ヨガの歴史をさかのぼると、どこかで必ず「ウパニシャッド」という言葉に出会います。日本語では「奥義書」と訳されるこの文献群は、紀元前八世紀ごろから編まれはじめたと考えられており、のちのインド哲学のほとんどすべてが、ここを出発点にしています。現代のヨガのクラスで語られる「内側を観る」「本当の自分に還る」といった表現も、たどっていくとこの流れに行き着きます。ここでは、インド思想史の大きな地図を描きながら、ヨガがどこに位置しているのかを整理してみます。

ヴェーダからウパニシャッドへ——祭式から内省へ

インド最古の文献層はヴェーダと呼ばれます。『リグ・ヴェーダ』をはじめとする讃歌の集成で、神々への呼びかけと、それを支える祭式の言葉が中心を占めています。自然の力を神格化し、正しい手順で祭式を行うことで世界の秩序に働きかける——そういう世界観です。

ところが時代が下ると、この祭式中心の考え方に対して、内側からの問い直しが起こります。外の祭壇で火を焚くことよりも、その祭式に意味を与えている根本の原理は何なのか。人が生きて死ぬとはどういうことか。世界の背後にある一なるものは何か。こうした問いを、師と弟子が近くに坐って(ウパ・ニ・シャッド、「近くに坐る」がこの語の原義とされます)語り合った記録が、ウパニシャッドです。

この転回は、宗教史のなかでも大きな出来事でした。関心が、外の儀礼から内面の探究へ移った。ヨガという実践が育つ土壌は、このときにできたと言ってよいと思います。ちなみに、ウパニシャッドの一部には、呼吸の制御や坐法についての記述もあらわれます。身体を通して心を扱うという発想は、すでにこの時代に芽を出していました。

ウパニシャッドはひとつの本ではない

誤解されやすいのですが、ウパニシャッドは一冊の書物ではありません。伝統的に二百以上が伝えられ、そのうち古層とされるものが十数編あります。『ブリハッドアーラニヤカ』『チャーンドーギヤ』などが古く、思想的にも重要とされます。

成立の幅も広く、古いものは紀元前八〜六世紀ごろ、新しいものは中世に入ってから編まれたと考えられています。つまりウパニシャッドとは、ひとりの著者の思想ではなく、千年以上にわたる問いの積み重ねの総称です。内容も一枚岩ではなく、互いに食い違う記述が並んでいることも珍しくありません。この「言い切らなさ」こそが、後世にさまざまな学派が枝分かれしていった理由でもあります。

ブラフマンとアートマン——「梵我一如」とは何か

ウパニシャッドの中心概念は二つです。ひとつはブラフマン(梵)。宇宙の根本原理、すべてを成り立たせている一なるものを指します。もうひとつはアートマン(我)。個々の存在の奥にある、変わらない本質のことです。

この二つが、じつは同一である——これがウパニシャッド思想の到達点であり、日本語では「梵我一如」と呼ばれてきました。世界の根本と、自分のいちばん奥にあるものが、同じひとつのものだという主張です。

大胆な考え方ですが、その意味するところは意外に静かです。もしそれが本当なら、私たちが探しているものは、どこか遠くにあるのではないことになります。手に入れるべき何かではなく、すでにあるのに気づいていない何か。だから探究の方向は、外へ拡げることではなく、内へ深めることになります。ヨガが姿勢と呼吸という、きわめて身近な材料を扱いながら「探究」を名乗れるのは、この前提があるからです。

「タット・トヴァム・アシ」——父と子の対話

梵我一如を語る場面として名高いのが、『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』第六章です。父ウッダーラカが、学問を修めて戻ってきた息子シュヴェータケートゥに問いかけます。父は息子に、イチジクの実を割らせ、さらにその中の種を割らせ、「何が見えるか」と尋ねます。息子は「何も見えません」と答えます。

そこで父は言います。目に見えない微細なものから、この大きな樹が立ち上がっている。その見えない本質こそが世界の真実であり、「タット・トヴァム・アシ」——それがあなたである、と。塩を水に溶かして、どこをすくっても塩辛いことを確かめさせる場面も続きます。全体に行きわたっていて、目には見えないもの。それが自分だ、というわけです。

論証というより、比喩による気づかせ方です。ウパニシャッドの多くはこのように、日常の素材を使った対話の形で書かれています。読んでいて難解に感じるのは概念のせいで、語り口そのものは驚くほど身近だという点は、実際に手に取ってみると分かります。

業と輪廻、そして解脱

ウパニシャッドの時代に明確な形をとったもうひとつの考え方が、カルマ(業)と輪廻の思想です。行為はそれ自体で終わらず、痕跡を残す。その痕跡が次の生を方向づけ、生と死がくり返される——という世界観です。

そしてこのくり返しから抜け出すことが、モークシャ(解脱)と呼ばれます。インドの諸思想は、細部では激しく対立しながらも、「苦しみからの解放をめざす」という目的をおおむね共有していました。のちに成立する『ヨーガ・スートラ』が、心のはたらきの止滅を説き、その先に本来の自己が立ち現れるとしたのも、この文脈のなかでのことです。ヨガは、健康法である以前に、まず解放の技法として構想されました。

五つの鞘——身体をどう捉えてきたか

ヨガの実践に直接つながる考え方として、パンチャ・コーシャ(五蔵説)があります。『タイッティリーヤ・ウパニシャッド』に見られる枠組みで、人間を五つの層(鞘)の重なりとして捉えます。

