バガヴァッド・ギーターの教え(ヨガの古典の経典を通してヨガを学ぶ)(6)

01 『バガヴァッド・ギーター』の教えから学ぶヨガ

続けましょう。「このように多様な祭祀が、ブラフマンの口において繰り広げられている。以上、すべては行為から生ずるものであるとしれ。そう知れば、あなたは解脱するであろう」。ここでもクリシュナは、すべての行為をブラフマンに捧げる祭祀として行うべきであるという趣旨が確認される。続いて、知識の重要性が説かれる。

「知識の祭祀は財物よりなる祭祀よりも優れている。アルジュナよ。すべての行為は残らず知識において完結する」。「知識の祭祀」とは、絶対者に関する知識に専念する行為である。人は知識により、万物を残らず、アートマンのうちに、またクリシュナのうちに見る。

いかなる極悪人でも、知識により罪を免れる。燃火が薪を灰にするように、知識の火は、すべての行為を灰にする。行為のヨガにより成就した人は、やがて自ら、自己のうちに知識を見いだす。知識を得て、速やかに最高の寂静に達する。「行為のヨガにより行為を放擲し、知識により疑惑を絶ち、自己を制御した人を、諸行為は束縛しない」、ここで行為を放擲することは、行為自体を放棄することではない。行為の結果を絶対者に委ねることである。それは以下で次第に明らかにされる。

「行為の放擲」と「行為のヨガ」のうち、どちらが優れているのかというアルジュナの問いに対し、クリシュナは「行為の放擲」と「行為のヨガ」とは共に至福をもたらすが、そのうちで、「行為のヨガ」の方が優れていると答える。アルジュナはまだ一般の説に従い、放擲を行為の放棄ととっている。クリシュナ彼の理解に合わせて、一応放擲を通常の意味で用いている。しかし、クリシュナの説く、放擲は一般のものと異なることとを次第に明らかにする。

02 『バガヴァッド・ギーター』の教えから学ぶヨガ(2)

「憎むことなく、期待することない人は、常に放擲した者と知られるべきである。実に相対を離れた人は、容易に束縛から解放される。放擲は、一般には「遠離者」「遁世者」の意味であるが、クリシュナによれば、相対を離れた人はすべて放擲であるという。そして、放擲は「行為のヨガ」なしでは実現しないとする。

「しかし、行為の放擲は、行為のヨガなしでは、達成され難い。行為のヨガに専心した。聖者は遠からずブラフマンに達する。行為のヨガに専心し、アートマンを清め、自己を制御し、感官を制し、その自己が万物の自己となった者は、行為をしても汚されない」とあります。「行為のヨガ」に専心した真理を知るものは、ありとあらゆる行為をしても、「私は何も行為をしない」と考えます。

「諸行為をブラフマンに委ね、執着を捨てて行為する人々は、罪悪により汚されない。蓮の葉が水に汚されないように。身体により、心により、知性により、また単に諸感官のみにより、ヨギー(ヨガの実践者たち)たちは行為をなす。アートマンを清めるため、執着を捨て。行為のヨガに専心した者は、行為の結果を捨て、窮極の寂静に達する。専心しない者は、欲望のままに、結果に執着して束縛される」

03 『バガヴァッド・ギーター』の教えから学ぶヨガ(3)

ここに至って、クリシュナの説く放擲の意味がかなり明瞭となる。諸行為をブラフマンに対する捧げ物として行うことが放擲である。行為の結果(果報)を行為の本源であるブラフマンに返し、行為者は純粋に行為のみに専心すること、それが行為のヨガの完成である。すべての行為を心により放擲して、主体(デーヒン)は身体のうちに安らかに住する。知識により迷える人々の無知が滅せられた時、彼らの知識は太陽のように、かの最高の存在(ブラフマン)を照らし出す。それに専念する人々は、知識により罪障を滅し、解脱する。賢者はいかなるものに対しても、平等(同一)のものと見る。

「心が平等の境地に止まった人々は、まさにこの世で生存(輪廻)を征服している。というのはブラフマンは欠陥がなく、平等である。それ故、彼らはブラフマンに止まっている。」知性が確立し、迷妄なく、ブラフマンを知り、ブラフマンに止まる人は、好ましいものを得ても喜ばず、好ましく思わないものを得ても嫌悪しない。」

