2023年3月23日(立川の溶岩ホットヨガ)

「昔書いた日記をふと眺めると」

最近、日記というものを書き始めたので、「そういえば、昔も書いていたな」と思い、ふと昔書いた日記を少し調べてみると残ってた。こんな感じだ。少し長いが、日記に日記を転載していって見るのお面白いかもしれない。日記を振り返ることも人生時には必要だろうし、振り返る必要のない日記を書く必要はないだろう。

○月×日

<荻窪>から離れられない。

ここはシモーヌ・ヴェイユが『重力と恩寵』で書いたところの「重力」のような不思議な磁場を放っている。

転職と共に引っ越しが決まって、横浜市に行く一歩手前で引き戻された。

転居先のマンションの申込書にサインまでし、不動産仲介業者に仲介手数料を払い、引っ越し業者に引っ越しの見積もりや日取りまで決めさせていたのにだ。

荻窪という地名ではなく、今、ここ俺が住む、この場所の持つ呪縛から俺はどうしても逃れられない。

この引き付ける力は、シモーヌ・ヴェイユ風にいえば、「重力」とでもいうのだろうか。俺は今、この「重力」からどうしたら逃れられるのか。

彼女が言うように「恩寵は満たすものである。だが、恩寵をむかえ入れる真空のあるところにしかはって行けない」「そのまえに、すべてをもぎ取られることが必要である。何かしら絶望的なことが生じなければならない」のだろううか。

かつてショーペンハウアーはその主著『意志と表象としての世界』の冒頭でこう語った。

「世界は私の表象(Vorstellung)である」

と。

俺はこうしたプラトン主義的な二元論に賛成はしていないが、人生的な体感・実感としては、彼の言う通り、「認識に対して存在するところのいっさい、だからこの全世界ということになるが、これはじつは主観との関係における客観に過ぎず、眺める者あっての眺められた世界、一言でいえば、表象に過ぎないという真理」(『意志と表象としての世界』)への共感が強い。

デカルトは世界を変えようとするならまず己を変えよと説いたが、己を幾ら変えようと努力してみても、世界のほうから、俺を<限定>してくる。

つい最近俺は交通事故に遭った。生涯二度目の交通事故だ。救急車で搬送されながら、このまま死ねたら楽なのに、という思いがふと頭によぎってしまった。

事故の瞬間のことはまるで覚えていない。「道路は戦場だ」と数十年思って生きてきた。

昔、愛誦してた<memento mori>というラテン語の有目な格言が頭をよぎる。人間、一瞬先は闇。明日のことは魔法使いでもない限り、誰も読むことができない。だから、俺は毎日毎日をいつもいつ死んでも良いように出来るだけ好きなように生きている。

この文章を書いた後に、また交通事故かプラットフォームに吸い込まれるかして死ぬかもしれない。そう本気で思って生きている。そういえば、昔、はじめて貰った異性からのプレゼントの本の題名は『明日死ぬかもよ』だった。

俺の目には明日や希望や光は眩しすぎて、少しばかりその気がして目を差し向けても、頭がくらくらしてしまう。日々、生きるために堕ち続けている。

「欲望に身を任せた。

嘘をつき、それを糊塗するためにさらに嘘ついた。

糊塗しきれなくなると、殺した。

嘘をついてまで手に入れたかった女に愛想を尽くされた。」

(馳星周『暗手』)

プラトンの有名な洞窟の例え話のように、俺はいつまでも炎に照らされた偽りの幻影を見続けているしかできないのだろうか。

–○月×日–

「イマジネ ーションとは 、薄れゆく感覚にほかならない 。」(ホッブス『リヴァイアサン』)

そろそろ忘れていかなければならないのだろう。もう俺の網膜の裏で、あの日の縁日の光景は朧げに成り果てた。月の女神アルテミスに撃たれた矢じりの痕は今はもう幾重もの真皮に覆われてその影を残さず。仕事の行き帰りにふと気付いた時に見上げる空に月はなく。ただ住居が広がるばかり。いつか君が満月が見えるよと言った場所から見てももう月は見えない。

欲望などなく、ただ恐れと不安ばかりに悩む己自身は何度失っても憶えない。大切なものは、失ってから気づくとよくいうが、そういう大切なものを失う悲しみは、嫌になるくらい味わい尽くしてきたのに、今日もまたそれを繰り返している。反吐を撒くほど舐めても俺はまた同じ過ちを繰り返すのだろうか。

記憶はイマジネーション。

そこにあったあの記憶が、徐々に薄らぎ、いつしか幻へと消えていく。確かに見たという記憶は、想起されるたびに、再生産されるたびに、原型からおそらくズレていき、今ではそのほとんどは想像の産物に過ぎない。

あゝ、俺は本当の愛を知っていると君に伝えたはずなのに。手元に残ったのは日本銀行券ばかり。いつになったら幸せは訪れるのだろうか。そう問うのは青い鳥を追い求めるメーテルリンクの童話と何も変わらないのだろうか。

