ヨガのクラスの最後、シャヴァーサナや短い瞑想の時間に、「何もしない」ことの難しさを感じたことはないでしょうか。動いているあいだは集中できていたのに、じっとした途端に頭のなかがにぎやかになる。この「何もしない」を七百年以上前から正面から扱ってきたのが、日本の禅、とりわけ道元の伝えた只管打坐(しかんたざ)という実践です。ヨガとは系統の異なる伝統ですが、身体を通して心に触れるという発想は深く重なります。
禅はどこから来たのか
禅は、インドに生まれた仏教の瞑想(ディヤーナ)の伝統が、中国に伝わって独自の展開をとげたものです。ディヤーナという語が中国語で「禅那」と音写され、略されて「禅」になりました。ヨガの八支則の第七支、ディヤーナと同じ語であることは、意外に知られていません。同じ根を持つ言葉が、一方はインドでヨガの一段階となり、一方は中国・日本で一つの宗派の名になった、というわけです。
中国禅の伝説的な祖とされるのが達磨(ボーディダルマ)です。壁に向かって坐り続けたという面壁九年の逸話で知られますが、史実としての細部は明らかではありません。確かなのは、経典の言葉の解釈よりも、坐ることそのものを重んじる流れが中国で強まり、それが日本へ伝わったことです。
道元と『正法眼蔵』
日本の曹洞宗を開いた道元(一二〇〇〜一二五三)は、若くして比叡山で学び、当時の仏教に疑問を抱いて中国(宋)へ渡りました。帰国後に著したのが、『正法眼蔵』という膨大な思想的著作と、『普勧坐禅儀』という坐禅の手引きです。
道元が抱えていた問いは、有名なものです。人はもともと悟りの本性を備えているというなら、なぜあらためて修行する必要があるのか——。この問いに対する彼の答えが、修証一等(しゅしょういっとう)という考え方でした。修行は悟りにいたるための手段ではなく、修行そのものがすでに悟りの現れである、という立場です。
この転回は、実践する側にとって大きな意味を持ちます。到達点を未来に置いて今日を手段にするのではなく、今日坐っているそのことが目的そのものになる。前回のコラムで触れた『バガヴァッド・ギーター』のカルマ・ヨーガ——結果への執着を手放して行為に集中する——と、驚くほど近い場所に立っていることが分かります。
只管打坐——ただ坐る
只管打坐とは、文字どおり「ひたすらに坐る」ことです。何かを念じるのでも、心を空っぽにしようと格闘するのでもなく、坐るという行為をただ行う。目的を持たずに坐るところに特徴があります。
禅の伝統には、もうひとつ公案を用いる系統(臨済宗など)があります。「隻手の声(片手の音を聞け)」といった、論理では解けない問いを与えられ、それと格闘するなかで思考の枠組みを突き破ろうとする方法です。曹洞の只管打坐は、これとは対照的に、課題を与えず、坐るという形式そのものに委ねます。どちらが優れているという話ではなく、心へのアプローチの型が違うと考えるのが適切でしょう。
坐り方については、『普勧坐禅儀』が具体的に説いています。厚めの坐蒲を敷き、足を組み、背筋を伸ばし、耳と肩、鼻とへそを対応させる。目は閉じず、半眼で斜め前の床に落とす。呼吸は鼻から静かに。この「目を閉じない」という指示は、ヨガの瞑想と異なるところで、眠りに落ちることと、内側の世界に入り込みすぎることの両方を避けるためだと説明されます。
どれくらい坐るのか——一炷という単位
坐禅の一回の時間は、伝統的に線香一本が燃え尽きるまでとされ、これを一炷(いっちゅう)と呼びます。おおよそ四十分前後です。禅堂では、これを一日に何度もくり返します。
ただ、初めての人がいきなり四十分坐る必要はありません。多くの寺院の坐禅会でも、初心者には短い時間から勧められます。大切なのは長さより、姿勢を崩さずに終えられる範囲で区切ることだと言われます。五分でも、途中で足を組み替えずに終えられたなら、それは一回の坐禅として成立しています。ヨガの練習も同じで、九十分のクラスに出られない日に五分だけマットに坐る——その五分を「やらなかったよりまし」ではなく、それ自体で完結した練習と数えられるかどうかが、続くかどうかの分かれ目になります。
非思量——考えないのではなく
坐禅を説明するときによく引かれるのが、「非思量」という言葉です。ある僧が師に「坐っているあいだ、何を思っているのですか」と尋ねると、師は「思量しないところを思量する」と答える。「それはどうやって」と重ねて問うと、「非思量」と返される——という古い問答が、『普勧坐禅儀』にも取り入れられています。
これは、頭を空白にすることではありません。思考を追いかけて展開させるのでもなく、思考を無理に押さえつけるのでもない、第三の在り方を指しています。浮かんできた考えを、消そうとせずに、握りもしない。雲が空を通り過ぎるのを、空が引き止めないのと同じように。
実際に坐ってみると、この「押さえつけない」がいちばん難しいことに気づきます。雑念が出た瞬間に「だめだ」と評価し、その評価がまた次の雑念を呼ぶ。禅もヨガも、この連鎖から降りる練習だという点では共通しています。『ヨーガ・スートラ』が心のはたらきの止滅を説くときも、力ずくで止めることではなく、動きが自然に鎮まる条件を整えることが語られています。
坐禅と身体——痛みとどう付き合うか
坐禅を試した人がまず直面するのは、思想ではなく脚の痛みです。結跏趺坐や半跏趺坐に慣れていない身体では、十分もしないうちに膝や足首が悲鳴を上げます。
