『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(13)

01 宇宙は繰り返し生まれるというヨガの思想

次の解脱のもう一つの問題についても触れておきたいと思います。それは、カイヴァリヤで達したとき、私たちは一体どうなってしまうのかという問題です。プルシャからプラクリティが切り離され、カイヴァリヤに到達した後、私たちはただ何もしないまま永遠に無にとどまり続けるだけなのでしょうか。この疑問について考える前に、宇宙の構造についてもう一度お話ししておかなければなりません。

他の記事でサーンキヤ哲学の宇宙の誕生について触れましたが、ヨガや仏教などの思想では、誕生した宇宙は長い時間をかけて今度は消滅してしまうと考えているのです。また、宇宙の誕生と消滅は周期的に繰り返されていて、宇宙は何度も生まれ変わりを繰り返すというのです。サーンキヤの観点でいえば、プルシャとプラクリティが結びつくことによって誕生した宇宙は、いずれ自然と切り離されて、世界が消滅するということになります。この宇宙が繰り返し生まれるという説は『ヨーガ・スートラ』には出てきませんが、「バガヴァッド・ギーター」の中で次のように述べられています。「アルジュナよ、ブラフマーの世界に至るまで、世界は繰り返し生まれ変わる。しかし、私に到達すれば再生は終わる。ブラフマーの昼は1000ユガ(1カルパ)で終わり、夜は1000ユガで終わる。それを知る人は昼夜を知っている人である。昼が来るとき、非顕現のプラクリティから万物が生じ、夜が来るとそれらは非顕現のプラクリティへと戻る。万物は繰り返し生まれ変わる。昼が来ると誕生し、夜が来ると消滅する」と。

非顕現のプラクリティとは、プルシャによって見られる前のプラクリティのことです。プラクリティは現れたり、消えたりするのです。これはちょうど、私たちの昼と夜のようなものです。つまり、夜熟睡しているとき世界は消滅していますが、朝目覚めると世界を認識し、1日の活動が始まるようにです。宇宙もまた同じように活動と睡眠を繰り返すのです。この周期をブラフマーの昼と夜、あるいはブラフマーの1日(1カルパ、仏教では劫)と呼びます。ブラフマーの昼は世界の顕現期、ブラフマーの夜は世界の消滅期です。この昼の長さは43億2000万年であると古いインドの経典で伝えられています。ですから、昼夜合わせて86億4000万年かけて世界は繰り返し生まれ変わっているのです。

02 宇宙の消滅と解脱をヨガから考える

宇宙が消滅するとき、プラクリティとプルシャの関係が切れ、プラクリティが元の潜在的な状態へと戻るのであれば、これはラージャ・ヨガによってカイヴァリヤに到達するプロセスと同じです。つまり、周期的な原理によってプルシャとプラクリティが離れるのか、ラージャ・ヨガなどの人為的な方法によってこの2つを切り離すのかという違いはありますが、たどり着く状態は同じなのです。ですから、私たちはラージャ・ヨガによって早く涅槃に達するのか、あるいは宇宙が消滅期に入ったときに涅槃に達するのかという違いはありますが、いずれ涅槃に入ることになるのです。したがって、解脱については「遅かれ早かれ皆が解脱する」という楽観的な見方をすることもできます。また、苦労割いてカイヴァリヤに達したとしても、次の周期にはまた目覚めて活動することになるのですから、それが永遠の至福とは言えない面があります。もちろん、次の周囲は何十億年も先のことですから、永遠と言っても構わないかもしれませんが。

03 宇宙には始まりも終わりも無いとヨガは考える

この宇宙に対する私たちの最も大きな誤解は、宇宙には始まりと終わりがあるという考え方です。確かに、現象的な面だけを見ると、人は生まれては死に、物事には始まりと終わりがあるように思えます。しかし、本質的には世界が無から始まるのは不合理なのです。無から何かが生じるとすれば、それは無ではないからです。このように考えれば、カイヴァリヤによって絶対的な無に到達するという考え方も不合理になってしまいます。絶対的な無があれば、当然世界が生じることもないからです。したがって、ビックバン理論のような、ある一点から宇宙が始まったとする説も理論的には大きな問題を抱えています。宇宙の始めの原因を想定できたとしても、その原因が生じるための原因もまた必要となり、パラドックスになってしまうからです。

