エラスムスの哲学的人間観

1.エラスムス解釈の諸問題

かつてルターがエラスムスをウナギ(anguilla)に喩えたように、エラスムスは捉えどころのない人物であるように見えることがある[1]。レトリックを駆使して、証拠や格言、メタファーを積み重ねることで読者を説得しようとする人文主義者の議論の型には[2]、一般的にいってどこかつかみにくいところがあり、エラスムスの場合もその例に漏れない。ルターによれば、彼は「言を巧みに虚飾して、黒とも白とも判断のつかぬ曖昧不確かな言を語ることにおいて、巧みな研究者」である[3]。一体なにが分かればエラスムスを理解したことになるのだろうか。彼の思想を読み解くうえでの困難として、たとえばつぎのような点を挙げることができる。まず、彼は一見すると自分の記述の論理的一貫性を必ずしも重視しているわけではなく、矛盾しているように思われる主張をするときがある(〇章を参照)。第二に、彼は書簡や著作のなかで意図的に「偽装」(dissimulatio)を施しており、それを聖書に基づいて正当化している(〇章を参照)[4]。第三に、エラスムスの著作のテーマは多岐にわたり、文学、神学、政治といった異なる諸分野を統一的に解釈することには困難がある[5]

これらの点は必ずしもエラスムスの思想に限った問題ではなく、人文主義という潮流にどのようにアプローチするのかという問いと少なからず結びついている。アンソニー・グラフトンとリサ・ジャーディンは、その共著『人文主義から人文学へ』において、近世の教育について研究する思想史家たちの「現在志向の敬虔さ」とでも呼べるものを払拭しようと試みた[6]。著者らによれば、こうした思想史家たちは、彼らの研究対象である人文主義者と同じように、文学教育の卓越した価値を信じきっており、スコラ学の没落と引き換えに台頭した古典の新たなカリキュラムが知的・精神的な自由をもたらすばかりか、それらを逆らい得ない潮流と見なしているというのである。グラフトンとジャーディンは、人文主義者たちが実際の講義でおこなっていたことを詳細に分析することで、「良き学芸」(bonae literae)の人格形成的価値の主張にはほとんど裏付けがないということを明らかにしようとした[7]。人文主義の勝利は、その本質的価値や実践的有用性に言及するだけでは説明することができないというのである[8]。「わたしたちが主張したいのは、つぎのことである。すなわち、新しいシステム[人文主義]は、形を成しつつあった新しいヨーロッパのニーズに適したものであり、そこには閉鎖的な統治エリート、世襲の官職、そして政治的・社会的問題に関する極めて重大な議論を封じ込めるための熱心な努力がともなっていた。それは新たなエリートのなかの卓越した人びとに、優越性という消えることのない文化的刻印を刻みこみ、それよりも劣る人びとに[文体の]なめらかさとテキストの細部に注意を払う習慣を身につけさせ、すべての人びとに、与えられたもの、絶対的なもの、習得すべきもの、疑う余地のないものとしての真の文化モデルを提供し、この学問に入門する人みなに、権威に対して正しく従順する態度を育んだ。人文主義教育がおこなわれたのは、対抗宗教改革と後期プロテスタントの正統派によって形づくられたヨーロッパを秩序づけるためである。そして、人文主義者の実践的活動と彼らのパトロンの実践的なニーズとの一致こそが、人文主義の勝利を決定づけた理由だったのである」[9]。このような視点から人文主義という知的潮流に接近する著者たちにとっては、世俗の学問と信徒の敬虔さを結び付けようとしたエラスムスの試みは、「知性を用いたトリック」(intellectual sleight-of-hand)のようなものでしかない[10]。彼らの解釈では、『メトドゥス』のようなエラスムスのテクストを検討することで明らかになるのは、卓越した人文主義者の手になるフマニタス研究(studia humanitatis)の絶大な柔軟性であるとともに、読書と作文の技術が堅固な霊的基盤のうえに成り立っているという、キリスト教人文主義者たちの主張の「究極的な曖昧さ」なのである[11]

さらに、リサ・ジャーディンが自身のエラスムス研究で描き出して見せたのは、彼が自分の世界的な名声と、北方人文主義という新たな学問の成功のために、当時の新しいメディアであった絵画や印刷物を利用して、この学問を体現する人物としての自分自身の「偉大さ」を作り上げていく姿であった[12]。活版印刷が普及しつつあった最初の時代に、エラスムスは書簡や著作の出版を通して戦略的に自己のイメージを作り上げ、国境を越えた知識人たちのネットワークを構築し、学者としての国際的な名声を築き上げることに見事に成功したのである。ジャーディンによれば、西洋世界に聖書を普及させたヒエロニュムスのイメージをエラスムスが繰り返し利用したのは、世俗の学問において自分が彼と同等の役割を担っていることを示し、北方人文主義という運動を際立たせるためであったという[13]

このようにして、エラスムスの思想の戦略的な構築性に徹底的に焦点を当てることは、彼の思想を内在的に一貫したものとして捉えることが困難であるという問題を回避するうえで、有効な方法の一つであるかもしれない。しかしながら、それがエラスムスの思想の持つ価値を十分に汲み尽くしているかどうかはまた別の話である。ジェイムズ・トレイシーはグラフトンやジャーディンのアプローチを批判したうえで、まったく異なる視点からエラスムスの思想に向き合う必要があることを示唆している。彼もまた、「良き学芸」(美学と倫理の統合)や「学識ある敬虔」(古典とキリスト教の統合)といった理想が完全には成功していないことを認めている。ところが、だからこそ同時代の人びとはこうした理想に大きな関心を寄せていたとも言えるのである。なぜなら、これらの理想が意味を持つのは、当時の読者自身がおそらく感じていたであろう、大切ではあるが一見相容れない価値の間の緊張を解消しようとする試みだったからである[14]。トレイシーによれば、「「学識ある敬虔」は[ジャーディンやグラフトンの言う]トリックのようなものではなかった。それは 16 世紀の文化的・宗教的緊張に対して有効な応答であった。そして、もしわたしたちが、エラスムスにとって、また多くの彼の同時代人たちにとって、それがどのように「意味があった」のかを再構築することができなければ、わたしたちはただ自分自身を貧しくするだけである」[15]。このような主張は、ポストモダニズム的な解釈にしばしば見られる、ニヒリズム的な態度に対する痛烈な批判でもあって、トレイシーの方法はハンス=ゲオルク・ガダマーの『真理と方法』[16]に基づいていた[17]。テクストの理解においてもっとも重要なのは、すなわちつぎのことである。「わたしたちの理解の条件は、著者が言っていることを、わたしたちが理解しようとする努力に価するものであると仮定することである」[18]

ところで、こうしたアプローチはエラスムスが実際に述べていたことにも少なからず通じているように思われる。さきにも見たように、ジャーディンの解釈では、エラスムスがヒエロニュムスのイメージを繰り返し利用したのは、世俗の学問において自分がこの教父と同等の役割を担っていることを示すためであった。それに対して、エラスムスが自ら編纂したヒエロニュムス著作集の序文には、つぎのような文章がある。「書物のなかで、偉大な人たちは死んだ後でさえもこの世のために生き続けます。しかも彼らは生前よりも死後の方がより多くの人びとに、より効果的に語りかけることができるのです。彼らはわたしたちと会話し、指導し、なにをすべきなのか、なにをすべきでないのかを教え、忠告と励ましと慰めを、だれよりも誠実に、だれよりも易しく与えてくれます。事実、彼らがわたしたちのためにもっとも生き生きとした姿を見せてくれるのは、彼ら自身が生きることを止めたときなのです。わたしの考えでは、もしある人がキケロと数年にわたり親しく会話したとしても、キケロが書いたものを絶えず読み、毎日彼の精神と会話している人ほど、キケロのことを知っていないでしょう」[19]