ここいおいて、平等の境地と定義されたヨガは、ブラフマンと合一した境地であることが知られる。そして、放擲により実現する。そこで、次に入ると、クリシュナは更に放擲の意味を明確にする。「行為の結果にこだわらず、なすべき行為をする人は、放擲者であり、ヨギーである。単に祭火を設けず、行為をしない者はそうではない。」彼によれば、社会的・宗教的な義務を放棄した人は真の放擲者ではない。彼は放擲がすなわち、ヨガであると説く。「放擲と言われるもの、それをヨガと知れ。アルジュナよ。というのは、意図(欲望)を放擲しないヨギーは誰もいないから」。ヨガは平等の境地で在り、ブラフマンとの合一であるが、その境地に帰結する放擲もヨガと呼ばれうるのである。

ヨガを登ろうとする聖者(ムニ)にとって、行為が手段であり、ヨガに登った人にとって、寂静は手段であるとされる。ヨガに登った人とは、感官の対象と行為とに執着せず、すべての意図を放擲した人である。さらにいえば、放擲により「行為の超越」を成就した人であり、ブラフマンとの合一のために寂滅を手段とした人である。寂滅した人の最高のアートマンは、寒暑や苦楽、毀誉褒貶においても、統一された状態に止まる。理論知と実践知により自己が充足し、揺るぎなく、感官を克服し、土塊や石や黄金を平等に見るヨギーは専心した者と呼ばれる。彼はあらゆるものを平等に見る。

以下では、ヨギーの心得が述べられている。これは、すでに放擲を成就した。「ヨガに登った人」のための心得である。放擲により「行為の超越」を成就した人がブラフマンと合一するために行う実習に対応する。そのようなヨギーが絶対の境地に達するためには、瞑想して最高神に専念すべきである。

「自己を静め。恐怖を離れ、梵行(禁欲)の誓いを守り、意を制御して、私に心を向け、私に専念し、専心して坐するべきである。このように常に専心し、意を制御したヨギーは、涅槃をその極致とする。私に依拠する寂静に達する」

「専心し」と訳した言語は「自己を結びつけ」という意味である。ラーマーヌジャも説くように、最高ブラフマン、至高のプルシャであるクリシュナに、アートマンを結びつけることであると考えられる。心が制御され、アートマンにおいてのみ安住する時、ヨギーは欲望から離れ、「専心した者」と呼ばれる。

「そこにおいて、心はヨガの実修により抑制されて静まり、人は自ら自己のうちにアートマンを見て満足し、そこにおいて感官を超えた、知性により認識されるべき窮極の幸福は人は知り、そこに止まって、真理を逸脱することなく、それを得れば、他の利益を劣るものと考え、そこに止まれば、大きな苦しみによっても動揺させられることがない。そのような苦との結合から離れることが、ヨガと呼ばれるものであると知れ。このヨガをひるむことなく決然と修めよ。」ここで、苦との結合から離れることと定義されたヨガがブラフマンとの合一であり、平等の境地であることは、以下の文からも明らかである。

「実に、意が静まり、ラジャス(劇質)が静まり、ブラフマンと一体化した罪障のないヨギーに最高の幸福が訪れる。このように常に専心し、罪障を離れたヨギーは容易にブラフマンとの結合という窮極の幸福を得る。ヨガに専心し、一切を平等に見る人は、自己を万物に存すると認め、また万物を自己のうちに見る。私を一切のうちに認め、一切を私のうちに見る人にとって、私は失われることなく、また、私にとって、彼は失われることがない。一体観に立って、万物に存する私を信愛する者、そのヨギーは、いかなる状態にあろうとも、私のうちにある。自己との類比により、幸福にせよ不幸にせよ、それを一切の生類において等しいとみる人、彼は最高のヨギー(ヨガをする人)であると考えられる。」

