悪について~仏教やヨガ、西洋哲学から考える(7)

01 ギリシア的習俗

アイスキュロスに『オレステイア』三部曲と呼ばれる作品がある。これは『アガメムノン』『供養する女たち』『慈しみの女神たち』の三部からなる。三つは各々独立の形をとりながら、全体として一つの主題によって貫かれている。その筋は簡単なものである。トロイア戦争の凱旋将軍で、ポリスの王たるアガメムノンは、凱旋帰国のその日、自らの妻、女王クリュタイメストラによって虐殺される。この二人の息子のオレステスは、父の復讐のために、母クリュタイメストラを殺す。こうして、そこに生まれた正義と復讐の対立は、アテナ神によって調停され、和解が成立し、新しい民主的ポリスが誕生することになる。これが、この劇の筋のあらましである。そのかぎりでは簡単ではあるが、そこに盛られた問題は、習俗とこれを否定するものの対立を含んで、深くそして大きいと言わねばならない。

ここに語られているのは、子殺し、夫殺し、母殺しという、まことに血なまぐさい事件である。常識をもってしては考えられない、おぞましい世界である。子殺しといったが、それはアガメムノンがトロイア遠征の途上、しつこ無風状態のために艦隊が進退窮まったとき、信託の命に従って、娘イフィゲネイアを生け贄として、海に投じたからである。クリュタイメストラは、己が腹を痛めた自らの分身の生け贄に復讐するという形になっている。では、これは、その限りの、ただの虐殺劇なのであろうか。

アガメムノンが娘を生け贄にしたのは、自らがギリシア軍の総帥であったからである。ギリシア軍を救うためにはやむを得ない行為であった。気ままにためらいなく娘を屠ったのではない。その時に当たって、この王がもだえ苦しんだことを、作者は繰り返し語っている。しかし、戦争の責任者として、やはり兇行敢えて行わねばならない。それは男の原理であり、公の原理である。そこにいつも、公の正義(善)という言葉がうしろに控えている。「私情」をさしはさむことを許さぬ男の掟がそこにある。ヘーゲルはこれを「人間の掟(das menscheliche Gesetz)」と呼んでいる。ところで、我々は、自らの「公の立場」を守るために、息子、娘を犠牲にしなかった幾多の例を歴史で知っている。そこにどれほどの悩み悶え躊躇いがあろうとも、やはりそれは強行されねばならなかった。だから、凱旋将軍は帰国したとき、車を降りたところから、館の玄関まで敷き詰められた深紅の絨毯を踏むのをためらう。自らがその栄光に値するかどうかを疑うからである。王者、公、男が踏まざるを得ない人生がそこにある。こうして、この王将軍は、得意絶頂にいながら、そのまま奈落に沈んでいく。

クリュタイメストラは、夫の留守の間、夫の従兄アイギストスと通じている。だから、すでに世の中で言う姦婦である。その姦婦は、この姦夫と共謀して、凱旋した夫の入浴中を斧で打ち倒す。ひとたび口の極めた非難に出会うと、傲然として自らが正しいことを主張する。「してそのとき夫は烈しく血を噴き出し、鮮血のしぶきが黒々と私に吹き付けました。そのときの私の喜びといったら、さながら天の雨を穂鞘の懐に受けた麦のちょうでした」と誇らかに語る。人々の非難に対しては、「今お前は、私に有罪の判決を下し、私に町の憎しみと民衆の呪いがかかるといって、脅迫するのだね。この男が、憚りもなく、一頭の家畜でもあるかのように、豊かな牧場から一匹の美しい毛並みの羊、己が娘、この私が腹を痛めた最愛の子を引き出して、吹き付けるトラキアの嵐をしずめる呪言にと、生け贄にした折りには何の反対もしなかったのに」と答える。十年もの間、国を守れといわれ、娘を捧げさせられる、その復讐をして、何故悪いのかと全く開き直っている。そこには傲慢な男まさり、女丈夫が居丈高に立っているかのように見える。

だが、人類の歴史によれば、公の名の下に、戦争に犠牲にされた数知れぬ息子たち、そしてまた、同じ名のもとに生け贄とされた娘たちがいたことを我々はいやというほど知っている。その限りで言えば、誰がこの女王のの声を、徒に無視することができるであろうか。その理由は、至極簡単である。「公のため」という。だが、母親からすれば、それが何故私の息子、娘でなけれなならないのかという叫びとなる。この叫びのもつ純粋な力、いとよわきものの力は、我々の耳を打つことを止めはしない。もし平和の理論に力があるとすれば、それはこの叫びの強くしかも鮮やかな響きによると言える。これは、いわば、大地からする血の叫びであり、その限りで、人間存在そのものに根を持つ「正義」であろう。ヘーゲルはこれを「神々の掟」(das goetliche Gesetz)と呼んでいる。