こうした記述からは、エラスムスが自分の生き方を省みるために教父や古典作家の著作を読み、彼らと対話するようにして書物と向き合っていたことがわかる。そしてそれは、後世の潜在的な読者をも念頭に置きつつ、彼が自分の読者に期待した態度でもあったはずである。興味深いことに、アルブレヒト・デューラーが描いたエラスムスの肖像画には、ギリシア語で短い文章が刻まれており、それがこの精神をもっとも端的に表現している。「彼の著作は彼をもっとよく表している」(ΤΗΝ ΚΡΕΙΤΤΩ ΤΑ ΣΥΓΓΡΑΜΜΑΤΑ ΔΕΙΞΕΙ)[20]。ウィリアム・バーカーは、2021年に上梓したエラスムスの最新の伝記のなかで、これらの点を指摘しつつ、つぎのように述べている。「わたしたちにとって、完全に透明なテクストというものはない。それはパフォーマンスであり、構築物であり、書き手の動機や意図、私的な考えを明らかにすることもできるし、また隠すこともできるのである。エラスムスがわたしたちに求めているのは、このような疑念を脇に置くことである」[21]。これは、大いに注目すべき指摘であるように思われる。

2.エラスムスの実存的問題

さて、エラスムス研究において重要なテーマの一つは彼の少年期から青年期(修道院時代)にかけての経験にある。若き日のエラスムスについて歴史家が利用できる史料は乏しい。基本史料は彼が少年時代について回顧した書簡(Ep. 296, Ep. 446, Ep. 447)や『略伝』(Compendium vitae)であり、その記述には必ずしも一貫性がないため、生まれた年でさえ研究者の間で見解が一致していない(なお、1466年説と1469年説が有力である)。新しい文書史料が時折発見されることもあるが、彼の幼少期について知ることができるのは、基本的には彼自身の証言からであると言ってよい。しかもそれはずっと後になってから回顧されたものである。さらに、そうした自伝的叙述の背景には、彼が非嫡出子であることと、修道士としての身分のまま修道院を離れて世俗の生活を送っていることに関して、教皇からの特免を得るという明確な目的があった。そのため、少年期から青年期にかけてのエラスムスの経験を復元しようと試みる場合、彼の証言を現実の表現として認めるべきか、あるいはむしろ何十年か後にフィクションを交えて構築されたものとみなすべきか、という問題がどうしてもつきまとう。もちろん、どちらか一方が決定的に正しいということはなく、実際には両方の可能性が混在している。

たとえば、エラスムスが1516年に教皇特使ランベルトゥス・グルニウス[22]に宛てた書簡では、フローレンティウスという架空の主人公を自分の分身として作り出し、その友人の第三者であるという設定で自分とその兄の幼少期の悲惨な境遇について語っている。この手紙の冒頭にはつぎのようにある。「わたくしは事柄の全体をきわめて忠実にあなたに描いてお見せするつもりです。というのも、わたくしが弁護するのは子供の頃からの知り合いであって、ほとんど自分自身と同じくらいよく知っているからです。この問題に関する多くのことを、わたくしは聞いただけでなく目で見ていたのです。ところが、これはあまりにも非道な話であって、わたくし自身ほとんど涙なしに語ることができません。自然の善意をもっておられるあなたのことですから、きっと涙を浮かべずに〔この手紙を〕読まれることはないでしょう」[23]。この書簡は、エラスムスが教皇からの特免を得るためにアンドレア・アンモニオの協力のもとに準備した計画の一部であり、エラスムスの訴えを教皇に直接伝えることになっていたウスター司教シルヴェストロ・ジリのために書かれたと考えられている[24]。エラスムスは実際に二度の特免を得た(1506年にユリウス二世から、1517年にレオ十世から)。また、アンモニオはおそらくこの書簡のことを指して「あなたの作り話(commentum)につねに賛同いたします」と述べている[25]。もっとも、だからといって、この書簡で語られた幼少期の悲惨な境遇が事実ではないということにはならないが、架空の主人公を登場させた物語りの形式で語られているという点には注目してよいだろう。

また、エラスムス自身の手になる『略伝』(Compendium vitae)[26]のなかには、彼が自分の両親の悲劇的な恋愛譚を語る興味深い箇所がある。それによれば、彼の父親は十人兄弟の末っ子で名をヘラルトといい、母親の名はマルガレータであった。二人は結婚を約束していたが、ヘラルトの両親や兄弟たちはこのことに難色を示したようである。これだけ家族がいるのだから一人ぐらいは神に捧げるべきであるということで、彼らはヘラルトを司祭にする心積もりであった。エラスムスは以下のように続ける。「ヘラルトは、みなが一致して自分たちを結婚させないようにしていることが分かると、絶望した人間におきまりのことをしました。ひそかに逃げ出してしまったのです。彼は道すがら、両親と兄弟に手紙を送りました。両手で握りしめたその手紙にはつぎのように書かれておりました。「さようなら、もうあなたたちとお会いすることはないでしょう」。さてその頃、彼が残していった婚約者は妊娠しておりました。その子[エラスムス]は祖母のもとで育てられました。ヘラルトはローマへと向かっておりました。[……]ヘラルトの両親は、彼がローマにいることを知ると、結婚を望んでいた女はもう死んでしまったと書き送りました。この話を信じたヘラルトは、悲嘆するあまりに司祭となり、心の全てを宗教へと向けたのです。故郷へ戻った彼は自分が騙されていたことを知りました。しかしながら、その後、彼女は結婚を望むことなく、ヘラルトもまた彼女に手を出すことはありませんでした」[27]

これは、物語の最後に主人公があのエラスムスの父親であったという事実が明かされるチャールズ・リードの人気小説、『僧院と炉辺』(1861年)[28]のモチーフとなった一節である。こうしたエラスムスの出生にまつわる話は、部分的にフィクションであることが明らかにされている。ジュゼッペ・アヴァルッチは1983年に、エラスムスの父親が書き写したとされる二つの写本の発見を公表したが、その写本に記されていた1457-8年という年号は彼がこの時期にイタリアに滞在していたことを示しており、母親の妊娠中にローマにいたというエラスムスの証言とは一致しない[29]。さらに、クン・ハウドリアンは2017年にユトレヒト文書館(Het Utrechts Archief)で発見した新史料に基づいて、ヘラルトはイタリアからロッテルダムに戻った後にマルガレータと結ばれ、よくある普通の家庭のように、幼いエラスムスが兄や母親ととともに父親の家で暮らしたという仮説を立てている[30]。その真偽はどうあれ、エラスムスが施した創作は、司祭の子として生まれたという当時としては恥ずべき、そしてまた彼の聖職者としての経歴にも傷をつける出生の秘密を隠すためのものであったと考えられる。この物語に三歳年上の兄ピーテルがまったく登場しないのは、両親の関係性にこれとは別の構図が生じてしまうのを防ぐためか、同じく聖職者であった兄への配慮のためであるか、あるいはまたその両方の理由のためであったかもしれない[31]

より重要な証言としては、エラスムスが自身の身体的・精神的な性質について述べている箇所がある。エラスムスは少年時代にペストにより相次いで父と母を失ったため、後見人となった彼の親族たちの意向で、大学に進学したいという本人の意におそらく反する形で、スヘルトーヘンボスの共同生活兄弟会が運営する寄宿寮に送られた(1484年頃)。そこで三年近くを過ごした後、ステインのアウグスティヌス修道司祭会の修道院に入り、修練士としての予備期間を過ごしてから修道誓願を立てた。その後、1493年にカンブレー司教ヘンドリック・ファン・ベルヘンのラテン語秘書として修道院の外に出ることとなり、それから死ぬまで修道生活に再び戻ることはなかった。彼はこのとき修道士としての身分のまま世俗の世界に出たため、つねに修道院に呼び戻される恐れがあり、実際、彼が所属する修道院の長となったかつての友人セルウァティウス・ロゲルスは、エラスムスに帰還を促している。この要請に対する返答のなかで、エラスムスは教皇から特免を得たことを伝え、修道院生活と結びつく自身の身体的・精神的な苦しみについて、繰り返し訴えている。

