悪について~仏教やヨガ、西洋哲学から考える(6)

01 根本悪

ここで問題になるのが、根本悪(das Rachikalboese)と呼ばれるものである。これはカントと共に有名で或る。だが、すでに古く聖書は「人の子らの心は悪に満ち、生きている間、その心には狂気が満ち、それから後、死人のところへ行く」(『伝道の書』)と記されている。原罪という思想が後になって定着するのも、人間が人間であろうとすることに、悪をみるからである。アウグスティヌスの場合にも、ルターの場合にも、人間を根本において悪(罪或るもの)と見ることが、その信仰の前提となっている。カントの場合も、これを受けたものに他ならない。カント自らがそう言っているわけではないが、そういっても差し支えないだろう。

カントは、根本悪(ein radikales Bose)ということを説いた。これを、”Der Mensch ist von Natur bose.”(人間は生まれつき悪で或る)と言い表している。だが、これを性悪説と受け取ってはならない。素質としての人間の善を認めた上で、そういっているからである。この場合、カントが悪と言っているのは、自愛という格率を原理として、これに従うことをいうのであり、これが傾向として、人間のうちにあるというのでる。何故これが根本的であるかといえば、すべての格率をだめにしてしまうからであるという。根本悪という名が付けられ、そういう傾きをもつことが生まれつきで或るといっているけれども、素質ではないとしているのだから、自愛を格率として選ぶのは、責任に基づいていることになる。だから、それを選ぶ傾向があるということになる。従って、選ばないですますこともできるというのは、素質としては善だからである。この傾向としての悪は、類としての人間について当てはまるけれど、だからといって、この傾向が人間という類概念から演繹されると行っているのではないということである。

今言ったような意味で、自愛を格率として選ぶ傾向が生まれつきあるということであるから、その場合には、道徳法則を犯す責任を負っているということになる。だが、このことを、悪が最初の良心から相続してそうなったのだと考えてはならない。そう考えるならば、そこにもはや責任はなくなってしまうからだ。素質としては善でありながら、悪を選ぶ傾向が生まれつきあるのだから、最善の人間にあっても、主観的にはそうなる必然性をもっていることになる。だから自愛を格率として選ぶのは、やはりそのたびの人間の責任だということになる。そこで、「アダムにおいてすべての人々が罪を犯した」というのは、以上述べたような意味で、そのたびに全ての人々が自愛を選びその責任を負うべきであり、そういう傾向を持つという意味であって、アダムが犯したから、私も犯さざるをえないということではない。

これを我々の言葉で言い換えれば、そのたびごとに自らの有限な姿に出会うということになる。だが、自愛(欲望に従うこと)を格率として選ぶ傾向が生まれつきだからと言って、自然的欲望がそのままで悪だと言っているわけでもない。カントが根本悪の説を発表したとき、ゲーテを始め幾人かの代表的知識人が激しくカントを攻撃した。このことはよく知られていることであるが、その攻撃は以上述べたカントの考えを理解しないで、これを性悪説と受け取ったからであろう。要するに、人間には「自分自身をけむに巻く不誠実」が傾向としてあるということである。

「自然の歴史は善から始まる。というのもそれは神のわざだからである。自由の歴史は悪から始まる。というのもそれは人間のわざだからである」カントはこう言っている。これは明らかにルソーの考えに影響されている。これは宗教哲学よりも前に書かれたものであるが、宗教哲学の場合にもこの思想で書かれているといってもいいと思われる。ここで大切なことは、悪が、人間において、どれほど根本的で或るかという「現」にぶつかり、そこから、翻ってその源に考え及んでいるということである。悪から始まったか否かを実証的に検証するすべはどこにもない。人間が自己を意識するところは、自らにおいて悪がいかに根深いかと自覚するところだという、このことから振り返って、人間が人間となったところ(カント的には自由を意識したところ)、悪は芽生えたところだと考えたのだろう。このことは、カントの生きた時代を背景にしていると共に、アダムの物語に対する近代的解釈となっている。すべてこれらのことが成り立つのは、人間において悪が根本的で或るという自覚から、これの帰結としてその根拠に帰ったものにほかならない。

