ヨガの主な流派について

ここでは主なヨガの流派、ジュナーナ・ヨガ(知の道)、カルマ・ヨガ(無私の行動の道)、バクティ・ヨガ(愛と献身の道)、マントラ・ヨガ(聖音の道)、ラージャ・ヨガ(王のヨガ)、ハタ・ヨガ(内的パワーの道)をご紹介します。

一 知の道 ジュナーナ・ヨガ

今まで述べてきた数々のウパニシャッド(編注1)で概略が説明されているヨガの道は、智慧(ジュナーナ)の精神鍛錬、ジュナーナ・ヨガに属します。実際、これは200以上知られているほとんど全てのウパニシャッド(編注2、自己理解、自己超越、そして神秘的結合への道を示す奥義の諸経典)を特徴付けるもので、それらはあらゆる自己欺瞞と錯覚を粉々に砕いて、求道者に〈実在〉や〈自己〉、あるいは〈魂〉と直面させる至高の方法として、智慧を称賛しています。智慧とは、あらゆるものの統一されたものと同一であり、究極の知るもの、すなわち、知られる者と全く違いの無い超越的な〈主体〉と同一です。智慧は感覚を媒介として、また思考を通して得られる一般的な智慧とは明確に区別されており、知られる者を外側から捉えるものです。

 智慧は〈実在〉、すなわち〈自己実現〉の直接的な理解で、それ自体として、智慧には情報的な内容はありません。偉大なヨガの達人パタンジャリ(脚注3)が著書「ヨガ・スートラ」のなかで述べているように、単に真実の姿であるに過ぎません(1・48)。それでは、智慧が明らかにする真実とは何でしょうか。それは私たちの心の奥深くにある本質であり、宇宙の基礎そのもの、つまり自らを輝かせる〈自己〉の真実であり、実在なのです。19世紀の偉大なヨギンである賢人スワーミー・ヴィヴェーカナンダは、1893年の世界宗教会議でヒンドゥー教について力強い演説をし、その中で次のように語っています。

編注1:古代インドの後期ヴェーダ時代時代(前1000~500年)の文献の一つで、『「奥義書」』と訳される。ウパニシャッドとは「傍らに座る」という意味であり、バラモンの師から弟子に伝承された奥義を意味し、文献としては前500年頃までに編纂されたと言われます。バラモン教が形式的になり、バラモンがたんに祭祀を司る役割だけになっていることを批判し、内面的な思索を重視し真理の探究をすすめる動きが出てきました。それがウパニシャッド哲学であり、ヴェーダの本来の姿である宇宙の根元について思惟し、普遍的な真実、不滅なものを追求した。ウパニシャッド哲学によると宇宙の根源であるブラフマン(梵)と人間の本質であるアートマン(我)とを考え、この両者が究極的に同一であることを認識すること(梵我一如)が真理の把握であり、その真理を知覚することによって輪廻の業(ごう)、すなわち一切の苦悩を逃れて解脱に達することができると考えている。これは世界最古の深い哲学的思索としてよく知られています。<山崎元一『古代インドの文明と社会』中央公論社版世界の歴史3 p.84による>

編注2:ヴェーダ(梵: वेद、Veda)とは、紀元前1000年頃から紀元前500年頃にかけてインドで編纂された一連の宗教文書の総称。「ヴェーダ」は「知識」の意味です。バラモン教とヒンズー教の聖典でもあります。キリスト教で言うところの旧約聖書と新約聖書のようなものです。

脚注3:パタンジャリは、紀元前2世紀ごろのインドの文法学者。パーニニの文典『アシュターディヤーイー』に対する注釈書として書かれた『マハーバーシヤ』により、サンスクリット文法学の体系を完成させた人物です。思想家としても知られ、パタンジャリは、心と意識の哲学的側面に関する箴言に富むヨーガの重要文献である『ヨーガ・スートラ』の編纂者と考えられています。ここ数十年の間、『ヨーガ・スートラ』は、ヴィヴェーカーナンダのラージャ・ヨーガの実践の指導書として、心身の調和と健康の増進を目的としたヨーガ・ムーヴメントの哲学的根拠として、世界的にポピュラーな地位を占めるに至っています。