「いくらか特異な体のためか、断食にはいつも耐えることができませんでした。一度眠りから覚めると、幾時間かたたないと再び眠りにつくことができませんでした。心は文学ばかりに奪われていましたが、そこでは親しまれていませんでした。もしいくらか自由な生き方に巡り合っていたなら、私は幸せな者の中にだけでなく、善き者の中にも数えられていたであろうと信じています」[32]。エラスムスの初期の思想形成を、彼の少年期から青年期にかけての経験と結び付けて解釈しようとする場合に、このような身体的・精神的苦悩について語られている箇所はとくに注目すべきであるように思われる。彼の身体的な虚弱さは生涯にわたって継続したようだ。「最後に思い浮かんだのは体の弱さです。年齢と病と労苦によってさらに弱り、あなた方を満足させることもできそうにありませんし、私自身を死に追いやりそうなほどです。実際この数年、結石に悩まされており、それは大変悪く深刻で、命にかかわるほどです。またこの数年、ワイン以外のものは飲んでいません。しかもどんなワインでもよいのではなく、病が必要とするワインです。私はどんな食べ物にも、どんな気候にさえも耐えられません。この病は再発しやすいので、もっとも適度な生活を要求します」[33]。こうした描写は、エラスムスがモンテーギュ学寮に滞在していたときの様子をも彷彿とさせる。さきに見たグルニウス宛の書簡にもつぎのようにある。「いまやこうした生活様式が、自分の魂にもか弱い体にもふさわしくないことがほとんど明らかになったのです。というのも魂にとり勉学以外に心地よいものはなにもなかったからです。しかしその場所では、勉学のためのいかなる名誉も実践もありませんでした。他方で、彼は敬虔がいやというわけではなかったのですが、彼ら[修道士たち]の生活のほとんど全体を占めているような儀式や祈りに心惹かれることはありませんでした」[34]

自分の身体的・精神的気質に修道生活がまったく適していないという、これらの証言をどのように解釈すべきだろうか。修道生活から逃れるためのただの方便に過ぎないのだろうか。ジェイムズ・マッコニカの評伝は、修道生活に関するエラスムスの否定的な記述を特免許可の申し立てに結びつけている[35]。トレイシーでさえ、エラスムスが断食や夜通しの祈祷に耐えられなかった明らかな証拠はなにもないと断言している[36]。伝記の著者たちは、こうした記述が事実であることを否定しないまでも、この時期のエラスムスの経験の記述を彼の友人関係や文学サークルの形成に向ける傾向があるようだ[37]。そうした側面は、たしかに修道院時代に書かれた書簡[38]や著作(『現世の蔑視』の1-11章)から確認することができるからである。エラスムスは自らの意に反して修道院に入ったのだろうが、そこでの実際の環境は彼が後に語るほどに悪いものではなかったと考えられている。古典作家たちの著作を読む機会にも恵まれたし、趣向を共にする仲間を作ることもできた。もちろん、良き学芸に理解のない修道士はいたが、この新たな学問に心惹かれる者も多かった。詩人としてのエラスムスの姿を描き出したハリー・ヴレーデヴェルトによれば、「二十一歳の彼にとって、予備期間は当然不安な時期であった。しかし、それと同時に新しい友情と知的な興奮に満たされた時期でもあった。ピーテルと共に過ごしたスヘルトーヘンボスでの鬱屈した年月を経て、ステインはまさに「ムーサの庭」のように見えたに違いない」[39]

このような側面に注目することが、エラスムスの思想形成を辿るうえで多くのことを明らかにしているのはたしかである。だが、ロス・ディアリーは、2017年に上梓した『エラスムスにおけるキリストの哲学のストア派的起源』[40]において、エラスムスが証言する身体的・精神的苦痛が真実であることを認めたうえで、それらを彼の思想形成の過程と直接結びつけることによって、従来の研究とはまったく異なる新たなエラスムス像を描き出すことに成功した。ディアリーが批判しているのは、従来の研究がエラスムスの証言の正確性や真実性の問題に焦点を当ててきたために、彼が格闘していた苦痛の存在が、彼の精神的な成長にとってきわめて重要であったという事実が見過ごされてしまい、その結果、現在のエラスムス研究に大きな空白が生じてしまったということである[41]。外的な要因に注目して彼の思想の構築性にいくら焦点を当てたとしても、彼の思想を導く内なる論理についてはなにもわからないままである。そしてこのことがわからないのであれば、そこから生まれたエラスムスの思想の意味をどうして理解することができるだろうか[42]。ディアリーがまず明らかにしたのは、エラスムスが抱えていた身体的・精神的な苦しみは決してフィクションなどではなく、現実の深刻な悩みであったということである。この認識のもとにディアリーは、彼の初期の著作にこの実存的な問題と格闘した跡を読み取り、そこに彼の思想の核となるものを探ろうとした。その際にディアリーが注目したのが、『イエスの煩い、恐れ、悲しみについての小討論』(Disputatiuncula de taedio, pavore, tristicia lesu、以下、『煩いについて』と略す)という、エラスムスの著作のなかでもほとんど知られていないテクストである[43]

『煩いについて』は、エラスムスの最初の本格的な神学的著作でもあった。この論文は1499年10月にオックスフォードでジョン・コレットとはじめて出会った際の討論に端を発しており、書簡を通じて議論が継続した後、『蛍雪余論』(Lucubratiunculae)に『エンキリディオン』とともに収録されて出版された(1503年)。コレットとの討論の主題は、マタイ26章39節、マルコ14章36節およびルカ22章42節に描かれている、ゲッセマネの園におけるキリストの恐怖の性質である。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」[44](マルコ 14:36)。キリストは、一見ここで自らの死を遠ざけようとしているように見える。エラスムスとコレットの論争の焦点は、キリストが自らの死を恐れていたのか、それとも、頭として自らの体に生じるであろう事柄(使徒の離反、ユダヤ人とエルサレムの破滅、殉教者たちの苦難)を恐れていたのかである。

コレットは後者の立場を採った。キリストは人類の救済のために死を引き受けた。それにもかかわらず、その彼が自分の死を恐れていたなどと主張するのは、彼の完全な愛を軽んじることにつながるというのである。したがって、キリストが恐れていたのは自分の死ではなく、自分の体の死でなければならない。「頭と体は一つです。キリストはその四肢の弱さを自らに引き受け、彼らのために煩われ(taeduit)、嘆かれ(moestus)、悲しまれ(contristus)、恐れられ(pavet)、苦しまれ(agonizavit)、血の汗をお流しになったのです。というのも、これらの言葉はすべて福音書に書かれているからです。苦い死の杯を過ぎ去らせてくださいと父に祈られたのは、彼らのためでした。つまり、自分からというのは、自分の体であるところの、ペテロ、パウロ、殉教者たちからという意味です」[45]。これに対してエラスムスは、人性を自らの意志で引き受けたイエスが、人間としての自然本性により自らの死を恐れたのだと主張した。「そこで、わたしはアカデミア派が用いている伝統的な方法によって以下のことを示しましょう。すなわち、イエスが聖母から受け取った本性によって、まったき真なる人間として、自らの死を恐れられ(reformidasse)、恐怖された(exhorruisse)こと。人間の感情(affectu)によって[死からの]赦しを祈られ、人間の意志によって[死を]拒絶されたこと。そしてこのために、イエスは煩われ、死に至るまで悲しまれ、血の汗を流され、苦しまれたということです」[46]

