『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(16)

01 ヨガで学ぶ心の働き

さて、続く「ピパリャヤ」についてはこう書かれています。

viparyayo mithyajnanamatadrupapratististham ヴィパリャヨー ミティヤージュニャーナマタッドルーパプラティシュタム

「miithya」は副詞で「不法に、偽って、真実ではなく、あべこべの」という意味で、「jnanam」は「知ること、知識」を意味し、「atat」は「それでないもの」を、「rupa」は「外観、形、現象」を意味します。そして、「pratistham」は「基づいた」を意味します。原文の語順で直訳すると、「ヴィパリャヤは、偽った知識である。それではない現象に基づいた」ということになりますね。こなれた邦訳では「ヴィパリャヤは、(誤った現象に)基づいた誤った知識である」ということでしょうか。ロープが蛇に見えたように、誤った現象を、そのまま誤ったまま理解した知識を「ヴィパリャヤ」というわけですね。まあ、トートロジーに近い当たり前のことをいっているような気もしますが、先程のプラマーナと反対というわけですね。そして、三番目に、「ヴィカルパ」につて説明されます。

sabdajnananupathi vastusunyo vikalpah シャブダジャニャーナーヌパーティー ヴァストゥシューニヨー

「sabda」は「音、声、調子、語」を、「jnana」は「知ること、学習、知識」、「anupati」は「結果に従う、後続の」、「vastu」は「物、物質、事物、実在する物、内容」、「sunyah」は「空の、空虚な、存在しない」です。つまり、「ヴィカルパとは、声による認識(知識)は空虚な内容である」ということですね。sabdaとは、インド伝統文法学において、「正しく発せられた語」のことで「発語の形」を意味します。

このことを少し、汗牛充棟、類書の多い『ヨーガ・スートラ』の解説書と一線を画すためにも、プラトンの『パイドロス』以来の西洋哲学の伝統と脱構築で知られるフランスのジャック・デリダの『グラマトロジーについて』に踏み込んでみましょう。

プラトンの『パイドロス』で、プラトンは、文字や書かれた言葉を単なる備忘録としての価値しかないと捉え、正しく語ることことが大事であると指摘しています。「文字という園に種をまいて、ものを書くのは、もし書くとした場合の話だが、慰みのためにこそそうするものだろと思われる。それは『ものを忘るるよわいの至り氏とき』にそなえて、自分自身のために、また、同じ足跡を追って探求の道を進むすべての人のために、覚書を蓄えるということなのだ。」(プラトン『パイドロス』)と。この意味においては、プラトンの語る言語観と『ヨーガ・スートラ』の言語観は異なるものでしょう。『ヨーガ・スートラ』では、「正しく発せられた語は空虚である」といっているのですから。

もちろん、プラトンは、単に書き言葉を貶めたいわけではありません。「書かれた言葉の中には、その主題が何であるにせよ、かならずや多分に慰みの要素が含まれていて、韻文にせよ、散文にせよ、たいした真剣な熱意に価するものとして話が書かれたということは、いついかなるときにもけっしてないし、さらには、口で話す言葉とても、吟誦される話のように、吟味も説明もなく、ただ説得を目的に語られる場合には同断であると考える人、書かれた言葉の中でもっとも優れたものでさえ、実際のことろは、ものを知っている人々に想起の便をはかるという役目を果たすだけのものであると考える人、そして他方、正しきもの、美しきもの、善きものについての教えの言葉、学びのために語られることば、魂の中にほんとうの意味で書き込まれる言葉、ただそういう言葉の中にのみ、明瞭で、完全で、真剣な熱意に価するものがあると考える人、そしてそのような言葉が、まず第一に、自分自身の中に見いだされ内在する場合、つぎに、何かそれの子供とも兄弟とも言えるような言葉が、その血筋にそむかぬ仕方でほかの人々の魂の中に生まれた場合、こういう言葉をこそ、自分の生み出した正嫡の子と呼ぶべきであると考え、それ以外の言葉にかかずらうのを止める人、このような人こそは、おそらく、パイドロスよ、ぼくも君も、ともにそうなりたいと祈るであるような人なのだ。」と記しています。書き言葉は備忘録に過ぎないし、話し言葉も相手を説得するためだけのような政治家や弁論家のような説得術でしかないならば価値はなく、魂の中にほんとうの意味で書き込まれるような言葉でなければその価値はないと語っています。単に文法的に正しい言葉、修辞的な言葉では意味が無い、という意味では、『ヨーガ・スートラ』のこの節の言葉と類似しているでしょう。

