プラトン『国家』

プラトン『国家』岩波文庫(下巻):第七巻~第九巻[B.C.375?]

プラトン(B.C.427-B.C.347)

Ⅲ 理想国家のあり方と条件、とくに哲学の役割について

C 哲人統治者のための知的教育

 4.洞窟の比喩

・「教育と無教育ということに関して、われわれ人間の本性を、次のような状態に似ているものと考えてくれたまえ。

 ――地下にある洞窟上の住まいのなかにいる人間[囚人]たちを思い描いてもらおう。光明のあるほうへ向かって、長い奥行きをもった入口が、洞窟の幅いっぱいに開いている。

人間たちはこの洞窟のなかで、子供のときからずっと手足も首も縛られたままでいるので、そこから動くこともできないし、また前のほうばかりを見ていることになって、……頭を

後ろへめぐらすことはできないのだ。彼等の上方はるかのところに、火が燃えていて、その光が彼らのうしろから照らしている。」(94)

・「こうして、このような囚人たちは、……あらゆる面において、ただもっぱらさまざまの器物の影だけを、真実のものと認めることになるだろう。」(96)

・「それならまた、もし直接火の光そのものを見つめるように強制したとしたら、彼は目が痛くなり、向き返って、自分がよく見ることのできるもののほうへと逃げようとするので

はないか。そして、やっぱりこれらのもののほうが、いま指し示されている事物よりも、実際に明確なのだと考えるのではないだろうか?」(97)

・「だから、思うに、上方の世界の事物を見ようとするならば、慣れというものがどうしても必要だろう。――まず最初に影を見れば、いちばん楽に見えるだろうし、つぎには、水

にうつる人間その他の映像を見て、後になってから、その実物を直接見るようにすればよい。そしてその後で、天空のうちにあるものや、天空そのものへと目を移すことになるが、

これにはまず、夜に星や月の光を見るほうが、昼間太陽とその光を見るよりも楽だろう。」「思うにそのようにしていって、最後に、太陽を見ることが出きるようになるだろう……。」

(98)

・「知的世界には、最後にかろうじて見てとられるものとして、〈善〉の実相(イデア)がある。いったんこれが見てとれたならば、この〈善〉の実相こそはあらゆるものにとって、

すべて正しく美しいものを生み出す原因であるという結論へ、考えがいたらなければならぬ。……公私いずれにおいても思慮ある行ないをしようとする者は、この〈善〉の実相を

こそ見なければならぬ」(101-102)。

・「目の混乱には二通りあって、その原因にも二通りある……。すなわち、光から闇へ移されたときに起こる混乱と、闇から光へ移されたときに起こる混乱とがそれだ。」(103)

・【教育とは】「それならば教育とは、まさにその器官を転向させることがどうすればいちばんやさしく、いちばん効果的に達成させるかを考える、向け変えの技術にほかならない

ということになるだろう。それは、その器官のなかに視力を外から植えつける技術ではなくて、視力をはじめからもっているけれども、ただその向きが正しくなくて、見なければならぬ方向を見ていないから、その点を直すように工夫する技術なのだ。」(105)

・「そこで、われわれ新国家を建設しようとする者のなすべきことは、次のことだ」とぼくは言った、「すなわちまず、最もすぐれた素質をもつ者たちをして、ぜひとも、われわれが先に最大の学問と呼んだところのものまで到達せしめるように、つまり、先述のような上昇の道を登りつめて〈善〉を見るように、強制を課するということ。そしてつぎに、彼らがそのようにして〈善〉をじゅうぶんに見たのちは、彼らに対して、現在許されているようなことをけっして許さないということ」。[つまり]「そのまま上方にとどまることだ。」

→囚人仲間と労苦と名誉をともに分かち合うことが必要。

・「友よ、法というものの関心事は、国のなかの一部の種族だけが特別に幸福になるということではないのであって、国全体のうちにあまねく幸福を行きわたらせることこそ、法は工夫するものだということを、また忘れたね?」(107-108)