ゲッセマネの園におけるキリストの描写は、キリスト仮現説を採るグノーシス派や単性論者との論争の争点でもあり[47]、エラスムスとコレットの議論には教父や中世の神学者たちの見解が繰り返し登場する。コレットとエラスムスは、スコラの討論形式を批判するという点においては一致していたが、コレットが初期教父(とくにエラスムスが傾倒していたヒエロニュムス)の見解を採用する一方で、意外にもエラスムスはその結論においてスコラ神学(エラスムスが新しいと呼ぶ神学者たち、特にベーダやボナヴェントゥラ)の立場を採る。以下では、ディアリーの研究に依拠しつつ、このテクストから初期エラスムスの哲学的人間観について見ていくことにしたい。

3.嵐に遭遇した哲学者

エラスムスは、死を恐怖することが人間にとってだけでなくあらゆる生物にとっての自然本性であり、植物でさえ危険なものを遠ざけようとすると考えていた。アリストテレスによれば、もっとも原初的な生物である海綿でさえ、漁師の発する音を感じ取ると恐怖に満たされて全身を強く収縮させる[48]。「自然本性にとって死よりも有害な(infensum)ものはない。死の役割は絶滅をもたらすことであり、生きとし生けるものすべてがそれを恐怖する」[49]。こうした自己保存の考え方の基盤を成していたのは、エラスムスの場合、ストア派のオイケイオーシス(οἰκείωσις)という概念であった[50]。オイケイオーシスとは、ギリシア語で「同族の、類縁的、属する」を意味する日常語であるが、ストア派はそれによって専門的な概念を表現している[51]。この概念が意味するのは、端的に言えば、すべての動物が自然によって自己保存の衝動(ὁρμή, appetitio)を持つということである。キケロの『善と悪の究極について』では、カトーによってつぎのように説明されている。「動物は生まれるやいなや―なぜならここから出発しなければならないのですから―、自分自身が自分自身に対して親近であるようにされ、自分自身を維持することと、自分の(身体の先天的な)あり方、およびそのあり方を維持しているようなものに愛着をもつことを委ねられます」[52]。また『義務について』にはつぎのようにある。「そもそも自然があらゆる種類の生物に授けた性質として、生けるものはみな自己の生命と身体を守り、害になると思われるものは避け、生きるために必要であるものはすべて、たとえば、食物、住処といった類のものを探して用意する。同様にすべての生き物に共通するのが生殖を目的とした交接への欲求であり、生まれてきたものに対してもつ愛着である」[53]

この概念はストア派に独自のものであって、ストア派倫理学の基盤として非常に重要な位置を占めていた。エラスムスはこの自己保存の原理であるオイケイオーシスを人間の自然本性として規定しなおすことで、人間であることを自らの意志で引き受けたキリストは、その人間としての自然本性のために自らの死に恐怖したのだと考えた。そのため、エラスムスは死への恐怖という本物の感情をキリストに帰したのである[54]。ディアリーによれば、これはまったく独創的な考え方であり、彼自身の若い頃の実存的な問題に対する認識とストア派のオイケイオーシス概念に基づいて、キリストの受難に関する千年にわたる神学的見解に修正を迫ったのだという[55]。エラスムスはこの際に、正統ストア派の考え方をそのまま踏襲したわけではなかった。注目すべきは、彼が自分自身の経験に基づいて、ストア派の考え方を大胆に修正したということである[56]。以下ではまず、感情に関する正統ストア派の見解を確認した後で、エラスムスがそれにどのような修正を施したのかを見ていこう。

まず、「無感動」(apatheia)を理想とする正統ストア派は、悲しみや恐れといった感情を人間の自然本性であるとは認めなかった。ストア派が賢者に認めるのは、「適切な感情」(eupatheia)[57]と「前感情」(propatheia)のみである。アウルス・ゲッリウスの『アッティカの夜』は、船上で嵐に遭遇したストア派の哲学者についての逸話を伝えているが、そこではストア派の前感情に関する標準的な説明がなされている。この逸話はエラスムスの議論の重要な焦点でもあるので、その概要をまず簡単に紹介しておきたい[58]

ゲッリウスがブルンディシウムに向けてイオニア海を航行していた折、ひどい嵐に遭遇したことがあった。彼が乗船した初日の夜、激しい横風が吹き付けて船は浸水してしまった。ゲッリウスと乗員たちが必死に水をくみ出しているうちに夜が明けたが、それでもまだ風が弱まることはなく、つむじ風はさらに頻度を増し、暗然たる空には霧がかかり、恐ろしい形状の雲が垂れこめていた。この船にはアテナイで活躍した高名なストア派の哲学者が乗り合わせていたので、ゲッリウスは彼がいったいどのような精神状態(statu animi)にあるのか、このような嵐の中でも落ち着いていられるのか(intrepidus)を是非とも知りたいと思った。ところがゲッリウスが実際に目にしたのは、ほかの人たちのように叫び声をあげたりはしていないものの、怖気づいており、顔色や表情もほかの人とほとんど大差のない哲学者の姿であった。しばらくして、空と海がようやく落ち着きを取り戻し、危険がすべて過ぎ去った後で、アシアから来たとあるギリシア人の金持ちがこの哲学者に近づいてつぎのように言った。「いったいどういうことですかな、哲学者殿。わたしたちが危険に晒されたとき、あなたは恐怖し顔面蒼白でしたが、わたしは恐怖など感じず顔も青ざめておりませんでしたよ」。哲学者はこの男に理由を明かすことはなかったが、ゲッリウスが恐怖の原因について尋ねてみると、彼はエピクテトスの『語録』第五巻(今は失われている)をかばんから取り出し、それを読むように勧めたという。

ゲッリウスはこの描写に続く箇所で、エピクテトスによるストア派の感情理論の説明を報告している。その説明は『煩いについて』のなかで、エラスムスがコレットに帰している主張とおよそ同じものである。コレットはつぎのように述べている。「あなた[エラスムス]は、理想の賢者についてのストア派の見解を十分に扱っておりません。ストア派は一人として賢者にσυγκαταθέσεις、すなわち「同意」(assensiones)を認めておりませんし、φαντασίας、すなわち悪の心象によって突然もたらされる恐慌(expavescentiam)を承認しないのです。[……]彼らは賢者に過度の永続的な恐慌を承認せず、大きな悪の心象が突如として感覚を襲い、王たる理性が判断する前に魂に混乱をかき立てるときにのみそれを許します。しかし、感覚をおびえさせるこの誤った悪の心象が、実際には悪ではないと理性が認識するやいなや、理性は直ちに王笏を握り、魂を宥め、精神を落ち着かせます。最後に、あなたがキリストに見出したこと、つまり、死を拒み、死を恐怖することを、自分の賢者に認めたストア派がいたでしょうか。彼らは賢者からσυγκαταθέσειςを遠ざけますが、あなたはそれをキリストに帰しております。恐慌を感じること(expavescere)と恐怖すること(metuere)は異なるのです。賢者は恐慌を感じることはありますが、恐怖することはありません。なぜなら、賢者は悪のほかになにも恐怖する必要がなく、醜悪なこと(turpitudinem)のほかに悪がないことを知っているからです」[59]。要するに、嵐に遭遇した哲学者の顔が青ざめたのは、突然大きな音が響けばだれでも驚くのと同じように、外部からもたらされた心象によって人体が反射的な反応を示したからであり、そうした心象に理性が同意することによって真の感情が生じたからではなかった。したがって、賢者は前感情としての恐慌を感じることはあるが、感情としての恐怖を感じることはないのである。コレットの見解は、ゲッリウスが伝えるストア派の感情理論を正しく踏襲している。