このことを、デリダはその著『グラマトロジーについて』でエクリチュールとパロールについて語る際にその点を深く追っています。エクリチュール(écriture)というフランス語は、「文字言語」「書記行為」を示し、「パロール」(parole)という「口頭言語」、「語る行為」を意味します。デリダは、西欧では、プラトン以来、書き言葉が貶められてきたことを指摘するに留まらず、「言語とは第一にエクリチュールである」「『根源的』で『自然な』言語などはけっして存在しなかったし、それはけっして無傷のものであったことはなく、エクリチュールに浸食されたこともなかったし、それはそれ自身エクリチュールなのだ」と指摘します。このことが、デリダによるパロール批判、エクリチュール優位のような単純な話に誤解されがちなのですが、そうではありません。デリダは「エクリチュールは、パロールの『イメージ』や『象徴』ではないのだから、パロールにたいして、より外的なものであると同時に、より内的なものである。パロールはすでにそれじたいでエクリチュールなのだから。刻み目や彫り込みやデッサンや文字や(中略)意味するものなどに結びつけられる以前に、書記の概念は意味のすべてのシステムに共通な可能性として、制度化された痕跡という審級を含んでいるのだ」(デリダ『グラマトロジーについて』)と。つまり、パロールを感覚的なものに刻み込んだもの(イメージや象徴)がエクリチュールなのではなく、言語一般と同じく、パロールもつねにすでにエクリチュールである、ということです。確かに、語る行為をするには、すでに書かれたものがあるからこそ語れるのではないでしょうか。人間は自然と語れるわけではありません。語るよりも前に、文字を読んでおり、言葉を学んでいるはずです。この意味で、『ヨーガ・スートラ』の言葉は、フランスの脱構築主義といわれた思想にも通じるものがあるかもしれません。次の節に行きましょう。

abhavapratyayalambanavrttirnidra アバーヴァプラティヤヤーラムバナーヴリッティルニドラー

「abhava」とは「非存在、存在しないこと」で、「pratyyaya」は「信頼、信念、信仰、確信、想念」という意味で、「alambana」は「依存、支持、基礎、寄りかかること」、「vrttih」は「転がること、活動、在り方、生起、働き」、「nidra」が「睡眠、仮眠、眠いこと、怠惰」です。原文の語順で直訳すると、「非存在・想念・基礎という働きがニドラーである」となり、こなれた訳にすれば、「ニドラーとは、想念が無いことを基盤とする働きである」です。直訳ではこうなるしかありません。しかし、『ヨーガ・スートラ』の翻訳本を参照すると、「ニドラー」を「深い睡眠」と訳した上で、「深い睡眠とは、目覚めた状態も夢を見る状態も否定された心の働きである」とされていうこともあります。どうしてそのように訳されているかというと、ここでいわれていることは、「睡眠」のような普通私たちは心の中に何の想念もないと考えていますが、こういう何の想念もないというのも一つの想念であるということです。この解釈は結構大事なところでもあって、ヨーガ(ヨガ)って要は心の中を空っぽにすればいいんじゃないの、と思われがちなところが多いと思うのですが、このような「心を空っぽにするようなこと」も「空っぽ」という意味で一つの心の働きであると『ヨーガ・スートラ』は見て取っているわけです。このことからも、ヨガの目的である心の止滅とは、心を空っぽにするということとは意味が違うということがわかると思います。何も思っていないことも何も思っていないという意味で心の働きであると捉えているわけですね。どうでしょうか?少しづつこれまで理解していたヨガのイメージが崩れてきませんでしょうか?次に行きましょう

