『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(14)

01 『ヨーガ・スートラ』を実際に読み解いていきましょう。

それでは、前の記事までで『ヨーガ・スートラ』の概要は理解出来たかと思います。そこで、次からは、実際に『ヨーガ・スートラ』をサンスクリット語をローマ字表記したものをベースに語源や語義も考えながら、精読していってみましょう。まず、『ヨーガ・スートラ』の冒頭は、有名な一句で始まります。それは、

「atha yoganusasanamu アタ ヨーガーヌシャーサナム」

という言葉です。これは、「atha」が副詞で「その時、その場合、さて、それゆえ」を意味する言葉で、「yoga」は「ヨガ(正確には、サンスクリット語では「o」の音は常に長母音で長く伸ばして発音するので、「ヨーガ」となります)」で、「anusasanam」は「教説、教訓、律法、教理、命令」を意味する中性名詞です。原文の語順で直訳すると、「さて、ヨーガ(ヨガ)教説である」となります。もちろん、これだと少し不格好な訳なので、「さて、ヨーガ(ヨガ)の教説である」でしょう。原文には助詞も無く、主格で「教説」という言葉が用いられているため、「所有格」の「の」を補っています。

サンスクリット語の話はこれくらいにしておいて、この一節について解説を加えていきましょう。ただ、これはあくまでも私の解説であり、せっかく、サンスクリット語の直訳や解説も載せているので、読者諸氏のみなさんで自由に考えてほしいとも思います。この冒頭では、この経典が扱う主題が提出されたことになります。つまり、この『ヨーガ・スートラ』という本は、「ヨガの教本である」と宣言されているわけです。「教本」と訳すと、宗教学者さんなどに怒られてしまうかもしれないので、一般的には「ヨガの教説」と訳されると思います。もう少しこなれた役であれば「さて、ヨーガ(ヨガ)の解説をしよう」となっている邦訳書が多いでしょう。ともかく、少なくとも、ヨーガ(ヨガ)が主題の本だということが冒頭で分かるというのは分かりやすくて良いですよね。ちなみに、『ヨーガ・スートラ』のスートラというのは、元来は「糸」を意味しており、通常できる限り短い文章で述べられる文章に使われます。

これが、私が研究していたイマニュエル・カントの『純粋理性批判』だと序論で「私たちのすべての認識は経験とともに始まる。」(中山元訳、カント『純粋理性批判』)と言う文章で始まりますし、序論の最初のタイトルも「純粋な認識と経験的な認識の違いについて」とあるのみなので、一体全体この本が何を示そうとしているのか、初めて読む人でも一目瞭然で分かるというわけにはいきません。そもそも、純粋な認識ってなんなんだろう、とか、純粋な認識と経験的な認識の違いってなんなんだろうと、色々と疑問が思い浮かぶはずです。かくいう私も遙か昔にカントの三大批判書の中でもとりわけ難解で著名なこの本を読もうとして、いきなり挫折感を味わったものです。その点、『ヨーガ・スートラ』は、「あー、ヨガの話するのね」と分かりやすく宣言してくれているわけですね。

02 ヨガの定義

そして、続く文章で、いきなり『ヨーガ・スートラ』の核心を語ってくれます。これも有名な一句ですが、それは、

「yogascittavrttinirodhah ヨーガシュチッタヴリティニローダハ」

「citta」は中性名詞で、「心、注意、思考、目的、意志、精神、知性、理性」などを意味します。そして、「vrtti」とは、女性名詞で「転がること、活動、在り方、生起、働き」などを意味します。そして、「nirodhah」は男性名詞の主格で「監禁、包囲、強制、抑圧、制服、阻止、破壊、止滅」を意味する言葉です。原文の語順で直訳すると、「ヨーガ(ヨガ)は、心・働き・止滅である」となります。「ヨーガ(ヨガ)」も「ニローダ」も主格であるため、前を「~は」と訳し、後ろを「~である」と訳せるので、こうなります。もう少しこなれた訳をすれば、皆さんも一度は聞いたことがあるであろう「ヨーガ(ヨガ)とは心の止滅である」となるでしょう。いきなり、ヨガの核心を説明してくれるわけですが、これは若干カントちっくというか、「止滅」という言葉が聞き慣れないですよね。仮に、「阻止」とか「破壊」と訳しても「ヨーガ(ヨガ)は心の阻止である」とか「「ヨーガ(ヨガ)は心の破壊である」となり、これも「え?ヨガって心を壊すことなの?」と疑問符が噴出してしまいそうです。もちろん、これがヨガの定義ではないと解釈することも可能なので、いったん、これは何を言っているのか分からないという状態で先に読み進めても良いですが、これまでの解説をご覧になった方であれば、「あー、そういえば、ヨガの目的は心の働きを止めることだったから、それを短くいうとこうなるのね」と理解出来る人も多いでしょう。この「止滅」と訳した「ニローダ」がなかなかくせ者であるので、大枠を知らない方はここでどうしても混乱してしまいますが、このニローダという言葉は、『ヨーガ・スートラ』の頻出するキーワードなので、逆にいえば、ここで一見して意味が分かってしまってもこの本を読む意味が無くなってしまうかもしれません。