01 肉体は常に変化する~肉体に固執してはならない

この肉体の全粒子は絶えず変化している。何分間にもわたって同じ肉体であるという人間はいないのに、私たちは同じ肉体だと考える。心も同じだ。ある瞬間には幸福だが、次の瞬間には不幸になり、ある瞬間には弱く、次の瞬間には弱くなる、というように、常に変化し続ける渦なのだ。それは無限である魂ではありえない。(略)この宇宙のどの粒子も他のあらゆる粒子と関連して変化しうる。だが宇宙全体を1つとして考えると、何かと関連して動くだろか、宇宙の他には何もないのだ。したがってこの無限の〈単一体〉は不変であり、不動であり、絶対的なものであり、そしてこれこそが〈神の人間〉なのだ。

〈真の人間〉とは、性別を調節した永遠の〈主体〉であり、存在する生物無生物全ての本質的な〈自己〉である。この究極的な〈単一体〉は感じることも触れることもできず、厳密に言えば知ることすらもできない。しかし、関知したり体験したり知ったりするという全メカニズムを超えることによって理解できます。そのとき、それ自身がそれ自身に対してあらわになります。それは本来、自己を輝かせるという性質を持ち、それはつまり、私たちがさまざまな観念や感情を取り除き、肉体や精神や外界としてとらえるのをやめればすぐに、〈自己〉は輝きを放ちはじめます。現代のジュナーナ・ヨガの師、ニサルガダッタ・マハラジは言います。

自分がなんであるのかを本当に見つけ出すことができたとき、自分が固体でなく、個人でなく、肉体でないことがわかるだろう。肉体を基礎とした自己認識に執着する人には、この知識は向いていない。

02 真我とは

続けて、彼はこうも述べています。

このことを本当に理解したいと望むならば、肉体による自己認識をやめなければならない。もちらん肉体は使うべきだが、この世で行動している間、肉体が自分自身だとみなしてはならない。自分自身を肉体に宿る意識によって認識することだ。(略)自分自身を肉体によって認識している限り、痛みや悲しみといった体験は一日ごとに増していくだろう。だからこそ、そうやって自己認識をするのをやめなければならないし、自分自身を意識としてみなすべきなのだ。(略)肉体が滅びるとき、常に残る本質は〈自分自身〉だ。肉体によって自身を認識すれば、自分が死につつあることを感じるだろうが、実際には、肉体ではないので死というものは存在しない。肉体ではないので死というものは存在しない。肉体が存在してもしなくても、いつでも存在している。永遠に存在するのだ。

自己実現を達成した師ラマナ・マハリシはこう記しています。心の中で「私は誰だろう」と問いかけ、そして心を読み、「私」は崩れ落ちる。すぐに本当の「私」(「私」としての「私」)が現れる。「私」としてそれ自身の姿を表すが、それは自我ではなく、真の存在なのだ。

このように、ジュナーナ・ヨガとは思い違いや幻想、執着、恐れ、悲しみ、意見、欲望、期待といったものすべてを完全に取り除くことにある。はるか昔、賢人ヤージナヴァルキャが述べたように、あらゆる経験や情報は、これは真実も自己も表していない。――「こうではなく、そうでもなく」(ネーティ・ネーティ)――という洞察によってアプローチするものです。この否定の道は、比二元論的形而上学を標ぼうするヴェーダンタ哲学の文献の中で、夢にたとえられています。自己実現、すなわち悟りは夢からの覚醒なのです。

02 執着しないことから究極の放棄(サンニヤーサ)へ

このアプローチは、実在するものと実在しないものを鋭く識別し続けること〈ヴィヴェーカ〉、そして、永遠の〈自己〉以外のものとしてさらされているすべての物に対する妥協のない冷静な姿勢〈ヴァイラーグヤ〉を必要とします。何といっても人というのは、それがよくないことだとわかっていても、いつまでもそれに耽ってしまうもので、執着せずに冷静でいることは、精神的生活の要になります。執着せずに冷静でいられることなく、真の内的成長はありえません。それゆえ、太古の昔からヨガ実践者は究極の放棄(サンニヤーサ)を追求してきました。これを、俗世での生活を捨てることだと理解し、自ら人里離れた場所での隠遁生活や、終生家を持たずにさまよい続ける生活を選ぶ者も多くいました。しかし、それは外的な節制を伴ったり伴わなかったりしており、放棄とは本来、内的な姿勢のことであると考える者も多くいます。ジュンナー・ヨガの実践者たちに放棄は、生命のパターンや実存の本質を深く理解できたときに自然と訪れるものなのです。