ですから、ここで宇宙の誕生や消滅と言っている意味は、原理そのものがなくなるわけではなく、それらの結合と分離のことです。例えば、オンラインMTGをしたとき、画面を通して会話をしている間は両者の存在が意識されていますが、接続を切ると、その相手の存在が潜在的になるようにです。相手の姿を見ることはできませんが、それでもその人が世界から消えてしまう訳ではありません。また機会がくれば、パソコンの画面を通じて、会うことができます。宇宙の誕生と消滅もこのようなものです。プルシャに見られている間だけ宇宙の活動は現れ、プルシャが見えなくなると宇宙の活動は潜在的になるのです。この宇宙の潜在期がカイヴァリヤです。このように、私たちの宇宙は永遠に生まれ変わっているのです。

04 終わりに

それでが、これで『ヨーガ・スートラ』の主要な概念についての解説を終えようと思います。全ての詩節についてお話しすることはできませんでしたが、翻訳で『ヨーガ・スートラ』の本は數多く出ているので、ぜひ読んでみて下さい。また、『ヨーガ・スートラ』には多くの解説書も出ていますので、それらも読み比べ理解を深めていくといいでしょう。最後にまとめとして、本記事の内容をおさらいしておきましょう。

昨今の瞑想ブームで、一般の方でも瞑想に触れる機会が増えてきたようです。それ自体は良いことだと思いますが、座って目を閉じるというシンプルな動作の中には非常に多くの課題があります。雑誌で紹介されていたとか、ただ何となく勧められて瞑想を始めてみたという方は、おそらくすぐに挫折してしまうことでしょう。本記事でお伝えしたかったことの問題の1つは、この問題で、『ヨーガ・スートラ』が述べているような前提となる理論をよく理解し、充分に準備してからではないと本格的な瞑想はできないと考えるべきだからです。

もちろん、一般的に行われている瞑想を否定しているわけではありません、特に私たち現代人は考えすぎているので、日常的に瞑想のテクニックを使って余計な至高を手放していくことは大変有益だと思います。そうした実践的な方法については、また別記事で紹介致します。実際、10分程度の気楽な瞑想はリラックス効果も高井ので、日常の合間にいれ、仕事や家事や育児の疲れをリフレッシュするのに利用するのはお勧めです。しかしながら、本格的な瞑想に関しては注意しなければなりません。本格的な瞑想というのは、本記事で述べてきたような『ヨーガ・スートラ』で考えられているようなヨガにおける瞑想ということですが、このヨガに於ける瞑想というのは、何の準備もなしに取り組んでも良い結果は得られませんし、場合によって何かのVISIONに惑わされて逆に酷く心を乱されてしまう場合もあり得ます。この点については、本記事で何度か注意を促していますが、このような問題は私自身も経験したことでもありますし、また実際に瞑想に取り組もうとして逆に心を病んでしまったという方も知っています。『ヨーガ・スートラ』は、ヨガに於ける瞑想の地図のようなもので、その道のりや途中の段階、最終的な目的地を示しています。もし、このような地図を持たずにいきなりヨガの瞑想をはじめてしまうというのは、何の準備もなしにジャングルを探検しようとするようなものです。結局は、雑念の森に迷い込んでしまい、自分がどこへ行けば良いのか分からなくなってしまい途方に暮れてしまうことになってしまいます。また、仮に地図を持っていても、その読み方を誤ったり、ルートを間違えてしまったり、出口もないような地図にしてしまっていては意味がありません。その意味で、『ヨーガ・スートラ』は、ヨガにおける瞑想を深めていくための信頼できる最良の地図であるといえるでしょうし、その読み方も多くの解説書など参考になるでしょう。