禅の伝統では、この痛みを我慢比べの対象とはしません。無理な組み方を続けて関節を痛めては本末転倒ですし、道元も坐り方については「安楽の法門」と述べています。楽に、安定して坐れることが前提なのです。実際、椅子に腰かけて坐る形(椅子坐禅)を用意している寺院も少なくありません。
とはいえ、多少の不快感が生じるのは避けられません。そこで役に立つのが、痛みを「取り除くべきもの」と「観察できるもの」に分けて扱う視点です。鋭い痛みやしびれは身体からの警告なので、姿勢を直すべきサインです。いっぽう、じわじわとした張りや退屈さは、反応せずに眺めていられる対象になります。この区別は、ヨガのアーサナでもそのまま使えます。伸びている感覚と、痛めそうな感覚を見分けること——長く練習を続けている人ほど、この見分けが上手になっていきます。
調身・調息・調心
東洋の身体技法を語るとき、調身・調息・調心という三つの言葉がよく使われます。身体を調え、呼吸を調え、その結果として心が調う、という順序です。
順序に意味があります。心を直接なんとかしようとしても、たいていうまくいきません。「落ち着け」と念じて落ち着けるなら、誰も苦労しないでしょう。しかし姿勢を変えることはできます。呼吸をゆっくりにすることもできます。心という直接には扱いにくいものに、身体と呼吸という扱えるものを経由して近づく——ヨガのアーサナとプラーナーヤーマの配置も、まったく同じ構造をしています。
坐禅の姿勢が細かく指定されるのは、形式主義ではなく、この理路によります。背骨が立てば呼吸が深くなり、呼吸が深くなれば心の速度が落ちる。順番を飛ばさないという知恵です。
マインドフルネスとの違い
近年、瞑想はマインドフルネスという名前で広く知られるようになりました。医療や企業研修の文脈で用いられ、ストレス低減の手法として研究も進んでいます。禅や仏教の瞑想を源流のひとつとしながら、宗教的な枠組みを外して整理された実践です。
両者は重なりますが、目的の置き方に違いがあります。マインドフルネスは、多くの場合、何らかの効果——集中力や情動の安定——を目的として実践されます。いっぽう只管打坐は、目的を持たないことを核に据えます。効果を求めて坐るなら、それは坐禅ではない、とまで言われます。
どちらが正しいという話ではありません。効果を目的にした実践には、続けやすさと検証可能性という強みがあります。ただ、「効果が出ないから意味がない」という発想に疲れている人にとっては、目的を持たない実践という選択肢があること自体が、ひとつの救いになることもあります。ヨガを続けるうえでも、この二つの態度を行き来できると、練習が長続きしやすくなります。
禅とヨガが出会うところ
日本では長らく、禅は宗教や文化の文脈で、ヨガは健康法の文脈で語られてきました。しかし実践の現場では、両者は自然に近づきます。呼吸を数える、姿勢を整える、感覚を眺める——技法のレベルで見れば、共通する要素は多くあります。
もともと、禅の「禅」がヨガの八支則のディヤーナと同じ語であることは先に触れました。系統としては、インドの瞑想の伝統が、一方は中国・日本へ、一方はインドの内部で体系化されて、それぞれ育っていったと考えることができます。姿かたちは違っても、扱っている素材——注意と呼吸と姿勢——は同じです。
だからこそ、片方の言葉が、もう片方の実践を照らすことがあります。ヨガの練習で「集中しなければ」と力んでしまう人には、非思量という禅の言葉が助けになるかもしれません。逆に、坐禅で身体が固まってしまう人には、ヨガのアーサナで身体をほぐしてから坐るという順序が有効です。伝統を混ぜて曖昧にする必要はありませんが、互いに学べることは少なくありません。
ヨガの練習に持ち帰れること
禅の考え方から、ヨガの練習にそのまま持ち帰れるものがいくつかあります。
ひとつは、シャヴァーサナの受けとめ方です。多くの人がこの時間を「ご褒美」や「休憩」と捉えますが、只管打坐の視点からは、ここが練習の中心とすら言えます。何もしないでいることに耐える練習、と言い換えてもよいかもしれません。落ち着かなくても、それを失敗と呼ばないところから始まります。
もうひとつは、日常の所作です。禅では、掃除も食事も坐禅と同じ修行として扱われます。歩く、坐る、片づける——ひとつの動作をそれだけとして行う。ヨガマットの上でできることは、実のところマットの外でも試せます。オンザショアのスタジオでも、レッスン後にマットを拭き、道具を戻すまでを含めて一連の時間だと考えていただけると、練習の質が少し変わってくるはずです。
最後に、道元の有名な一節を挙げておきます。「仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり」(『正法眼蔵』現成公案)。学ぶ対象は外にあるのではなく自分であり、しかもその探究は、自分に固執することから離れていく方向に進む。梵我一如を説いたウパニシャッドとも、心のはたらきの止滅を説いた『ヨーガ・スートラ』とも響き合う言葉です。
※本記事は思想と実践の紹介であり、特定の宗派への勧誘ではありません。また、瞑想の効果を医学的に保証するものでもありません。心身の不調がある場合は、まず専門機関にご相談ください。