アルジュナはクリシュナに「あなたはヨガが平等の境地であると説いたが、私は意が同様するから、その不動の境地を見いだせない。」と告げる。クリシュナはそれに対し、「意は動揺するが、常修から離欲とによって把捉されると説く。」。『バガヴァッド・ギーター』において、常修とは、絶対者に絶えず専念することである。クリシュナは、最高のヨギー(ヨガをする人)について説く。

「すべてのヨギーのうちでも、私に心を向け、信仰を抱き、私を信愛する者は、最高に専心した者であると私は考える」

「行為のヨガ」の実践者のうちでも、クリシュナに専念するものは専心した者と呼ばれる。「行為のヨガ」の完成には、クリシュナに対する信愛が必要とされる。「アルジュナよ。私に意を結びつけ、私に帰依してヨガを修めれば、あなたは疑いもなく完全に私を知るであろう。それにはどうすればよいか。聞きなさい。」

それからクリシュナは、彼を「完全に知る」ために必要な理論知と実践知を説く。クリシュナは物質的原理と精神的原理を併せもっている、前者は、地、水、火、風、虚空、意(マナス、思考器官)、思惟機能と自我機能よりなる定次のプラクリティであり、後者は、生命である高次のプラクリティである。サーンキヤ学派の立てる二大原理にあてはめると、前者は「プラクリティ」(根本原質)に、後者は「プルシャ(純粋精神)」に対応する。しかし、『バガヴァッド・ギーター』の場合は、最高のプルシャであるクリシュナを宇宙そのものとみなし、それは物質的な性格の低次のプラクリティと、純粋に精神的な高次のプラクリティからなると考えるようである。万物はクリシュナのプラクリティに由来する。彼は全世界の本源であり、全世界に彼は繋がれている。クリシュナを信愛する人々のうちでも知識ある人が最も優れている。

「彼のうち、常に私に専心し、ひたむきな信愛を抱く、知識ある人が優れている。知識ある人にとって私はこの上なく美しく、私にとって彼は愛しいから。知識ある人は、まさに私と一心同体であると考えられる。というのは、彼は専心し、至高の帰趨である私に依拠しているから。幾多の生の最後に、知識ある人は、ヴァースデーヴァはすべてであると考え、私に帰依する。」

ここで「知識ある人」とはクリシュナにひたむきな信愛を抱く人である。真の知識は最高のバクティに結びつく。無知な人々は、ヨガのマーヤー(幻力)に覆われたクリシュナの本性を知らない。クリシュナのヨガとは、高次のプラクリティを低次のプラクリティに結びつけることである。その結果、マーヤーが発動して、この現象界が出現する。万物は創造の時に既に迷妄に陥っている。しかし、善行の人々の罪悪が尽きる時、彼らは相対観の迷妄を脱し、強固な信念をもってクリシュナを信愛する。解脱を求め、クリシュナに帰依して努力する人々は、ブラフマンを知り、真にクリシュナを知る。

臨終の時、クリシュナのみを念じる人は、クリシュナの状態に達する。あらゆる時にクリシュナえを念じ、意と知性を委ねれば、まさにクリシュナに至ることができる。「常修のヨガに専心し、他に向かわぬ心に念じつつ、人は神聖なる最高のプルシャに達する」。「常修のヨガ」とは、最高神に絶えず専念することである。

「常に心を他に向けることなく、絶えず私を念ずる者、その常に(私に)専心したヨギーにとって、私は容易に到達される」

最高のプルシャであるクリシュナに到達すれば、もはや再生することはない。万物は非顕現のもの(根本原質、低次のプラクリティ)から生じ、再び帰入する。しかし、その非顕現のものよりも高い、別の永遠なる非顕現の存在(最高のプルシャ)がある。それは不滅、最高の帰趨といわれ、クリシュナの最高の住処である。その最高のプルシャは、ひたむきな信愛により得られる。万物はその中にあり、全世界はそれにより遍く満たされている。

04 『バガヴァッド・ギーター』の教えから学ぶヨガ(4)

続いて、クリシュナは、更に理論知と実践知を説く。最高のプルシャであるクリシュナの本性についての知識であり、放擲は、それに基づいてクリシュナをひたすら信愛することであると思われる。クリシュナは自らに属するプラクリティより、万物を繰り返し出現させる。しかし、それらの行為は彼を束縛せず、彼はそれらの行為に執着しない。迷える人々は、クリシュナを信じないが、偉大な人々は彼を不変なる万物の本初であると知って、一心に信愛する。