二 無私の行動の道 カルマ・ヨガ

 ウパニシャッドの教義ヴェーダ初期の伝統から発生していますが、ヒンドゥー教の発展においてその教義は新しい展開でした。ヴェーダの精神性が瞑想と組み合わされた究極の犠牲を軸に展開したのに対して、ウパニシャッドは瞑想の内的犠牲を解いています。この違いは、智慧(ジュナーナ)対行動(カルマン、本来は儀式的行動の意)という観点で捉えられてきました。

ウパニシャッドの賢人たちに支持されたことで、ますます多くの人々が智慧と放棄の生活に魅せられるようになったため、紀元前500年ごろには、大きく広まったこの動きに一部の権威たちが対抗し始めました。森や山の人里離れたところに隠居するならば、その前に課長としての責務を終えて、子どもたちが完全に成長するのを見届けるべきだと主張したのです。放棄へ向かうことが、社会的責任を果たさず家族を捨てることにつながるケースがあまりに多い、というのが彼らの論理だった。立法者らは、四段階(アーシュラマ)―学生、家長、森にすむもの(熟年後期)、そして自由に放浪する隠者(晩年)―を踏んで進む生き方を支持しました。こうして、ヨガ実践者はきちんと責務を果たし活動的な生活を送った後で、孤独な瞑想、内観、そして智慧を通じた真実の追及に没頭する放棄者(サンニヤーシン)としての瞑想的な生活に入るようになった。

「バガヴァッド・ギーター」(脚注1)の教義の中で、智慧と行動を統合する最初の試みがなされたのもこの頃でした。これによって、人間の強い愛の能力(バクティ)も同様に重要視されるようになりました。実際この後、人格化した神、特にクリシュナの崇拝を軸とする敬虔主義が長く続くことになりますが、この書がその発端となったのです。信仰を旨とするこの動きは愛の道、バクティ・マールがとしても知られています。

愛や献身がクリシュナの中心的なメッセージですが、その教えは智慧と無私の行動から自然に生じる結果なしに考えることはできません。クリシュナによれば、行動のヨガとは、個人的な利益や自己顕示、称賛さえ求めることなく、しかるべき方法で課せられた仕事を遂行することにあります。

下は、クリシュナの言葉です。

行動を自制することによって行動を超越することはなく、放棄するだけで完全な状態に近づくわけでもない。

人は一瞬たりとも行動せずにいることはできないからだ。どんな人間でも無意識に〈根本原資〉から生ずる資質(グナ)によって行動するのだ。

行動器官を抑制しながらも感覚を征し、何事にもとらわれず、行動器官によってカルマ・ヨガに取り組む人は、より優れている。

あなたは課せられた行動をしなければならない。行動することは行動しないことにまさるからだ。行動しなければ、肉体の維持さえ遂げられない。

この世界は、その行動が供儀(を目的)としていないかぎり、行動に縛られている。そのような目標を持って、アルジュナよ、執着を免れた行動をしなさい(3・4~9)

それゆえ常に何事にもとらわれず正しい行動をしなければならない。なぜなら執着を持たずに行動する人間が〈至高〉に達するからです。(3・19)

クリシュナのカルマ・ヨガは、こうした教えの一方で、しばしば軍事行動を正当化するのに利用されてきました。しかし、アルジュナとその兄弟4人がクル族を相手に戦った戦争には、道徳秩序(ダルマ)を回復するという明確な目的があったことを忘れてはいけないでしょう。このことだけでもクリシュナの介入を説明できます。道徳秩序が崩壊して、社会が精神の闇に包まれるとき、神の化身クリシュナは必ずこの世に姿を現すと考えているのです。

カルマ・ヨギンと呼ばれるカルマ・ヨガ信奉者は、日常生活における無法状態(アダルマ)を減らして、徳(ダルマ)や調和を増やすために行動をします。マハトマ・ガンディー(脚注23)やヴィノバ・ハーヴェ、あるいはマザー・テレサのような人たちはほかの人々の幸福のために働きます。真のヨガ鍛錬として、カルマ・ヨガは、利己的な欲望や態度、不注意、疑い、恐れを持った自我人格を克服しようとします。このアプローチは、容易な方法と説明されることが多くありますが、実は大変な識別能力が必要です。

以下、クリシュナの言葉です。

行動とは何か。行動しないとはどういうことか。これについては予言詩人たち(カヴィ)でさえ戸惑う。説明しよう。その行動を理解してこそ、あなたは苦悩から解放されるのだ。

