インド哲学

~プロローグ~

古代ギリシアと物理的な交流もあったインドだけあって、その哲学は古代ギリシア哲学と密接にリンクしています。また、インド哲学の発展の過程で生まれた仏教は巡り巡って西洋哲学に影響を与えています。そういう意味で、西洋哲学を理解するうえでも非常に重要なのがインド哲学です。とはいえ、インド哲学は難解です。よくインド旅行に行った方がインドの印象を「カオス」と表現されますが、まさにインド哲学はカオスです。西洋哲学よりもむしろ形而上学的な思想が多いですし、最古のインド哲学は西洋哲学の始まり、タレスよりも古いとされています。思想の多くが紀元前に成立したこともあり、その情報の真偽も結構怪しいです。

例えば六派哲学です。バラモン教を正統的に解釈した代表的な哲学思想を六派哲学と呼びますが、それらの思想における経典はおおよそ紀元前世紀からの1000年の間に成立しています。経典には作者がいるのですが、インドにおいては古い教えの作者を盛る傾向があり、有名な思想家の名前を作者として借りることで、教えに箔をつける習性がありました。そのため、経典の作者は実はこの人じゃない。多分違うだろう、というようなことが頻出します。これは中国の思想においても同じでしたが、ある思想家の言葉として残っているものが、じつは後世になって他の人間が付け加えたものだった。このようなことがほとんどのインド思想に当てはまります

また、古代ギリシア哲学が神話の世界から抜け出して経験や理性でこの世の心理を解き明かそうとしたのに対して、インド哲学は神話的要素を色濃く残しながら発展をしていきました。そのため、哲学と呼ばれる思想においても宗教色が感じられることもあります。これがインド哲学の難しさであり、面白さでもあります。とはいえ、仏教との関連もかなり強いですから、難しさの割には身近に感じられることもあろうかと思います。

この講では、インド哲学の成立から、時間は前後しつつ、仏教の成立までを解説の範囲とさせていただきます。原始仏教がその後どのように分岐し、二本へと伝来したのか、これについては宗教史の範囲になりますので、今回は触れません。あくまでインドで起こった哲学、具体的にはヴェーダの起源にはじまり、ウパニシャッド、六派哲学、六師外道、ジャイナ教、原始仏教などを取り上げます。

インド哲学は非常に難解ではあるものの、目指しているところがシンプルに一致しているので、そういう意味では分かりやすいかもしれません。一部を除いて、彼らが目指したのは苦からの解放、解脱です。インド哲学では生を苦ととらえます。生きているというのは苦しいことである。仏教にお相手は一切皆苦と表現されますね。仏教の影響を色濃く受けたとされているショーペンハウアーも人生は苦であると考えていました。そしてその苦しみは、人生が終わっても終わらないと考えられています。

インド思想においてはその多くが輪廻転生を認めます。ここではうまれ変わりと表現して問題ないでしょう。つまり、単体でも苦である生が無限かつ永遠に続いていくのです。この永遠に続く苦の連鎖を断ち切るためには、輪廻自体から抜け出さなくてはいけません。この輪廻からの解放を「解脱」と表現します。インド哲学においては、古代ギリシア哲学と同じように、政界の構成要素について推論したり、神について推論したりすることも多々あります。しかし、古代ギリシア哲学が心理の追求のためにそれらに立ち向かっていたのに対して、インド哲学が中心に据えたのは、あくまで解脱です。いかにして解脱を可能にするか?その方法論はどのようなものか。それらの思想を構築していく過程で、世界や神の説明が必要になり、そのうちに思想として体系化されていった。ここにインド哲学の大きな特徴があると思います。そして、そのような議論の末に生まれたのがヒンドゥー教であり、ジャイナ教であり、仏教です。

瞑想やアーユルヴェーダなど、形は違えど、我々の身近にある文化の中にも2000年以上前のインド哲学が影響しています。西洋哲学の理路整然とした体形がお好きな方には少しカオスすぎる内容がつづくかとおもわれますが、これもまた人間がたどり着いた一つの到達点だとみなして頂けると嬉しいです。

それでは早速、インド哲学の始まりをみていきましょう。

第1講 インド哲学の始まり ヴェーダからウパニシャッド

西洋哲学や仏教にも大きな影響を与えたインド哲学は、いったいどのような経緯で始まったのでしょうか。

紀元前18世紀前後、中央アジアで生活をしていたアーリア人がインダス川周辺に侵攻しました。戦闘力の高かったアーリア人たちは先住民族を排除して、現在のインドに移り住みます。彼らは現世利益を目的とした彩色を重視する民族で、儀式の際に使用する神への賛歌を口伝で伝承していました。このころ使われていた言語が、サンスクリット語の原型になったヴェーダ語です。

紀元前12世紀ごろになると口伝で伝承されていた様々な神への賛歌が、一つの体系にまとめられることになります。まとめられたと言っても書籍としてではなく、実際に文字になってまとめられたのは、それよりずっと後になります。そのため、このように体系化された知識を持ち、儀式を取り仕切る司祭はそれまでよりも力を持つようになりました。