瞑想に於ける神秘体験に対する欲望というのは、古くから度々注意されてきたのにも関わらず、現在でも全くなくなっていない問題でもあります。本記事でも少し触れたオウム真理教が、宗教の道徳性を逸脱してしまった背景には、この神秘体験に対する欲望や願望があったとよくいわれています。つまり、強烈な神秘体験をした人の方が悟りにより近いという誤った認識や、そういった体験のあるなしで、序列をつけたりすることによって、他人よりも強烈な瞑想体験をしたいという欲望を煽ったり、より厳しい修行をした者が優れているという自己顕示欲によって本来のヨガの道を外れてしまったと言えると思います。カルト宗教などでは、そういった欲望に突き動かされて様々な神秘体験を求めた結果、その過程で色々な意味での犠牲者が発生します。こういった点も含めて、いわゆる「神秘体験」と「悟り」というのは全く関係が無いものであるということを改めて強調しておきたいと思います。『ヨーガ・スートラ』では、その人が悟るためには、これまで自分で作り出したサンスカーラをできるだけなくしていくべきだと教えています。それは、ひとり一人が自分の心を真摯に向き合って解決しなければならない問題だということです。ですから、それは神秘体験によって得られたり、帳消しにされたりするものでもなく、教祖がイニシエーション(通過儀礼)やエネルギーのようなものを与えて解決するものでもありません。あなたが自分の心を理解し、捕らえ、統制すること、これが最もヨガにおいては大切なことなのです。

ヨガには、今回ご紹介したラージャ・ヨガだけではなく、様々なものがあります、本記事の中でもたびたび引用し、別記事でも紹介している『バガヴァッド・ギーター』には、カルマ・ヨガ(物事を平等に見て行為の結果に執着しないヨガ)やバクティ・ヨガ(神を信愛するヨガ)、ジュニャーナ・ヨガ(アートマンやブラフマンの認識によって苦しみから解放される智惠のヨガ)などたくさんのヨガが述べられています。

簡単に紹介しておくと、カルマ・ヨガの「カルマ」とは「行為」や「行動」を意味するサンスクリット語で、このヨガの実践は行為に重点を置いています。このヨガの中心的な教えは、自分の行為の結果に執着しないことです。カルマ・ヨガでは、全ての行為は無私無欲でなければならず、結果に対する個人的な欲望を手放すことが求められます。具体的な実践方法としては、「ニシュカーマ・カルマ(無欲行為)」、行為を行う際、その結果に対する欲望を持たず、ただ行為自体に集中することや「セヴァ(奉仕)」、他者への奉仕を通じて、自己中心的な欲望を超越する、そして、「自己犠牲」、個人的な利益を超えて、大きな目的や社会のために尽くすことです。カルマ・ヨガの実践を通じて、自我や個人的な欲望から解放され、内面の平和や満足感を得ることができます。また、他者への奉仕はコミュニティの絆を強化し、社会的調和に貢献します。

次に、バクティ・ヨガは、神への愛と献身を中心としたヨガの道です。バクティとは「献身」や「信愛」を意味し、このヨガは心からの神への愛と信仰に焦点を当てています。具体的な実践方法としては、「神への愛」、心からの祈り、賛歌、礼拝を通じて神への愛を表現する、「儀式と祭り」、神々を讃えるための儀式や祭りに参加し、コミュニティとの絆を深める、「自己降伏」、神の意志に自己を委ね、自我を超越する。バクティ・ヨガを実践することで、心の平安と精神的な満足感を得ることができます。また、神への深い愛と献身は、日常生活においてもポジティブな変化をもたらし、他者への愛と慈悲を深めます。

ジュニャーナ・ヨガは、内面の知恵と洞察を通じて、アートマン(真我)やブラフマン(宇宙の根源的真理)の認識を目指すヨガの道です。ジュニャーナとは「知識」や「智恵」を意味します。具体的な実践方法としては、「瞑想」、深い瞑想を通じて、内面の真実に到達する、「哲学的研究」、古典的なテキストの研究を通じて、宇宙の真理を理解する、「自己探求」、自己の本質と宇宙の真理についての深い思索をすることなどです。ジュニャーナ・ヨガは、深い自己認識と宇宙の理解をもたらし、心の苦悩からの解放へと導きます。また、この実践は、日常生活においてもより意識的で洞察に満ちた生き方を促します。

