ヨーガスートラの思想

ここでは、『ヨーガスートラ』の思想について簡単にご紹介したいと思います。『ヨーガスートラ』は、世界で最も学ばれているヨガの経典です。この本はパタンジャリという古代インドの聖者によって編集されたといわれています。「スートラ」とは糸を意味する言葉で、本来は一つ一つの詩節を示します。それらの様々な糸が寄り集まったものとして経典という解釈がなされるようになりました。その成立時期には諸説があり、正確には定まっていませんが、仏教(注)の瑜伽行唯識学派の影響があるという説から、おおよそ4~5世紀頃ではないかと一般的に考えられています。

注:仏教の開祖、釈迦は歴史的実在の人物であり,その人種的帰属(モンゴル系かアーリヤ系か)や死没年(前 483 年、前 383 年など,南方仏教圏では前 543 年)は学問上の問題として論じられている(釈迦が 80 歳で死去したことは定説とされる)。インド・ネパール国境沿いの小国カピラバストゥを支配していた釈迦(シャーキャ)族の王シュッドーダナ (浄飯(じようぼん)王)とその妃マーヤー (麻耶)の子としてルンビニー園で生まれた。姓はゴータマ Gotama(釈迦族全体の姓),名はシッダールタ Siddhrtha(悉達多)。生後 7 日目に母を失い,以後は叔母(実は継母でもある)マハープラジャーパティーに育てられた。アシタ仙人から,〈長じて偉大な王になるか,偉大な宗教者になる〉との予言をうけたため,王になってほしいと願う父王によって何ひとつ不自由のない王宮の生活があてがわれた。しかし,耕作の光景に接し,農夫や牛馬の労する姿を見,露出した虫が鳥についばまれるさまを見て世の苦しみを悟る。また城の東・西・南・北の門から外出しようとして老人,病人,死人,出家者に遭遇し,自分の進むべき道を予見する。ヤショーダラーを妃とし,一子ラーフラ R´hula をもうけたあと,一夜,愛馬カンタカと御者チャンダカを従えて城を脱出し,マガダ国で沙門(修道者)の生活に身を投ずる。2 仙人に禅の指導をうけたが満足せず,6 年苦行に励んだが得るところなく,村娘スジャータの提供する乳粥で体力をつけ,ネーランジャラー河畔のアシュバッタ樹の根方で瞑想に入り,ついに菩提(悟り)を得て仏陀(悟った人)となった(アシュバッタ樹はこれよりのち菩提樹と呼ばれる)。最初の説法はムリガダーバ(鹿野苑(ろくやおん))で 5 人の比丘(びく)に対して行われた。その後,拝火外道のカーシャパ 3兄弟とその弟子たち合計 1000 人や,シャーリプトラ(舎利弗),マハーマウドガリヤーヤナ(目連),マハーカーシャパ(摩訶迦葉)らが弟子になった。故国からは従兄アーナンダ(阿難),理髪師ウパーリ(優波離),息子ラーフラ(羅順羅)が弟子に加わった(十大弟子)。比丘(男の出家者)のほかに,比丘尼(女の出家者),優婆塞(うばそく)・優婆夷(うばい)(男女の在家信者)もできた。釈迦はガンガー(ガンジス川)中・下流域の平原,なかんずくマガダ国のラージャグリハ(王舎城)とコーサラ国のシュラーバスティー(舎衛城)で活動した。前者には国王ビンビサーラの寄進した竹林精舎が,後者にはアナータピンダダ(給孤独(ぎつこどく))長者の寄進した祇園精舎があった。釈迦の教勢が盛んになるにつれ,法敵も増えた。彼の従弟とされ,のちに彼に離反するデーバダッタ(提婆達多)からは狂象をけしかけられ,祇園精舎ではバラモンたちから女性と密通しているとの虚偽の告発がなされた。実際,釈迦の教えはバラモン教の階級制度や祭式至上主義を脅かすものであった。彼の教団では僧の順位は出身階級に関係なく,出家後の年数で決められた。真のバラモンとは生れによるのではなく,行いによるのであった。そして不殺生の教義はバラモン教の犠牲式を否定し,出家主義は祖霊祭をつかさどる子孫の確保を困難ならしめた。ほかに六師外道と呼ばれるライバルもいた。釈迦の教義は人の心の悩みを解決することをめざした。心の悩みの解決は祭式のような外形的行為によっては達成されない。各人が自己の内面から行う変革によらねばならない。そのための基本的な出発点となるのが四諦・八正道や十二因縁の教義である。これは,一言でいえば,苦悩のよってきたる淵源を追求し,その淵源(おそらく〈我あり〉との妄執)を取り除くことを教えている。これは当時にあっては驚くほど科学的・合理的な態度である。しかも,自己存在の問題について,現代の深層心理学を先取りするような先見性を示している。これは仏教発展の背後に都市と商人階級という進んだ社会があった事実を反映しているかもしれない。釈迦は 29 歳で出家し,35 歳で悟り,45 年教化活動を行って,80 歳で死去した。故国へ向かう旅立ちの途中,食中毒をおこして,クシナガラ で 2 本のサーラ樹(サラソウジュ)の間に横たわって生涯を閉じた。遺体は荼毘(だび)に付され,遺骨は各地の塔(ストゥーパ)にまつられた。釈迦は遺言として〈自己自身を灯明(あるいは島)とせよ〉〈すべては移ろいやすい,怠らず努めよ〉〈出家者は私の葬儀にかかわるな,葬式は在家者がするであろう〉などと述べた。これらの言葉は彼がいかに人間ひとりひとりの魂の救済に意を注いでいたかを示している。弟子が伝道に赴くときに〈二人していくな,一人ずつ行け〉〈俗語で説け〉と言ったのも,教えをできるだけ多くの人のものにするためであった。慈悲の精神と涅槃の理想が彼の教えを貫いている。後世の仏教徒はしだいに釈迦を神格化し,その伝記を粉飾する傾向をもった。輪廻(りんね)転生の思想に基づき,釈迦は今世に出現するまでにすでに多くの生存をくりかえし,そのつど善行に励んだとされた。このいわば修行時代の釈迦は,ボーディサットバ Bodhisattva(菩醍,すなわち菩提を求める者)と呼ばれ,彼の前世物語(ジャータカ,本生譚)がいくつもつくられた。一方,大乗仏教では,彼は永遠の仏の顕現とされ,化身または応身と呼ばれるようにもなった。釈迦の誕生日については〈バイシャーカ月白分 8 日(または 15 日)〉の伝承が生まれ,中国暦ではこれが 4月 8 日に換算され,南方仏教圏ではベーサク月(4 月~5 月)の満月の日にあてられている。