そこに時代に生きたカントがいるということ、これを忘れてはならないだろう。そう考えて、シェリングの場合に至ると、そこにまた違ったところが見られる。もちろん、シェリングの場合も、人間において悪が根本的であるという自覚から出ているということは言っても差し支えないと思うが、これを神の現存要件に持ち込んだ点で、二人の間で大きな違いがあると言わざるを得ない。シェリングは、神は悪から独立な人格というような形では考えていない。それをいうとすれば、無底となる。無底が無底である限り、現存ということはない。現存が、現に在ることとして、顕れるのは、否定においてであるとされている。つまり、無底は否定においてでなければ、自己であることができないということになる。このことは、我々がこれまで言ってきたことからすれば、人間において悪がいかに根本的であるかという「現」に出会い、その根拠に帰って、無底に行き着いたという形になるが、この無底は、無底であることを脱することにおいて、始めてそれであるようなものである。だが脱しようとするそのことにおいて、有底となるとき、既にそれは善悪の対立にいる。だが、それは、結局は、人間自身の在り方に根源的な形で出会っていることを意味する。だから、このことは、そういう形で現に人間がいるということになる。

これに対し、カントの場合は、人間に於ける根本悪を指摘することにおいて、振り返って同一律の主体としての神を、道徳的課題として要請することになっている。それがつまり当為である。だからこれは、悪において跳ね返ったところに、悪の否定の形で同一律の主体を要請した形になっている。だが、この場合には、悪の根源的性格において、矛盾の主体として、自己を観ようとしているのではない。シェリングにおいては、神が神であるために、言い換えれば、神が神であるために、自ら矛盾に陥らざるを得ないという形で捉えている。ここに現に在る人間を矛盾として捉えたシェリングと、人間を当為への存在として二元的に捉えたカントとの違いがある。だが、この違いは、ただ二人の考え方の違いに留まるのではなく、人間存在そのものと、それにおける悪の根源的性格を取り出した点で、思想史的な性格をもった違いであると言わねばならない。

だが、前にも言ったように、共にその考え方は循環になっている。カントは、循環を脱しようとして当為を立てるが、しかもなお、それが循環になっていることについては前に述べたとおりだ。ここで更に言っておかなければならないのは、悪の根本的性格というのは、西欧思想の根本に一貫してあった問題であるということである。キリスト教的罪の形でせよ、ギリシア的禍の形でせよ、それがどれほど根本的であるかということである。人間存在は悪において初めて「現」なのだということを、その根本に触れて取り上げた点に、意味があると言えよう。ここでついでながら言っておきたいことがある。それは、シェリングが、悪が何にであるかではなく、悪があるとはどういうことかを問題にしたというあのことについてである。

確かにこの点で、シェリングは独特であったと言いうるが、ただその場合、悪とは何かという意味での悪は、既に先取りされていたということである。そこには、西欧的、特に聖書的悪の先取りにおいて、その在るが問われていたということである。その意味で、悪があるに迫ろうとしたことは、あの当時の思想界の状況から見て極めて独特であり、意味のあることである。だが、その意味で、時代を超えたところに立とうとしていたと言えるが、そのことについて、深く西欧的であったことを否定することはできない。ここにその思索が循環になっていることと、そのことにおいて、在ることの根本に触れていることを、特に指摘しておきたい。この意味で、無底の考えは重要であると言わねばならない。

前に仏教的には、善悪無記の境位に自ら立つことが問題の中心であると言ったが、これはいわば、無底を自らの境位とすることができるかどうかの問題となる。ここに両者の接触する面があると言って差し支えない。このことは何を意味しているのか。西欧的には、善悪の対決ということがその思想生活の根本にあると言える。もっともこのことは、ギリシア的には少し趣を異にするところがある。が、これについてはいずれ詳しく触れる。キリスト教的である限りの西欧においては、その対決の姿勢が更に強いと言える。しかし、その対決に帰するところはどうかということになると、結局は無底に至ると言える。だが、これも循環していることになると、この循環があるということは、無底なのではないかという問題に突き当たる。これ以上深入りして論ずると哲学の問題となってしまうので、これくらいにしておく。今、当面の主題は悪である。悪があるということは、人間存在があるということと同義であるといえる。これがこれまで論じてきたことの結論である。これは別に「悪の薦め」のような意味において言われることではない。もしそうなれば、例の本願ぼこりになっていってしまう。そうではなく、抜きがたい人間の生き様を指摘したものにほかならない。それほど悪は根本的なのである。善よりも根本的である。