そう、「ヨギン」は行動の「本質」を理解しなければならず、誤った行動(ヴィカルマン)を理解しなければならない。行動の方法は計り知れない。

行動の中に行動しないことを、行動しない中に行動することを見る人は、専心してあらゆる行動を起こす、人間の中の件名な人物である。(4・16~18)

完全な(クリツナ)行動とは、智慧に導かれたものであり、執着を逃れたものです。そして、行動が人を汚すことはなく、カルマの罪を作り出すこともありません。なぜならこういった行動が可能だとすれば、人はまず完全な自分自身でなければならないからです。同時にまた、カルマ・ヨガはこの内的完全さへの道なのです。

編注1:『バガヴァッド・ギーター』(サンスクリット語: श्रीमद्भगवद्गीता、 Śrīmadbhagavadgītā、 発音 [ˈbʱəɡəʋəd̪ ɡiːˈt̪aː] ( 音声ファイル))は、700行(シュローカ)の韻文詩からなるヒンドゥー教の聖典のひとつです。ヒンドゥーの叙事詩『マハーバーラタ』第6巻にその一部として収められており、単純にギーターと省略されることもあります。ギーターとはサンスクリットで詩を意味し、バガヴァンの詩、すなわち「神の詩」と訳すこともできます。『バガヴァッド=ギーター』は、戦争で殺し合いに直面して悩むアルジュナ(バーラタ族の王子)に対して、アルジュナの乗る戦車の御者に化身したクリシュナ(神)が、自己の欲望や目前の勝利を願うのではなく、人としての本務、つまり神への信愛(バクティ)によって神と一体化することで現世の義務を果たすことも可能であると説く。こんな一節がある。

(引用)成就に達した者が、どのようにしてブラフマンに達するか、私(クリシュナ)はそれをごく簡潔に説くから聞け。アルジュナ。これが知識の最高の帰結である。清浄な知性をそなえ、堅固さにより自己(アートマン)を制御し、音声などの感官の対象を捨て、また愛憎を捨て、・・・・我執、暴力、尊大さ、欲望、怒り、所有を捨て、「私のもの」という思いなく、寂静に達した人は、ブラフマンと一体化することができる。ブラフマンと一体になり、その自己(アートマン)が平安になった人は、悲しまず、期待することもない。彼は万物に対して平等であり、私(クリシュナ=神)への最高の信愛(バクティ)を得る。信愛により彼は真に私を知る。私がいかに広大であるか、私が何者であるかを。かくて真に私を知って、その直後に彼は私に入る。私に帰依する人は、常に一切の行為をなしつつも、私の恩寵により、永遠で不変の境地に達する。・・・<上村勝彦訳『バガヴァッド=ギーター』岩波文庫 p.138>

ここに、梵我一如、バクティ信仰、現世肯定(カーストの規制に従う)などの思想を見ることができでしょう。

脚注2:Mohandas Karamchand Gandhi(1869-1948) 一般にはガンジーと表記されます。インド独立の父、マハートマ(偉大な魂の意味)といわれることから、マハトマ・ガンジーの呼び名で知られています。インドがイギリスの植民地であった時代、特に第一次世界大戦後、非暴力・不服従を掲げたインドの反英闘争(20世紀)を開始し、国民会議派を率いて独立運動を展開しました。ガンジーは、激しい弾圧を受けながら、第二次世界大戦後の1947年にインドの独立を実現させました。しかし、その独立は彼が念願した統一国家での独立ではなくパキスタンとの分離独立となり、失意のうちに翌年ヒンドゥー教徒過激派の青年に暗殺され亡くなりました。

三 愛と献身の道 バクティ・ヨガ

精神生活における、畏敬の念に満ちた敬虔な態度は、すでにヴェーダの時代の予言詩人たちが謳ってきました。しかし、独立した方法としてバクティ・ヨガが起こったのは、紀元前500年ごろで、当初はクリシュナ(ヴィシュヌ神の化身)とラドラ(別名シヴァ)崇拝を軸とした有神論宗教と結びついていました。クリシュナを中心に据えた宗教の伝統は、まず「バガヴァッド・ギーター」の美しい詩によって形を与えられました。同じころ、シヴァ崇拝者たちは、「シュヴェータシュヴァタラ・ウパニシャッド」を作り、こう宣言しました。

