リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムのことまで嫌いにならないでください

(1) 序文

最近リベラル嫌いが進んでいるとよく聞きます。実際、少しは一巡し落ち着いたとはいえ、ポピュリズムが世界を席巻したりしています。そこで今回はリベラルから入って現代の政治思想について正義という概念を中心にお話していきたいと思います。

さて、皆さんはリベラリズム(liberalism)という言葉を聞いたことがあるでしょうか。リベラルという言葉はよく聞く機会が多いかもしれませんが(たとえばリベラルな政党だとか、日常会話で「彼はリベラルな人だからね」といった具合に)、リベラリズムとなると途端に敷居が高くなる気もします。また、世間では一般的にリベラルと保守といった形でよく対立をしており、どうしても政治的イデオロギーのような胡散臭い感じもしてしまうかもしれません。ここで、あらかじめ断っておきたいことは、リベラルとリベラリズムは異なると言うことです。ではどう違うのか、リベラリズムやリベラルと対局とされる保守と比較しながら考えていきましょう。まず、【保守】とは、旧来の風習・伝統を重んじ、それを保存しようとすることです。【リベラル】とは個人の自由、個性を重んずるさま。自由主義的。と一般に解されています(デジタル大辞泉より)。

それにも関わらず、人は「リベラル」あるいは「リベラリズム」とは何かと質問をされて正確に答えるのは実は非常に難しい問題でもあります。歴史的には二百年前のスペインにおいてある政党を意味する「リベラレス」という言葉が作られたことに起因し、それ以来リベラリズムは公共の舞台にあがることになりました。しかし、上記にやや強引に説明したものの、実はこの基礎的な問いに対して的確に答えてくれる書物は今のところ存在していないと言っても間違いではありません。もちろん、リベラリズムとは何か、というテーマの著作は多く出版されていますが、これだ、というものが無い状態です。実際、今日の政治思想あるいは政治理論について概観する際によく用いられるキムリッカの『現代政治理論』でも、キムリッカは基本的にリベラリズムの立場から文化多元主義の問題状況について現代の政治哲学の議論を支配しているいくつかの主要な学派、功利主義、リベラルな平等主義、リバタリアニズム、マルクス主義、コミュニタリアニズム、シティズンシップ理論、多文化主義、フェミニズムなどを道案内しつつ、批判的に評価を加えていますが、肝心なリベラリズムには言及していないのです。リベラルな平等主義については扱っていますが、リベラリズムそのものを扱ってはいません。おそらくキムリッカにとってリベラリズムは「対象」ではなくて、自らの実践そのものだという位置づけがあるために対象から外したのでしょうが、彼の本からリベラリズムをうかがい知ることはできないわけです。

そのほかの概説的な書物を探そうとすると、イギリスの政治哲学者ジョン・グレイの『自由主義』という本も挙げられるかもしれませんが、これは現代のリベラリズムの泰斗ロールズのせい議論以降に展開されたいった現代のリベラリズムとはかなり要素を異なっており、グレイは、ここで「古典的リベラリズム」、いわゆるヒュームやアダム・スミスらの系譜に属し、後にハイエクやポパーによって主張されるような非設計主義的で斬新主義的な自由主義と、それに対比される「修正リベラリズム」、ベンサムやJ・S・ミルの系譜に属する社会の在り方を合理的に秩序付ける原理を探求しようとするものにわけられています。

なので、体系的かつ概説的にリベラリズムを知ることは困難ですし、リベラリズムとは何ですか?という質問に冒頭から簡単に答えることは差し控えたいと思います。今の段階では、リベラリズムといっても、色々あるんだな、という程度の理解でよいでしょう。

しかし、それでは、リベラルとリベラリズムはどう違うのでしょうか。単に言葉が違うだけで同じ意味を指示しているようにも思われます。ここではその違いについて少し見ておきましょう。まず、リベラルは、個人の自由や多様性を重視する考え方で、「権力からの自由」を重視しています。この理解でのリベラルには、修正功利主義者であるジョン・スチュアート・ミルやアダム・スミスなどにその起源を見て取ることができるでしょう(とはいえ、後述するようにミルはあくまでも功利主義者であることは忘れてはいけないでしょう)。これが古典的なリベラリズムを修正した修正リベラルだといえるでしょう。

次に、リベラリズムというのは、アダム・スミスの「レッセ・フェール(放任主義)」のように(古典的リベラリズム)、単に放任されれば本当に自由を享受できるのかということに疑問を持ち、各人の自由な人生設計を可能にするため国家の支援が必要と考える「権力による自由」の発想だといえます。とりわけ、20世紀の先進諸国は、社会保障や福祉国家など「大きな政府」を志向しています。また、この代表的な論客が、ジョン・ロールズです。つまり、まさに修正リベラリズムののちに来る現代のリベラリズムといえると思います。とはいえ、ロールズは、カントの自由に対する見方、考え方に大きな影響を受けているので、社会保障や福祉国家はさておきとしても、カントにその端緒がみられるという理解も間違ったものではないと思います。