これに対してエラスムスは、ストア派のこの説明には重大な欠陥があることを明らかにしている。重要な箇所なので長めに引用したい。

さて、あなたの主張では、わたしのストア派は、理性が自分を取り戻すまでの間にのみ、精神を一時的にかき乱す恐慌を賢者に認めるのであって、そのような恐怖が生じるのは、心象、つまり「恐ろしい幻影」が突如として感覚に到来したときだけであるということでした。それはともかくとして、あなたが恐慌と呼ぶものはいったいなんでしょうか。理性を圧倒し茫然自失とさせてしまう大きな動揺、いわばパニックのように心を乱すものでしょうか。わたしは、そのような恐ろしいものをキリストに押し付けるつもりはありません。それとも、あなたの言う恐慌とは、差し迫った悪に対する煩わしく苦しい恐れのことでしょうか。この恐れはたしかに心の情動に強烈な感覚を打ち付けますが、心をその場から引き離すものではありません。これはあの恐ろしい心象からつねに生じているのではなく、むしろ心から体へと広がるものなのです。そしてこの恐れは理性を用いることを遮るのではなく、差し迫った害悪の大きさを吟味することで、理性そのものから生じているのです。[……] この後者の恐れは、差し迫った害悪がある限りは必ず持続します。先ほどわたしたちが言及したゲッリウスの物語に登場するストア派は、嵐が荒れ狂う間ずっと怖気づいており、海が静まり空が晴れるまで、いつもの表情を取り戻すことができなかったのではないでしょうか。その間、彼はずっと心の苦しみから逃れてはいませんでしたが、理性がはたらいていなかったわけではありません。哲学者は自分の心に抵抗していたのです。そうでなければ、彼は十分に勇敢ではなかったのです。わたしたちにとって、闘いとは自然本性を相手にするのではなく、自分自身の欠点を相手にするものなのです[60]

ここは『煩いについて』のなかでもとりわけ難解な箇所であるが、重要なのは、エラスムスが嵐に遭遇した哲学者の話に、外部に起因する心象によってもたらされる恐慌とは別のメカニズムの恐怖の存在を読み取っていることである。ディアリーはこの箇所におけるエラスムスの論理を極めて詳細に分析しているので、それを簡単に要約してみよう[61]。ゲッリウスとコレットがこの逸話を取り上げたのは、ストア派の心象と前感情の理論を説明するためであった。それに対してエラスムスは、この場面における前感情の説明には重大な欠陥があると考えている。というのも、ストア派は恐怖に二つのタイプが存在することを見逃していたからである。恐怖には外部に起因する心象から生じて体から心へと広がるタイプ(ストア派)と、内部の理性から生じて心から体へと広がるタイプ(エラスムス)という二種類のものが存在する。ゲッリウスとコレットは、前者の恐怖を前感情としてストア派の哲学者に当てはめているが、この嵐の場面で哲学者が実際に経験したのは後者のタイプの恐怖だったというべきである。というのも、彼は心象によって心が突然衝撃を受けたためではなく、船が転覆し自分が溺れて死ぬかもしれないという差し迫った害悪を理性によって認識したために、まず心に恐怖が生じそれが顔色や表情に伝達したと考えるべきだからである。実際、哲学者の恐怖は一晩中続いていたのであり、人体の反射的な反応のように一瞬で過ぎ去ったわけではなかった。もし嵐が一週間続いたならば、哲学者の恐怖もそれだけ継続したであろう。このような死の危険に対して恐怖を感じることは、死を遠ざけようとするオイケイオーシスに起因する人間の自然本性であり、それは理性が麻痺するということを意味するわけではない。

以上のように、エラスムスはゲッリウスが伝えるストア派の感情理論を大胆に書きかえることで、人間が死を恐れる感情をオイケイオーシスにまで拡大し、それが自然本性であるという主張を展開した[62]。そしてこの主張の帰結としてなによりも重要なのは、恐怖のような感情は人間の自然本性に起因するがゆえに、その有無はある人の道徳的な価値を判断するうえでまったく意味をなさないということである。エラスムスは恐怖を感じたストア派の哲学者と、恐怖を感じることのなかったアシア出身の金持ちとを比べてつぎのように述べている。「あなたはどちらの方が勇気があると思いますか。もしかしたら、どちらでもないというかもしれませんね。しかし、どちらか一方を選ばなければならないとすれば、それは哲学者の方でなければならないでしょう。だが彼の顔は青ざめていたではないかと、あなたはおっしゃられます。そのとおりです。彼は人間でした。賢明で学識があり、勇敢で、哲学者で、さらにはストア派でありました。彼は死が賢者にとって悪でも醜悪なものでも、恐ろしいものでもないことを学んで、教えてきた人なのです。そう、彼はまったくこのような人物でしたが、それでも人間でなくなることはできなかったのです。こうして彼は自然本性に駆られて恐怖に陥ったのです」[63]

4.勇気には恐怖を根絶する力があるのか

だが、そうとは言っても、真に勇気のある人は恐怖を感じることなどない、勇気(fortitudo)には恐怖を感じなくさせる力があるはずだ、と反論する人にはどのように答えることができるだろうか[64]。エラスムスにとってはむしろ、自然に反するものに無感覚でいるということは、勇気から程遠く、野蛮で(immanis)愚かで(stupidi)、自己の感覚が欠如している(suique sensu carentis)ことを意味する。勇気とは、自然に反するものに対して鈍感でいることではなく、むしろ恒心をもってそれらに打ち勝ち、最後まで耐え抜くことである(constanti pectore vincere ac perpeti)。したがって、危険が迫ったときに心が怖気づき(exhorrescit animo)、顔が青ざめ、心臓の鼓動が速くなり、血の気が引いて、苦痛からうめき声を上げたとしても、それらは勇気が備わっていないということの証拠にはならない。勇気に欠けているというのは、危険を恐れるあまり、立派な仕事を放棄してしまう人のことを言うのである。差し迫った危険に対して無感覚でいるということは、勇気があるどころの話ではなく、人間性の欠如を意味しているのかもしれない。「目前にある害悪を感じることがないということは、樹木と同じであり、人間ではなく、生きてさえいない」[65]。そのような人は、危険を理解することのできない幼児や狂人や酔っ払いと同じであり、哀れみ(miseria)によって判断されるべき対象であるとされる。

エラスムスはさらに古典的な英雄の事例を挙げる[66]。たとえば、アエネアス、デキウス父子、ムキウス・スカエウォラ、マルクス・クルティウス、マルクス・アティリウス・レグルス、アッティカ王コドルス、テベス王メノエセウスである。歴史書には、栄光ある死を覚悟した高潔な英雄たちが数多く登場する。だが、エラスムスによれば、そうした彼らであっても危険を前にしてまったく動じることなく、ただ獰猛な獣のように運命に突き進んでいったと考えることはできない。彼らは賢明であったので、危険の大きさがわからないということはなかった。彼らは人間であったので、危険に近づくにつれて心が抵抗を感じ、血の気が失せて、鼓動は速くなった。しかし、彼らは勇敢であったので、自らの務めを立派に果たすことができたのである。もし、兵士が顔色を失ったという理由で、報酬を剥奪するための不当な裁判を起こされたとすれば、彼はつぎのように自分を弁護するだろう。「わたしの心と体が消耗したのは、悪徳のためでも美徳のためでもなく、自然と必然(necessitatis)のためである」[67]

しかし、勇気があったと考えられている古典的な英雄のなかには、恐怖を感じなかった人物がいたこともたしかである。エラスムスはアテナイの将軍フォキオンとソクラテスの事例を挙げている[68]。フォキオンは死の間際に、「なぜあなたは無実の罪で死ななければならないのか」と叫ぶ妻に対して、微笑みながら「妻よ、わたしが有罪で死んだ方がいいのか」と聞き返した。また、ソクラテスは断罪されたときにも表情をまったく変えることがなかったという。それだけでなく、処刑の日が迫っているというのに安らかに眠ることができた。デロス島からの船が到着すると告げられても、少しも動じなかった。ついに最後の日が来ても、彼は今までの人生となんら変わるところなく、友人たちと陽気に議論し、深刻な話題にも時折冗談を交えていた。ドクニンジンを飲み干すときも、まるでいつものワインを飲んでいるかのような表情だったという。