ヨガの世界観

『ヨーガスートラ』のヨガは瞑想によって悟りを得ること、その中でも解脱と呼ばれる状態に達することを目的としています。解脱とはサンスクリット語でモークシャといい、これは解放を意味する言葉で、苦しみからの解放(注1)、あるいは輪廻(注2)からの解放を意味しています。悟りという言葉は大変曖昧な言葉で、日常生活においても別に宗教的な意味合いなどとは全く無関係に、私たちも何かを諦めたときや何かを理解したときに悟った、と言うこともあります。しかし、『ヨーガスートラ』が述べている悟りというのは、そのような感覚では無く、瞑想によって完全な安楽を実現し、もう2度とこの世に生まれ変わることがない究極的な状態を指し示します。これを解脱とか涅槃(ニルヴァーナ)、『ヨーガスートラ』ではカイヴァリヤと読んでいます。

では、『ヨーガ・スートラ』はなぜこの世から離れて安楽な状態を確立すべきと主張するのでしょうか。それはこの世で、生きることは苦しいものだと考えているからです。しかし、私たち一般的にそれほどこの世で生きることが苦しいことは感じていないのではないでしょうか。現代の社会の中で普通に生活している限り、それほど苦しいことは起きないからです。では、『ヨーガ・スートラ』はなぜこの世は苦しいものだと説いているのでしょうか。その根拠として次の三つをあげています。

