。

 

グルを単なる人間ととらえてはならない。もしそう捉えれば、どんなにマントラを唱え神を崇拝しようとえられるものなど何もないだろう(12・46)

 

弟子

 

あらゆる精神的伝統において不可欠な側面である弟子制度(シシュヤータ)には、長い歴史があります。しかし不運なことに、生きた経験を通じた智慧の教育ではなく知的学習と情報伝達に重きを置く現代の世俗主義によって破壊されてしまいました。

ヨガが完全な資格を有する弟子(シシュヤ、ヒンドゥー語でチェラ)をどのように特徴づけているか記した文があります。

 

大いなるエネルギーと熱意があり、知的で勇敢で書物に学び、鍛錬する意思を持ち、妄想に惑わされず、頓着せず(略)適度に食べ、感覚は抑制され、恐れず、純粋で、熟練し、寛大で、すべての人々の避難所である者。(「シヴァ・サンヒター」5・26・30)

 

偉大な教師たちはとてもなく大きな道場と寛容を弟子たちに示してきました。一般的に、精神的に成長したいという欲求は、求道者のゆるぎない確信とエネルギーをもって精神の道に専念する能力に勝るものです。「マハーバーラタ」では次のように言います。

 

偉大な道は困難であり、その道を最後まで無事に歩み通す者は多くない。だが、その道に一歩を踏み出したものの、途中で引き返した者は、偉大なる欠点(バーハ・ドーシャ)を持つ者と呼ばれる。(5・52)

 

「バガヴァッド・ギーター」(2・40)にあるように、精神の道でなされ努力は決して失われません。この智慧の言葉を忘れないようにしましょう。私たちは、間違ったスタートを切ったり、道の途中で一歩後退したりを何度も繰り返すはずだからです。しかし、最も理想的な環境にあってさえ、ヨガは決して簡単ではありません。なぜなら、完全な自己変革が要求されるからです。個人的な関心事やパターン化した習慣を纏った自我人格から、自己を超越した存在へと変わらなければなりません。私利私欲に惑わされることなく、超越的な〈自己〉を黙想し、他者の苦境に耳を傾けることができるようにならなければならないのです。

精神的弟子制度が目指すのは、弟子の消滅です。それが成功したかは、悟りやグルやパワーに憧れる利己的な探求者が、智慧、共感、忍耐、寛容、その他この世の精神的伝統において称賛される偉大な徳すべてを備えた存在へと、どれだけ変化したかによって測られるのです。

 

イニシエーション、精神的伝達、系統

 

ヨガは成熟したイニシエーション(秘技伝授)の伝統です。イニシエーションとは、エネルギーと目的の再調整を意味しています。つまり、それまで普通に機能していた、考え感じ行動するという習慣の惰性に対する勝利で、過去の死と、見知らぬ不確かな未来への再生、すなわち恐れを克服し、未知なる者を信じて行動することです。

イニシエーションは求道者の内的世界に確かな変化をもたらします。世俗的な生き方から神聖な生き方へと大きく転換させるのです。そうして、意志とエネルギーの力強い流れに乗って、求道者自身がきちんと役目を果たせば、遅かれ早かれ解放という目指すゴールへと導かれていきます。

「クラ・アルナーヴァ・タントラ」ではこう述べています。

 

イニシエーションなくして解放はあり得ない。「シヴァ・シャーサナ」でもそう言われてきた。そしてある教師から次なる教師へと言う系統なくしてイニシエーションはありえない。(14・3)

 

系統(パランパラ)はアホカノ多くの伝統と同様、ヨガにおいても大変重要です。それは、現代の教師から、人格かした存在や、不可視の領域の存在も含む歴史上のすべての教師へと繋がる、強力な電線に例えられます。イニシエーション(ディークシャー)を通じて、求道者はある特定の系統に受け入れられ、その系統の精神的実現及び力の流れを受け継ぐ者となります。それは、彼あるいは彼女が精神の道を安全に速く進む助けになります。イニシエーションはしばしば第二の誕生に例えられてきましたが、それは強力な通過儀式です。

ディークシャーは精神の力を与える1つのやり方です。イニシエーションは特定の宗教に限定されず、精神的な神聖なるものです。

経典では、行われる状況に応じて多様なイニシエーションを区別しています。

 

イニシエーションは心に種をまくことでその者を清めることから始まる。その種は定期的に各種の鍛錬を実践することで水分と養分を与えれば、そのうちに成長するだろう。(略)それは、ある心から別の心へと、精神エネルギーが直接変化するプロセスなのです。