これらについての詳細な解説は、また別に記事で紹介したいと思いますが、こうしたヨガにおいて、一つの共通した立場は、私たちの幸福は外的な探究ではなく、内的な探究によって実現されるという点です。つまり、私たちの本質であるアートマンが既に至福であるので、自分自身の内側、内的な幸福に安住すべきだということです。外的な幸福を求めても、それは三つの苦の原因、(1)万物は変化し続けること(2)心は相対的に苦楽の原因となるサンスカーラを生むこと(3)トリグナは互いに対立すること、によって実現は不可能だからです。もちろん、ここまでお読みになられた読者のヨガを愛好する皆様には十分ご理解されていることでしょう。ですから、自分の外側に幸福を求めないようにしたいものです。

例えば、あなたに大切なペットがいて、とても可愛がっていたとしても、その愛らしい姿はいずれ死によって好ましくない姿に変容してしまいます。このようなとき「無情にも私の幸福が奪い去られた」と嘆くべきでしょうか。そうではなく「私の心がその子に愛着を持っていたので、相対的に現在の苦しみが生じたのだ。生あるものに死は避けがたい。このように苦楽が生じるのは心の原理なのだ」と捉えるべきとヨガの思想では考えるのです。あなたがそのペットに執着していた分だけ、あなたの苦しみは深くなるでしょう。もちろん、「このような苦しみを避けるためにペットを飼わない方が良い」ということではありませんし、「ペットに対する愛情を捨てて非情になれ」というわけでもありません。ですが、少なくともその幸福感はいずれ失われるものだと覚悟しておかなければなりません。そのような心の準備というのは、喩えるならば不意に起きる災害に対する備えのようなものです。日頃から用心している人であれば、「ここには避難用具が置いてあって、このルートを通って避難すればいい」と落ち着いて行動することができます。しかし、不用心な人は慌てふためき、恐怖に駆られて冷静な判断を失ってしまいます。このようにいずれ失われるものに対して用心して、自分の幸福を完全に委ねないようにするべきです。

私たちの幸福に対する理解は、人生の中で最も重要な智惠の一つです。ドイツの厭世的な哲学者としても名高いショーペンハウアーも『幸福について』という書物で「外部事象や外的状況が同じでも、受ける刺激は人によって全く異なるし、同じ環境でも、人によってそれぞれ異なる世界を生きている。というのも、人が直接的に関わり合うのは、みずからが抱く観念や感情や意志活動だけであって、外的な事柄は、そうした観念や感情や意志活動のきっかけをつくることで、その人に影響を及ぼすにすぎないからである。ひとりひとりが生きる世界は、何よりもまず、その人が世界をどう把握しているかに左右され、それ故、頭脳の相違に応じたものとなる。頭脳次第で、世界は貧弱で味気なくつまらぬものになれば、豊かで興味深く意義深いものにもなる。たとえば、多くの人々は、他人の身に怒った面白い出来事ゆえに他人をうらやむが、むしろ、描き出すことでその出来事に意義深さを与えた、その把握の才ゆえにうらやむべきであろう。」と語っています。幸福というのは、自分が何者なのか、つまり各人の個性に左右されるものであり、「換言すれば、その人がどんなものを所有しようとも、他人の目にどう映ろうとも、そうしたすべてよりも、あきらかに彼にとってはるかに重要なのは、『彼自身にとって彼は何者なのか』ということなのだ」とショーペンハウアーは語っています。また、イギリスの哲学者であり、数学者でもあったバートランド・ラッセルも『幸福論』において「幸福な人間とは、客観的に生きる人である、自由な愛情と広やかな興味を持てる人である」と述べています。ヨガ思想だけではなく、西洋の思想家たちも「自分の外側に幸せ」をみつけるようなことはできえないし、そうすべきではないと諭しているわけです。