得たものを失うことへの不安と恐怖、結果として心の中に残り新たな渇望を引き起こす印象、心を支配する三グナの絶えざる葛藤ーこれらのために、識別力のある者にとっては実にあらゆるものが苦である。

2章15節『ヨーガスートラ』

ここでパタンジャリは、非常に重要なスートラ、スピリチュアルな領域における彼の考えた真理を示しています。識別力のある者、あるいは慧眼の徒、賢者と言い換えてもいいでしょうが、そうした人にとっては全ての経験が苦しみに満ちているというのです。この世においては、世界を通じて、また自然や物質を通じて外界からやってくる体験の全ては結局のところ苦だり、その中のどれ一つとして我々を永続的な幸せに導いてくれません。もちろん、一時の喜びを与えてくれることはあるでしょうが、結局はそれも苦に終わるというのです。というのも、たった今享受しているこの喜びも、それを失うことの恐れ故に苦に満ち溢れていると考えるわけです。

とはいえ、本当はこの世に悪いものなど何もないとも考えてます。この世に悪いものがあるわけではないのですが、三つのグナがいつまで経っても我々の心をもてあそび続けるから苦しいのです。三つのグナとは世界を構成する性質のことで、サットバ(純質)・ラジャス(激質)、タマス(鈍質)のことを意味しています。

急にこう言われてもピンとこないでしょうが、ヨガ哲学では世界の全ての物質の原理をプラクリティと呼びます。このプラクリティが、私たちの心というか真我(霊魂)であるプルシャと呼ばれるものに出会って、様々な苦痛と快楽を受けると考えているのです。このサットバ、ラジャス、タマスについてもう少し説明を加えると、サットバとは、静謐を意味し、ラジャスとは活動を、タマスは惰性を意味しています。これらの三つのグナがバランスを保っているときは、問題は何もないのですが、グナに少しの乱れが生じるとその乱れが運動を生み、それがあらゆる種類の形態を生み出し、全宇宙はそのようにして表れると考えられているのです。

我々は今、サットバと、ラジャスとタマスが最高潮に達した具体の世界にいると考えられています。なので、我々には眼前に見えているものから手がけていくしかありません。我々は知ってしまったことを無視することはできませんし、知らないものに直に取り組むこともできません。少し話がわき道にそれてしまいましたが、この三つのグナによる影響を分かり易く説明しましょう。この三つのグナが乱れている(三つのグナは互いに相反するので乱れざるを得ません)ので、今楽しんでいたものが、次の瞬間にはもう嫌になったり、たとえば気分が良いときは子供達がそばにきたら遊んであげるが、機嫌が悪いときは「あっちへ行け、邪魔をするな」となってしまいます。真の愉しみを得るためには、世界の全てから完全に自分自身を引き離すこと、即ち、世界の修得者として世界を利用することから始まると考えています。

とはいえ、これは世界は苦に満ちているからそこから逃げよ、といっているわけではありません。というより、世界から逃げると言うことは不可能だと考えられています。どこまで行っても世界はついてくる。世界を理解しようとしないままに逃げようとしても決してうまくいきません。家族生活をうまく営むことができなかったり、家族とうまくやっていけなかったので、「私はもう嫌になりました。出家します。もう何もいりません。霊的な世界に入って、瞑想をし、ヨガの修行をします」という考えを持つ方もいるかもしれませんが、これは結局のところ、家族との生活から逃げだそうとしていることに他なりません。