クリュタイメストラは、「あの古い昔からの恐ろしい復讐者」と罵られ、「黄泉の国からやってきた荒れ狂う母」と呪われるが、この女からすれば、アガメムノンこそ、生命という聖なる原初を犯したことになる。男勝りの女上部であるかのような、この女王は、言ってみれば、このとき男女ともいうべきクリュタイメストラ個人としてではなく、原女(もとおんな)として、そこにいるのである。つまり、女本然の性に立って、自らの正しさを主張しているのである。そこでものを言っているのは個人ではない。ひそかな私ごとの怨念が語り出ているのではない。その意味で、その限りで言えば、夫殺しの悪は、女本来の当然の所業であって、悪ではないことになる。だから、「悪の無料」(die Unshuld des Boesen)とも言われるべきものが、誇らかに主張されている。したがって、ここで語られているのは、ただの子殺し、夫殺しの物語ではない。そこには、習俗という共同社会が、男と女という対立という形で語られ、そのことにおいて、やがて、崩壊するよりほかない姿が語られている。善は悪に、悪は善に顛倒せざるを得ない必然が、見事に描かれていることになる。習俗社会は、ひとたび動き出すとき、あったはずの、その共同性を失って、人間の掟と神々の掟の対立に移らざるを得ない。その何れを善とし、悪とすることができるかどうかという根本問題に我々を連れて行く。ワインシュトックのいう「悪の無料」という言葉は、この間の消息を深くついているものといえよう。

さて、オレステスであるが、この息子は、両親とは違った状況で、母殺しを引き受けねばならなくなる。父親によって代表される公の秩序を守ろ、という立場からすれば、母親は許すことができない罪人である。だから、母親を殺さねばならない。だが、それは同時に、自ら罪を負うことなしには起こりえない。この場合、オレステスが立たされている場は、両親の場合と違う。ワインシュトックの表現によれば「借財を徴収しなればならない債権者であると同時に、支払い義務を負わされた債務者である」ことになる。父親殺しに復讐するという意味で、当然の権利を持ちながら、母親殺しを引き受けなければならないという意味で、負い目を背負わなければならない。父親は、王将軍として、当然自らの責任を果たした。それは、公の場にいる父親からすれば、当然のこととされる。母親は母親なりに、その立場から当然のことをしたまでと主張している。

だが、オレステスは、その何れに対しても、個人としては責任を持たないはずである。同時に、債権者と債務者と兼ねるように導いていた状況はオレステス自身から発するものではない。自ら発したものでもないのに、知らずして、いつの間にかその場に立たされていたのである。だから、母親殺しは、いわば強制された形で行われる。姉エレクトラの薦めと、周囲の状況から、そこ(母親殺し)に落ち込まざるをえないような形で描かれている。周囲の状況というのは、アガメムノンを殺した結果、無能なアイギストスに代わって、自ら王位に就かざるをえなくなったクリュタイメストラが、既に公の資格のない身でありながら、統治を敢えて引き受けざるをえないため、その統治の在り方はどうしても暴政とならざるを得ないことを意味する。国王殺しという形で、公の掟に背いたのだから、当然人々の怨嗟の的となる。その上、いつ復讐されるかもしれないという恐怖に襲われている。この点からもその統治は暴政とならざるを得ない。だが、民衆の立場からすれば、どうしてもこの暴政は断ち切らねばならない。こうしてオレステスは、心ならずも、次第に復讐に駆り立てられることになっていく。「子供というものは、最期を遂げたつわものにとり、その名を護り伝えるよすが」と、オレステスは復讐の理由を見つけ出す。