・「されば君たちは、各人が順番に下に降りて来て、他の人たちといっしょに住まなければならぬ。そして暗闇のなかの事物を見ることに、慣れてもらわねばならぬ。けだし、慣れさえすれば、君たちの目は、そこに居つづけの者たちよりも、何千倍もよく見えることだろう。」(109)

・「もし君が、支配者となるべき人たちのために、支配者であることよりももっと善い生活を見つけてやることができるならば、善い政治の行なわれる国家は、君にとって実現可能となる。」(110)「これに反して、自分自身の善きものを欠いている飢えて貧しい人々が、善きものを公の場から引ったくってこなければならぬという下心のもとに公共の仕事に赴くならば、善い政治の行なわれる国家は実現不可能となる。」「そこで君は、政治的支配を見下すことのできるような生活として、真の哲学者以外に、何かほかの生活を挙げることができるかね?」「しかるに、支配者の位置につく者は、けっして支配権力を恋いこがれるような者であってはならないのだ。」(111)

「魂の向け変え」と「真実性への上昇」のための教育プログラム

・【哲学】とは、「魂」を真実の昼へと向け変えること。(112):そのために必要な学問は、数と計算、幾何学、天文学。そして最後の総仕上げとしての「哲学的問答法」。

・【誰に哲学を学ばせるか?】:「まず第一に、哲学に手をそめようとするものは、苦労好きという点で偏頗(へんぱ)であってはならない――半分だけ苦労好きで、あとの半分は苦労を避けようとするのではね。」また、「故意でない偽りはしごく寛容に受け入れ、自分の無知がさらけ出されても苛立ちもせず、豚のように、無知の泥にまみれて汚れていてもいっこうに平気な魂」をもたねばならない。(150-151)

・「ソロンは老年になっても多くのことを学ぶことができるといったけれども、それを信じてはいけないのであって、学ぶことは走ることよりも、もっとだめだろうからね。むしろ大きな苦労、たくさんの苦労はすべて、若者たちにふさわしいのだ」(153)。

・「けっして学習を強制するようなやり方をしてはいけない」。「自由な人間たるべき者は、およそいかなる学科を学ぶにあたっても、奴隷状態において学ぶというようなことは、あってはならないからだ。」「むしろ自由に遊ばせるかたちをとらなければならない。」(154)

・プラトンの学習計画では、20 代の若者は、諸学を総合する力を学ぶ。そして 30 代になって、さらに選抜された者たちが、哲学的問答法を学ぶ。50 歳になって、最も優秀であった人に、国家の支配を任せる。

・【哲学=権威を疑う力】「こういうことなのだ。――わわれは子供のときから、何が正しいことであり美しいことであるかということについて、きまった考えをもたされていると思う。われわれは、ちょうど親のもとで育てられるようにして、それらの考え方のなかで育てられてきているのだ。その権威に服し、それを尊重しながらね。」「そしてまた、これと相反する生き方が別にあって、これには快楽が伴い、われわれの魂に甘い言葉で追従して、自分のほうへ引き寄せようとする。しかし、少しでも節度ある人ならば、そのような甘言には乗せられないで、むしろ先の父祖の教えのほうを尊重し、その権威に服するだろう。」「それならどうだろう。このような状態にある人がやがて問いを受けることになって、〈美しいこと〉とは何であるかと問いかけられ、法を定めた人から聞いたとおりを答えたところ、言葉の吟味にかけられて論駁されたとする。そして何度も何度もいろいろのし方で論駁されたあげく、自分が教えられてきたことはなにも美しいことではなく、醜いことなのかもしれないと考えざるをえないようになり、さらに〈正しいこと〉や〈善いこと〉や、これまで最も尊敬してきたさまざまな事柄についても同じことを経験したとする。このような場合、そうした教えに対する尊重やその権威への服従という点に関して、その人の態度はそれから以後どのようになると思うかね?」「それはどうしても、もはや前と同じようには尊敬もしないし、服従もしないことになるでしょう。」(159)