仮にそうした人がヨガの修練をするグループに参加したいと考えても、自分のよく知っている家族にさえ自分自身をうまく適合させることができない人が、どうして知らない人々の集団に適合すると期待出来るのでしょうか?そのように苦しみから逃げるのではなく、我々はどこにいても物事を適切に扱っていけるようになるべきでしょう。いつも転々と環境を変えてばかりいるわけにはいきません。そして、一旦家族という一つの小さな集団をどのように扱えば良いが分かったら、もっと大きな集団へ適合することができるかもしれません。ヨガの修行者と聞くと家族を捨てて、ヨガの集団のようなところに入ることが良いことのように思われていますが、ヨガの高名な修行者達は家族生活は社会生活のためのトレーニングの場であると考えているようです。親しい人の鋭い言葉を受け止めることができなくて、どうして見ず知らずの人がその種の言葉を受け止められるのだろうか?世界は執着することなく、それを使うことを学ぶ、トレーニングの場であると考えているのです。

ヨガの考える三つの苦しみ

ここで、もう少し分かり易く先ほどの「ヨーガ・スートラ」の一句を要点ごとにまとめてみましょう。すると、大体三つのことを言っていると言い換えできると思います。

(1)万物は常に変化し続ける

(2)煩悩が絶え間なく苦楽の原因となる

(3)三つのグナは互いに相反する

まず、はじめにこの世の世界のあらゆるものは変化し続けるという問題があります。これは仏教でもなじみ深い諸行無常という考え方ですね。ギリシアのイオニア学派の自然哲学者として高名なヘラクレイトスが「パンタレイ(万物は流転する)」と言ったことや日本でいえば鴨長明の『方丈記』の冒頭「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。」という文は日本人ならぱっと思いつくものではないでしょうか。自然の中のものは何一つとして不断で不変の幸福をもたらすことができないと考えられているわけです。

要するに、目に見える物は一見そこに変化せずにとどまっているように見えますが、実際は食べ物が腐ったり、物が古くなったり、家が老朽化したりと変化していくからです。このような現象はこの世界の原理のようなものと考えられており、私たちは世界が移り変わると言うことを受け入れながら生きていかなければならないというわけですね。体が老いて、人が生きて死ぬこと、大事なものが失われてしまうことは、誰にも平等に訪れることです。しかし、多くの場合、私たちはこのような変化をすぐに素直に受け入れることはなかなか難しいでしょう。年齢と共に顔にしわが出来たり、髪の毛が薄くなったり、体の健康が失われていくことを嘆きます。

あるいは、交通事故にあって車が壊れたり、もっと運悪く大怪我をしたり、泥棒にものを盗まれたりして落胆することもあるでしょう。また、自分の親や友人、ペットなどが亡くなり泣いて悲しむものです。おおよそこの世に合って失われないものなどなにもないはずですが、私たちは自然とそれらに執着を持ってしまい、それらが失われる苦痛から逃れられないのです。これが最初の苦しみです。

人生はすべて、過ぎていくショーである。それを一瞬でも引き留めようとすれば、我々は緊張を感じる。自然は逃げようとする、我々がそれを引き留めようとするときには、遮蔽物を作る。そして、結局それが我々に苦しみを引き起こす。

スワミ・サッチダーナンダ『インテグラル・ヨーガ』(2020年)

次に煩悩が絶え間なく苦悩を生み出すことについて説明しましょう。これを『ヨーガスートラ』ではサンスカーラ理論と呼びます。サンスカーラというのは、過去に作り出した潜在的な印象のことです。私たちは喜びや苦しみが独立して存在すると考えていますが、そうではなく、過去の印象によって苦楽が生じていると考えられているのです。このような心の相対性をサンスカーラ理論といいます。

たとえば、あなたに大好きな恋人がいて、「愛する人が居て私は幸せだ」と思っているとします。その人がいる間は幸せを感じることができますが、その人が別の人を好きになってしまったり、浮気をしたり、ケンカをして別れたりすると不幸だと感じるでしょう。一方、あなたにとても嫌いな人がいたとすれば、その人が病気になったりして会うことがなくなれば、あなたにとっては喜びになるかもしれません。