実際問題として、インド哲学などの世界では、『ヨーガ・スートラ』の「ヨガとは心の止滅である」という言葉を「無行為のための行為」というパダドクスめいたものとして考えていきます。どうしても人は生きている限り行為をします。何もしないで休んでいても、眠っていても、ともかく何かをしています。行為はむしろ生きていることの証であり、人の在り方です。行為というものを整理して考えると、人間の行為には(1)目的(2)現状認識(世界観)(3)手段の三つの要素が含まれるでしょう。つまり、行為というからには、それは何らかの「目的」あっての手段であるわけで、通常無目的の行為というのはあまりないでしょう。といっても、たとえば無心に子供が遊ぶというような場合は、その子供は特定の目的を意識していないでしょうし、遊ぶために遊ぶ状態であると思うので、ここに当初は暫定として「○○くんと仲良くしたいから遊ぶ」というような目的があることは考えられても、遊んでいる最終はもはやそういう目的は見失われ、遊ぶのが楽しいから遊ぶと自己目的化していると思います。しかし、この場合でも厳密に考えると、遊ぶこと自体、あるいは遊びの楽しみというものが目的であると考えることができます。確かに遊びたいから遊ぶのでしょうが、遊ぶことを目的として遊ぶということはいえるわけです。このように目的と手段の距離が非常に縮められたケース、いわば「手段の目的化」ということはヨガにおいて重要な考え方の一つになります。

これは『バガヴァッド・ギーター』の記事で説明していることですが、行為の結果を気にしないことで、そして、行為を純粋に目的なき行為とすることで、その境地に至れると考えるのがヨガ思想の考え方になります。また、今回取り組んでいる『ヨーガ・スートラ』の立場から言えば、一切の対象に囚われないこと、つまり心を空っぽにすることで、言い換えれば心の作用(対象を認識するとか、対象を感知するということ)を止めることで、このヨーガ(ヨガ)とは心の止滅である、という境位に至れるようになるわけでしたね。しかし、それでも、それは一体何の為なのか?という問いは実は残ると思います。それは一言で言えば、「解脱」です。つまり、バラモン教以来古代インドで考えられてきた死生観であり、世界観である輪廻転生(無間地獄のように受け取られているわけですね)から逃れることが「解脱」です。

なので、究極的にこの言葉が無目的であるのかというとそれはまた別の記事で深く考えていきたいと思いますが、一つだけインドでしばしば喩えられる話を紹介しておきましょう。それは馬です。馬は気の赴くままに任せておけば、どこに行くのかも分かりません。馬に軛をかけて馬の動きを御する必要が人には、少なくとも馬の乗り手には必要になります。そこで、ヨーガ(ヨガ)という言葉は既に訳語で紹介したように「抑圧」という意味がありましたが、つまり、馬を抑制するわけですね。そして、実はこの「Yoga」というサンスクリット語は、「馬に軛をかける」という意味の動詞である「yuj(ユジュ)」から派生した語なんです。ヨーガ(ヨガ)を行う人も、心に軛をかけてその動きを馬にそうするように抑制し統御しなければならないということへの理解へ繋がってくるわけです。ただ、そこで問題になってくるのが、それでは、心のどのような働きを、どのような程度まで、そしてどのような仕方によって統御するのかということになります。統御すべき対象、統御の程度、統御の仕方の相違によって、『ヨーガ・スートラ』のようなラージャ・ヨガ以外のさまざまなヨガの流派が生まれることの原因にもなっているわけです。しかしながら、ヨーガ(ヨガ)は第一義的に「心の作用の統御(コントロール、あるいは心の働きを止めること)」にあることは間違いありません。つまり、二ローダとは、心(チッタ)の働きである色々な心理過程を抑圧し滅ぼしていく心理操作であり、同時にすべての心理作用が消滅してしまった状態を意味するわけです。

