第三回目「最後のミレトス学派」

イオニア自然学派、あるいはミレトス学派最後の一人が、アナクシメネス(Anaximenes/前546年頃)です。彼はミレトス三大哲人の最後の一人でアナクシマンドロスの弟子です。しかし、彼もまたこのミレトス学派の特徴とも言える様に、師のただの追従者ではなく、師を継承する形で、尚且つ、それを批判的に乗り越えていきます。ミレトス学派に限らず、往々にして、先ず伝統的なものを緩和した形で継承する事によって新たな問題への回答が得られるものでしょう。

もっとも、学者によっては、彼の宇宙論などにおける内容から、彼の事を師であるアナクシマンドロスよりも劣ったものとして捉える方もいますが、私はそう捉えるべきではいと思います。彼の宇宙論をはじめとする自然科学的な諸説については詳しく後述したいですが、ここでは、その評価についてだけ先に延べておきたいと思います。

確かに、おこがましくも現代科学の視点から彼らを裁くのであれば、想像力豊かなアナクシマンドロス(進化論的な事や地球球体論などを唱えた)よりは、このアナクシメネスの宇宙論等は、その内容に乏しいと言えるでしょう。しかし、その成果に拘るのではなく、その科学的な探究心と言うかその姿勢としては、彼の方が師よりも勝っていたと言えるのではないでしょうか。彼の思想は、その見取図全体が多少簡略化されているきらいがありますが、神話上の神々を締め出すに止まらず、アナクシマンドロスのト・アペイロンの様な神話的・神秘的存在さえ拒否し、アナクシマンドロスの神話的・詩的な文章に対し、簡潔で飾り気の無い散文体で叙述している点は後世の科学的精神の礎になっているとも言えましょう。

勿論、ここで彼らを比較するだけにとどまらず、評価を加える事はあまり好ましく無い事ですが、少なくとも、実際、古代においては彼の方が師であるアナクシマンドロスより高く評価されたように、その徹底した経験主義による自然学的、実証学的な精神は優れたものであった事は認めていくべきであると思います。

さて、そろそろ彼の思想の具体的な内容に入っていきたいですが、前述の様に彼も師達(タレスやアナクシマンドロス)の流れを継ぎ、万物の根源を捜し求め、それを『空気』であるとしました。彼の断片を参考にしてみますと、「我々の魂が空気であり、われわれが統べているように、気息(pneuma、プネウマ)、即ち、空気が全世界を包んでいる」とあります。このプネウマという考え方はインド哲学、ヨガ哲学にも相通じるところがありますね。

彼は、アナクシマンドロスの言う「無限定なもの」と言うものに対して、一応賛同しているのですが、アナクシマンドロスが言った様な「ト・アペイロン」と言う神格的、神秘的な抽象的概念を拒否し、我々が経験的に検証できるが、その反面無限であるものについて考えています。つまり、根源的な存在を、アナクシマンドロスの様に推論によってのみ成り立たせるのではなく、その推論を感覚的な経験に一致させようと考えたのです。いわば、観念論よりも経験論を重視したわけで、その点で、彼等より自然科学者の祖として相応しい考え方を示したわけですね。そして、此処で言う『空気』が、そういったモノであると考えたのです。

なぜなら、『空気』は、眼に見えず、重さが無く、触れる事(掴む事)が出来ないく、殆ど感知できないが、それでも、やはり我々が感知している(知っている)元素であり、又、『空気』は量的には限りがありませんが、質的には限定されていると彼は考えたからです。従って、上述の様な条件に唯一見合う者であると彼は考えたのでしょう。従って、『空気』が無限であると言うのは、アナクシマンドロス的な意味ではなく、偏在する元素であり、固有の性質を備えつつも決して特定の在り方に限定される事はなく、無限定・無定型な在り方をその本来の在り方としていると言う点にあります。確かに、空気なら観念的なものではなく、我々が実際に知覚し経験できるものですね。

そして、彼はこう続けます。空気の希薄化によって熱いもの(火)が生まれ、濃密化によって冷たいもの(水)が生まれ、そして、更に濃密化が強まるに連れて、土が生まれ、終には石になると(現代風に言えば、氷、水、水蒸気の変化のようですね)。従って、生成を主導するものは、確かに熱いものや冷たいものと言う「対立」であるが、その対立物自身が同一の事物の濃密化と希薄化によって生じてくるとした訳です。つまり、師であるアナクシマンドロスが観念的なものから諸々の世界を構成する性質が出てくると考えたのに対して、アナクシメネスは空気という経験的なものから世界を構成する様々な性質が生まれてくると考えたわけですね。後に紹介するデモクリトスが世界のアルケー、根源は原子であると、まるで近代の自然科学者のことを言うのですが、発想としては、アナクシメネスもデモクリトスも同じ方向性だと思います。