このように、愛する人がいたので、その人が去ると苦しみになり、憎い人が去れば喜びになります。つまり、心の暗くは相対的に生じているのです。従って、私たちは楽しい思いをたくさんすれば人生は幸福になると思っていますが、実際はそうではなく、苦しみの原因も同時に沢山作り出していることになると考えるのです。しかし、人は喜びを追い求め、苦しみを避けようとします。これは生まれながらの人間の傾向ですから、このような心の働きをコントロールすることは容易ではありません。従って、人生を俯瞰してみるなら、若いうちは喜びを沢山味わい、歳と共に苦痛が増してくるともいえるえしょう。そして、結果的にこの世界で生きることは苦しいものになってしまうというわけです。

では最後に、グナの対立について考えてみましょう。これらは三つ合わせてトリグナとも呼ばれ、先ほども説明したように、サットバ、ラジャス、タマスの三つです。もう少し分かり易く説明すると、サットバは、均整が取れて静的な性質であり、ラジャスは、激しく動き回り活発な性質、タマスは、暗くよどんでいて鈍い性質といわれます。これらはプラクリティという世界の根源を構成する三大要素で、空・空間はサットバ、風はラジャス、火は三つのグナの混合、水はラジャスとタマスの混合、地はタマスから生じていると考えられています。こうした考え方はアーユルヴェーダの食べ物に対する考え方にも影響を与えており、新鮮な食べ物はサットバ、刺激性のあるスパイスはラジャス、腐ったものや保存食はタマスというように分類されています。

これらのグナは単独で現れるわけではなく、三つが一つの存在の中で共存しています。たとえば、人はラジャスだけで他の性質が全くないかといえばそうではなく、睡眠や休息をとるときにはタマス、読書や瞑想をしているtきはサットバが表れていると考えられています。従って、人間の心の性質についていえば、どのグナな優勢にあるのかが人の心の様相を決めることになるのです。サットバは、勤勉で理性的な面を司り、ラジャスは刺激を求め感情的、タマスは鈍感で不活発です。このように私たちの心の働きはこの三つのグナによって生じていると考えられているので、このグナの対立によって人は互いに対立し争ってしまうとも考えられています。

たとえば、あなたが寝ているときに、子供たちが遊んで騒いでいるとしたら、あなたは「うるさい!静かにしなさい。」と起こるでしょう。このとき、あなたの心には、「まだ寝ていたい」というタマスが生じていて、子供たちの心には「楽しく遊びたい!」というラジャスが働いているわけです。そこで、あなたのタマスと子供たちのラジャスが対立するわけですね。他の例を見てみましょう。会社の会議に部下が遅刻してきました。部下はタマスによって「ちょっとぐらい遅れても大丈夫だろう」と考えています。しかし、あなたの心にはサットバが働いているので、「みんな時間通りに集まっているのに、何でお前だけ遅れてくるんだ!」と怒ってしまうでしょう。こうしたグナは私たちの心の本性なので、このような怒りはなかなか避けがたいものです。従って、周囲をみればこのグナによる戦いがそこら中で起きています。このように、私たちは本性的に争うので、世界からは対立がなくならないと考えるわけです。

ヨガにおける無知とは?

さて、これで三つの苦しみの要因についてお話しできたかと思います。結局、人は自らの心の性質によって苦しみを作り出し、平安に達することはありません。このような状態を『ヨーガ・スートラ』は無知と呼んでいます。

無知とは、無常を常、不浄を浄、苦を楽、真我ならざるものを真我とみなすことである。

2章5節『ヨーガスートラ』

パタンジャリは、無知とは何かの説明をしています。もし私がある国玉のをそれもあなたが見たことがない果物を取り出して、それをあなたに見せたなら、あなたは「それは何ですか?私はそれを全く知りません。」と言うでしょう。これはごく普通の無知、つまり「あるもののことを知らない」という意味です。パタンジャリがここで言っているのは、そのような無知ではありません。彼は基本的な無知を一番最後に上げています。それが真我ならざるものを真我とみなすことであると。