「彼らは常に私を賛美し、強固な信念をもって努力し、信愛によって私を礼拝し、常に専心して私を念想する。また他の人々は、知識の祭祀で供養して私を念想する。ひたすら私を思い、念想する人々、彼ら常に私に専心する人々に私は安寧をもたらす。」

他の神格を信仰し、その神に祭祀を捧げる信者たちは、実はクリシュナに祭祀を捧げることになる。というのは、クリシュナはすべての祭祀の享受者であり、主催者であるから、しかし、彼らは真にクリシュナを知らないので、輪廻を続ける。クリシュナに祭祀を捧げる人々のみが彼に達する。

「人が信愛を込めて私に葉、花、果実、水を供えるなら、その敬虔な人から、信愛をもって捧げられたものを私は受ける。あなたが行うこと、食べるもの、供えるもの、与えるもの、苦行すること、それを私への捧げものとせよ。かくてあなたは、善悪の果報をもたらす行為(業)の束縛から解放されるであろう。放擲のヨガに専心し、解脱して私に至るであろう。」

ここでも放擲というヨガが、ありとあらゆる行為を絶対者(最高神)に捧げる祭祀として行うことである、ということがよくわかる。前述の「祭祀のための行為」とは放擲に他ならないのである。そして、祭祀の残りものを食べることとは、すべての行為を絶対者に捧げ、行為の結果(果報)を顧みず、ひたすら無償の行為を行うことである、ということが理解される。

クリシュナは万物に対して平等である。しかし、信愛をこめて彼を愛する人々は、彼のうちにあり、彼もまた彼らのうちにある。「たとい極悪人であっても、ひたすら私を信愛するならば、彼はまさしく善人であるとみなされるべきである。彼は正しく決意した人であるから。速やかに彼は敬虔な人となり、永遠の寂静に達する。アルジュナよ、確信せよ。私の信者は滅びることがない」

クリシュナに帰依すれば、いかなる者でも最高の帰趨に達する。「この無常で不幸な世に生まれたから、私のみを信愛せよ」「私に意を向け、私を信愛せよ。私を供養し、私を礼拝せよ。このように私に専念し、私に専心すれば、あなたはまさに私に至るであろう。」この世に生まれたからには、人は定められた行為に専心すべきである。ただし、行為に執着したり、その結果を期待したりすれば、行為に束縛される。そこで行為の放擲が必要になる、そして、放擲を実現するには、最高神についての知識と彼に対するひたむきな信愛が不可欠である。「放擲のヨガ」は「行為のヨガ」「知識のヨガ」「信愛のヨガ」すべてに関わるのである。

クリシュナが不生で無始であり、世界の偉大な主であると知る人は、すべて罪悪から解放される。クリシュナの示現ー多様な現れーと、彼のヨガとを如実に知る人は、揺らぎ無きヨガと結ばれる。クリシュナが一切の本源であると知る人は、愛情を込めて彼を信愛する。

「常に専心し、喜びをもって私を信愛する彼らに、私はかの知性のヨガを授ける。それにより、彼らが私に至るところの」

ここで、「知性のヨガ」は信愛と関係あることが再確認される。クリシュナはそのような人々への憐愍のために、個物の心に宿り、輝く知識の灯火により、無知から生ずる闇を滅ぼす。クリシュナはアルジュナの要請に応え、自己の示現の主要なものについて語る。いかなるものでも権威、栄光が在り、精力あるものは、クリシュナの威光の一部から生じたものである。アルジュナはクリシュナに、神としての姿を見たいと望む。クリシュナは彼に天眼を授けて、彼自身の「神のヨガ(yoga aisvara)により自己の姿を示す。それはあらゆる方角に顔を向けた、無限なる神の姿である。アルジュナは、最高神の身体において、全世界が一堂に会し、また多様に分かれているのを見る。カウラヴァとパーンダヴァの勇士たちは、次々と、恐ろしい形相を示したクリシュナの口に入り、滅亡する。クリシュナが現れたのは、世界を帰滅させる強大なカーラとしての姿である。アルジュナが敵を殺さないでも、敵の戦士たちは必ずや死ぬ運命にあるという。