anubhutavisayasampramosah smrtih アヌブータヴィシャヤーサンプラモーシャハ スムリティヒ

「anubhuta」は「経験された」を意味し、「visaya」は「感覚の対象」、「asampramosah」は「忘れないこと」、「smrtih」は「記憶、想起」です。原文の語順で直訳すれば、「経験された、感覚の対象を忘れないことがスムリティ(記憶)である」となります。これはほぼ語順の直訳でも意味が通りますね。訳すると簡単なのですが、元の言葉の「asampramosah」は少し特殊な言葉です。というのも、この言葉の語幹になる「mus」が「盗む、強奪する」という意味があり、それに「全て、全く」などの接頭辞「pra」がついて「pramosa」という「剥奪」という意味になります。それに「完全に」という接頭辞「sam」をつけて「sampramosa」で「損失、忘却、破壊」となります。それに「非・無・不」を意味する「a」がついて「asampramosah」となり、「忘れないこと」という意味になっています。単に「忘れないこと」を表す単語はもっと短い言葉で多くあるのですが、『ヨーガ・スートラ』では、ここで「全く」「完全に」などを意味する接頭語を二つも使った長くて複雑な単語を使っているのでしょうか。忘却しないことを強調した上で、スムリティ、つまり記憶について語っているわけです。なので、『インテグラル・ヨーガ』においては、この箇所は「かつて経験し今も忘れられない事柄に他する心の作用が意識に戻ってくるとき、それが記憶である」と訳されています。記憶はそれを望まなくとも思い出されることがあります。もう少し分かりやすい例を挙げれば、『インテグラル・ヨーガ』ではそこまで語っているわけではないですが、それこそフラッシュバックであったり、トラウマ(心的外傷)であったり。ここでいう記憶というのは、そうした望まない記憶も含めて記憶であると解釈してもよいかもしれません。フロイトが発見(?)した無意識まで含めるというこうした解釈は若干言い過ぎな感じもあるかもしれませんが、現代人の我々が思う心の働きと当時の人々が考える心の働きは少し違ったかもしれません。

一応フロイトの『精神分析における無意識の概念についての論考』をみてみましょう。フロイトはこう書いています。「わたしの意識においてある表象が、あるいはその他の心的な要素が現に存在しているのに、次の瞬間には意識から消失してしっているということがありうる。そしてそうした表象はしばらくの時間が経ったあとで、まったく同じ形でふたたび浮上してくることもありえるのである。わたしたちの表現ではそれは記憶の中から浮上してくると思われるのであり、何からの新しい知覚によって生み出されたものではない。このことを考えるとこうした表象は、それが消失しているあいだは、わたしたちの心の内に存在していたのにもかかわらず、意識のうちで潜在的なものにとどまっていたと考えざるをえない。しかしこの表象は、心的な生のうちに存在していたものの、意識のちで潜在的なものとして、どのような形で存在していたかについては、まったく想定することができない。これにについては潜在的な表象は心理学として存在していなかったが、表象という心的な現象がふたたび同じ形で現れるための身体的な素因として存在していたのではないか、という哲学からの異論に直面することを覚悟しておく必要があるだろう。(中略)ここでわたしたちは、意識の中に存在していてわたしたちが知覚することのできる表象だけを「意識的な」ものと名付けることにしよう。そして『意識的な』という言葉の意味はこれだけに限定することにしよう。これに対して潜在的な表象は、記憶の場合に確認できるように、それが心的な生のうちに存在し続けていると想定できる場合には、これを『無意識的な』という言葉で呼ぶことにしよう。」と。フロイトは、意識の概念とは異なる前意識の概念と無意識の概念を対比して説明しています。前意識とは、苦労せずに意識の領域にのぼらせることもできるものであり、無意識とは意識と断絶していて、意識の領域にのぼらせることができないものです。フロイトは、この二つの意識の違いを作り出しているものを抵抗と防衛と考えます。意識にのぼらせようとすると抵抗が生じる記憶があるが、それは主体がこの記憶を意識にのぼらせると不快になるため、自らを防衛するために、その記憶を意識することを拒絶するためだと考えました。『インテグラル・ヨーガ』においての解釈は、こうしたフロイトの理解に近しい解釈の仕方であるのではないでしょうか。

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(17)

【目次】

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(1)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(2)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(3)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(4)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(5)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(6)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(7)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(8)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(9)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(10)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(11)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(12)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(13)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(14)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(15)

バガヴァッド・ギーターの教え(ヨガの古典の経典を通してヨガを学ぶ)

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【監修者】宮川涼
プロフィール早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。

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宮川涼
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