真我とは何なのでしょうか?そして、真我ならざるものとは何なのでしょうか?真我は、永遠で不変の一なるものです。それは、常に至る所に根本的実体として在るものです。全てのものは、本当は真我以外の何物でも無いのですが、私たちは無知の中で、それを様々に異なった対象として観てしまっているというわけです。我々は、変化の結果の現れを不変の事実とみなすことに慣れています。しかし、それがどのようなものであったとしても、もしそれが変化するのであれば、それは真我ではありません。たとえば、私たちのこの身体にしたところで、それは刻々と変化しています。なのに、私たちはそれを自分=自己とみなして「私はお腹がすいた」「私は身体障害者だ」とか「私は黒人だ」「私は白人だ」「私は女性だ」という言い方をしています。それらはすべて身体の状況や特性に過ぎません。

このように私たちは真我ないものを真我とみなし、変化するものに執着して苦しみ、喜びが苦しみの原因になると知らずに、これを追い求め、トリグナの心の作用を自分だと思い込んで、腹を立てたり争ったりしているので、無知であるというわけです。しかし、この無知を取り除くことは容易ではありません。この世に生まれて来たときに私たちは既に無知で覆われているからです。従って、ヨガや仏教の賢者たちは、この世に生まれてくることは苦しみであると洞察したのです。

ヨガの目指すところは心の動きの停止

では、この無知によって生じた苦しみを取り除くためにはどうしたら良いのでしょうか?『ヨーガスートラ』では次のように述べています。

この苦しみの原因は、見る者と見られるものとの結合である。これを切り離さなければならない。

2章17節『ヨーガスートラ』

この節で、私たちの苦しみの原因は「見る者と見られるものの結合」だと述べられています。ここで述べられている見る者がプルシャと呼ばれるもので、真の自己という意味で、見られるものとはプラクリティと呼ばれる、それ以外のすべてのものを指し示します。プルシャは行為せず、ただ見ているだけの傍観者です。純粋意識とも訳されるように、まさにデカルトの説いたcogito(自己意識、注3)に近しいものと言っても問題は無いでしょう。しかし、このプルシャがプラクリティを見るときに、経験や知識などを通してプラクリティを見てしまうので、プラクリティには無知が生じてしまうというのです。ここに苦しみの原因があると『ヨーガスートラ』は説いています。

では、この苦しみを取り除くにはどうすれば良いのでしょうか?プラクリティである心や身体に苦しみの原因があるのなら、これを切り離して、プルシャを苦しみから解放しようと考えます。これが『ヨーガスートラ』が説いているヨガの目的というわけです。

ヨーガとは心の働きを止めることである。

そのとき見る者はそれ本来の状態にとどまる。

その他のとき、心の働きと同一化している。

1章2~4説『ヨーガスートラ』

つまり、心の働きが止まったとき、プルシャとプラクリティを同一視する心の働きはなくなり、この二つは切り離されるのです。そのとき、見る者(プルシャ)はそれ自体は純粋な状態にとどまるので、私たちに苦しみが生じることはありません。もちろん、一般の私たちにはこうした状態というのはなかなか想像しがたいものがありますが、ヨガではこのような状態を人間の幸福の完成であると考えています。心で幾ら喜びを作り出してもそれは苦しみの原因を作り出しているだけであり、苦楽の波からは逃れることは出来ません。したがって、心の作用を止め、プルシェの本性にとどまることが真の幸福であると世が哲学は考えているのです。

注1:苦しみからの解放という考え方は、元々は仏教より前に存在したザラスシュトラが創始したゾロアスター教に由来します。ザラスシュトラは、紀元前10世紀ほどに現代のイランの高原の北東部に生まれた宗教家です。世界最古の宗教で、ペルシアを中心に広まり、中央アジアを経て中国まで広まりました。このザラスシュトラの没後戦数百年後の3世紀に入って、ゾロアスター教の教典が編纂、整備され、その経典の名前は『アヴェスター』と呼ばれています。ザラスシュトラの言葉と彼の死語にちて付け加えられた部分によって構成され、全部で21巻あったと言われています。現在もその約1/4が残存しています。

