「もっと頑張れば、もっとよくなる」——私たちはそう教わって育ちます。ところが身体を扱っていると、逆の事実にたびたび出会います。力めば力むほど筋肉は縮み、可動域は狭くなる。肩の力を抜いた瞬間に、さっきまで届かなかったところに手が届く。この「力を抜くほうが、うまくいくことがある」という逆説を、二千数百年前から言葉にしてきたのが、中国の老荘思想です。
老子と荘子——二人の思想家
老荘思想とは、『老子』(『道徳経』とも呼ばれます)と『荘子』を中心とする思想の流れを指します。儒家が礼と秩序を説いたのに対して、こちらは人為を離れた自然のはたらきを重んじました。
老子については、実在した人物なのかどうかも定かではありません。孔子と同時代人で周の書庫の役人だったという伝承がありますが、『老子』という書物自体、複数の人の手を経て紀元前四〜三世紀ごろに現在の形になったとする見方が有力です。全体で五千字あまり、八十一章という短い書物ですが、詩のような凝縮した言葉が並びます。
荘子(そうじ)は紀元前四世紀ごろの人とされ、こちらは打って変わって、たとえ話と寓話に満ちた自由闊達な文章を残しました。同じ流れに属しながら、老子が箴言なら、荘子は物語です。この二つを合わせて読むと、思想の輪郭がつかみやすくなります。
儒家との対比で見る老荘
老荘思想の輪郭は、同時代の儒家と並べると見えやすくなります。孔子に始まる儒家は、礼を学び、徳を修め、社会のなかで正しい関係を築くことを重んじました。人は教育と修養によって形づくられるという立場です。
これに対して老荘は、その「形づくる」働きそのものを疑います。規範を細かくするほど、それに合わせようとする作為が増え、かえって自然な働きが損なわれるのではないか、と。『老子』には、大いなる道が廃れたから仁義が説かれるようになった、という趣旨の辛辣な句もあります。
どちらが正しいという議論ではありません。社会を運営するには儒家的な規範が要りますし、規範に押しつぶされそうな個人には老荘的な視点が息継ぎになります。中国では長く、公の場では儒家、私の生活では老荘、という使い分けがなされてきたとも言われます。現代の私たちも、仕事では目標管理を、身体を扱う時間では無為の発想を——というふうに、場面によって物差しを持ち替えることができます。
道(タオ)——名づけられないもの
『老子』は、いきなり難問から始まります。「道の道とすべきは、常の道に非ず」。言葉にできる道は、恒常の道ではない——最初の一句で、これから語ろうとしている当のものが言葉にならないと宣言してしまいます。
道(タオ)とは、万物を成り立たせているはたらきのことです。ただし人格を持つ神ではなく、命令する立法者でもありません。水が低いところへ流れ、季節がめぐるように、そうなるべくしてそうなっている働きそのものを指します。
言葉にできないと言いながら八十一章を書き継ぐところに、この書物の面白さがあります。定義するのではなく、比喩を積み重ねて輪郭を浮かび上がらせる。器の有用性は、器そのものではなく、内側の空虚にある。部屋の役に立つ部分は、壁ではなく何もない空間だ——こうした身近な例を通して、「無いこと」の働きに目を向けさせます。
無為自然——何もしないことではない
老荘思想を代表する言葉が、無為自然です。しばしば「何もしない」「なりゆきまかせ」と受けとられますが、それは正確ではありません。
無為とは、作為を加えないこと。ものごとが本来持っている働きを妨げないことです。畑を思い浮かべると分かりやすいかもしれません。作物を早く育てたいからといって、茎を引っぱれば枯れてしまう。できるのは、水と日と土を整えて、あとは育つ力に任せることだけです。何もしていないのではなく、余計なことをしていない。この違いは決定的です。
『老子』には「無為にして為さざるは無し」という句があります。作為をしないのに、成らないことがない。逆説のようですが、身体を扱う人にはむしろ実感しやすい言葉ではないでしょうか。呼吸を「深くしよう」と操作すると、かえって浅くなる。何もしないでいると、身体が勝手に深い呼吸を始める。プラーナーヤーマの練習で誰もが通る道です。
上善は水の若し
『老子』第八章の「上善は水の若(ごと)し」も、広く知られた一節です。最上の善さは水のようだ、と言います。
水は、争いません。器の形にしたがい、低いところへ流れ、誰もが嫌う低い場所に身を置く。それでいて、万物を潤し、長い時間をかければ岩をも削ります。柔らかいものが硬いものに勝つ——「柔弱は剛強に勝つ」という発想は、のちの武術や身体技法にも大きな影響を与えました。
ヨガの練習に引きつけて考えると、これは「頑張り方の質」の話になります。硬い身体を力ずくで曲げようとするのは、岩をハンマーで割ろうとするやり方です。水のやり方は、時間をかけて、同じ場所に静かに触れ続けること。毎日五分のほうが、月に一度の三時間より効くという経験則は、この比喩とよく重なります。
荘子の物語——胡蝶の夢と庖丁
荘子には、忘れがたい寓話がいくつもあります。もっとも有名なのが胡蝶の夢でしょう。荘周は夢のなかで蝶になり、ひらひらと飛び回って楽しんでいた。目が覚めると自分は荘周である。だが、荘周が蝶の夢を見たのか、それとも蝶がいま荘周の夢を見ているのか、分からない——という話です。