炎の中に存在し、水中に存在し、全世界に入り込み、植物の中に存在し、木々の中に存在する神。かかる神を、崇拝す、崇拝す。(2・17)

続いて、このウパニシャッドの作者は、自身の霊的達成を明かして、自らの言葉に権威を与えています。

闇の向こうで太陽の色をした、

この偉大な〈人〉〈プルシャ〉を私は知っている。

彼を知ることによってのみ人は死を超えることができる。

彼の所へ行く道はほかにはない。

彼より高いものはなく、

彼より小さいものも、偉大なものもない。

〈唯一の存在〉は一本の大樹のごとく天に立つ。

彼、すなわち至高の人によって、この宇宙全体が満たされる。

この世界の向こうにある〈それ〉は、

形がなく、病もない。

〈それ〉を知るものたちは不死になるが、

ほかの者たちは苦しみに直面するだけである・(3・8~10)

「バガヴァッド・ギーター」では、神自身が言葉を述べ、バクティ・ヨガの秘密を明らかにし、こう語られています。

ヨガに専心し、あらゆるものを平等に見つめる「人は」、存在するものすべてのうちにある自己と、自己の中において存在するものすべてを見る。

あらゆるところで〈私〉をみることができ、〈私〉のなかにあらゆるものを見ることができるのは彼であり、彼は〈私〉を見失わないし、〈私〉も彼を“決して”見失うことはない。

一体感(エカトゥヴァ)に立って、存在するものすべてのうちに存在する〈私〉を愛するヨギンは、どんな「状態」に彼があろうと、私の中に住んでいるのだ。(6・29~32)

 バクティ・ヨガの道とは絶えず、クリシュナ。ラーマ、マハテヴァ、ラダ、シタ、パルヴァティなどの紙を思い出すことです。これは、神にささげる儀式から愛に陶酔する詠唱、歌、踊り、瞑想によって深く感じる調和、神に同化する恍惚感まで、さまざまな形をとります。バクタ(帰依者)と呼ばれるこのヨガの実践者は、親や友人、恋人を見るように、神を見ます。しかし、どの場合で神との神秘的な結合が達成されるまで、神との真の交流を培おうとし続けます。インド人の研究者であるンデル・バル・サチテヴは、「バクティ・ヨガの本質は〈最高の存在〉に対して無条件に自己降伏することにある」と書いています。現代インドの学者スレンドラ・ナース・グスグプタは〈帰依者〉をこのように表現しています。

彼の神への熱意はあまりに強く、世俗での熱意をすべて使い果たす・・・(略)・・・。そうした熱意で満たされたバクタはそれを、自分の心の奥底に流れる喚起の底流としてのみ体験するのではなく、心の洞窟から感覚全てにあふれ出る本流として体験する。彼は五感全てを通じて感覚的な喜びのごとく感じとり、心と魂で歓喜の霊的陶酔であるかのごとく実感する。このような人は、こうした神の愛に我を忘れる。彼は歌い、笑い、踊り、涙を流す。もはや彼はこの世の人ではない。

神へのこの熱狂的な愛は、プララーダ、ヴァラーバ、チャイタニヤ、ラーマヌージャ、ナム・アルヴァール、ナンデヴァ、カビール、ナナク、トゥカラムといった男性成人たちや、アンダルやミラバイなどの女性神秘主義者たちの中に生きていました。

ジュナーナ・ヨギンとは異なり、バクティ・ヨガ信奉者たちは厳密な非二元論哲学よりも二元論的形而上学を好みました。この流派の中には、想像主と創造物との間には橋を架けることができない溝があるとして、神との完全な結合や同一化の達成を否定しているものすらあります。だがこういった流派でさえ、不完全なものであっても、神秘的な結合の追及を熱心に解いています。彼らが主張するように、神との交流においてのみ、普遍の幸福が見いだせるからです。

四 聖音の道 マントラ・ヨガ

意識を変化させる音の効果がいつ発見されたのかは明らかではありませんが、リズミカルな太鼓演奏や詠唱が人類の文化史上、極めて初期に起こっていることは疑いの余地がありません。それはシャーマニズムに欠くことのできない要素であり、シャーマニズムはヨガ伝統に先立つものとして多くの部分で影響を与えているからです。そのため、すでにヴェーダの時代には、詩人と賢人らは変化をもたらす媒体として音を捉えて、参加は超自然的なパワーで満たされていると考えました。このように朗誦と詠唱は早い時期から、精神を集中させて、感覚を沈め、意識を高いレベルへ上昇させ、深い精神解放のための新しい状態を生じさせる、強力な手段として培われてきたのです。