ゾロアスター教の最高神は、世界史の授業などでも習った方もいるかもしれませんが、善なる神アフラ・マズダーです。ゾロアスター教では、善なる神々(人類の守護神であるスプンタ・マンユを筆頭にした七神)と悪い神々(邪悪と害毒を司る大魔王アンラ・マンユを筆頭にした七神)が争っていると考えました。

ゾロアスター教では、宇宙の始まりから終わりまでを1万2000年と数え、それを3000年ずつ4期に分けました。そして、ザラスシュトラは、「今の時代は善なる七神と悪い七神が激しく争っている時代なのだ」と説き、苦しい日々が続くのは、悪い神々が優勢なとき、楽しい日々が続くのは善なる神々が優勢のときだと教えました。

やがて、善悪の神々が戦う混乱の時代が終わる1万2000年後の未来、世界の終末にアフラ・マズダーが行う最後の審判によって、生者も死者も含めて全人類が審判、選別され、悪人は地獄に落ち、全て滅び去ると考えました。そして、善人は、永遠の生命を授けられ、天国に生きる日が来るのだとザラスシュトラは説いたのです。だからこそ、善人は現世では、三徳(善思、善語、善行)を摘む必要があると説きました。

このようにザラスシュトラは、時間を直線的に捉える(天地創造から最後の審判まで)、劇的な是無く二元論を展開したことが非常に特徴的で、こうした善悪二元論は宗教を説くときに非常に強い説得力を持ちました。何故かというと、仮にこの世を一人の善なる神が作ったとすると、世界中に良いことばかりが溢れていることになります。悪い君主も殺人鬼も存在しない理屈になるでしょう。清く正しく生きていれば誰でも幸福になれるはずです。それなのになぜ人生は苦しみがあるのか、神が居るなら救ってくれてもいいじゃないかと思い悩むことになってしまうのが、この善悪二元論によって生きる苦しみを分かり易く理解できるようになるわけです。

注2:輪廻転生という考え方は、紀元前12世紀頃にヒンドゥー教の前身であるバラモン教(注4)の聖典『リグ・ヴェーダ』(注5)に端を発する考え方ですが、厳密には紀元前900年のサンスクリット語で書かれたヴェーダの聖典『ウパニシャッド』に輪廻という言葉は直接用いられていませんが、「五火」と「二道」の説として説かれています。五火説とは、五つの祭火になぞらえ、死者は月に一旦とどまり、雨になって地に戻り、植物に吸収され、穀類となり、それを食べた人から子供へ継がれ、再び誕生するという考え方でした。二道説とは、再生のある道(祖霊たちの道)と再生のない道(神々の道)の2つを指し示し、再生のある道、即ち輪廻とは先ほどの五火説の内容を指し示します。

これがヴェーダの宗教における輪廻転生の萌芽であり、その後、様々な思想家や他の宗教である仏教やジャイナ教などの輪廻観へ影響を与えました。後のヒンドゥー教では、輪廻説が集大成され、輪廻教義の根幹に信心と業(カルマ)を置き、これらによって次の輪廻(来世)が決まると考えられるようになりました。