ここではしなくても、我々が思い受け張るのは、我が国における仇討ちというあの掟である。これは武家社会に身を置いたという、ただそれだけの理由で、主殺し、親兄弟殺しの仇討ちを引受けさせられる。仇討ちの因とされる事態に対し、仇討ちの責を負わされる当人は何の責任もない。でも、掟の銘ずるところ、それに従わないものは「腰抜け」として、武士にあるまじきものとして、嘲笑の的にならねばならない。これは、理由はあるが如くして、全く理由にならない不合理である。しかも、武家社会はこの不合理な掟をつくりだした。仇討ちが成功した例というのは数少ないとされている。仇討ちを果たした例というのが、特別に当時の世の中でもてはやされ、それが後の世まで及んでいる。このことは、逆に仇討ちがいかに困難であったかを示している。だから、それはやがて名目となり、形式と成り下がっていく。今オレステスの場合をみると、これに似たところがある。自らの責任でもないのに、気づいてみたら、のっぴきならぬ責任の場に立たせられているからである。しかも、それは母を殺せという命令である。だから、姉エレクトラは「私たちが翻弄されているのかも」と言わざるをえない。「この勝利の果てにはただ、疎ましい穢れを身に得たばかり」ということになる。

母を殺して父の敵を討ち、公の正義を護ったというものの、「血に注がれれば、また他の血を呼び求める。それが掟」こうしてオレステスの復讐は、更に復讐の女神エリーニュスを呼び起こすことになる。この仇討ちは、もともと、王の息子という立場から、母殺しであっても、当然のこととされている。デルフォイの神が、ひどい咎めをはかるはずはないことになっている。それでもなお、「私はこの郷を出て、諸国を流浪してゆきましょう」となる。それは、復讐の女神が自分を追ってくることを怖れるからである。こうして、オレステスは、アポロンの御座所を目指して出かけていくことになる。

復讐の女神エリーニュスは、もと地下の国に住むもの、夜の母といわれるが、母殺しをしたオレステスを赦すことができない。だから、その後を追い、つけねらってデルフォイへ、さらにアテナイへとやってくる。こうしてこの争いは、太陽の神で公の正義の護り神であるアポロンと、母殺しの罪をあくまでも追求するエリーニュスの間の争いに移される。というのも、アポロンはオレステスを保護するからである。エリーニュスは夜の母であり、復讐の女神でありながら、オレステスを追い回すにもかかわらず、クリュタイメストラを追い回すことはしない。そのわけは「殺した男と血のつながりはなかった」からということになっている。この理由をどう解釈するか。そこにはいろいろなことが考えられるであろう。これに似たことは、ソフォクレスの『アンティゴネー』にも出てくる。この場合は、兄妹の関係を、あらゆる関係の中でもっとも血のつながるかけがえのないものとしている(もっとも、『アンティゴネー』のこの箇所は、後世付け加えられたもので、原作にはなかったとされている)。いずれにせよ、血のつながりということが、大切に扱われていることは、ギリシア劇の特徴であるといえよう。血のつながりということで、家族という習俗態を意識し、そこに犯されてはならない掟を、公の、男の、人間の掟とは異なる掟を、考えていたのでもあろうか。法につながるものではなく、大地につながるものを考え、それを厳として犯すべかざるものと考えていたのでもあろうか。

さて、アポロンとエリーニュスの対立になるが、これは互いに主張し合って、譲ろうとしない。これはいわば、地上の掟と地下の掟の対立、男と女の対立である。そこで、やむなくアテネが登場して、この解決を裁判に委ね、市民たちの投票に任せることになる。だが、投票の結果は何れにも同数と出る。そこで、アテネは、女であるにもかかわらず、アプロンに投票して、この裁判に決着をつける。だが、エリーニュスはそれではおさまらない。そこで、アテネは復讐の女神エリーニュスたちを慈しみの神とすることによって、地下から地上に出ることを認めて結末をつける。こうして、オレステスは罰を免れることになるが、今後はすべての争いは、市民による裁判によって決められることになる。つまり、神々からポリスへの移行である。こういう形で、この壮大な舞台を背景とする劇は終わることになる。

こうしてここに「金銭によって汚されず、あまねく人の尊敬を受け、怒りに鋭く、眠る者らのため、常に目覚めて国土を監視するようにと」評議の場所が設けられる。それは「善意に基づく議論の力が、いつでも勝ちをうる」ためにしつらえられることになる。このことは、「優れた弁舌の道」が見付けられ、法による裁きの礎が据えられたことを意味する。これでわかるように、この劇は民主主義を表看板とするアテナイが、時代背景となって書かれている。だが、人々がよく知っているように、この民主主義なるものは、ソクラテス、プラトン時代にいたって危機を迎えていたことになる。「誰がこの巨大な動物を抑えるのか」というプラトンの愁いが生まれることになる。だから、人間存在の悲劇はこれで終わるのではない。それはそれとして、以上がオレステイア三部曲のあらましである。

