悪について~仏教やヨガ、西洋哲学から考える(4)

01 当為

これまで述べたところから、自己同一をそれ自身として取り出すとき、それが善なのである。だから、善とは悪において出会われたものである。この関係を捨象して、自己同一それ自身を掲げるとき、善がそれ自身で在るものとされるのである。これを論理学で言うならば、同一律となる。この場合には同一律は、それ自身において成り立つ原則とされる。だが、それは、以上の関係を捨象したところに措定されたものにほかならない。これを論理学的に言うならば、当為となる。だから、当為とは、これまで述べた関係を捨象して、同一律のように、それ自体なるものとして措定され、あげられたものなのである。つまり、当為とは、この意味で、抽象されたものであるといえる。だが、このことは、前にも言ったように抽象であるから無意味であるということにはならない。抽象であるにせよ、いつも当為は監視し、警告し、告発する働きを持つものとして、大きな意味を持っている。当為は抽象であるけれども、無力なのではない。それは同一律が抽象的で同語反復であるにもかかわらず、論理学からそれを捨て去ることが出来ないのと同じである。客観的なそれ自体に冠せられた名前であるkれども、そうであることによって、逆に権威をもっている。しかし、この権威は、警告であり、告発であり、監視であるかぎりのものとして、意味を持つのであるから、「現」となって形をとることはできない。形をとって何かであるとき、それは当為であることを辞め、特定の、やや命令や強制と言ったものと立ち現れてくる。もともと、当為が立てられるのは、善悪相対の「悪無限」を脱するためである。

それにも関わらず、それ自身であるはずの当為さえも、それを当為とする主体において初めて、当為であるということがなくなるわけではない。ここから前に述べた相対の問題が起こる。関係の捨象と説明したが、この捨象が行われるところは、前に言った出会いの場に他ならないからである。だから当為にさえも、相対の入り込む隙があるということになる。こうして両極の間をつなげる相対的善悪というものが、入り込むことになる。そこに善そのものと善の欠如態としての悪そのものを、両極と考える思想がなりたち、一方から他方への流出ないしは両極の間の段階的序列の考えが、成り立つことになる。

だが、流出を言うにしても、それ自身なる善が自ら動き出しうるためには、そこにすでに何らかのきっかけがなければならない。そのときすでに、善はそれ自身であることを止め、何ほどかの欠如を欠如たらしめる不純なものに結びついているのでなければならない。では、それはどこからくるのか。それを考えるとすれば、その時既に、その場の主体は何らかの形で、試行的創作、ねつ造をしなければならなくなる。というのは、切っ掛けが善それ自身のうちにあるならば、もはやそれは善それ自身ではないからである。きっかけは外から持ち込まれねばならないとすれば、それは何らかの形で、思いつきになる。必然のような形ととっても、そう言える。そこに推理的必然の形をとった遊びが入り込む。だからそれは創作、ねつ造であり詩である。だが、それにもかかわらず、そうするより他に仕方が無いとする、人間がそこにいるということは、ねつ造にもかかわらず大切なことである。そこにそうしたいとする人間がいるという「現」はやはり意味を持っているからである。

問題は、当為といえども、それを否定する何かを含むことにおいてしか、当為ではありえないということであった。当為もカント的であり、十八世紀的であり、キリスト教的、ドイツ的であった。このことを抜きにするとき、当為としてすら、機能を持ち得ないということだった。そこにそれ自身なる当為を、相対的にであれ、否定する何かが入り込まねば、当為は当為では有り得ないということであった。このことは、当為にすら、有限な否定の影がさしているということを意味する。もともと当為を言わざるをえないということに、すでに否定において、有限に置いてしか有り得ないという人間の姿が映っている。そこで当為を問題にすることは、同時に光と影の問題に我々をつれていくことになる。存在と人間と善と悪、光と影(暗)の考えた例はいくつもある。それ自身なる善とか、それ自身なる悪とかが抽象であるとしても、その両極が何かで現にあり得るためには、そこに欠如が伴わなければならない。光と影の関係から考えるとき、すでにそこに欠如が、それ自身ならぬものが、入り込んでいるように思われる。このことを積極的に考えようとしたのはシェリングである。

02 シェリングに於ける悪の成立

シェリングは、悪が何であるかではなく、悪があるとはどういうことかを、問うた。だが、もちろんこのことを客観的に説明することはできない。そうしようとすれば、どうしても形而上学的にならざるをえない。だが、形而上学的と言っただけで、すでにそれを否定すべきものと、考える人々が数多くいる。だが、形而上学的に考えられた結果が、詩的創作であったり、その意味でのねつ造であったりするかといって、形而上学的にでなければ、説明し得ない事態に「現に」出会っている人間がいるということを否定することはできまい。だから、思索の結果がよしねつ造であるとしても、そこへ行かざるを得なかったとする人間の「現」を否定することはできない。現に形而上学的ということを嘲笑するにしても、形而上学的なものとそうでないものとを区別する境界が、そう考える人々がいうほど、はっきりしているわけではないだろう。現に、形而上学を否定する人々でも同一律を否定することができまい。その同一律とはそもそも何であるかということを、実証的に論ずることはできまい。その根拠を問うとなれば、実証的なものを超えるよりほかはない。実証的には、同一それ自身であるものなど全く存在しないからである。A=Aということは、訊ね探して行けば、結局、当為につきあたる。当為を実証的に説明することなどできるものではない。実証を超えたところに出なければ、この問題は考えられない。そこに出てくることは、実証的であろうとしながら、それを超えざるをえない人間が「現に」いるという、抜き差しならぬ事柄である。その意味で、「超越」しないでいられない人間が、現にいるということである。