この前提から言うとき、「善と悪は同一である」というシェリングの考えの深さが、改めて思い浮かぶと共に、善悪それぞれのそれ自身なる存立を否定したヘーゲルやニーチェの思想の深さに思い至る。当為のもつ意味の重要性にも拘わらず、その当為自身が循環に陥らざるをえない自体を、否定することはできない。当為は、諸々のの循環にもかかわらず、なお且つそれを言わずにいわれない人間が、ここにいるということにおいて、意味を得てくる。だがしかもなお、当為は循環に巻き込まれる。ここに悪の問題の深さがあり、そこに人間の有り様がある。これまで、悪についてその根本問題を扱ってきた。これを、あるいは形而上学的であると、いう人々がいるかもしれない。だが、問題の重要性はそこにあるのではない。どのように評価されようとも、悪なしには人間を語ることは出来ない、ということのもっている根本的構造は、指摘されたと考える。結局は、現に人間がいる、私がいるということの、関わる問題なのである。

02 習俗

それでは、更にこの考察を深めていくために、まずは「習俗」について触れていきたいが、習俗とは何であろうか。もちろん、これは風俗習慣を縮めたものであるから、常識的には誰もが一応分かっていることである。これに当たる西欧語はethos, moraliaであろうが、これらはみな同じような意味に使われている。では、人間が習俗にいるとはどういう意味であろうか。ここでヘーゲルの言うことを聞いてみよう。それによれば、習俗にいるとき人間は、「他人の自由な自己意識のうちで自己自身を確信しており、まさにこの点に、自らの真実態をもっているような承認された自己意識」という形をとるとされている。ここで言われている「自由な」とか「自己意識」とかいう表現を近代的な意味で理解してはならない。この言葉をその意味から言えば次のようになる。他人が囚われることなく振る舞っているちょうどそこに、自分もいるというような状態、それが習俗にいるということである。言い換えれば、近代的な意味での自己(我)の独立性など全く意識されないところで、あたかも、おのずから振る舞っているかの如くである状態を言う。だから、そこには個人がいながらも、それは一人二人と数えることができるが、独立的な主体とは意識されていないことになる。そこに習俗があって、人々は抵抗なく、また抵抗すべきものを感じることもなく、自ずからのようにそれに従っていると言っていいだろう。エーリッヒ・フロムは「原初的文化の中にある原初的傾向の人は孤独感に悩まされず、かえって共通の世論によって支持される」と言っている。「ひとり」のいなかった状態とみることができるだろう。

だから、習俗というのは、独立な個人が集まって約束に基づいて生活の基準を作ったというような形にあるのではない。逆に、習俗にいる自分に気づくという形で、個人の自覚が、いわざ後から出てくることになる。だから、そこにいたのは、独立な個人ではない。気づいたときには、すでにそのなかにいたというような形で、そこに先んじてすでにあったものなのである。いつどこでそういう習俗がなりたったかを、誰も言うことはできない。そこは言ってみれば、おのずからなる規制があることになるけれども、それは規制、制約、強制としては感じられていない。何等かの形で誰かが意識的に規制を持ち込む場合には、すでに、その規制は習俗の意味を失っている。そのとき、おのずからなるべきともいうべき規制は、すでに力となっており、強制の形をとる。そうなったときには「他人の自由な自己意識のうちで自己自身を確信している」というような状態はすでに失われている。すでにそこには対立が生じている。人々の間で対立と言えば、当然そこに価値に違いに基づく争いが、生じていることを意味する。そのとき、当然のことながら、互いに相手は「悪」として扱われていることになる。