「リグ・ヴェーダ」の中の賛歌(10・71・3)にあるように、「供儀を通じて彼らはヴァーチュの道を歩み続け、それを詩人のなかにみつけた」のです。ヴァーチュとは、神が話した言葉、古代の詩人たちによって明かされた不滅の音、そして言葉の女神です。続く説ではこう断言をしています。「目のある多くの者たちはヴァーチュを見たことがない。耳のある多くの者たちに彼女の言うことは聞こえない」。耳に聞こえ、あらゆる神々が従った神の〈言葉〉は、忘我によって引き起こされた詩人のビジョン(デヴィ)の中に現れて、啓示によって歌い上げた賛歌の中でほめたたえられます。「アタルヴァ・ヴェーダ」(19・9・3)では、ヴァーチュは「祈り(ブラフマン)によって力を強められた至高の女神」と呼ばれます。ヴェーダ詩人らが徹底的に探究したのはヴァーチュ、不朽の〈言葉〉です。不朽の〈言葉〉(アクシャラ)は古代には偉大な秘密だったものが、のちに「ヤジュル・ヴェーダ」の頃、オウム~~すべてのマントラや超自然的な音の中で最初の物~~として広く明らかにされました。

「ヤジュル・ヴェーダ」には、似たようなマントラの音、ヒーム、フーム、シュヴァハー、ヴァシャート、(HIM、HUM、SVAHA、VASHAT)などがあります。これらのマントラは犠牲儀式の様々な段階で用いられましたが、〈絶対的な存在〉の象徴、神聖な音節〈オウム〉ほど傑出した力を持つことはありませんでした。

儀式で用いられるこれら特定の音から、やがて〈ジャーパ〉として知られる復誦のヨガ実践が発達しました。心を鎮めるために一つのマントラを何度も繰り返すのですが、それらのマントラは、シヴァやラーマなど特定の神の名であることが多く、超越瞑想(TM)運動は、特定のマントラの霊的な音を基礎としています。また通常、マントラの瞑想的な復誦には、108粒の珠がつながった〈数珠(ラーマ―)〉を使って行うことが多いです。

マントラ・ヨガは約2000年前、タントラ教の台頭とともに確立し、その後、儀式的な要素を多く含んだ独自のヨガのアプローチとして発展しました。この本格的な体系については、「マントラ・ヨガ・サンヒター(マントラ・ヨガ本集)」や、百科全書的な「マントラ・マホーダディ(マントラの大洋)」といったサンスクリット語経典のなかで概要が説明されています。

五 ラージャ・ヨガの王の道

 ラージャ・ヨガは、およそ2000年前にパタンジャリが著書「ヨガ・スートラ」の中で形作った古典ヨガと同義で、この流派は伝統的に、ヒンドゥー哲学の正統な六系統の一つと考えられています。古典ヨガの影響力は大きいですが、それ自体はヨガ実践の流派として生き残ることはありませんでした。衰退の大きな要因は、ヴェーダンタ哲学の強力な伝統によって形成された圧倒的な非二元論哲学支持の風潮のなかで、二元論的形而上学をとったことにあると考えられます。しかし、そのヨガの道の原型は、ほかの多くの流派に導入されました。名高い宗教史学者ミルチャ・エリアーデ(ルーマニア出身の宗教学者・宗教史家で、民俗学者、歴史哲学者、作家)も認めているように、「インド思想史におけるヨガの位置を理解するためには、まずこのシステムから出発しなければならない」。この流派は、ヨガの実践的側面に最も体系的なアプローチを行っている思想の流派でもあります。それゆえ、ヨガに熱心な西洋人の人たち全てに「ヨガ・スートラ」を注意深く研究することを心から推奨いたします。

「ヨガ・スートラ」の著者パタンジャリが誰なのかわかっていませんが、ヨガの多種多様な局面、特に八支則(アンガ)について、有用な定義を行っています。

  • 禁戒(ヤマ)~~非暴力・不殺生(アヒンサー)、正直(サティヤ)、不盗(アステーヤ)、貞操(プラフマチャルヤー)、不貪(アバリグラハ)
  • 勧戒(ニヤマ)~~清浄(シャウチャ)、知足(サントーシャ)、苦行(タバス)、読誦(スヴァディヤーヤ)、神への献身(イーシュヴァラ・プラニダーナ)
  • 体位法(アーサナ)
  • 呼吸法(プラーナヤーマ)
  • 感覚制御(プラティヤーハーラ)
  • 精神集中(ダーラナ)
  • 瞑想(ディヤーナ)
  • 三昧(サマーディ)