アーリア人はもともと狩猟と牧畜によって生計を立てていましたが、技術の進歩によって農耕が主な収入源に変わりました。これにより、それまでよりも自然が重視されるようになります。しかも、自然すらも儀式でコントロールできると考えられていたため、儀式の重要度と司祭の権力がより強くなりました。そして、司祭をはじめとする祭祀階級を『バラモン』と呼ぶようになり、バラモンをトップに置いた組織が形成されました。これがバラモン教の始まりであり、カースト制度の始まりでもあります。

ちなみに、のちにバラモン教が民間信仰などを吸収することでヒンドゥー教が生まれます。現在のインドの人口の8割以上が、ヒンドゥー教徒だとされています。「リグ・ヴェーダ」の成立を含む紀元前15~10世紀の500年間を、「前期ヴェーダ時代」と呼びます。「後期ヴェーダ時代」と呼ばれる紀元前10世紀からは「サンヒター(本集)」と呼ばれるヴェーダが成立します。神々の伝承を扱った【サーマ・ヴェーダ】【ヤジュル・ヴェーダ】、そして呪術を扱った【アタルヴァ・ヴェーダ】、そしてリグ・ヴェーダを含めた以上のヴェーダが狭義の意味での【ヴェーダ】です。

紀元前8世紀ごろになると、以上3つのサンヒター(本集)に、「不随」するされるものが成立します。祭式の手順や神学的意味を説明した【プラーフマナ(祭儀書)】と、哲学的部分の注釈を担当する【ウパニシャッド(奥義書)】、そしてその中間に位置する【アーラニヤカ(森林書)】です。インド哲学では、なかでも「ウパニシャッド」の影響が非常に大きいです。ウパニシャッドに関しては後で詳しく解説しますが、簡単に言えば祭式を形式的に執り行うようになったバラモンに対して、疑問を抱いた集団が心理を求めることでできた思想といえるでしょう。この「不随」までが広義の意味のヴェーダです。

紀元前二世紀ごろになると、インド二大叙事詩と称される「ラーマーヤナ」「マハーバーラタ」が生まれます。「マハーバーラタ」は、「イーリアス」、「オデュッセイア」と並んで世界三大叙事詩に数えられています。マハーバーラタの一部が、かの有名な「バガヴァッド・ギータ―」であり、「バガヴァッド・ギータ―」はガンディーにも影響を与えたと言われています。

西洋哲学においても、哲学以前の神話は非常に重要で、特に古代ギリシア哲学の思想家たちも、神話なしでは語れないところがあります。しかし、インド哲学においてのヴェーダの影響はそれと比較になりません。現在まで続く信仰の中心になっている経典ですから、むしろ、すべての哲学がヴェーダの解釈を始まりにしているといっても過言ではありません。ヴェーダの宗教(バラモン教)を正統的にに解釈したものがインド哲学です。ウパニシャッドがサンヒター(本集)の解釈を担っているのは当然として、その流れを受けてあらゆる哲学学派が誕生しました。その中でも代表的な哲学思想を『六派哲学』と呼びます。

六派哲学においてはヴェーダをそれぞれの立場で解釈します。現在の『ヨガ』につながる思想も、この流れから生まれたとされいています。一方で、ヴェーダの宗教(バラモン教)とは違う思想を持つ集団もいました。そのような思想家(修行僧)のことを「沙門」と呼びます。釈迦も沙門の一人とされています。釈迦の思想はその後、仏教を生み出します。上座部仏教に伝わる経典である「パーリ仏典」には、釈迦と同時代に活躍した6人の思想家が登場します。仏教側から見て異端な思想を持っていることから、彼らは「六師外道」と呼ばれました。六師外道の一人「マハーヴィーラ」はジャイナ教の創始者です。また、不可知論を唱えた「サンジャヤ」は釈迦の弟子の中でも有名な「シャーリプトラ(舎利弗)」の師であったと言われています。インド哲学はアーリア人の儀式の作法をまとめたヴェーダという経典から始まりました。ヴェーダの不随である「ウパニシャッド哲学」ヴェーダを正統的に解釈した六派哲学、ヴェーダの思想とは違う自由な思想を繰り広げた沙門マハーヴィーラをはじめとする六師外道。これらもあとでみていきます。

それでは、さっそく、ウパニシャッド哲学についてみていきましょう。

第二講 ウパニシャッド哲学

釈迦の思想などにも影響を与えた梵我一如の思想とは、いったいどのようなものなのでしょうか。

『ウパニシャッド(奥義書)』とは、紀元前5世紀ごろから成立し始めた、ヴェーダを哲学的に解釈する書物の総称です。このウパニシャッド(奥義書)に基づく哲学がウパニシャッド哲学です。

