『ヨーガ・スートラ』の第一章、二番目の句は、ヨガそのものの定義として知られています。「ヨーガとは、心のはたらきを止滅することである」(ヨーガ・チッタ・ヴリッティ・ニローダハ)。短い一句ですが、意味を取り違えやすい言葉でもあります。心を止めるとは、何も感じなくなることなのか。無になることなのか。ここでは、この一句を手がかりに、西洋哲学の問いと突き合わせながら、「心を扱う」とはどういうことかを考えてみます。

『ヨーガ・スートラ』という書物

『ヨーガ・スートラ』は、パタンジャリという人物が編纂したと伝えられます。成立年代には諸説あり、紀元後四〜五世紀ごろとする見方が有力ですが、それ以前から伝わっていた実践の知識を集成したものと考えられています。

スートラとは「糸」を意味し、記憶しやすいように極限まで切りつめられた短句を指します。そのため、単独で読むと意味が取りづらく、古来より注釈とともに読まれてきました。五世紀ごろのヴィヤーサによる注釈が代表的で、後世の理解はこの注釈に大きく依っています。

構成は四章。第一章が三昧について、第二章が実践の方法について、第三章が超常的な能力とされるものについて、第四章が解脱についてです。現代の実践者がよく参照するのは第一章と第二章で、八支則もここに出てきます。第三章の記述には神秘的に響く部分もありますが、それらは当時の思想的文脈のなかで書かれたものであり、字義どおりの効能として受け取る必要はありません。

チッタ・ヴリッティ・ニローダを読み解く

三つの語に分けてみます。チッタは心、あるいは心のはたらき全体を指す語です。私たちが「意識」「思考」「記憶」と呼び分けているものを、ひとまとめにした概念だと考えるとよいでしょう。

ヴリッティは、渦、回転、変化を意味します。心が絶えず形を変えながら動いている、そのひとつひとつの動きです。『ヨーガ・スートラ』はこれを五種類——正しい認識、誤った認識、想像、睡眠、記憶——に分類します。注目したいのは、正しい認識までもが「鎮められるべき動き」に数えられている点です。誤りを正すのが目的ではなく、動きそのものが主題なのだと分かります。

ニローダは、止滅、停止、制御と訳されます。この語をどう理解するかで、ヨガ観が変わります。力ずくで押さえつけることか、それとも自然に鎮まることか。多くの注釈は後者に近い読み方をします。第一章のこの定義に続いて、実践(アビヤーサ)と離欲(ヴァイラーギャ)という二本柱が示されるのも、押さえつけではなく条件づくりを重んじる構成として読めます。

止滅は「無感覚」ではない

誤解をほどいておきます。心のはたらきが鎮まった状態とは、感覚が失われることでも、感情が消えることでもありません。『ヨーガ・スートラ』は続く第三句で、その状態においては「観る者が本来の姿にとどまる」と述べます。

つまり止滅とは、何もなくなることではなく、覆いが晴れることです。風が止んだ湖面を思い浮かべると分かりやすいかもしれません。波立っているあいだは、水面は空の色も自分の顔も歪めて映します。波が収まっても水が消えるわけではなく、ただ映るものが歪まなくなる。心の動きも同じで、なくなるのではなく、歪ませなくなるのです。

第四句はさらに率直です。それ以外のときには、観る者は心のはたらきと自分を同一視してしまう、と。怒りが起きているとき、私たちは「怒りを観察している」のではなく「私は怒っている」になっています。この同一化こそが、この書物の見立てる苦しみの構造です。

西洋哲学の側からの照らし返し

ここで、まったく別の伝統からの問いを重ねてみます。近代西洋哲学もまた、「私」と「心のはたらき」の関係を執拗に問うてきたからです。

デカルトは、疑いうるものをすべて疑ったあとに「考えている私」が残ると考えました(「我思う、ゆえに我あり」)。思考する働きこそが自我の存在の根拠だ、という立場です。これは『ヨーガ・スートラ』とほぼ正反対の方向を向いています。パタンジャリの側からすれば、思考は観られる側であって、観る者そのものではないからです。

カントは、また別の角度から迫りました。私たちは世界をそのまま受け取っているのではなく、時間・空間という形式や、因果性といった枠組みを通してしか経験できない、と論じます。だとすれば、経験のなかに現れる「私」もまた、その枠組みを通して現れたものにすぎず、認識の働きを可能にしている当のものは、対象として捉えられない。カントが「統覚」と呼んだこの問題は、対象化できない観る者を立てるインド思想の議論と、意外なところで交差します。

二十世紀の現象学者フッサールは、日常の判断をいったん括弧に入れる態度(エポケー)を方法として定式化しました。世界が存在するという確信を、否定するのではなく、いったん働かせないでおく。この「否定でも肯定でもなく、いったん手を止める」という操作は、ニローダの理解にも示唆を与えてくれます。