実際、あなたがもし本当に大切にしている物があれば、それをどこか遠くに置いてきたり、他人に預けたりはしないと思います。自分の手元において大切に保管しておくでしょう。人生において幸福は最も大切だと考えるのに、それをどこか他の場所や他人に預けてはなりません。「お金があれば私は幸福である」とか「あの人がいれば私は幸せです」というなら、あなたはそれを別の場所に置いていたり、他者に委ねているということになります。そのような不用心なことで、一体いつあなたに心の平安が訪れるというのでしょうか。ですから、それを取り戻して自分の元に置いておく、それがヨガの実践なのです。今回お話ししたラージャ・ヨガについて、もし人生の苦しみからこのような方法論に興味を持たれたならば、一度ご自分のサンスカーラの影響をよく観察してみると良いでしょう。あなたが今苦しいのであれば、過去に強い快感を得ているか、過度の願望を持っているのか、あるいは他人をひどく否定していたのかのいずれかです。ですから、まずはその苦しみの原因は自分にあると思って、自分の心を良く観察してみなければなりません。

例えば、あなたが孤独で苦しんでいるとすれば、それはあなた自身が過去に家族や恋人と作った幸福な思い出によるか、あるいは他の家族や恋人たちとの幸せそうな様子を見て強い願望を持っているからです。そのような快感や願望によって心は相対的に苦しみを生み出しています。問題なのは、世界に孤独という苦しみがあると勘違いしてしまうことです。世界に孤独という苦しみは存在しません。孤独が苦しみになるかどうかは心の相対性に寄ります。ですから、苦しみはあなたの心の中にしかないということをまず理解して、問題を解決するべきです。もう一つの注意点は他人に対する否定や批判です。あなたが自分の置かれている状況や他人からの言葉にひどく傷ついたり苦しんでいたりするとすれば、それは自分自身が他人に対して向けていた眼差しに他ならないからです。本来、他人があなたが傷つけるということはありません。しかし、私たちいつも自分の外側で問題が起きていると思い込んでいしまうのです。そうではなく、問題なのは、いつも自分の心の中だけで生じているのです。このことに気づくことが大切です。以上のような問題は、アヴィサーヤやヴァイラーギャ、または八支即のヤマ、ニヤマに取り組むことである程度解消されるでしょう。そして、今だけを考えるのではなく、永遠の中で瞑想してみると良いでしょう。私は永遠に存在すると考えて、心の相対性について深く観察するのです。今、生じている苦しみは過去の快感や願望によるものですし、今生じている快感や喜びは未来の苦しみになると思って用心すべきです。このような取り組みによって、心が二元性に惑わされなくなるなら、心は平安へ導かれるでしょう。

一般的にヨガといえば、このラージャ・ヨガが引用されることが多いようですが、この行法自体はヨガの中でいえば最も困難なものの一つです。結局、これは出家者の理論であって、私たちのような一般大衆に向けて説かれたものではないからです。もちろん、これを社会的な利益のために色々と解釈することはできます。しかし、それでも『ヨーガ・スートラ』がこの世から離れる解脱という問題を扱っている以上、「みんなでラージャ・ヨガをしましょう」という趣きのものではないということは理解しておくべきです。ですから、私としてはサマーディを目指して、ラージャ・ヨガを実践するというよりは、これを心の苦しみを取り除く心理学として応用して頂く事、あるいはヴァイラーギャによって執着を手放すことをまずはお勧めしたいと思います。また、イーシュヴァラ・プラニダーナによって信仰心を深めることも重要な取り組みの一つです。

鎌倉時代の僧侶で浄土真宗を広めた親鸞は、仏教を自力聖道と他力浄土門に大きく分け、自力の道は難行であり、他力の道は易行であると説きました。難行と難しい方法、易行とは、簡単な方法という意味です。親鸞の教えは、法然が始めた専修念仏(せんじゅねんぶつ)の浄土門の教えをもっと庶民的に一般人に向けて押し広げようとしました。