03 ヨーガなのかヨガなのか発音と表記の問題

ところで、先程から私は「ヨーガ(ヨガ)」と表記していますが、先述したようにサンスクリット語の「o」は長母音しかないので、正しくは「ヨーガ」であって、「ヨガ」と訳すのは誤訳と言ってもおかしくありませんが、日本人的にはヨーガは「ヨガ」として理解されているのと、この記事を書くもう一つの目的であるGoogleのSEO対策的には、相当なヨガマニアでもない限り「ヨーガ」と検索する方はいないと思うので、「ヨーガ(ヨガ)」と併記しております。それにそれだけではなく、ヨーガ(ヨガ)は日本に仏典を経由して伝わっており、中国ではヨガのことを「瑜伽」と表現しています。読み方は「ユガ」です。ですので、日本の伝統的には、ヨーガよりもユガ、つまりはヨガの方が中国経由で伝来したことを考えると正しい発音ともいえるのです。現代でも中国ではヨガのことを「瑜伽」と仏典通りに表記しています。とはいえ、当時の中国語は現在の中国語と発音が異なり、現在の中国語で発音すると「ユィチァ」と元の「ヨーガ」とはかなり違った発音となっており、日本の読み方の「ユガ」の方が、サンスクリット語の読み方に近いようなパラドックスも生じています。そういうわけもあり、「yoga」というのは「ヨーガ」なのですが、本記事上では、「ヨーガ(ヨガ)」と併記して表現していきたいと思います。

04 サーンキヤ哲学との関係

続いて第三節では、こう書かれています。

「tada drastuh svarupevasthanam タダー ドラシュトゥフ スヴァr-ペーヴァスターナム」

「tada」は副詞で「その時」、「drastuh」はdrastr男性名詞で「見る者、判決をする者、裁判官」の所有格、「svarupe」は目的格で「自身の形、自身の姿、自身の状態」を意味する中性名詞、「avasthanam」は中性名詞で主格で「出現、地位、位置、居住、安定、持続」を意味します。原文の語順での直訳は、「その時、見る者の、自身の姿(状態)において安定する」ということになります。ここでいう「その時」というのは、前の節の「ヨーガ(ヨガ)とは心の止滅である」を受けているので、心(chitta)の働きをニローダ(止滅)したときに、「見る者」は「自分の姿」あるいは「自身の状態」に「安定」するということですね。「(心の働きが止滅された)その時には、見る者は自身の状態において安定する」と訳すべきでしょうか。まあ、これだけだと殆ど意味が分からない文章ですね。注釈書や解説書を読んだことがある人なら分かるかと思いますが、この文章は、サーンキヤ哲学の二元論が前提となって、それを元に話しているのです。サーンキヤ哲学については、これまでの記事を大枠を説明した来ましたが、サーンキヤ哲学では、究極の原理としてプラクリティプルシャという二つのものを立てていました。プラクリティは、あくまでも物質的な存在で、プルシャというのが精神的存在です。

こういってしまうと、物質と心との二元論、通俗的な理解でのデカルト的心身二元論のように思われてしまうかもしれませんが、その理解では、プラクリティとプルシャの理解としても、デカルトの理解としても間違ってしまいます。確かに、心身二元論というと身体と心があるというように思われがちですが、デカルトのいう心は、単なる知覚や感覚するようなものといよりも「考えるもの」あるいは「知性」のようなものです。というのも、デカルトは、小さい頃からたくさんの間違ったことを正しいと思い込んで受け入れてきており、そうした間違いからさらにさまざまな間違いを積み重ねてきたのであるから、「一生に一度(semel in vita)」はそういうものからきっぱりと決別し、「すべてを根底から覆して、最初の土台から新たに始めなければならない」(デカルト『省察』)という、もしかしたら皆さんも一度は聞いたことのある「方法的懐疑(doute methodique:ドゥート・メトディック)」と呼ばれる敢えてすべてのものを一旦疑ってみることをします。ここで、デカルトは少しでも疑わしいものは偽とみなして排除していきます。デカルトは『哲学原理』ではっきりと「疑わしいものは偽なるものとみなすべきである」と言っています。その上で、デカルトはまずは感覚をすべて疑います。感覚というのは、私たちが自分たちの感覚の働きによって信じるに至ったもので、つまり目で見たり触ったりして信じているものや、人から聞いたり教わったりして信じているものが含まれます。しかし、こうしたものは聞き間違えや見間違えなど日常的にあることですし、ヨーガ(ヨガ)的なたとえ話を出せば、ロープを蛇を見誤った人の話のように、人の感覚というのはよく間違うものです。そこで、デカルトは、「一度でもわれわれを欺いたことがあるものには、けっして全面的な信頼を寄せないのが、賢明な態度である」(『省察』)と退けます。