され、こうした2つのリベラルとリベラリズムという日本語では一般的に自由主義と訳される思想の潮流があるわけですが(誤訳というか正しくその意味を表現していないという批判もありますが)、昨今、この前者のリベラルは非常に評判が悪くなっています。その大きな背景には、進歩的文化人のエリート臭と偽善性が目立つばかりになってきたことにあると思います。リベラルとエリート主義が結び付き、鼻持ちならない思想として嫌われるようになってしまったわけですね。

また、リベラルはよく言っていることとやっていることが違ったりするダブスタ(ダブルスタンダード)を見せる場面が多いということも挙げられます。ダブルスタンダード(Double standard)とは、同じ人物・集団において、類似した状況に対してそれぞれ異なる対応が不公平に適用していることへの皮肉の言葉である。二重規範(ダブルスタンダード)の端的な例は、ある概念(例:言葉・文・社会的規範・規則など)を一方のグループに対して適用するのに、もう一方のグループに適用することは許容しない、あるいはタブーとみなす事です。

分かりやすい例を話せば、日照権でもめていたのにごり押しして近隣の住民のクレームを顧みずに高層マンションないしは高層ビルを建てたデベロッパーが、今度はその自身の物件の近くにより高い建物が建てられることになり、「それは日照権を害する」というのは、自分は日照権を無視できるけど、自分が今度はそれから害を蒙る時は、日照権を持ち出して相手を批判するというような場合が、まさにダブルスタンダードの状況ということです。

もう少し話を踏み込みましょう。最近のアメリカ政治を紐解くと分かりやすいかもしれません。アメリカは、邪悪な体制を懲らしめようと、国境を越えてやすやすと軍事力を使います。なかでもW・ブッシュ大統領のときはそれが顕著でしたのはまだ記憶に新しいと思います。しかし、ブッシュが酷いのは分かりやすいですが、オバマ大統領は二重にねじ曲がっていました。

私自身イラク戦争をリアルタイムで経験した世代だから、今でもよく覚えていますが、ハーバート・ロースクールのエリートで成績がよくて、『ローレビュー』(ロースクール(法科大学院)又はその関連団体が校名を冠して発行する法学雑誌のことで、アメリカ合衆国大統領バラク・オバマがハーバード・ロー・レビューの黒人初の編集委員長であったことから、国内でも知られるようになった。)のエディター(編集長)までやった、まさにエリートを地で行く人でしたが、イラク戦争ののち、アルカイダのリーダー、ウサマ・ビン=ラディンを、パキスタンの隠れ家を見つけたあと、パキスタン政府にも全く無断で、秘密戦闘機二機を送って殺しました。

本来、ビン=ラディンは裁判にかけられるべき存在でした。彼が本当にどこまで関与したのか、司法的に糾明されなければなりませんでした。しかし、答えは「最初から殺してこい」というVシネもどき、ヤクザの暴力論理と変わらないやり方でビン=ラディンを殺したわけです。テロに対してテロで報復しているわけですね。

しかも、殺した後、その死体が分かると、新たなるテロがあるからといって、海に水没させました。いわば死人に口なし、証拠隠滅ですね。殺したプロセス、どんな格好で殺したか、死体が無いと分からないわけです。本当に抵抗したのか、抵抗せずに殺されたのか、そういうこともわからないように徹底的に証拠隠滅しています。これは東京裁判で日本のA級戦犯がやられたことよりもお粗末なことです。証拠を隠滅し、さらには「被告」を殺して口封じをしながら、オバマ大統領は得意の決め台詞で「Justice is done.(正義はなされた)」と終息宣言をしました。

これほどデュープロセス(適正手続きの保障)も何も無視しておいて、「正義」といえるのでしょうか。オバマ大統領は、前述したとおり、知的エリートです。それを彼がリベラルの名のもとに行ってしまうわけですね。ここに大きなダブルスタンダードがあります。リベラルや正義を標榜しておき、他者にリベラルを押し付けながら、自分の場合は、それを守らない。いわば基準のご都合主義的な使い分けをしているわけですね。ある状況で自分の他者に対する要求を正当化するためにある基準(スタンダード)をもってくる。しかし、別の状況で同じ基準を適用すると自分に不利な結論が正当化されてしまう場合、今度は別の基準(スタンダード)を援用して、自分に有利な結論を導きさそうとしているわけですね。

また、リベラルには進歩的文化人のエリート臭と偽善性のにおいがぷんぷんしてくるのも上述したとおりです。分かりやすい例でいえば、たとえば、受験戦争はよくないといっている当の評論家たちが東大や早稲田、慶應などの受験勝者だったりします。受験戦争に挑み、勝者となったものが受験戦争はよくないという。これでは、受験戦争を否定しながら、自分たちは受験戦争で勝ち抜き、その恩恵を受けているのを全く見落としているといわざるを得ませんでしょう。

ここで簡単にまとめるとリベラルというのはエリート臭と欺瞞(偽善)、ご都合主義が入り交じっているものだといえます。 個人の自由や多様性を重視する考え方で、「権力からの自由」を 訴えながらも、個人の自由や多様性をレッセ・フェールや市場主義で多様性へ著し害を与えてしまうリスクを負っているわけです。