フォキオンやソクラテスが恐怖を感じなかった理由について、エラスムスは通常の考え方に反して、きわめて注目すべき説明を与えている。なんと彼らが恐怖を感じなかったのは、彼らの徳や精神的気質によるものではなく、彼ら自身に固有の性質(naturae proprietate)と身体的気質の結果に過ぎないというのである[69]。したがって、ソクラテスはドクニンジンを飲むときに表情が変わらなかったから勇気があったと見なされるべきではない。同じ状況で彼の顔がたとえ青ざめていたとしても、それは彼が勇敢ではないという証拠にはけっしてならないのである。恐怖を感じること、恐怖を感じないこと、それらは勇者にも臆病者にも、賢者にも鈍感な者にも共通する。「このように、恐怖を感じないということは、身体的気質やその他の自然な原因に関係しているため、賢者に求めるべきではありませんし、痛みを感じない人(ἀνάλγητῳ)や感覚がない人(ἀναισθήτῳ)に勇敢であるという名声を与えるべきでもありません」[70]

ここで注目したいのは、自然本性のつぎにエラスムスが各人の性質という重要な論点を挙げていることである。恐怖を感じることは、人間の自然本性によって避けることができないが、それをどれだけ強く感じることになるかは各人の性質に応じて異なる(稀にまったく感じない人もいる)。そして、この各人の性質もまた自然によって生まれつき与えられたものであるがゆえに、道徳的な価値の指標と見なされてはならない。さらに言えば、エラスムスは痛みや恐怖を生まれつき感じにくい人よりも、身体的な欠点が大きく苦痛に弱い人の方が徳を積むチャンスは大きくなると考えていた。「自らの過ちによるのではない自然の困難は、徳を積むための素材と機会を増やしてくれます」[71]

エラスムスがここまで人間の自然本性にこだわり続けるのはどうしてだろうか。ディアリーは、感情と理性に関するエラスムスの特殊な理解の仕方ほど自分自身の経験に基づいて書かれた箇所はないと指摘し[72]、エラスムスがそうした理解に至るまでの過程をつぎのように説明している。「エラスムスは、やむことのない自由への憧れと、身体的欲求(社会的・宗教的な慣習と対立しやすい)を捨てることができなかった。あるいは捨てようとはしなかった。彼はこうした願望や欲求が、あらかじめ決定づけられていたと確信するようになった。苦悩の末に、彼は自分の精神的・身体的気質には責任がないと深く信じたのである。自分自身に固有の気質や身体的欲求は深く染み付いたものだから、意志の力をどれだけ発揮したとしてもそれらを克服することはできない。それは、彼がいつも自由を求め、特殊な身体的欲求を抱えていたというだけの話ではない。このような特性には、深い根源的な理由があったのだ。それらは植え付けられたものであり、本来的に変えることが不可能なものであり、生まれながらにして刻みこまれた人間本性であると信じるに至った。彼が苦しんだのは、多くの状況において、社会が彼の特殊な衝動と特殊な身体的欲求を受け入れなかったからだけではない。さらにもっと本質的なこととして、彼の特別な人間本性が、彼自身の選択の問題ではなかったことを、社会が理解しようとしなかったからである」[73]

5.ゲッセマネの園におけるキリストの感情メカニズム

エラスムスは、これまでに見てきたような人間の自然本性をキリストに与えることにより、ゲッセマネの園におけるキリストは人間としての自然本性により自分の死を恐怖したのだと考えた。だが、それでもコレットは愛と恐怖が両立不可能であると断じて主張し続ける。「愛(caritatis)には、自然本性を克服し完成させる力があります。飢えは自然のきびしい害悪でありますが、並外れた愛(amor)はこの感覚を払いのけるのです。たしかに死は強力ですが、愛(dilectio)はより強く、死そのものを望ましいものに、さらには喜ばしいものにすることもできます」[74]。コレットは、エラスムスがもっとも完全な愛ともっとも過酷な恐怖を火と水のように混ぜ合わせることで、キリストをキマイラ(Chimaeram)のような存在にしてしまったと批判する。

これに対して、エラスムスもたしかに、ある強い感情がほかの感情や身体的な感覚を打ち消す可能性があること、さらにまた過酷なものを快いものに見せることが愛の性質であることを認める[75]。しかし、そうであっても恐怖のような感情の有無は、愛の大きさを判断する要因にはならない。なぜなら、もしそのような基準で判断するならば、熱意(alacritas)をもって自ら進んで死に臨んだ殉教者たちの愛は、熱意を外的に示すことのなかったキリストよりもはるかに完全であったということになってしまうからである。エラスムスによれば、殉教者たちが愛によって熱意に満たされるプロセスには二つの段階が存在する[76]。まず、愛が恐怖を払いのけて、つぎにこの恐怖があった場所に熱意が注入されるのである。もし、愛の力によってキリストが恐怖を感じることがなかったと主張するのであれば、前者だけがあって後者がないことを説明できない。

さらに、驚くべきことにエラスムスは、もし外的な基準で愛の大きさを判断するのであれば、殉教者が示す愛の力にはなんら特別なところがないということを示唆する。たとえば、それは罪深い恋人たちの愛と変わるところがない。「冬の凍てつく夜、冷たい北風の中で、恋人たちは情熱に燃え上がります。一晩中眠らずにいても疲れをしらず、空腹も覚えず、亡霊(larvarum)や死霊(lemurum)に襲われたとて恐怖とはなりません。要するに、愛のない人には耐えがたいようなことでも、恋人たちには大したこととは思われないのです。彼らはどれほど大胆に危険を受け入れることでしょう!傷や死もよろこんで迎え入れます。死でさえも甘美である彼らを、なにがひるませるというのでしょうか」[77]

キリストが感じた恐怖については、殉教者や恋人たちのような感情のプロセスをあてはめることはできない。エラスムスはこれとは別の感情のメカニズムが存在すると主張する。それは、愛か恐怖かのように、片方を認めればもう片方が消えると考えるのではなく、二つの異なる感情が共存する場合である。エラスムスによれば、キリストは最大の喜びと最大の苦痛を両方同時に感じていたのであり、一方が他方を打ち消すことはなかったという。それぞれの感情が同時に生じていたのである。だが、そのような感情のはたらきはいったいどのようにして可能となるのだろうか。

エラスムスはそれを人間学の三区分法から説明する。つまり、人間の心には三種類の異なる衝動(nisum animi)があるとする説である[78]。第一は、霊に属しており徳性(honesta)に関わる衝動。第二は、肉に属しており悪徳(turpia)に関わる衝動。第三は、この両者の中間に位置し、徳性にも悪徳にも惹きつけられることがないが、自然にとって好ましいものに関わり、人の生存や平穏を脅かすものに反発する衝動である。第一の衝動は、判断力(judicio)と恩恵(gratia)に、第二の衝動は堕落(depravatione)に、第三の衝動は自然の情動(naturali affectu)に由来する。エラスムスは肉による第二の衝動をキリストから完全に排除するが、これらの衝動は同時に別々に機能することができると考える。それは、一人の人間がなにかを望むと同時に恐怖することがあるのと同じである[79]。この議論は、のちに『エンキリディオン』において発展する人間の三区分法(霊・魂・肉)を先取りするものであり、オリゲネスによる同様の区分法を踏襲しているかのように見える。しかし、重要なのは、ディアリーが指摘するように、エラスムスがオリゲネスの議論に施した大胆な修正の方である。オリゲネスの新プラトン主義的な解釈では、魂の役割は霊と肉のどちらにも向かうことのできる自由な選択意志にあるのであって、魂はそれ自体に固有の性質を備えた独立した存在ではない[80]。それに対してエラスムスの説明では、魂とは徳性にも悪徳にも惹きつけられることのない、自然本性に由来する機能を持つまったく独立した存在である[81]。魂にこのような独立した性質を与えることで、別々の感情のはたらきが可能となる。