次に、デカルトは、夢と現実(覚醒)の区別が明確ではないことも触れます。確かに、幾らこれまで感覚が私たちを欺いたことがあるといっても、それは例えば、すごく小さなものとか遠くにあるものとか、私たちが見間違いしたかといったようなことであって、「今私がここにいること」「炉端に座っていること」「冬着を着ていること」「この紙に手を持っていること」こういったことについて、まったく疑うことができないのではないかと考え直します。ところで、ここでデカルトは、夢の話を持ち出します。実際には着物を脱いで横になっているのに、夢の中で上着を着ているとか、炉端に座っていると思うことがあるではないか、というわけです。夢の中で「おれは今夢を見ているな」と気づくことは多いと想いますが、たまに「これが夢である」と気づかないことも多いかと想いますし、中国の「邯鄲の夢」の逸話のように「この世は夢まぼろしのようなものではないか」と疑って見て、それを「いや、夢などではない」とはっきりと否定することはかなり難しいものでしょう。実際、デカルトもこのように「睡眠中にだまされたことがあった」と夢と現実の区別が付かなかったことを踏まえ、「覚醒と睡眠を区別できる確かな印が全くない」(『省察』)として、感覚によって信じるに至ったものをすべて疑い、廃棄します。この夢と現実って本当に区別が付くのかという疑問は、別にヨーガ(ヨガ)哲学や西洋哲学、あるいはデカルト哲学を学んだことのない人でも、生きていれば誰しも一度はそう素朴に疑問に思ったことがあることではないでしょうか。

中国思想では、荘氏が「胡蝶の夢」という話をしていることは多くの人が知っていると思います。それは、『荘子』斉物論第二に書かれている者で、「昔者莊周夢爲胡蝶。栩栩然胡蝶也。自喩適志與。不知周也。俄然覺、則蘧蘧然周也。不知、周之夢爲胡蝶與、胡蝶之夢爲周與。周與胡蝶、則必有分矣。此之謂物化。」と書かれています。書き下し文に直すと「昔者荘周夢に胡蝶と為る。栩然として胡蝶なり。自ら喩しみて志に適へるかな。周たるを知らざるなり。 俄然として覚むれば、則ち蘧々然として周なり。知らず、周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるかを。周と胡蝶とは、則ち必ず分有らん。此を之れ物化と謂う。」というもので、分かりやすい訳を挙げておくと、「以前のこと、わたし荘周は夢の中で胡蝶となった。喜々として胡蝶になりきっていた。自分でも楽しくて心ゆくばかりにひらひらと舞っていた。荘周であることは全く念頭になかった。はっと目が覚めると、これはしたり、荘周ではないか。ところで、荘周である私が夢の中で胡蝶となったのか、自分は実は胡蝶であって、いま夢を見て荘周となっているのか、いずれが本当か私にはわからない。荘周と胡蝶とには確かに、形の上では区別があるはずだ。これが物化(区別すること)というものである。」というものです。諸子百家の思想として名高い老荘思想の荘氏の思想ですが、この胡蝶の夢というのは有名な故事成句としても日本人になじみ深いものだと思います。

話をデカルトの話に戻しましょう。デカルトは夢と現実が区別が付かないのではないかという話をした上で、さらに、デカルトは次に数学的知識も疑いにかけ始めます。確かに数学的知識は夢の中でも覚醒時でも関係なく、もしそれが成り立つならばそれは正しい(真である)と考えれるものです。夢の中で計算しようとして「1+1=2」が、どうしても「1+1=3」になるというのは悪夢のように感じられるでしょうし、仮にそういう夢を見たとしても、今の認識は誤っていると夢の中でも気づくでしょう。三角形の内角の和はいつでも180度でしょうし、四角形は四つの辺を持つものであるというのは、歌が言えようがないように思えます。しかし、デカルトは、全能の神を持ち出し、仮にその神によって、1+1=2ではないのにそう思うように仕向けられていたり、実際にはこの世には天も地も形も大きさもないのに、そうしたものが存在すると私に思わせようとしてるかもしれないという可能性があることを指摘するのです。