 

形式とは、そもそも形式があるのか、無いのか、また、徐々に起こるものや突然起こるもの、あらゆる類いの儀式もしくは内的瞑想を要するもの、心の中に様々と視覚化させるもの、あるいは弟子側の努力とは全く無関係に起こるものなど、さまざまです。グルはただ弟子の目をじっと見つめ、自身の理解を伝えます。すると、弟子の意識が即座に変化します。これはシャンバヴィ・ディークシャーと呼ばれる方法で、スワーミー・ムクタナンダはこれで何千もの生徒にイニシエーションを施しました。シャンバヴィという語は、シヴァ神の別称シャンブー(慈悲深いの意)の形容詞形です。つまり、このイニシエーションが神のエネルギー(シャクティ)の直接伝達であることを暗示する名前が付けられているのです。

すべてのイニシエーションは、程度の差はあれ、意識や認識、そして弟子の中になるエネルギーを増大させます。そうして弟子は、教師の教えをより効果的に実践に移し、冷静な態度を極める力を得るのです。

イニシエーションを表すサンスクリット語には他に、アビシェーカがあり、この元々の意味はふりまくこと、です。つまり、精神という水を使った洗礼の形を表しています。求道者にふりまかれるもの、それはグルの祝福です。

自己超越の鍛錬

パタンジャリによれば、ヨガは鍛錬と冷静さによって強化されます。実践(アビヤーサ)は内的統合、あるいは簡素化の鍛錬であり、これによって騒がしい外部の様々な事柄は追いやられ、超越的な自己(プルシャ)、の究極の単純性、すなわち単一性が明らかにされます。パタンジャリが記したように、実践をせいこうさせるには、規則的に、長い時間をかけて行わなければならない。ヴィヤーサは、著書『ヨガ・バーシャ』のなかで、実践を「静かな意識の流れを完成させるという目的を持って邁進すること、精力的に精進すること(ヴィルヤ)あるいは努力すること(ウツァハー)」と定義しています(1・13)。いいかえれば実践とは、たえまなく揺れ動き、平穏と静寂の実現からかけ離れている平凡な心をどうにかして征しようとする、ヨガの取り組みなのです。

パタンジャリの「ヨガ・スートラ」によると(1.15)、冷静(ヴァイラーグヤ)とは「見えるもの(世俗的なもの)も、啓示されたもの(見えないもの)も、渇望しない者の熟達した意識」です。ここでいう「啓示されたもの」とは、宗教文献のなかで、天上の喜びとして約束されているものです。ヨガの目的は天の領域にあるのではなく、ヒンドゥー教の神々の世界を含む顕現したすべての世界を超えて存在する、超越的な〈実在〉、あるいは〈精神〉にあります。

実践することで捉えがたい世界や見えない世界での高度な経験が始まるのですが、ヨガ修行者はそれには相対的な価値しかないことを知っていて、〈自己〉という広大な実在にむけて、ひたすら前進をします。そうして次第に冷静さを持つようになって、限りなく霊妙な世界で得られる大きな喜びさえ放棄するようになっていきます。なぜなら、英会陰なる幸せは自己実現が達成されたときにのみ得られることを知っているからです。自己実現によって生じる至福の喜びは何物にも左右されません。それは、〈自己〉の本質なのであり、それゆえ決して失われることはなく、まして増えたり減ったりすることもありません。

ヨガの達人たちは、自分の内的冷静さを様々なやり方で実現します。すべての社会的接触を捨てて、人里離れた洞窟で裸のまま暮らす者もいるでしょう。成功や失敗、名声などはみじんも気にせずに、他人のための社会活動に没頭するものもいるでしょう。彼らは、カルマ・ヨガの真の達人となります。ラーマやジャナカのように、そうした賢明なる道に生きた偉大な王がインドにはいます。また、托鉢生活を送り、人々を祝福し、希望と心の光を与え、重荷を除いてやりながら村から村へとさ迷い歩く者もいるでしょう。完璧な冷静さを身につけたこのような達人たちは、みな自らに定めた義務(スヴァ・ダルマ)を遵守し、永久の恩恵に包まれた状態で人間生活を全うします。活動的に生きようが、隠遁生活を送ろうが、彼らはあらゆるものに尽きることなく安らぎを放ち、それによって、この惑星に住むあらゆる生き物の精神を高揚させるのです。

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【監修者】宮川涼
プロフィール早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。

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