さて、ギリシア劇といえば、普通人々は運命劇であると受け取る。そのことが誤りだというのではないが、同時にそこにはいろいろなことが書かれている。それらをまとめて次のことについて考えてみよう。まず運命と呼ばれることについてである。確かに人間の運命を司る神、moiraがいることになっている。モイラというのは「割り当て」という意味であって、人間に割り当てられた運命との関わり、死と関係した言葉であるという。これを擬人化すると運命の神となるが、この言葉は運命そのものの意味にも使われる。ヘシオドスでは、運命を配給する女(Lachesis)の意味として用いられ、運命の糸のKlotho(つなぎ手)とAtroposつまり運命の糸を断つ女と三人の女となっているという。だが、神々と運命との関係は必ずしも明瞭ではなく、ゼウスは運命を支配するが、また運命に支配されるとも考えられている。そうだとすれば、運命の神ないし運命そのものがあって、ゼウスさえも時にそれに左右されることがあるのだから、人間はその操り人形に過ぎないように思われる。

この劇でも運命で決まったことは避けられないということが書かれている。それを形の上で言ったものが、家にかけられた呪である。この劇の場合でいえば、アトレウス家にかけられた呪いである。アトレウスについてはいろいろな話が伝えられているが、この劇に関係する範囲でいえば、アガメムノンの父であるアトレウスは、弟テュエステスとミュケナイの王位を争い、この弟の幼い子供らを頃祖居て、その肉を父テュエステスに食べさせたということになっている。このテュエステスの子アイギストスが、クリュタイメストラと結んで、アガメムノンを倒すことになる。そういうわけで、アウレウスの家(遡ればタンタロスの家となる)、つまりアガメムノンが受け継いだ家系は、初めから呪いをかけられているということになっている。この前提が劇の背景となっている。だから、この家に属するものは、その禍をのがれないことになる。その意味で人間がいるということは、この呪いと運命のなかに操られていることである、ということにもなる。

だが、心驕って、「正義の神の祭壇を、ないがしろにし、足蹴にかけて、うつもの」には何もも護りとはならないと書かれているところからすれば、心驕ることが禍を受けることに通じているように、受け取れなくもない。それはアガメムノンについても、コロスは「神を怖れぬ、また浄からず、神意にもとる心の持ち方」という言葉で、その心おごれることを傲慢と指摘しているし、クリュタイメストラについては「神を畏れぬ不敬のわざ」というような形で、度々にわたってそのことが言われている。このかぎりでいえば、禍は傲慢と共に生じるようにさえ思われる。更に「1番良いのはほどほどなこと、分別の十分備わった人間は、万事がちょうど足りるぐらいで、困らねば、それが何より」ということになれば、ほどよく節度を守っているならば、禍は起こらないようにもと受け取れる。

禍が傲慢と裏腹に扱われ、節度が身の安全につながるように言われるとすれば、運命は人によって定まるようにも受け取れる。その態度、生き様がよければ禍は避けられるのだとする限り、人の生まれつきと適切な判断がものをいうと考えることもできる。そうならば、運命とは所詮人間の生まれつきの性、近代人のいう性格によるものであることになってくる。だが、そうだとすれば、善し悪しは人の生まれつきによることになるが、その生まれつきは生まれつきであるから、個人の意のままにはならぬことになってくる。性格と言おうとも、性格が即ち運命であることを、脱することはできないことになる。だが、前にも書いたように、アガメムノンとクリュタイメストラの対立は、男と女の対立であるとすれば、つまり原男(もとおとこ)と原女(もとおんな)の対立であるとすれば、人間がいるということが、すでに運命なのだということになる。そう考えると、生まれつきとか性格とか言ってみても、所詮それは、人間が存在するということ、そのことが背負っているものとなる。人間がいるということが、すでに運命においてあることだとなる。人間にとって最大の禍が死であるとすれば、死を負うてここにいるということ、すなわち、生きているということが禍だということになってくる。禍がやがて悪につらなるとすれば、悪とは人間存在そのものの負っているものとなってくる。

ここで、血のつながりということを考えてみることにする。「家に膠(にかわ)のように」張り付いている禍とは、一体何であろうか。家というのは、人間が存在するところに必ずあるものである。大家族から始まって、いわゆる核家族に至るまで、人間のいるところ必ず家がある。ここで言われている場合には、家系のことであろう。家系というからには、いつもつながりということが意味されている。つまり血のつながりである。この劇で言われている限りでいえば、どす黒い血である。どす黒い血といえば、我々はカインのことを、更に『カラマーゾフの兄弟』のことを思い出す。われわれに近い例でいえば、島崎藤村の『家』である。この作家は自分の「家」にまつわる血を、いろいろな形で書いている。そう思って顧みるとき、何等かの形で、この意味の血にまつわれない「家」というものが、あるのだろうかという想いがする。我が国の古代文献が伝える限りでは、皇室と言われるものも、血で血を洗う争いのなかにあったと記されている。これは朝廷の名で編まれ、公のものとされている。まことに驚くべきことである。このことはひとりこの場合に限られない。源氏とか平家とか言われるものにもこのことは伝えられている。鎌倉の源氏三代の話などは、まことにおぞましいかぎりである。