イマジネ ーションとは 、薄れゆく感覚にほかならない。

俺の眼前から持ち去られると、それが俺に残した印象は残るけれども、他の新たな対象がそれまでの対象に取って代わり働きかける。過去のイマジネ ーションは次第に、影が薄くなり、昼間の喧噪に埋没する人声と同じように、掻き消えていく。そろそろ忘れていかなければならないのだろう。

「三界の狂人は狂せることとを知らず、四生の盲者は盲なることを識られず、生まれ生まれ生まれ生まれて生の初めに暗く死に死に死に死んで死の終わりに冥し」

空海『秘蔵法輪』

–○月×日–

「さびしさ丈けがいつも新鮮だ。

この寂しさのなかから人生のほろ甘さをしがみとり、

それをよりどころにして僕らは詩を書いたものだ。」

と歌われたものだが、君がいなくなったこの棲家は、置時計の針の音ばかりがトントントンと鳴り響くだけ。寂しさゆえに愛を求め、寂しさゆえに愛を失う。

「今宵は百万年に一度。太陽が沈んで夜が訪れる日。終わりのないような戦いも。今宵は休戦して祝杯をあげる。人にはそれぞれ正義があって争い合うのは仕方がないかのしれない。だけど僕の嫌いな彼も彼なりの理由があると思うんだ。」といつの間にか口ずさんでいた。

俺はファイアーバードのように再び蘇りたかった。手塚治虫が描いた不死鳥、火の鳥のように、燃え盛、る炎と共に蘇りたかった。だけれどもそれは叶わぬ夢、見果てぬ故郷。「君と僕の関係は解けないパズル。きっと揃わぬ気がする。僕が一番辛い時に君はそばで一緒に泣いてくれた。今更だけどゴメンね ありがとう。」とAppleMusicがGoogleエコーから流れてくる。俺は罪深いことばかり重ねてきた。つまで経っても「同様に 、良心の呵責とは何かということを判断する信頼できる基準が 、私には持ち合わせがない 、それについて聞き知ったところでは 、良心の呵責というものは私にはとるに足らぬものと思われる」(ニーチェ)という境位には至れれない。

俺はどれだけの人に謝ればいいのだろう??いつか灼熱の地獄の炎に焼かれるまで俺はこのままでいるのだろうか。いっそ焼かれれば良い。何千度という業火に身を焦がされればいいのだろう。俺は俺の罪を知る。だけど俺は知るばかりで何もしない。いつか灼熱の業火に身を焼き尽くされるまで。

 「神 すら 万能 な わけ では ない。 何と なれ ば 神 は みずから 欲 し ても 自殺 する こと が でき ない。[ しかるに 人間 は みずから 殺し うる から] これ[ 自殺] こそ、 神 が 人生 の かく 多く の 悩み とともに 最上 の 贈物 として 人間 に 与え た もの だ」

–○月×日–

「たとえば私は断じて案山子ではない 、道徳の化け物でもない ——それどころか 、これまで有徳として尊敬されて来た種類の人間とは反対の天性だ 。打明けて言うと 、これこそ私の誇りにとってなくてならぬものらしいのだ 。」

軽んじながら、そして侮蔑する、最高の哲学者だか詩人だか、キチガイか判らないニーチェの言葉。

俺は日記で散々桜や花火が嫌いと書いてきたが、本音を言えば桜や花火が大好きだ。

「これまで人は 、一の理想の世界を捏造するその度合だけ 、実在から価値を 、意味を 、真実を奪って来た … … 「真実の世界 」と 「仮象の世界 」 ——これは邦語で言えば 、捏造の世界と実在ということだ … …理想の虚言がこれまで実在にかけられた呪いであった」

儚く散る桜の舞、真夏の夜の深淵に呑み込まれる花火の美しさは語るものではない。言葉に語った瞬間にその美しさは消え去ってしまう。以前、小林秀雄の言葉を引用した通りだ。

美しさについては人はただ黙っているしかないのだ。語り得ぬものついては黙っていなければならない。

特に何が言いたいわけではないのだが、春の桜を想うと思い出さずにいられない。そう人は記憶するだけではならない。思い出さなければならないんだ。あの日、あの時、あの場所、あの空を思い返す度に、このココロが締め付けられる。

あゝ、蒼い空、俺は美しいものを知っているはずなのに、ただ悔恨ばかりが胸に残る。

–○月×日–

「少しずつ私たちは話すのをやめ、描き始めた。今や一日中書いている。私たちのスマホで書いていないときは、スマホで読んでいる、実際、スマホは私たちが読んだり書いたりす流のを容易にするために(それはタブレットほどでないにせよ)、より大きくなった。そして、私たちが読みも書きもしていない時には、私たちは記録している。写真を撮ったり、動画を録画したり、メモを取ったり。」

現代はマクルーハンがその類稀なる知性でも予測できなかった社会に変貌している。

「何のために生きるかって、そんな下らないことは考えなかった、自分は不幸だなんて思うヒマもなかった、食わなきゃいけなかったし、水を飲まなきゃいけない、すべてそのために行動した、単純だったんだ」

HOW WE SURVIVE

平坦な戦場で

IN THE FLAT FIELD

僕らが生き延びることを

「弱者の犠牲になるな、弱者が我々を搾取している。」

–○月×日–

Ένα ημερολόγιο για την πλήξη μου.