だがそれにしても、なぜキリストは死の前夜に、人間の救済を願う気持ちが恐怖よりもはるかに勝っていたにもかかわらず、喜びではなく恐怖の徴を示すことを好まれたのか。このような疑問をコレットが持つだろうということを想定して、エラスムスはつぎのように答える。すなわち、それは勇猛(animositatis)ではなく、温和(mansuetudinis)と忍耐(patientiae)と従順(obedientiae)の模範を示すためである[82]。キリストが神性ではなく人性の証を示したのは、人間たちがただキリストを称賛するのではなく、彼を愛し模倣する(aemularemur)ためである。「熱意を示してもわたしたちには役立たなかったでしょうが、彼が悲嘆を示されたことはわたしたちに役立ちました」[83]。これはきわめて重要な指摘である。というのも、エラスムスがキリストの模倣について語るとき、その念頭にあったのがどのような理想であったかを教えてくれるからである。それは、『キリストに倣いて』のように修道院的な禁欲の延長線上にある「新しい敬虔」の理想であったのではなく、弱い人間の感情にどこまでも寄り添い、人間への愛から恐れ悲しんだキリストという理想であって、それこそが意志によっては根絶することのできない彼の実存的な問題から自由になることを可能にしたのである。「大胆不敵な心で拷問に臨み、まさにその苦しみのなかにあって、なにか立派で勇ましいことを述べるのは、高邁(Gloriosa)で野心的(ambitiosa)です。しかし、キリストは自分の死がもっとも不名誉なもの(ignominiosissimam)となることを望んだのです。[……] おそらく、大きな苦悩のなかにあって、自然本性に逆らって熱意を示すことをわたしたちに求めておられないからこそ、キリストは自分自身においてもそれを示すことを望まれなかったのでしょう」[84]。「救われるためには、試練を耐え抜くだけで十分であるということにわたしは満たされているのです」[85]

6.小括

『煩いについて』では、エラスムスがいかに哲学的な方法で自身の経験的な問題にアプローチし、それをキリストの受難の解釈に適応したかを見ることができる。結局のところ、エラスムスは修道院生活の禁欲主義や殉教者たちの英雄主義のようなものにまったく共感することができなかった。もしそのような形で信仰の深さをはかるのであれば、自分が救われないということをよくわかっていたからである。この問題から解放されることができたのは、死を前にしても人間的な感情によってまったく動じることのない超人的なキリストではなく、自らの意志で人間の本性を引き受け、恐怖という真の感情に苦しみつつ耐えたキリストを発見したからであった。そうだとすれば、エラスムスもまたルターと同じように、この時代の宗教的な環境と彼個人の性質との齟齬がもたらした軋轢を経験し、救われないという強烈な感覚を覚えたところから思想的な発展がもたらされたのである。しかし、劇的な回心の経験(塔の体験)がエピソードとして語られるルターの場合とは対照的に、そのような決定的な瞬間を欠くエラスムスの内面的な契機が、彼の神学思想の発展と結びつけて語られることはほとんどなかった。

道徳的な責任を負う必要のない自然本性を軸に構成されたエラスムスの議論は、彼が苦しんだ外面性からの解放をもたらすものであった。しかしながら、それが『エンキリディオン』において一般信徒のための生活の手引きに変わると、そうした解放的な側面は一気に影をひそめてしまう。カーク・エッサリーは、『煩いについて』と『エンキリディオン』では、感情の把握の仕方がまったく異なることを指摘している[86]。ハイコ・オーバーマンは・・・。外面性からの解放は、すべてをキリストに集中させる徹底的な内面性の信仰と表裏一体であり、『エンキリディオン』ではこの後者の側面が発展させられることになったのである。

[1] William Barker, Erasmus of Rotterdam: the spirit of a scholar, Reaktion Books, 2021, pp. 21-22.

[2] William Barker, Erasmus of Rotterdam: the spirit of a scholar, Reaktion Books, 2021, p. 42.

[3] 佐藤繁彦訳『ルッターの「卓上語録」』グロリヤ出版、1981年、227頁。

[4] James D. Tracy, “Erasmus among the postmodernists: Dissimulatio, Bonae Literae, and Docta Pietas Revisited”, in Hilmar M. Pabel (ed.), Erasmus’ Vision of the Church, Truman State University Press, 1995, p. 10. トレイシーによれば、「「偽装する」(“dissimulating”)エラスムスがそれでも「意味を持つ」(“make sense”)と主張したいのであれば、意識的にせよ非意識的にせよ、解釈の理論に基づいてそうしなければならない」(p. 40).

[5] Bruce Mansfield, Erasmus in the twentieth century: interpretations, c 1920-2000, University of Toronto Press, 2003, p. 42.

[6] Anthony Grafton and Lisa Jardine, From humanism to the humanities: education and the liberal arts in fifteenth- and sixteenth-century Europe, Harvard University Press, 1986, p. xii.

[7] Tracy, op. cit., p. 25.

[8] Anthony Grafton and Lisa Jardine, op. cit., p. xii.

[9] Ibid., pp. xiii-xiv.

[10] Ibid., p. 144; Tracy, op. cit., p. 26.

[11] Anthony Grafton and Lisa Jardine, op. cit., p. 145.

[12] Lisa Jardine, Erasmus, man of letters: the construction of charisma in print, Princeton University Press, 1993, pp. 3-7.

[13] Ibid., p. 4.

[14] Tracy, op. cit., p. 27.

[15] Ibid., p. 38.

[16] ハンス=ゲオルク・ガダマー(轡田収・他訳)『真理と方法-哲学的解釈学の要綱』(I・II・III)法政大学出版局、1986-2012年。

[17] Tracy, op. cit., pp. 7-8.

[18] Tracy, op. cit., p. 8.

[19] Ep. 396, Allen 2, p. 212, CWE 3, p. 256.

[20] Barker, op. cit., p. 18.

[21] Ibid., p. 19.

[22] このグルニウス(ラテン語で「豚のように鳴く」という意味)なる教皇特使自体が架空の存在であり、その名前は三世紀頃の作者不詳の『子豚の遺言状』という作品に出てくるグルニウス・クロコッタという子豚から取られたのかもしれない。CWE 4, p. 6.

[23] Ep. 447, CWE 4, p. 8.

[24] Ep. 447, CWE 4, pp. 6-7.

[25] Ep. 453, Allen 2, p. 318, CWE 4,

[26] エラスムスの真筆であるという信憑性を疑う研究者もいるが、現在ではエラスムスが書いたということは概ね合意されているようだ。

[27] Allen 1, pp. 47-48. CWE 4, pp. 403-404.

[28] Charles Reade, The cloister and the hearth, E.P. Dutton, 1906.

[29] Koen Goudriaan, “New Evidence on Erasmus’ Youth”, Erasmus Studies, 2019, pp. 184-185.

[30] Ibid., pp. 193-199.

[31] Erika Rummel, Erasmus, Continuum, 2004, pp. 2-3.

[32] 柳沼正広訳「エラスムス「セルウァティウス・ロゲルス宛書簡」(1514 年7 月)-翻訳と解題」『創価大学人文論集』21号、2009年、78頁。

[33] 同論文、79頁。

[34] Ep. 447, CWE 4, p. 19.

[35] J・マッコニカ(高柳俊一・河口英治訳)『エラスムス』教文館、1994年、18-19頁。

[36] James D. Tracy, Erasmus of the Low Countries, University of California Press, 1997, p. 22.

[37] ヨハン・ホイジンガ(宮崎信彦訳)『エラスムス―宗教改革の時代』筑摩書房、2001年、25-34頁。Cornelis Augustijn (trans., J. C. Grayson), Erasmus: His Life, Works, and Influence, University of Toronto Press, 1991, pp. 22-23.

[38] たとえば、セルウァティウス・ロゲルスやウィレム・ヘルマンス、コルネリス・ヘラルトに宛てた書簡がある。

[39] CWE 85-86, p. xiv.