しかもなお、家を離れてあること、家なきことは、不幸であると言われる。では、帰り着く「家」もないことが不幸だとされる「家」は幸の場であるのか。家なきことの不幸と家あることの不幸と、我々はそのいずれにも全く関係なしには、ありえない人生を数々経験にしている。もちろん、劇で言われているのは、呪いのかかったおぞましき家である。だが、それが特殊例であるとしても、そこに含まれる問題の根は特殊ではない。それは根本において否定を含んでいるからである。そう考えれば、家があること、つまり人間がいることがすでに禍であることになる。これがプロメーテウスを借りて言われる、人間そのものの禍にほかならない。

われわれはシレノスの話を知っている。「一番いいことは、生まれてこなかったことであり、次にいいことは、今すぐ生まれてきたところへ帰って行くことである」というあの言葉である。これは、まことに、その答えを「聞かなかった方がよかった」問いに対する答えである。ギリシア劇は、この話を離れては有り得ない。そして、改めて考えられるのが、例のシジュフォス(シーシュポス)の神話である。永遠に罰を負わされたものとして、身に余るほどの岩を山頂にもちあげるのが、それはまたそのまま転がり落ちるという、いかんともしがたい負い目の話である。ギリシア人が、これらの「話」を残したという事実、それが大切である。これは言うまでも無く、人間が存在するということそのことの、負っている否定である。だから、問題は、特異例であるか否かにあるのではない。

ここから言えることは、ソクラテスのダイモンである。これは何かせよ、と積極的に命じることはしないと書かれている。やめた方がいいという禁止となって、語り出すのがダイモンだという。その意味で、いつでも目を覚ましている人、ソクラテスがいたことになる。『饗宴』によれば、宴の果てた後、それに連なるものたち全てが酔い潰れてしまったのに、ソクラテスは目を覚ましていたと書かれてある。これらの話を客観的に説明して、ソクラテスが並外れた頑健な身体の持ち主であったか、という形で説明してみたところで、それはただの気休め以外ではありえない。ちょうど、オイディプスの話を、エディプス・コンプレックスとか、深層心理の問題とか言う形で説明してみても、そういう形で、現に人間がいるということの否定的な姿に関しては、何者をも加えないのと同じである。心の中を風が吹き抜ける人生がある、ということには、一歩も迫っていない。

ここにほどほどなことという、あの言葉が思い出されるが、「知らないということを知っている」というのは、分別を超えた言動に対する警告であると聞くこともできる。分別を超えることは、畏れを知らぬことだとも説かれているからである。畏れを知らぬとは、結局、何を意味するか。それは神を畏れぬことであるとされる。劇の中でもそのことは度々説かれている。「神の畏れは知恵の始まり」というのは、聖書の言葉であるが、これは結局、人間の限界を辨えて、それを超えてはならぬということに通じる。人間を超えたもの、神を畏れ、自らの限界を知ることこそ、知恵(sophia)の始まりだということになる。この知恵は分別知のことではない。キリスト教のこの言葉は、同時にギリシア劇にも通じる。こうしてまたシレノスの言葉に帰る。そして、プロメテウスの話に帰る。つまり、人間がいるということが、既に禍なのだ。そこで、アリストテレスが中庸を説いたこと、さらに観想(theoria)を説いたことを思い浮かべるとき、ギリシア古典思想は、ここに至って、禍なる人生、悪なる人生の前に、ただたじろぐことに帰結したかのようにさえ、受け取られてくる。運命の問題は、ここまで我々をつれてくる。それは、神話と習俗の世界からポリスの世界への道でもあったが、ソクラテスもプラトンも、そして、アリストテレスもみなポリスを生きた場所と認めていた人々であった。

悪について~仏教やヨガ、西洋哲学から考える(8)

立川で学ぶ「ヨガの思想」

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バガヴァッド・ギーターの教え(ヨガの古典の経典を通してヨガを学ぶ)

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【監修者】宮川涼
プロフィール早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。

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