ウパニシャッド哲学は、バラモンの祭式について記された神の言葉が記載され、本集と呼ばれる「リグ・ヴェーダ」、「ヤジュル・ヴェーダ」、「サーマ・ヴェーダ」、「アタルヴァ・ヴェーダ」と、それに付随する、200以上からなる注釈書です。注釈書には、それぞれのヴェーダに対応したウパニシャッドが存在し、ヴェーダを哲学的に解釈して審理を追求しています。

徳の職に成立した10数個のウパニシャッドを「古ウパニシャッド」と呼びます。ウパニシャッドどは傍らに座る、という意味でこれはバラモンの師から弟子へと一子相伝で伝えられた扇という性質を表しています。当時、バラモンの中でも思想のぶつかり合いがありました。農耕が主な収益源となったことで、それまでよりも自然の重要度が増し、関連してバラモンの権力が強くなっていく中で、現世利益を祈る儀式はどんどん形式化していきました。要は、意味は置いておいて、儀式をすること自体が大事、と儀式のノウハウばかりを追い求めるようになったのです。

ある集団はそれに疑問を持ちます。儀式のノウハウよりも、なぜそれが必要なのか?の方が大事なのではないか。こうしてヴェーダの哲学的な要素を研究し、真理を探求する動きが現れたのです。つまり祭式よりも「知の重要性」を解いたわけですね。このことから、ウパニシャッド哲学は、世界最古の思弁的哲学思想、と呼ばれることもあります。

代表的な思想家は、「ヤージュニャ・ヴァルキヤ」や、「ウッダーラカ・アールニ」です。ヤージュニャ・ヴァルキヤは釈迦にも影響を与えたと言われています。宇宙の根源である「ブラフマン(梵)」と、人間の本質である「アートマン(我)」は同一のものである。それを自覚することで、輪廻の業(苦悩)から解放され、解脱することができる。短くまとめると、これがウパニシャッド哲学の核です。

宇宙の根源であるとされるブラフマンですが、元々ヴェーダにおいてはブラフマンは「言葉」という意味でつかわれていました。当時は祭式が最高の権力を持っていて、祭式で使われる言葉(マントラ)によって神々を支配することすらできると考えられていました。ある意味ブラフマン(言葉)は神を超えた最高神であったともいえるでしょう。それが転じて、「外界にあるすべてのものと活動の背後にあって、変わることのないもの」。つまり普遍的な原理と呼ばれたのです。

一方でアートマンは意識の最も深いところにある個の根源です。心や意識をアートマンと表現することもありますが、どちらかというと、それらのもっと背後にある魂的なものを指す言葉とされます。

この両者がそもそも同一なものだと理解することが解脱へのたった一つの方法である、ということなのです。梵我一如について解説することはもはや愚行です。そもそも、これを理解できたら解脱できるとされているわけですから、そう簡単に理解できるものではありません。もちろん、真に理解していないものを理解できるはずもありません。それを大前提に置いたうえで、突拍子もない例えで個人的な解釈を表現すると、インド哲学には【業】という概念があります。身体的な行為や発言、思ったことなど、これらは死んでも輪廻することで魂に受け継がれ次の生で結果として現れます。これを「自業自得」や「因果応報」などと表現しますね。因果応報により、過去の業は現世に結果として現れます。これによって生まれた際のカーストが決定される。業と輪廻転生の概念がカースト制度を支えていることがわかります。

『浮いたり沈んだりする輪廻』この繰り返しこそが苦であると考えられたのです。そして、その苦から解放されるためには、輪廻自体から抜け出さないといけない。それが解脱であり、涅槃(ニルヴァーナ)です。

それを前提に私たちの人生をマリオに例えてみましょう。

ゲームの中で一生を全うした私たちマリオは、死を迎えるとすぐに新しい生を受けてまたゲーム世界を生きます。延々と繰り返される「いずれ死ぬ」ゲームは、捕えようによっては苦痛以外のなにものでもないと考えられます。今この瞬間に右スクロールでBダッシュしているマリオはまさにアートマンです。本人にとっては、そのせいこそがすべてであり、それ自体が自分だと感じています。

一方でマリオを操作する主体がブラフマンだとしましょう。この場合、主体が属する世界自体をブラフマンと表現するべきですが、便宜上割愛します。この瞬間、マリオがふと気づきます。自分とこの成果を作っている主体(ブラフマン)は同一である。と。

それらが完璧に一致した時マリオはそのマリオ性を捨て、ゲームの世界からログアウトすることができます。つまり延々と続く生と死(輪廻)から解放されたのです。

梵我一如、または解脱とはログアウトである。これはかなり怒られそうですが、ウパニシャッド哲学においては、梵我一如を「知によって」理解しようとしました。この哲学を源泉にして瞑想やヨーガで解脱を目指す勢力が現れたり、苦行で涅槃を達成しようとする集団が現れたりします。それが仏教やジャイナ教、そして六派哲学に代表されるインド哲学です。

次に、バラモンの思想を正統的に解釈した六派哲学について解説します。

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