・【哲学王への期待】「真正の哲学者が、一人でも二人以上でも、国家における実権をもつようになって、現在名誉とされているものについては……これを軽蔑し、そして正義こそは最も重要な、最も強制力をもつべきものとみなして、これに仕えこれを大きく育てようと、自分の国を徹底的に再編するようになるときのことだ。」(164)

Ⅳ 不完全国家とそれに対応する人間の諸形態。正しい生と不正な生の比較。

・【5種類の国制とその移り変わり】:優秀者支配制→名誉支配制→寡頭制→民主制→僭主独裁制(170)

(1)「優秀者支配制」:哲学者によって統治された体制。財産の共有。妻女の共有。

(2)「名誉支配制」:優秀者支配制と比べて、幾何学の知識による統治が欠けているので、花婿と花嫁の制度的マッチングを見誤り、その子どもたちはよき素質に恵まれることがない。さまざまな種族が混ぜ合わされ、戦争と敵意を生む(176-177)。→争いを解決するために私有財産制が生まれ、金銭に対する強い欲望が生じる。また、平和よりも戦争に向いた資質の人々(気概のある人々)が評価され、言論・哲学・音楽・文芸への関心が衰退する。こうして名誉支配制の下では、「純粋で確固たる徳」(すなわち文芸・音楽の教養とねり合わされた理論的知性(ロゴス))が失われていく。

(3)「寡頭制」:「財産の評価に基づく国制」。「金持ちが支配し、貧乏人は支配にあずかることのできない国制のこと」(185)。戦争で名誉を得た父親が、突然法廷に呼び出されて、市民権を奪われる。するとその息子は恐れをなして、名誉を求めるのではなく、「貧乏のために卑下した心になって、金を儲けることに転向し、けちけちと少しずつ節約したり、せっせと働いたりして金をかき集めるようになる。」(194)→(私有財産制から金持ちになった人は)「自分自身のためのお金の使い方を見つけ出して、それに都合のよいように法を曲げる」。「彼らは殖財の道をひたすら前進して、金をつくることを尊重すればするほど、それだけますます徳を尊重しないようになる。」(186)→「富と金持ちの人々が尊敬されるのに応じて、徳とすぐれた人々は、尊重されなくなる」。「勝利と名誉を愛する人間」から「金儲けを求め金銭を愛する人間」となる。→「財産がその規定額に達しない者は、支配の役職に参加できないことを、宣言する」(187)に至る。

(4)「民主制」:「無政府的で、多彩な国制であり、等しい者にも等しくない者にも同じように一種の平等を与える国制」(207)。「寡頭制」では「富」が尊重されるものの、同時にそこでは、「節制の美徳」が失われ、金持ちの息子たちは、怠慢で放埓な浪費をするようになり、貧困に追いこまれる。(200)「寡頭制」は、「若者たちを贅沢に甘やかして、身体的にも精神的にも苦労をいやがる人間にし、また快楽に対しても苦痛に対しても抵抗力のない、柔弱な怠け者にしてしまう」(201)。「そして自分たち自身を、金儲け以外のことにはいっさい心を向けないような人間となし、徳への配慮においても、貧しい人々とくらべて、何らまさるところのない人間にしてしまうのではないかね」(201-202)。→貧しい者たちの内乱がはじまる。「そこで、思うに、貧しい人々が闘いに勝って、相手側の人々のある者は殺し、あるものは追放し、そして残りの人々を平等に国制と支配に参与させるようになったとき、民主制というものが生まれるのだ。そして大ていの場合、その国における役職はクジで決められることになる」(203)。→「人それぞれが気に入るような、自分なりの生活を設計することになる」「この国制のもとでは、他のどの国よりも最も多種多様な人間たちが生まれてくることだろう。」「おそらくこれはさまざまな国制のなかでも、いちばん美しい国制かもしれないね。」(204)