習俗にいることを、今このように言ったが、これははっきり言えば、もし完全な意味で習俗というちょうなものがったとすれば、そいうものであっただろうと言っているのである。ヘーゲル的な表現を使えば、それ自体的になのである。いわば、習俗を純粋形として取り出したままのことである。ということは、現にそのままの形の習俗があったということにならないことを意味する。だから、現にある習俗は、習俗が習俗として意識された形であるようなものと言わねばならない。そのとき習俗は、すでに何等かの強制力をもって人々に迫っており、したがって、そこには、この強制力に対し違和感を持ち、対抗しようとする人間がいるということになる。普通に人の世、世間、世の中などというとき、すでにそこにはそれを意識して、そこに何等かの違和感を持つ人間がいることを意味する。このことは、世間とか世の中と言うとき、それが安定していれば、習俗はそのまま生きているが、ひとたび、違和感がもたれるときには、すでに壊れ始めていたことを意味する。その意味では、習俗的世界があったのだと、気づかされることになる。世間はそれを意識されない限り、習俗として在ってもないかの如くであるが、一度在ると意識されるとき、既に対立を含んでいることになる。

そのとき違和感を感じる主体にとって、その強制力は悪とされる。が、強制する側からすれば、違和を感じて何等かの態度をとる主体は、やはり悪とされる。だから、強制に従うことは、強制する側からすれば、当然、善であるが、違和を感ずる側からすれば悪で在る。この意味で、世の中に違和感を持ち、何等かの行動に出るとき、それは悪とされる。強制する側に力がある限り、善が支配しているとされるが、逆になったときは、其の善は悪とされる。強制する主体の力が優位を保つ限り、この力は善だとされるが、ひとたび優位が崩れるとき、其の力は悪となる。これはいわば当然の成り行きである。そこに、習俗をわがものとする主体が、かつて、いたのだということが、今更のように意識されることになる。が、ひとたび、その習俗が力であると意識されたときには、既に習俗は崩れ始めている。このことを理論的に表現すれば、力が力とされるとき、すでにそれは否定を含んで自らあるということになる。力は否定において初めて力なのである。この力が権力という形をとるとき、すでにそれは否定を含んでそこにある。この否定が否定として、形をとるとき其の力は悪に転化する。権力は善として君臨する。が、その善はすでに権力があるから、其の始めにおいて対抗する否定を含んでいることになる。その否定がそれとして措定されることは、悪が善に転化しうることを意味する。

ということは、権力は自らの否定を意識することにおいて初めて、権力となるということを意味する。権力は何からの意味で、恐れを感じて、自らをあえて措定しようとするとき初めて、自己を意識する。権力は、いつでも、自らの否定におののくことにおいて、権力なのである。だから、権力の自己意識は、権力の否定(悪)に何等かの形で出会うことにおいて、自己の自立存在を改めて善として立てるということになる。権力は、自らを善なりとして、否定に対し、悪の札を貼り付ける。だが、そのときすでに権力は、其の否定におののきを感じている。強制の度合いは、このおののきの度合いに比例する。強制が極点に達するところは、それが崩れるときである。否定に対するおののきに出会って自己に帰り、自己の同一を確保しようとする。其の意味で、自己同一律を保とうとする主体は自ら善と名乗るが、そのことにおいて、すでに否定に出会っている。だから、善は善として確立されるとき、すでに悪において善であったのである。

習俗はそれとして意識されない限り、善悪無記である。習俗は自ら善なりと主張し始めるところ、そこでは、習俗であることをやめ、すでに悪に出会って、自らに帰っているのである。そのとき習俗は、習俗であることを失って、強制に転化し、同一律の主体となっている。こうして気づいたときは既に遅く、習俗は崩れ去っている。だが、その形で権力となった習俗は善の名において悪を行っていることになる。だから、権力によって悪とされたものも、権力と同等の場に立つことになる。そうなれば、もはや、善悪の争いは力の戦い以外のものではなくなっている。権力から悪とされたものも、力として権力に克つならば、善に転化しうる。こうして善悪は相互に崩壊せざるをえなくなくる。これが媒介なき場に於ける顛倒である。両極は媒介をもたないから、一方から他方へ傾倒するよりほかない。もしそこに媒介があるならば、調停はされるであろう。だが、この調停自身とても、また同じ道を歩いて行かねばならないことになる。だから、そのとき調停によって生まれたものは、習俗的世間ではありえない。以上の意味で言えば、人間は世において初めて人間であることになり、世が世として自覚されるところでは、悪はすでにそこにあるということになる。

悪について~仏教やヨガ、西洋哲学から考える(7)

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【監修者】宮川涼
プロフィール早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。

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