Plerique inter mortis metum et vitae tormenta miseri fluctuantur et vivere nolunt, mori nesciunt.

(極めて多くの人々は死の恐怖と人生の苦悩の間で惨めに動揺し、生きることを望まず、死ぬことも出来ずにいる)「セネカ『倫理書簡集』)

今日は特に気分が気怠い。最近、睡眠時間が不足しているせいもあるだろうが、精神的に疲れているのだろうとも思う。キルケゴールが『死に至る病」で「絶望の苦悩は死ぬことができないというまさにその点に存するのである。(中略)「死ぬばかりに病んでいる」というのは死ぬことができないという意味であるが、と言っても生きれる希望がなおそこにあるという意味ではない。(中略)死という最後の希望さえも遂げられなほど希望が全て失われているのである」と語ったが、この点には同感で、自殺できる人はまだ良い気がする。

Proom TECHを購入した。煙が少なく、周りの人に害を与えることが少ないタバコだと思う。これならタバコの煙が苦手だった君もきっと気に入ってくれただろうと思う。

吸って吐いて、吐いて吸って、また吐き出す。周囲の空気に淡く溶け込んでいく紫煙を見つめていると、いつかこうして君との思い出も穏やかな淡い思い出に色褪せていくのだろうかと思う。思い出はいつか記憶になって、時と共に遠く記憶へと消えて行くのだろう。

最近、右派の思想家でありながら、日本が米国に未だに占領され、米国の都合が良いように飼育された国であるということで反米主義者でもあった西部邁が自殺したが、自分で自分を殺すという選択肢を選べるほど彼は強かったのだと思う。

それに対して、俺は肉体ばかり強くて、精神的には酷く弱い人間な気がする。その点、ジェンダーで差別するつもりはないが、女性は強い。常に現実的で、前を向いて歩いている。極真会館の創始者大山倍達の高弟が「倒れるなら前に倒れろ」と言った話は俺自身大好きで、どうせ倒れるならば、前に俯して倒れたいとは思う。決して後ろには倒れたくはない。

「まことに人生 、一瞬の夢 、ゴム風船の 、美しさかな 。」(中原中也)

かつて観た映画の中で悪徳警官スタンフィールドは言った。

「聞こえるかい。草原で寝そべっている時のように。ベートーヴェンは好きか?今聞かせてやる。(発砲)序曲を聞くと血が湧き踊る。だが、序曲の後は正直言って退屈な旋律に嫌気がさしてくる。だから聞くのを辞めたんだ。お前モーツァルトは好きか?俺は好きだ。偉大なるオーストリア人。だが、演奏するには曲が軽すぎる。ブラームスも聞け。オススメだ。」(『レオン』の悪役の麻薬取締役官スタンフィールドのセリフ)

俺はあんまりブラームスは好きではない。どちらかというとラフマニノフの方が良い。ドビュッシーにしろロシアの作曲家がいいものだ。文学同様。

「世にある、世にあらぬ、それが疑問だ。残忍な運命や矢や投石を、ただひたすらこらえ耐え忍んでいるのが男子の本意か。あるいは海なす艱難を迎え撃って、根を断つが大丈夫の志か。」(シェークスピア)

全ての定立は否定である。あらゆる概念はそのうちに自己自身と反対のものを持っており、従って自己を否定して反対にものになる。しかしあらゆる否定はまた定立であり肯定である。ある概念が否定される場合、その結果は純粋な無、全く否定的なものではなく、一つの具体的な肯定である。

そうヘーゲルは語った。

俺はある人に「よくすぐに否定から入る」とに言われた、否定が否定として終わってしまうならばなんの意味もない。カーネギーが「人を動かす」で言った通り、誰も咎めず、誰も否定しない方が万事世を渡るにはうまくいくものだ。別に本当に俺は他人を見下しているわけじゃない。でも、言葉でそう伝えると、そうとしか受け取ってもらえない。決して余白は読まれない。

別にアウフヘーベンを語りたいわけではないが、馴れ合いだらけの、偽りの肯定は俺はまっぴら御免だ。それで人に嫌われるなら、致し方ない。俺は本姓において人たらしでもなければ、商売人でもないだろう。

「人間の心理ほど解し難いものはない 。この主人の今の心は怒っているのだか 、浮かれているのだか 、または哲人の遺書に一道の慰安を求めつつあるのか 、ちっとも分らない 。世の中を冷笑しているのか 、世の中へ交りたいのだか 、くだらぬ事に肝癪を起しているのか 、物外に超然としているのだかさっぱり見当が付かぬ 。」(「吾輩は猫である」)

他者とのコミュニケーションの狭間には絶壁がある。そこに架ける橋はない。その絶望から人との対話を始めるか、その絶望を知らぬまま話を始めるかどうかの違いしかない。だからいつも人と会話するのは難しい。デリダが語ったように言葉はパルマコンであって、毒にも薬にもなるものだ。

まあこうして俺は人に嫌われて行くのだろう、苦笑。

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立川の溶岩ホットヨガスタジオ「オンザショア」
【監修者】宮川涼
プロフィール早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。

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