■民主制に対応する人間への批判

・しかし民主制において人々は、美徳を身につけよう(立派なことをしよう)とする努力を軽蔑するようになる。「ただ大衆に好意をもっていると言いさえすれば、それだけで尊敬される」(206)。「こうして、〈慎み〉を『お人よしの愚かさ』と名づけ、権利を奪って追放者として外へ突き出してしまうのをはじめ、〈節制〉の徳を『勇気のなさ』と呼んで、辱しめを与えて追放し、〈程のよさ〉と締りのある金の使い方を『野暮』だとか『自由人らしからぬ賤しさ』だとか理屈をつけて、多数の無益な欲望と力を合わせてこれを国境の外へ追い払ってしまう」。そして青年たちの魂を洗い浄めて、「〈傲慢〉〈無統制〉〈浪費〉〈無恥〉といったものたちに冠をいだかせ、大合唱隊を従わせて輝く光のもとに、これを追放から連れもどす。〈傲慢〉を『育ちのよさ』と呼び、〈無統制〉を『自由』と呼び、〈浪費〉を『度量の大きさ』と呼び、〈無恥〉を『勇気』と呼んで、それぞれを美名のもとにほめ讃えながら――。」(213)そして「あらゆる快楽は同じ資格のものであり、どれもみな平等に尊重しなければならない、とこう主張するのだ。」(215)「こうして彼は、そのときどきにおとずれる欲望に耽ってこれを満足させながら、その日その日を送っていくだろう。あるときは酒に酔いしれて笛の音に聞きほれるかと思えば、つぎには水しか飲まずに身体を痩せさせ、あるときはまた体育にいそしみ、あるときはすべてを放擲(ほうてき)してひたすら怠け、あるときはまた哲学に没頭して時を忘れるような様子をみせる、というふうに。しばしばまた彼は国の政治に参加し、壇にかけ上って、たまたま思いついたことを言ったり行ったりする。……こうして彼の生活には、秩序もなければ必然性もない。しかし彼はこのような生活を、快く、自由で、幸福な生活と呼んで、一生涯この生き方を守りつづけるのだ。」(215)

・民主制は、〈自由〉を善と規定する。他方で民主制は、「支配者に従順な者たちを、自分から奴隷になるようなつまらぬやつらだと辱しめるだろう。個人的にも公共的にも賞賛され尊敬されるのは、支配される人々に似たような支配者たち、支配者に似たような被支配者たちだということになる。このような国家においては、必然的に、自由の風潮はすみずみにまで行きわたって、その極限に至らざるをえないのではないかね?」「たとえば父親は子供に似た人間となるように、また息子たちを恐れるように習慣づけられ、他方、息子は父親に似た人間となり、両親の前に恥じる気持ちも恐れる気持ちもなくなる。自由であるためにね。そして居留民は市民と、市民は居留民と、平等化されて同じような人間となり、外人もまた同様だということになる。」「このような状況のなかでは、先生は生徒を恐れてご機嫌をとり、生徒は先生を軽蔑し、個人的な養育掛りの者に対しても同様の態度をとる。一般に、若者たちは年長者と対等に振る舞って、言葉においても年長者と張り合い、他方、年長者たちは若者たちに自分を合わせて、面白くない人間だとか権威主義者だとか思われないために、若者たちを真似て機智や冗談でいっぱいの人間となる」。(218-219)

(5)「僭主独裁制」:恐怖による支配。

「すべてこうしたことが集積された結果として、……国民の魂はすっかり柔らかく敏感になって、ほんのちょっとでも抑圧が課せられると、もう腹を立てて我慢ができないようになるのだ。というのは、彼らは君も知るとおり、最後には法律をさえも、書かれた法であれ書かれざる法であれ、かえりみないようになるからだ。」(220-221)→「それでこれが、友よ、僭主独裁制がそこから生まれてくる、かくも立派で誇り高き根源にほかならないのだ」(221)。