いちばん外側が、食べ物からできた層(アンナマヤ・コーシャ)、つまり肉体です。その内側に、呼吸・生命エネルギーの層(プラーナマヤ)、心と感覚の層(マノーマヤ)、判断や識別の層(ヴィジュニャーナマヤ)、そして歓喜の層(アーナンダマヤ)が重なっている、とされます。

この見方の実践的な意味は、「身体を動かす」と「心を扱う」が別々の作業ではない、という点にあります。アーサナで肉体の層に働きかけ、呼吸法で生命エネルギーの層に働きかけ、集中と瞑想でより内側の層に向かう。ヨガの技法が段階的に組み立てられているのは、この層の重なりを前提にしているからです。硬い身体をほぐしているうちに気持ちまで整ってくる、というよく知られた経験も、この枠組みでは自然なこととして説明されます。

六派哲学のなかのヨーガ——サーンキヤという相棒

紀元前後になると、インドではさまざまな学派が体系を整えていきます。伝統的にヴェーダの権威を認める立場は、六派哲学として整理されてきました。サーンキヤ、ヨーガ、ニヤーヤ、ヴァイシェーシカ、ミーマーンサー、ヴェーダーンタの六つです。

このうちヨーガと最も近い関係にあるのがサーンキヤです。サーンキヤは世界を、プルシャ(純粋な精神原理・観る者)とプラクリティ(物質原理・観られるもの)という二つの原理で説明します。私たちが「自分」だと思っている身体・感覚・思考は、じつはすべてプラクリティの側に属している。純粋な観る者であるプルシャが、観られるものと自分を取り違えているところに苦しみが生じる——という見立てです。

ヨーガ学派は、この理論的な枠組みをおおむね共有しながら、そこに実践の方法論を与えたと理解されています。理論はサーンキヤ、実践はヨーガ、という分担です。クラスで耳にする「観察する自分と、観察される感覚を分けてみましょう」という言い方は、この二元論の実践版だと言うことができます。

三つのグナ——心の質を見分ける物差し

サーンキヤ由来の考え方で、日々の実感に近いのがグナの理論です。プラクリティは三つの性質(グナ)から成るとされます。サットヴァ(澄んだ、軽やかな質)、ラジャス(動き、興奮の質)、タマス(重さ、鈍さの質)です。

この三つは、心と身体の状態を言い当てる物差しとして使えます。落ち着かず何かをしていないと不安なときはラジャスが優勢で、何もする気が起きず重く沈んでいるときはタマスが優勢だ、といった具合です。善悪の判定ではなく、天気を見るように今日の質を眺める。そのうえで、ラジャスが強い日には呼吸を長くする練習を、タマスが強い日には身体を温める動きを選ぶ——実践の調整にそのまま使える枠組みです。

西洋へ渡ったウパニシャッド

ウパニシャッドは、十八世紀末にペルシア語訳を経てラテン語に訳され、ヨーロッパに伝わりました。哲学者ショーペンハウアーがこの訳を愛読し、「私の生涯の慰めであり、死においても慰めとなるだろう」という趣旨の言葉を残したことはよく知られています。彼を通して、インド思想は十九世紀の西洋の思想界に静かに浸透していきました。

二十世紀に入ると、今度は逆の流れが起きます。インドの思想家や実践者が欧米に渡り、ヨガが世界的に広まっていく過程で、身体技法としての側面が前面に出るようになりました。現在私たちが親しんでいるポーズ中心のヨガは、この近代の展開のなかで整えられた形だという指摘が、近年の研究では有力です。

つまり現代のヨガは、古代インドの思想をそのまま受け継いだものでも、まったくの新製品でもありません。長い時間をかけて往復してきた思想と技法の合流点にある——そう捉えておくと、古典を読むときにも、今日のクラスを受けるときにも、余計な神秘化をせずに向き合えるように思います。

なぜ現代のヨガに関係があるのか

現代のヨガは、健康や運動という文脈で語られることが増えました。それ自体は自然なことですし、身体が楽になることは十分に価値があります。ただ、背景にある思想を少し知っておくと、練習の受けとめ方が変わってきます。

たとえば「上達」という言葉です。梵我一如の発想からすれば、ヨガは足りない自分に何かを足していく作業ではなく、すでにあるものを覆っているものを取り除いていく作業だということになります。実際、『ヨーガ・スートラ』の議論も「得る」より「鎮める・取り除く」という語彙で進みます。できないポーズが減っていくことを進歩と呼ぶのか、自分の状態がよく見えるようになることを進歩と呼ぶのか。この違いは、練習の続けやすさにも関わってきます。

実践への接続

思想の話を、マットの上に降ろしてみます。おすすめしたいのは、練習の前後に一分だけ、自分の状態を言葉にしてみることです。今日は落ち着かないのか、重いのか、澄んでいるのか。グナの語彙を借りると、気分を良し悪しで裁かずに観察する助けになります。

もうひとつは、動いているあいだの「観る者」の感覚です。太ももが震えている、呼吸が浅くなった——そう気づいている何かは、震えや呼吸そのものとは別のところにあります。この当たり前の事実に注意を向けるだけで、感覚に飲み込まれにくくなります。オンザショアの溶岩ホットヨガは室温と湿度が高く、身体の感覚が普段より鮮明になります。観察の練習をするには、実のところ都合のよい環境です。

※本記事は、インド思想史の概説として書かれたものです。年代や解釈には研究上の諸説があり、ここでは代表的な見方を紹介しています。特定の信仰の勧誘や、健康上の効果を保証するものではありません。

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宮川涼 Founder
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