以上の様に、アナクシメネスは、宇宙内にある全ての物質を説明するにあたって、アナクシマンドロスの様に感覚的諸性質がト・アペイロンから神秘的な仕方で生まれてくるのではなく、『空気』の濃密化と希薄化の過程、即ち、始源的要素の収縮と弛緩の過程によって存在が現出してくると考えました。彼の考え方は、一元化による明晰性を志向したもので、多少現代的な言い方をすれば、「程度あるいは量的な差異以外は存しない」と言う事になると思われます。繰り返しになりますが、ここが、ト・アペイロンの元、様々な性質の異なるものが生み出されていくと考えたアナクシマンドロスと決定的に違うところでもあります。つまり、空気というアルケーの多寡など量的な差異によって万物が構成されるのであって、質的に何らかの違うものが生じるとは考えていないわけですね。

そして、彼は以上の様な論理から、『空気』を魂と捉え、生命そのものであると考えました。『空気』は、我々のみならず、世界を生かしめるものであり、呼吸がその良い証拠であるとしています。即ち、生命の原理と見られる魂を万物の根源としての『空気』と同一視する事(空気の流動と生命一般との同一視)によって、無機的な自然から生物、人間に至るまでの一切の物を同一の原理によって説明しようとした事は、逆に言えば、万物と人間との間の同一性を考えたと言えましょう。このあたりもインド哲学、ヨガ哲学との類似は見られますね。やはり、生きていく上で、古代より人間は呼吸を重視していたのでしょう。

ところで、後述すると言ったアナクシメネスの宇宙論についてですが、彼は、初源的な濃密化によって生じた大地(いわゆる地球の事)を丸いテーブルのようなものであると言い、それは空気に乗って安定しており、宇宙を構成するその他のものは、この土から希薄化する事によって生じてくると言います。分かり易く言えば天動説ですね。それも、亀の甲羅の上に世界が広がっているようなイメージです。こう言ってしまうと、とても稚拙な宇宙論に思えるかもしれませんが、15世紀(今から500年前)まではずっとディファクトスタンダードだった天動説をこの時代に考えていたというのは決して笑えるものではなく、むしろ先駆者ともいうべきでしょう。

それに哲学的な議論を少しいえば、確かに現代の自然科学の考え方では、天動説は否定され、地動説が正当なものとされていますが、一体、本当に地球が回っているのを経験した人はどれほどいるのでしょうか。最近、民間での宇宙旅行が始まり話題にもなっていますが、それですらデカルトの方法的懐疑ではないですが、フェイクニュースかもしれないと疑うことは可能ですし、少なくとも宇宙旅行をしたことがない多くの人にとっては天動説であろうが、地動説であろうが世界の見方は変わりはしませんし、困ることもありません。そして、何より否定する根拠を説明することができないでしょう。

少し話がずれてしまいましたが、アナクシメネスは、更に、月と太陽は「色板」に類した円盤状のものであり、星は天球面に植え付けられた「画鋲」であると言っています。この点、天球がもはや地下にまで続いてない点で、エジプト神話やアナクシマンドロスの場合とは決定的に異なっています。そして、この宇宙も当然空気の内に再糾合されていくまでの間強大な呼吸をしながら生きていると言う訳です。この様な宇宙論は、確かに、内容の乏しいものに感じられます。しかし、おそらく、それは、彼の実証学的な精神が想像力を日常的経験の枠内に押し込めているからであると思われます。とはいえ、ここでは先ほども言いました様に、現代の観点から歴史を裁く事は出来ませんし、するべきではありません。我々がするべき事は、それらの思想に意味を誉めのかすのではなく、それらの思想の違いに着目する事だけです。

以上、アナクシメネスについて説明してきましたが、彼の思想において最も着目すべき事は、アナクシマンドロスの推論(無限定なもの)を感覚的経験に合致させ、古代思想史の全過程において殆ど抜き難いものとしてあった経験的世界の外部とか上方に抽象的観念を実在させようとする志向を退けた点に哲学史上の意義があると思われます。

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