「それ故、立ち上がれ。彼らはまさに私によって、前もって殺されていたのだ。あなたは単なる機会となれ。戦え、戦闘においてあなたは対抗者たちに勝利するであろう。」

アルジュナはクリシュナが最高神であることを確認し、許しを請い、喜ぶとともに恐怖する。彼の要請により、クリシュナはもとの調和な姿に戻る。ここで注意すべきあ、ここに示されたクリシュナの恐るべき相は、決して最高神そのものの姿ではなく、神のヨガによって現じられた姿であるということである。クリシュナの現じた姿は、非常に見られがたいものである。

「しかし、ひたむきな信愛により、このような私を真に知り、見て、私に入ることができる。私のための行為をし、私に専念し、私を信愛し、執着を離れ、すべてのものに対して敵意ない人は、まさに私に至る」

真の知識は、信愛により実現することがわかる。「私のための行為」とは、クリシュナを念想することであると、次から明らかになる。クリシュナに意を注ぎ、常に専心して、念想する。最高の信仰を抱いた人々は、最高に専心した者であるとされる。非顕現なものーアートマンまたはブラフマンーを念想する人々、感官の群を制御して、一切に対して平等に考え、万物の幸福を喜ぶ人々も、まさにクリシュナに達することができる。しかし、非顕現なものに専念した人々の労苦は多大である。

「一方、すべての行為を私のうちに放擲し、私に専念して、ひたむきなヨガによって私を瞑想し、念想する人々、それら私に心を注ぐ人々にとって、私は遠からず生死流転の海から彼らを救済する者となる。アートマン、またはブラフマンを知的に念想する人も平等の境地(ヨガ)を実現し、ブラフマンと合一する。それは、すなわち、クリシュナと一体化することに他ならない。しかし、一般の人々にとって、それは難行である。それに対し、ひたすらクリシュナを信仰する人は、遠からざるして輪廻から救済される。「ひたむきなヨガ」は、「知性のヨガ」に置き換えられる。ここで注目すべきなのは、一連の信仰行為が次のように個別に論じられる。

「私のみに意(こころ)を置け、私に知性を集中せよ。その後、あなたはまさに私の中に住むであろう」

こっれは「ひたむきなヨガ、すなわち知性のヨガ」によって私を瞑想に対応し、知性のヨガは、クリシュナに知性を集中させることであると理解される。

「もしあなたが心を堅く私に集中することができないなら、常修のヨガによって私に達することを望め」

「常修のヨガ」は最高神に専念することであるから、私に専念し、に対応する。

「もし常修にも能力を欠くなら、私のための行為に専念せよ。私のために行為をしても、あなたは成就に達するであろう」

「私のための行為に専念する」は「念想」に対応します。

「もしもそれもできないなら、私へのヨガに依存して、自己を統御して、すべての行為の結果を捨てよ」

「私のヨガ」は「放擲のヨガ」を意味し、「すべての行為を私の内に放擲し」に対応します。クリシュナは、行為の結果の捨離は解脱に直結することを説くわけです。そして、「実に、知識は常修より優れ、瞑想は知識よし優れ、行為の結果の捨離は瞑想より優れている。捨離により直ちに寂静がある」のです。

ここで、瞑想は「ひたむきなヨガ」、すなわち「知性のヨガ」に対応し、捨離は「放擲のヨガ」に対応します。かくして、クリシュナに専念することよりもクリシュナを知的に念想することが優れ、クリシュナに知性を集中することが更に優れ、行為の結果を捨てることがもっとも優れていることになります。ここにおいて、クリシュナが放擲のヨガを寂静に直結するものとしてもっとも重視すること、それが『バガヴァッド・ギーター』全体の主題であることが明瞭に説かれています。

バガヴァッド・ギーターの教え(ヨガの古典の経典を通してヨガを学ぶ)(7)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(1)

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【監修者】宮川涼
プロフィール早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。

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