注3:デカルトはその著書の『方法序説』で次のように考えました。

また少しでも疑問をさしはさむ余地のあるものは全部、絶対的に虚偽なものとして放棄しなければならないと考えた。それは、そうしたあとでわたしの信念の中に何らかの疑う余地のない何かが残るかどうかを見届けるためであった。こういう次第でわたしは、感覚はしばしばわれわれをだますものだから、どんなものでも感覚がわれわれに想像させるとおりのものとしては決して存在するものではないと仮定しようと思った。それからわたしは、幾何学上のもっとも単純な事柄にかんしてさえ、推理を間違えて、背理におちいる人がいるのだから、自分もまたほかのひとと同様まちがいを犯しかねないと判断して、以前は論証と見なしていたすべての論拠を虚偽として捨ててしまった。最後に、われわれが眠っている時にも覚めている時に持つ者と同じ全ての思想が現れてくるが、その場合には真実の思想はひとつもないということを考えて、わたしは自分の精神のなかにはいりこんでいたすべての事柄を、夢の中の幻想と同じように真実ではないと仮定しようと決心した。しかし、その後ですぐにわたしは次のことに気付いた。それはすなわち、このようにすべてのものを虚偽と考えようと欲していた間にも、そう考えている「わたし」はどうしても何ものかでなければならないということであった。そして、「わたしは考える、だからわたしは存在する(Cogito ergo sum.)」というこの真理は、懐疑論者のどんな途方もない仮定といえどもそれを動揺させることができないほど堅固で確実なのを見て、わたしはこれを自分が探求しつつあった哲学の第一原理として何の懸念もなく受け入れることができると判断した。

デカルト『方法序説』

これはデカルトの方法的懐疑と呼ばれる方法論で、たとえすべてを疑ったとしても疑っているわたしは疑いようがないということを導き出したわけですね。

注4:「バラモン教」というのは,古代インドにおいて,仏教興起以前に,バラモン階級を中心に,ヴェーダにもとづいて発達した宗教を指しています。これは,いわゆるヒンドゥー教と区別するために西洋の学者が与えた人為的な呼称Brahmanism の訳語です。大ざっぱにいってヴェーダの宗教とお考えいただいてよろしいかと思います。紀元前3~2世紀頃のインドにおいては,紀元前6~5世紀頃に起こった歴史的・社会的大変動の結果,ヴェーダ文化の枠組みが崩壊してバラモン教が衰退し,代わって仏教がインドの宗教・思想界の主流をなしていました。主流の座を仏教に譲ったバラモン教は,土着の非アーリヤ的民間信仰・習俗などの諸要素を吸収し,大きく変貌をとげ,いわゆるヒンドゥー教が成立するに至りました。この変貌したバラモン教を旧来のバラモン教と区別するためにヒンドゥー教と名づけられました。

注5:前1500 年から前900年ごろに作られた,最古のヴェーダ文献である《リグ・ヴェーダ本集》には,一貫した筋の神話は見いだされないが,なんらかの神話を前提として詩作したと思われる。特に,《リグ・ヴェーダ》において最高神的地位にあるインドラ(帝釈天)を中心とする神話の存在がうかがわれ,実に全賛歌の約 4 分の 1 が彼に捧げられる。インドラは元来,雷霆(らいてい)神の性格だが,《リグ・ヴェーダ》においては,暴風神マルト Marut 神群を従えてアーリヤ人の敵を征服する,理想的なアーリヤ戦士として描かれている。インドラは代表的なデーバ deva である。デーバは神であり,それに対するものがアスラ asura(阿修羅)である。アスラは《リグ・ヴェーダ》においては,必ずしも悪い意味で用いられなかったが,しだいに神々に敵対する悪魔を指すようになった。インドラに次いで重要な神はバルナ(水天)である。バルナは典型的なアスラである。バルナは宇宙の秩序と人倫を支配する司法神である。彼は人々の行為を監視し,罪人を捕縛し,腹水病にかからせる峻厳な神であるが,その半面,悔い改める者に対しては慈しみ深い。後に,バルナは単なる水の神,海上の神の地位に落ち,仏教にとり入れられて水天となった。バルナと不可分の関係にあるミトラは契約の神である。《リグ・ヴェーダ》には,以上のほかに,天神ディヤウス,大地の女神プリティビー,火神アグニ,酒神ソーマ,太陽神スーリヤ(日天),暁の女神ウシャス,風神バーユ,河川の女神サラスバティー(弁財天),死神ヤマ(閻魔)などに対する賛歌がある。

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【監修者】宮川涼
プロフィール早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。

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