似ていることと、同じであること

ここで慎重になっておきたい点があります。異なる伝統の概念を並べると、つい「言っていることは同じだ」とまとめたくなりますが、それは多くの場合、乱暴です。

カントの認識論は、学問としての形而上学がどこまで可能かという問いから出発しています。フッサールの関心は厳密な学の基礎づけにありました。いっぽう『ヨーガ・スートラ』は、苦しみからの解放という実践的な目的を明確に持っています。目的が違えば、似た形の議論も別の意味を帯びます。

それでも比較には価値があります。異なる出発点から歩いた人たちが、似た地形にぶつかっている——その事実は、そこに何か扱いにくい問題が実在することを示唆します。「私」を対象として捉えようとすると必ず取り逃がす、という経験は、どの伝統においても報告されているのです。

八支則という道すじ

『ヨーガ・スートラ』の第二章は、この止滅にいたる実践を八つの段階(アシュターンガ、八支則)として示します。ヤマ(他者との関わりにおける戒め)、ニヤマ(自分に対する心がけ)、アーサナ(坐法・体位)、プラーナーヤーマ(呼吸の調整)、プラティヤーハーラ(感覚の制御)、ダーラナー(集中)、ディヤーナ(瞑想)、サマーディ(三昧)の八つです。

注目したいのは、順序です。最初の二つは、身体の技法ではなく生活態度です。嘘をつかない、盗まない、必要以上に溜め込まない、清潔にする、満足を知る——こうした日常の整えが、坐法や呼吸法より先に置かれています。日々の生活が乱れたままで、坐っているあいだだけ心が澄むということはない、という現実的な認識がここにあります。

そして、身体(アーサナ)と呼吸(プラーナーヤーマ)が、感覚・集中・瞑想の手前に置かれます。心に直接手をつけるのではなく、扱えるところから順に整えていく。禅で言う調身・調息・調心とまったく同じ順序であることは、当サイトの「禅と只管打坐」のコラムでも触れたとおりです。

五つのクレーシャ——苦しみの原因

第二章の冒頭近くで、『ヨーガ・スートラ』は苦しみの原因を五つ挙げます。クレーシャ(煩悩)と呼ばれるものです。無知(アヴィディヤー)、自我意識、快への執着、苦への嫌悪、生への渇望の五つで、なかでも無知が他の四つの土台になっているとされます。

ここでいう無知とは、知識がないことではありません。永遠でないものを永遠だと思い、自分でないものを自分だと思う——そうした取り違えを指します。冒頭で見た「心のはたらきと自分を同一視する」構造が、ここでも繰り返されているわけです。

この分析の実践的な価値は、苦しみを人格の問題として責めない点にあります。あなたが弱いから苦しいのではなく、認識の構造がそうなっているから苦しい。だから責めるかわりに、構造のほうに手を入れる。ヨガが「訓練」という語彙で語られるのは、この見立てがあるからです。

実践——どこから手をつけるか

理論を、練習に落としてみます。もっとも取り組みやすいのは、アーサナの最中に「観る者」と「観られるもの」を分けてみる練習です。

たとえば、太ももに強い張りを感じたとき。「つらい」で終わらせずに、「太ももの前側に、熱をともなう張りの感覚がある」と言い直してみます。事実の記述に置き換えるだけで、感覚と自分のあいだにわずかな隙間が生まれます。この隙間が、『ヨーガ・スートラ』の言う同一化からの距離です。

呼吸も同じです。息を吸っている、吐いている、と気づいているものは、息そのものではありません。当たり前のことですが、意識してみると不思議な感触があります。ドリシュティ(視線を一点に定めること)が有効なのも、注意を安定させることで、この観る位置を保ちやすくなるからだと理解できます。

そして、練習の質を測る目安として役に立つのは、ポーズの深さよりも「気づくまでの時間」です。注意がそれてから、それたことに気づくまでの時間。これが短くなっていくことは、心を扱う練習の確かな進歩です。数値化はできませんが、自分では分かります。

おわりに——古典を読む楽しみ

『ヨーガ・スートラ』は全四章、二百近い短句からなります。分量としては小さな本ですが、注釈なしで読み通すのは難しい書物です。日本語訳には、注釈の量も文体も異なるものが複数あり、二種類を並べて読むと、訳語の選択がそのまま解釈の違いであることが見えてきて面白いものです。

そして、読んで理解することと、実際に鎮まることは別です。この点について古典自体が率直で、実践を長く、途切れさせず、真摯に続けることによってのみ確かなものになる、という趣旨を述べています。理解が先か実践が先かを決める必要はありません。マットの上で気づいたことが本を読み解く鍵になり、本の一句が次の練習の入口になる——その往復のなかに、この古典の読み方があるように思います。

オンザショアでは、レッスンのなかでこうした背景に触れることもあります。哲学の知識がなければヨガができないということはまったくありませんが、自分がいま何をしているのかを言葉で捉え直せると、練習は続けやすくなります。ご興味のある方は、レッスンの前後にお気軽にお尋ねください。

※本記事は古典思想の紹介であり、特定の信仰の勧誘や、健康上の効果を保証するものではありません。訳語や解釈には諸説があり、ここでは代表的な理解を紹介しています。

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宮川涼 Founder
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