そうであるということは、実証を超えてたてられるものも、実証の立場なしには、有り得ないということも同時に意味する。実証を超えるということを実証から問うているのである。だから、結果として出てきたものが、よしねつ造であるとしても、それを問うた主体の「現」が、そこに、映し出されているからである。ここに抜き差しならぬ人間の有り様がある。それを有限性と呼ぶことができる。だが、だからといって、有限性がそれ自身であると思うのは誤りであろう。有限は、有限を超えるという意味で初めて、それであり得るからである。現にシェリングの形而上学は極めてシェリング的である。有限存在者シェリングが、自らを超えることにおいて、しかもシェリングであることを否定し得ず、超えたと思うそこに、シェリングがいるからである。だから超えることなど出来ない、超えたと思っても、ただの無駄な骨折りを下に留まるという批評は、この場合にも当てはまる。だが、幾度もこのことを言おうとも、現に超えざるを得ない人間居るということは、どうにもならない。この抜き差しならない事態こそ、大切であると言わねばならない。だから、どれほど形而上学的であると批判されようと非難されようとも、そこに語られたことが、我々に訴えてくるということは、幾ら柄も有り得るのである。これが問題の重点である。

そう考えてきて、シェリングのいうことに耳を傾けるならば、今、我々の当面している問題にある種の示唆が与えられることは確かである、シェリングの考えによれば、限定されたもの、制約されたものが存在するということの根拠が、問題になる。その意味で、悪が存在するということの根拠を問うているのである。そのために掲げられたのが、「現存するかぎりでのもの(das Wessen, sofen es existirt.)」と「ただ現存の根拠であるに留まる限りでのもの(das Wessen, sofern es bloss Grund von Existenz ist.)との間に区別を置くという有名な考えである。

この区別を立てたのは、現存するものが、自らの現存することの根拠に出会うということを問うためである。ただ、現存する限りのもの(神)は、ただそうである限りでは、顕れたものではない。それが示顕の形で、自己を顕すというのは、一定の形をとることにおいて、でなけれならない。一定の形をとったものは「現存する限りのもの」(それ自身なる神)ではない。神は、それ自身である限り、顕れてわれれらのものとなることはできない。顕れてわれらのものとなるためには、一定の形をとらねばならない。一定の形、つまり何等かの制約を受けて、限定されていなければならない。それ自体なる神は制約なきものである。だが、「神は制約を放棄することはできない。そうでないとすれば、神は自分自身を放棄するよりほかないからである」このことは、神が一定の形に置いてしか、顕れて自己自身であることができない、ということを意味する。神は自分以外の何者によっても、制約を、制限を受けてはならないはずであるから、一定の制約は、神自身のうちにあるのでなければならない。つまり、一定の形を取って、顕れるということの根拠を、自らの内にもつものでなければならない。一定の形をとるということ、つまり制約を受けるということは、或る否定を根拠としていることを意味する。つまり、神は、自らにおいて自らを否定するものを根拠として初めて自らを顕すということになる。

その意味で、「もし示顕しようとする意志に対し、実在(神)の内面に帰ろうとする意志が対立しなかったとすれば、示顕しようとする意志は、自ら生きたものではないことなろう。」示顕しようとするのは神の意志であるが、その意志は一定の形をとらねば、示顕でることはできない。だが、そのためには、それに背き、それを引き留めて、内に帰ろうとする意志が、神自身のうちで働いていなければならない。というのは、神は一定の物であってはならないはずだからである。神が自己自身であろうとして、自ら顕すことは、それを押し止めようとすること(意志)が、自らの内で働くことにおいてのみ成り立ちうる。神が顕れること(善を示すこと)は、これを押し止めようとする働き、即ち悪が、神自身のうちで動くことによってのみ起こる。「だから悪が存在しないためには、神自身があってはならない」ことになる。だから、神が自己自身であろうとする(示顕する)ためには、悪は必然的だということになる。こうして悪があるということは、神が自己自身の根拠に帰るということである。だから、悪の源は神自身であるということになる。善と悪の根は同じものだということになる、

以上述べたことは、明らかに形而上学的思弁である。つくりごとだといってもいい。だが、このことが示唆しているのは、この形を通して、現にある人間が語られているところにある。以上のべたことは、神が矛盾していることを言ったものに他ならない。これは一見訝しいことであるが、それと同時に人間の姿と考えれば別に訝しいことではない。対立において、自己自身であるという、人間自身の姿を語ったものに他ならないと考えれば、訝しいことではなくなる。「人間的に悩む神という概念がなければm、歴史全体はいつまでも不可解なままである」この言葉でわかるように、問題は、人間自身の問題として考えられている。絶対精神は自らのゴルゴダ(刑場=歴史)がなければ孤独であるとヘーゲルが言ったことに通じるものが、ここに語られている。歴史があり、人間がいるということは、否定においてのことである。このことを言い換えれば悪のあるところに始めて、人間がいるということになる。

悪について~仏教やヨガ、西洋哲学から考える(5)

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【監修者】宮川涼
プロフィール早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。

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