これらの実践については、追ってご紹介したいと考えておりますので、ここでは第一の禁戒がほかの七則の基礎であり、いつでも守らないものであることを紹介するにとどめておきます。そうしてこそ、進みゆく統一化と単一化の道が成就して、意識の多様な忘我状態へ、そして最終的に解放、すなわち自己実現へと導かれるのです。

六 内的パワーの道 ハタ・ヨガ

 ハタという語は「力」あるいは「力のある」という意味で、肉体を浄化して強化する厳しい方法によって自己変革と自己超越を試みる流派を指します。ハタ・ヨガの背後には、虚弱な肉体や病んだ肉体は解放への途上で深刻な障害となることがあり、それゆえ肉体は正しく訓練されなければならない、という考えがあります。この精神鍛錬の核にはクンダリーニ・シャクティの目覚めとして知られる潜在的に危険なプロセスがあるので、訓練はハタ・ヨガにおいて特に重要です。これは肉体の最低部にある精神的中心(チャクラ)で意識のパワーが覚醒し、頭頂部にある最も高い中心へ上昇することです。もし肉体が正しく準備できていなければ、覚醒したクンダリーニは肉体や精神に甚大なダメージを与える可能性があります。多くの文献で示されているように、クンダリーニは解放へも束縛へもつながりうるのです。蛇の力(クンダリーニ・シャクティ)が最も高い精神的中心に向けて流れていく道の純度によって、天国と地獄のどちらへも導くるのだと言えます。

それを踏まえて、ハタ・ヨガのプログラムには、身体エネルギーの肉体的浄化と安定化のための数多くの技術が組み込まれています。修行者の幸福を維持、或いは回復したり、身体の柔軟性と活力を向上させたりする為に用いる体位や、時には長時間の瞑想に適した体位など、多くの体位法(アーサナ)があります。また、ハタ・ヨガの中心は紛れもなく呼吸法(プラーナヤーマ)ですが、呼吸を通じて身体のエネルギー(プラーナ)を操るさまざまな技術もあります。

 ハタ・ヨガは西洋でもっともよく知られるヨガの形ですが、深い精神的哲学的基礎については、ほとんど理解されていません。クンダリーニや高位の意識段階を体験することもなく、ただ単なる体操やフィットネストレーニングといった次元でした捉えていません。精神の解放という本来ヨガが目的としてきた素晴らしい理想には、まったく興味がないのかもしれません。ですが、ハタ・ヨガは常に、ラージャ・ヨガ瞑想忘我を通じた〈自己実現〉へと至るためのはしごと、みなされてきました。アメリカのハタ・ヨガ講師の多くを指導した現代のハタ・ヨガの師であるアイアンガー氏は「ヨガの本来の理想とは自由と至福であり、身体の健康といったような、その道を行くことによる副産物は、ヨガ実践者にとって二次的なものだ」と述べています。

歴史的に見ればハタ・ヨガは、それ以前のタントラ教、あるいはタントラ・ヨガの張ってなくしては考えられません。それは、ハタ・ヨガが形作られるずっと以前から、ハタ・ヨガの目的であるクンダリーニ・シャクティの目覚めがタントラ教奥義の核心だったからです。ある意味では、ハタ・ヨガはタントラ教の分派で、ハタ・ヨガの儀式的要素の多くはタントラ教の遺産を取り入れたものです。タントラ・ヨガの究極の目的は、分極したエネルギーと意識の再結合、忘我の中で永遠なる至福の花蜜をもたらす男神シヴァと女神シャクティとの結合です。

ヨガを実践することにより得られる身体の健康といった副産物はヨガ本来の目的とは違うとアイアンガー氏は述べていらっしゃいますが、健康を意識して始めたヨガを窓口に、インド哲学に触れてみるのもよいのではないでしょうか。

ヨガは実践する哲学で、過去のヨガの偉人達と呼ばれる人たちも、まずはヨガを実践して学んでいったのではないか感じて頂けたのではないでしょうか。

次はヨガの道についてです。

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【監修者】宮川涼
プロフィール早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。

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