これは一笑に付せられるものではなく、古くはプラトンの洞窟の比喩や現代では「水槽の中の脳(brain in a vat)」として、「あなたが体験しているこの世界は、実は水槽に浮かんだ脳が見ている夢なのではないか」という仮説として、哲学の世界で多用される懐疑主義的な思考実験で、デカルトのグローバル懐疑論(悪しき霊、欺く神)の現代版として、1981年に哲学者ヒラリー・パトナムが用いた思考実験が有名です。皆さんがイメージしやすい例を出せば、映画『マトリックス』のような世界でしょうか。また、とりわけ現代はVRなどの科学技術も進展しており、デカルトの懐疑はもはやあながち空論ともいえない状況になってきています。こうしてデカルトは感覚から数学的知識まですべてを疑って消し去っていくのですが、それでも残されるものにはたと気づくわけです。デカルト自身、自分は今何をしているのか。すべてを疑い、確かなものはないと考えています。しかし、そうであるならば、私がそのように疑い考えているというそのこと、つまり、疑っている私自身は疑いようがないのではないか、と。仮に全知全能の神に操られていようと、仮にすべてが虚構であろうと、欺かれている私は、確かに存在するというわけです。なぜなら「考えている者が考えているときにまさに存在しないというのは矛盾している」(『哲学原理』)、これが有名な「cogito, ergo sm(我思う故に、我あり)」と知られる言葉です。もちろん、ここでも考えること=存在することが、直ちに同義であるといえるのかという問題はありますが、いったん、それは置いておきましょう。

話をヨーガ(ヨガ)の話に戻すと、このようなデカルト的なcogitoのようなものが、ここでいうプルシャなのです。なので、プルシャとは単なる精神とか心(chitta)ではなく、「真我」と訳されることが一般的です。すなわち、ここでいう「見る者が自身において」というのは「プルシャにおいて」安定すると言うことを意味しています。ちょっと難しく感じるかもしれませんが、追々『ヨーガ・スートラ』を追って読んでいけばよく分かっていくかと思います。ここで少し今の説明では分かりづらいという方のために、スワミ・サッチダーナンダの『インテグラル・ヨーガ』から解説を紹介すると次のように説明されています。

「あなたはまぎれもなくその<見る者>(プルシャ)である。あなたは身体でもなく、心でもない。あなたは<知る者>、すなわち<見る者>である。あなたはいつも、自分の心と身体が眼前で行為しているのを見る。心が思考を、つまり識別と欲望を生み出すことを知っている。見る者はそれを知っているが、それに巻き込まれることはない。(中略)あなたは、自分自身を見たいと思っている<見る者>だ。が、どういうふうに見るのか?そう、たとえば物としての自分の顔でも、『あなたは今までの一度でも自分の顔を見たことがありますか?』と聞かれたら、『ない』と答えねばなるまい。なぜなら、顔自体が見ているのだから。顔そのものが見る者、つまり主体なのだ。それが鏡の中に見ているものは、それの映像、つまり見られるもので、それは客体である。そこで、もしその鏡が波打っていたり表面がでこぼこだったりしたら、本当の顔を見ることができるだろうか?」(伊藤久子訳『インテグラル・ヨーガ』)

自分の顔を見ようと、仮に鏡を見たとしても、それはあくまでも鏡に映った鏡像でしかなく、自分の顔それ自身ではない、という説明の仕方で見る者=プルシャについて分かりやすく解説してくれていますね。自分の顔を、本当の意味で自分で見ることはできないですし、その見ているという、その志向性にこそ本当の自分である真我=プルシャがあるということです。このことを少し違った毛色の本から紹介しましょう。

「鏡や写真やビデオを使うならば、たしかに自分の顔を見ることはできる。しかし、他人の顔をじかに見ることができるようには、私はけっして自分の顔をじかに見ることはできない。自分以外の人ならば、少なくともその人が生きているかぎりは『顔と顔を合わせて見る』という直視の可能性があるが、自分の場合、その可能性ははじめから閉ざされている。私が私であると同時に他者であるのでなければ、私は私の顔を直接に見ることはできない。」(富松保文『アウグスティヌス<私>のはじまり』)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(15)

【目次】

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(1)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(2)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(3)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(4)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(5)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(6)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(7)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(8)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(9)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(10)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(11)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(12)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(13)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(14)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(15)

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【監修者】宮川涼
プロフィール早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。

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