難しい仏教の経文や解釈を勉強し、困難で厳しい修行の末に、ようやく悟りをひらいて、覚者、ブッダ、如来の存在する浄土へ行くことを「往生」といい、そうした境地に達することを目指して修行することを菩薩行といいます。しかし、一部の極めて学問熱心な僧侶や荒行にも耐えうる克己心を持った修行僧にしかそうした往生が可能でないとしたら、一般庶民としての「凡夫(普通の人)」には往生は絶対的に無理ということになります。浄土門の教えは、『浄土三部経』(「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」)にも書かれているもので、阿弥陀如来がまだ菩薩行の修業時代に自分自身が悟りを開いたブッダになるための願い「本願」として「ありとあらゆる人々(衆生)が、本当の悟りを開いて、真実の往生を遂げるまでは、私もブッダ=覚者=如来になることはない」と誓った言葉に絶対的に帰依することで、学問や修業や戒律を守るといった普通の人にとって実行するには難しい方法ではなく、易しい方法、つまり易行として「南無阿弥陀仏」(当時は、「ナモワアミダブチ」と発音しましたが、現在は「ナムアミダブツ」と発音します)と「阿弥陀如来に帰依します」ということだけを唱えれば良いという考えました。

親鸞の教えは、法然のこのただひたすら「南無阿弥陀仏」と称名すれば良いという浄土宗の教えから更に先に進み、すべて自分の力で行う修行や持戒(戒律を守ること)を否定して、完全な「他力(反対語は「自力」)、すなわち一心に「阿弥陀如来」の救いを願うことだけに専念するもので、善行を積むとか、悪行を行わないといった一般的な道徳や倫理からも超越したものを考えました。親鸞の教えは弟子の唯円によって『歎異抄』として伝えられています。そこには「アミダはんの誓いの不思議な力に助けてもろうて、極楽往生は、こりゃあ、間違いなしと信じて、『ナンマンダブ、ナンマンダブ』と、よう、となえようと思う心が起こったときには、もうすでにお助けにあずかり、アミダはんにお引き受けいただき、捨てられまへんというご利益にあずかっとるんや。アミダはんの本願には、年寄りやの、若いやの、善い奴やの、悪い奴やの、一切合切の違いなど無うて、ただ信心だけが、肝心なんや。なんせ、どうしょうもなく悪い奴、罪深うてしょうもない奴らを助けてやろうちゅう願かけなにゃからなああ。そやから、アミダはんを信じとれば、ほかに善えことを無理にしょうなんてこともいらへんのや」(川村湊訳)と考えました。つまり、自分の力で心を浄化し、瞑想によって悟りを開く自力聖道門は大変難しく一般人にはとても叶わないので、私たちは阿弥陀如来に救いを求める他力浄土門を行うべきだと教えたのです。

こうした観点からいえば、ラージャ・ヨガは、自力の道で、イーシュヴァラ・プラニダーナは他力の道です。瞑想によって悟りを開くというラージャ・ヨガのような方法論は、古くから難行として考えられていたという点は承知しておくべきでしょう。こういった意味で、ラージャ・ヨガの最終的な境地であるカイヴァリヤは、多くの方が望むにはかなり高い山の頂上にあります。上を見上げればその高さに臆することになりますが、それでもその山を少しずつ登り始め、しばらく振り返ってみれば景色は一変していることでしょう。それまで自分が暮らしていた町は遙か下にあり、高いところから見下ろすように、あなたはその雑踏を静かに眺めることができるようになっているはずです。

さて、これであなたも一通り『ヨーガ・スートラ』について大枠を理解出来たはずです。これから先は、実際に『ヨーガ・スートラ』の原典を一緒に精読していきましょう。

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(14)

【目次】

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(1)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(2)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(3)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(4)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(5)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(6)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(7)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(8)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(9)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(10)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(11)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(12)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(13)

バガヴァッド・ギーターの教え(ヨガの古典の経典を通してヨガを学ぶ)

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【監修者】宮川涼
プロフィール早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。

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