それでは、リベラリズムとは何なのでしょうか。リベラリズムには、二つの歴史的起源があります。それは「啓蒙」と「寛容」です。啓蒙というのは、啓蒙主義に代表されるように、理性を重視し、理性によって蒙を啓く。因習や迷信を理性によって打破し、その抑圧から人間を解放しようとする思想運動です。

啓蒙とはカントによれば「それは人間が自ら招いた未成年の状態から抜け出ること」であり、「未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使う事ができない」ということです(カント『啓蒙とは何か』)。それに対して、寛容とはヴォルテールによれば「寛容とは何であるか。それは人類の持ち分である。われわれはすべて弱さと過ちからつくりあげられているのだ。われわれの愚行をたがいに許しあおう、これが自然の第一の掟である。…(中略)…われわれがたがいに赦しあるべきことのほうがいっそう明らかである。なぜならば、われわれはみな脆弱で無定見であり、不安定と誤謬に陥りやすいからである」(ヴォルテール『哲学辞典』)であり、端的にいうと「寛容(toleration)とは自分と異なる意見・宗教を持っていたり、異なる民族の人々に対して一定の理解を示し、許容する態度のこと。」(Wikipedia)です。

さて、啓蒙主義とは、理性を重視する考え方ですね、。因習や迷信を理性によって打破してその抑圧から人間を解放する思想運動です。18世紀フランスを中心にヨーロッパに広がり、あのフランス革命の推進力となりました。それに対して、寛容というのは、宗教革命のあと、ヨーロッパは宗教戦争時代を迎えました。大陸の方では三十年戦争、イギリスではピューリタン革命前後の宗教的内乱が起きていました。それが歴史上名高いウエストファリア条約で一応落ち着きました。その経験から出てきたのが肝要です。簡単にいえば、宗教が違い、価値観が違っても、お互い共存していきましょうよと考えたわけですね。

しかし、この啓蒙も手放しで褒められることはありません。イギリスの政治哲学者ジョン・グレイが『自由主義の二つの顔』で「(啓蒙というのは、結局)おのれの理性に基づいて社会を根底から改革するんだ」とか「俺が理性的だと思っている社会変革ビジョンに反対するやつはせん滅する」といった考えに行く着くと指摘しています。フランス革命後のロベスピエールしかり、20世紀のマルクス主義も最終的にはそうなったというのは歴史が証明しているでしょう。

こういう風に「啓蒙」は理性の独断化、絶対化を招き、もう一方の「寛容」を台無しにし「不寛容」になるというデメリットがあるわけです。そこで、グレイは「啓蒙よりも寛容の伝統を重視した方がいい」と指摘しています。とはいえグレイの主張にも問題はあり、グレイは哲学的な議論によって「リベラルな政治体制」の正しさを立証するのは不可能だという意見をもっています。グレイの考え方では、リベラルな政治体制だって、立憲民主主義の伝統を持ったいくつかの国の「政治文化に依拠した実践」でしかなく、これと異なる伝統や文化をもつ社会に対して、これを哲学的に正当な体制だとして押し付けることは困難であると考えます。そのような非リベラルな社会とリベラルな社会は互いの違いを認めて共存していくしかない、というのが彼の見解です。

さらに寛容についての考え方は、人はすべての場合に肝要であるわけではなく、不寛容な者には不寛容であるべきだとする「不寛容は許さないぞ」という「不寛容なものに対する不寛容を寛容は要求すること」を求めてきました。しかし、グレイはこのように自壊的に理解された寛容を核とするリベラリズムの基礎を哲学原理ではなく、政治的妥協に求めます。この妥協を外交用語で「modus vivendi(モードゥス・ヴィヴェンディ)」という言葉で表現しています。直訳すると「生き方」というラテン語起源の言葉ですが、生きるための知恵だとか「暫定協定」という意味を持っている言葉です。

グレイはこの「暫定協定」こそリベラリズムの立場だと主張しています。お互いの意見が相容れず戦い続けてしまうと相互せん滅になりかねないかもしれないから、生きる知恵として「暫定協定」で共存しましょう、もっと平たく言えば「この辺で妥協しておきましょう」と考える。これがグレイの考える「リベラルな生き方」なわけです。

こうしたグレイの意見は、リベラリズムは一義的ではなく、両義的で、両価的でポジティブな肯定的側面とネガティブな否定的側面があるという意味で非常に正鵠を得ているとは思います。しかし、その両価性はグレイが考えるほど単純なものではなく、もう少し複雑に込み入っているようにも思われます。寛容はポジで、啓蒙はネガ、そんな単純に言い切れないことがあるかと思うわけですね。

そこで見ていきたいのが「カントの啓蒙」です。啓蒙には、グレイが言う通り、確かに独断的絶対主義に行きつくリスクがある。しかし、それとは違うポジもあると考えたのがカントです。カントの哲学について話を進める前に、正義、あるいは政治体制に対する三つのアプローチを概観しておきましょう。

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