これは懐疑論の披露ではなく、「自分」という枠組みの絶対性をゆるめる寓話として読まれます。どちらが本当かを決めることよりも、決められないという事実の前に立ってみること。ウパニシャッドが梵我一如を説いたのとは道筋が違いますが、固く握りしめた自己像を手放すという方向は似ています。
もうひとつ、身体を扱う人にぜひ知ってほしいのが庖丁解牛(ほうていかいぎゅう)の話です。名人の料理人が牛を解体する。その刀さばきは音楽のようで、十九年使った刃はいまだに研ぎたてのようだといいます。秘訣を問われて彼は答えます。骨や筋を無理に断とうとせず、もともと空いている隙間に刃を通しているだけだ、と。
力任せに断つのではなく、通れる道を見つけて通す。ヨガのアーサナで、関節や筋の構造にさからわない方向を探ることは、まさにこの「隙間を見つける」作業です。上達とは力が強くなることではなく、抵抗の少ない道が見えるようになることだ——庖丁の話は、そう教えてくれます。
逍遥遊——役に立たないことの効用
『荘子』の冒頭に置かれた逍遥遊の篇には、巨大な樹の話が出てきます。曲がりくねっていて材木にならない大木があり、人々は「役に立たない」と笑います。荘子は言います。役に立たないからこそ切られずに生き延び、大きな木陰をつくって人を休ませているではないか、と。
有用性の物差しをずらしてみせる話です。生産性や成果で自分を測ることに慣れた現代の目には、少し痛いところを突く寓話かもしれません。ヨガの時間も、突きつめれば「役に立たない」時間です。その一時間で何かが生産されるわけではない。けれども、その役に立たない時間があるからこそ、他の時間が持ちこたえている——そういう働きは、確かにあります。
「知足」——足るを知るということ
『老子』には「足るを知る者は富む」という一句があります。財が多い者ではなく、これで足りると分かっている者が豊かだ、という意味です。
身体の練習に引きつけると、これは「今日の分量を見極める」ことにあたります。もっと深く、もっと長く、もっと多く——その方向にだけ進むと、いつか必ず故障します。反対に、今日はここまでと決められる人は、明日も練習ができます。長く続けている人ほど、この線引きが上手です。
足るを知ることは、向上心を捨てることではありません。むしろ、続けられる範囲を正確に知っている人のほうが、結果として遠くまで行きます。ここでも老荘は、努力そのものではなく、努力の設計を問題にしています。
気という考え方について
東洋の身体観を語るとき、しばしば「気」という言葉が使われます。老荘思想にも気に関する記述はあり、のちの道教や中国医学のなかで体系化されていきました。呼吸を意味するプラーナと重ねて語られることもあります。
ただ、この言葉には注意も必要です。気の概念は歴史のなかで意味を変えながら使われてきたもので、現代科学が測定する特定の物質やエネルギーと同一視できるものではありません。当スタジオでも、身体の内側の感覚を言い表す便利な言葉として使うことはありますが、医学的な主張として述べるものではないという点は、はっきりさせておきたいと思います。古典を読むときも、この距離感を保っておくと、思想としての面白さを損なわずに楽しめます。
日本文化に流れ込んだ老荘
老荘思想は、中国だけでなく日本の文化にも深く入り込んでいます。禅の言葉づかいには老荘由来の語彙が多く含まれ、水墨画の余白の扱いや、茶の湯における簡素の美意識にも、その影響を指摘する研究があります。
武術における「柔よく剛を制す」という言い回しも、『老子』の柔弱と剛強をめぐる思想と響き合います。相手の力に正面から対抗せず、方向を変えて流す——柔道や合気道の技法思想は、庖丁解牛の「隙間を通す」発想と近い場所にあります。
ヨガが日本で受け入れられやすかった背景にも、こうした土壌があるのかもしれません。呼吸を整える、力まない、自然に沿う——ヨガの指導でよく使われる言葉は、インド由来でありながら、日本人にとってどこか聞き慣れた響きを持っています。似ているからといって同一視するのは乱暴ですが、複数の伝統が同じ場所を別の言葉で指していると気づくのは、練習を続けるうえでの励みになります。
力を抜く練習として
最後に、老荘思想をヨガの実践に持ち帰る具体的な形をいくつか挙げてみます。
ひとつは、ポーズのなかで「使っていない場所」を探すことです。前屈で顔をしかめていないか、肩が耳に近づいていないか。必要な筋肉だけを働かせ、それ以外を手放していく。これは無為の練習そのものです。
もうひとつは、呼吸を操作しないでいる時間をつくることです。数を数えたり、長さを調整したりする練習も有効ですが、そのあとに何もせず、ただ呼吸が起きているのを眺める時間を少しとる。すると、自分が呼吸をしているというより、呼吸が起きていることに気づきます。
そして、うまくいかない日を、うまくいかない日のままにしておくこと。老子は「企つ者は立たず」(つま先立ちする者は長く立てない)と言いました。背伸びして高く見せた姿勢は続かない。今日の身体の状態から始めるほかない、という当たり前のことを、二千数百年前の言葉が確認させてくれます。オンザショアの溶岩ホットヨガは、身体が温まって力の抜きやすい環境です。頑張る練習と同じくらい、力を抜く練習の場としてお使いいただければと思います。
※本記事は思想の紹介であり、健康上の効果や特定の身体観の正しさを主張するものではありません。体調に不安のある方は、事前に医療機関にご相談ください。