[40] Ross Dealy, The Stoic Origins of Erasmus’ Philosophy of Christ, University of Toronto Press, 2017.

[41] Ibid., pp. 83-86.

[42] Ibid., p. 86.

[43] 従来、エラスムスの初期の神学思想を検討する場合、『エンキリディオン』を中心に論じられることが多かったが、ディアリーは『煩いについて』がエラスムスの初期の思想形成を理解するうえで決定的な役割を果たすことを示した。この著作は、近年のエラスムス研究において特に注目されていると言ってよい。デボラ・シュガーが『ルネサンス期の聖書』において指摘したのは、単一の支配的な感情により統一された「調和的」な自己という聖人伝のモデルにかわって、エラスムスが『煩いについて』のなかで、自己分裂、脱中心化、不協和音によって特徴づけられる複雑な主体を描き出し、それがカルヴァン派の受難物語の解釈に通じているということであった。Debora Kuller Shuger, The Renaissance Bible: Scholarship, Sacrifice, and Subjectivity, University of California Press, 1994, pp. 103-104. この視点をカーク・エッサリーは2017年に出版した『エラスムスとカルヴァン、神の愚かさについて』において引き継いでいるようだ。Kirk Essary, Erasmus and Calvin on the Foolishness of God: Reason and Emotion in the Christian Philosophy, University of Toronto Press, 2017, pp. 128-161. また、ライニーア・ルースハウスは、『煩いについて』と新約聖書『パラフレーズ』に共通するエラスムスの感情理論に注目したうえで、新約聖書『パラフレーズ』においては、ミメーシスにより読者の感情を捉える文学的な登場人物としてキリストが描き出されていると主張した。Reinier Leushuis, “Emotion and Imitation: The Jesus Figure in Erasmus’s Gospel Paraphrases”, Reformation, 22-2, 2017, pp. 82-101.

[44] 聖書からの引用は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』1987,1988年、による。

[45] LV 5, pp. 1268-1269, CWE 70, p. 21.

[46] LV 5, pp. 1269-1270, CWE 70, p. 23.

[47] CWE 70, p. 3.

[48] CWE 70, p. 33.

[49] LB 5, p. 1271; CWE 70, p. 25.

[50] Dealy, op. cit., pp. 83, 106-107, 111-112.

[51] A・A・ロング(金山弥平訳)『ヘレニズム哲学』京都大学学術出版会、2003年、261頁。

[52] キケロー(永田康昭・兼利琢也・岩崎務訳)「善と悪の究極について」『キケロー選集10』岩波書店、2000年、171頁。

[53] キケロー(高橋宏幸訳)「義務について」『キケロー選集9』岩波書店、1999年、134頁。

[54] Dealy, op. cit., p. 185.

[55] Ibid., p. 186.

[56] Ibid., pp. 151-152.

[57] ストア派はつぎの三つを「適切な感情」として認める。「よろこび」(kharā)、「意欲」(boulēsis)、「注意」(eulabeia)。

[58] Gellius (trans., J. C. Rolfe), Attic Nights, Volume III, Harvard University Press, 1927, pp. 348-355.

[59] LB 5, p. 1275; CWE 70, pp. 35-36.

[60] LB 5, p. 1277; CWE 70, p. 40. ” Interim quod ajebas, Stoicos meos non concedere sapienti, nisi momentaneam expavescentiam, quae tantisper mentem hominis perturbet, donec se colligat ratio. Deinde non accedere ejusmodi pavori, nisi cum repente sensibus incurrit φαντασία, hoc est, species formidabilis. Ut ista sic habeant, quid tu tandem appellas expavescentiam? An enormem perturbationem, & quasi πανικόν anmi tumultum, qui prorsus obruta ratione, me mihi ipsi eripiat? Absit, ut ego portentum istiusmodi instituam in Christo. Sin expavescentiam dicis, molestam ac cruciabilem reformidationem imminentis mali, quae sensum quidem accerbum incutiat affectibus animi, neque tamen eum loco dimoveat, haec neque semper exoritur ex visis illis terrificis, imo vero ex animo demanat in corpus. Et adeo non excludit rationis usum, ut ex ipsa ratione nascatur, videlicet, imminentis mali vim perpendente. [……]Haec posterior tamdiu perseveret necesse est, quamdiu premit impendens malum. An non Stoicus ille Gellianus, de quo paulo ante meminimus, tamdiu pavit, quamdiu saeviebat tempestas, neque prius omnino pristinum vultum recepit, quam mare deferbuisset, & enituisset caelum? Non ille interim vacabat animi dolore, neque tamen non vigebat ratio. Sed obluctabatur Philosophus ille animo suo, ni fecisset, parum fortis futurus. At nobis non cum natura, sed cum vitiis luctamen est. ”

[61] Dealy, op. cit., pp. 171-173.

[62] Ibid., pp. 114-115.

[63] LB 5, pp. 1272-1273; CWE 70, p. 29.

[64] LB 5, p. 1272; CWE 70, pp. 27-28.

[65] LB 5, p. 1272; CWE 70, p. 28.

[66] LB 5, pp. 1272-1273; CWE 70, pp. 28-30.

[67] LB 5, p. 1273; CWE 70, p. 30.

[68] LB 5, p. 1274; CWE 70, p. 33.

[69] LB 5, p. 1274; CWE 70, p. 34.

[70] LB 5, p. 1275; CWE 70, p. 34.

[71] LB 5, p. 1275; CWE 70, p. 35.

[72] Dealy, op. cit., p. 173.

[73] Dealy, op. cit., p. 95.

[74] LB 5, p. 1278; CWE 70, p. 41.

[75] LB 5, p. 1279; CWE 70, p. 42.

[76] LB 5, p. 1280; CWE 70, pp. 44-45.

[77] LB 5, p. 1280; CWE 70, p. 43.

[78] LB 5, p. 1287; CWE 70, p. 60.

[79] LB 5, p. 1289; CWE 70, p. 63.

[80] Dealy, op. cit., p. 129.

[81] Ibid., pp. 131-132.

[82] LB 5, p. 1289; CWE 70, p. 64.

[83] LB 5, p. 1289; CWE 70, p. 65.

[84] LB 5, p. 1290; CWE 70, p. 65.

[85] LB 5, p. 1280; CWE 70, p. 46.

[86] Kirk Essary, “Enduring Erasmus”, Church History and Religious Culture, 97-3/4, 2017, p. 332.

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ヨガを定期的にレッスンしたい方や、豊富なバリエーションからヨガピラティスだけで無く、ボクササイズキックボクササイズHIITなどのエクササイズをしたい方には、立川駅徒歩1分、国内唯一の、イタリア溶岩石「バサルティーナ」を使用した、立川溶岩ホットヨガスタジオ「オンザショア」をおすすめしたいと思います。バサルティーナは火山石の中で最も美しい色調と流れがある溶岩石で、古代ローマの時代より建築家に愛されてきました。現在も国内外の有名ブランドや、美術館などにも好まれて利用されています。イタリア中部バーニョレッジョで採掘されるバサルティーナについて、また溶岩石の効果についてより詳しくお知りになりたい方はこちらをどうぞ!

スタジオ名立川エリア唯一の溶岩ホットヨガスタジオ「オンザショア」
住所〒190-0012 東京都立川市曙町2丁目14−10 エトロワビル 3F
TEL042-595-8039
事業内容溶岩ホットヨガ、ピラティス、キックボクササイズ、ボクササイズ、HIIT、バトルロープ、総合格闘技、パーソナルトレーニングなど
特徴50種類の豊富なレッスンと早朝から深夜まで開催しているヨガのレッスンなど
対応エリア立川、西国分寺、国分寺、国立、昭島、東大和、日野、青梅、あきる野、府中、武蔵村山、福生、羽村、八王子など
定休日年中無休
URLhttps://ontheshore.jp/

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