・「過度の自由は、個人においても国家においても、ただ過度の隷属状態へと変化する以外に途はないもののようだからね」。「僭主独裁制が成立するのは、民主制以外の他のどのような国制からでもないということだ。すなわち、思うに、最高度の自由からは、最も野蛮な最高度の隷属が生まれてくるのだ」(222)。

・民主制において、多数派を占める人々は、公共的な事柄に手を出したがらず、あまり財産がなく、怠け者で浪費家である。その民衆の中から、最も勇敢な者が指導者となり、演説を通じて、「何でもよく言うことを聞く群集をしっかりと掌握」する。この指導者は、民衆から支持を獲得しつづけるために、戦争を起こし、他の指導者予備軍を排除しようとする。そして僭主独裁制が成立する(226-230)。

・ケチくさい父親から放埓な息子が生まれる。そして放埓な息子は、僭主化する。【国家と個人】「個人としての人間は国家に似ている」(257)。【国制の優劣に対応する人間の優劣】「王者支配制的な人間、名誉支配制的な人間、寡頭制的な人間、民主制的な人間、そして僭主制的な人間」(265)

■魂の機能の三区分と快楽の対応

①学びを愛する部分。知を愛する部分。→知の快楽。

②勝利を愛する部分。名誉を愛する部分。→闘いと名誉から得られる快楽。

③食べ物や飲み物や性愛などの欲望に対応する部分。金銭を愛する部分。→利得を愛する

人間の快楽。

・プラトンによれば、①のみが真の快楽であり、純粋の快楽であり、最も快い。「自分の本性に適したものによって満たされることが快である」(283)。「してみると、魂の全体が知を愛する部分の導きにしたがっていて、そこに内部分裂がないような場合には、それぞれ部分は、一般に他の事柄に関しても、自分自身の仕事と任務を果たしつつ、〈正しくある〉ことができるとともに、とくに快楽に関しても、それぞれが自己本来の快楽、最もすぐれた快楽、そして可能なかぎりでの最も真実な快楽を、享受することができるのだ」(286)。

・「真実はこうではあるまいか。――すなわち、不正が人目を逃れた者は、さらにいっそう悪い人間となるが、他方、人に気づかれて懲らしめを受ける者の場合は、その人の内なる獣的な部分が眠らされて穏やかになり、おとなしい部分が自由に解放される。そして魂の全体は、本来の最もすぐれたあり方に立ち返り、知恵に支えられた節制と正義を獲得することによって、健康に支えられた強さと美しさを獲得した身体よりも、もっと価値のある状態をかち取るのではないか――ちょうど魂が身体よりも価値がある、それだけ差に応じてね」(297-298)。

・「それなら、いやしくも心ある人ならば、自分のもつすべての力を、この目標に集中して生きるのではないだろうか。すなわち、まず第一に彼は、彼の魂をそのようなあり方に仕上げてくれる学問を尊重し、それ以外の学問には重きを置かないだろう」。「つぎにそのような人は、身体の状態や養育を獣的で非合理的な快楽に委ねて、そこにのみ関心を向けて生きる、というようなことをしないのはもちろん、健康を目標とすることさえなく、……彼はつねに、魂の内なる協和音をもたらすためにこそ、身体の内なる調和をはかるのが見られるだろう」(298)。

■魂を配置する神(プラトン『法律(下)』第一〇巻、岩波文庫)

・【魂】=「自分で自分を動かすことのできる動」(277)

・「[わたくしたちを支配している王(神)は] 個々人の魂それぞれをどこに配置すれば、この宇宙全体において、徳の勝利と悪徳の敗北とが最も完全に、最も容易に、最も立派に実現されることになるかを工夫されたのです。かくして、私たちの支配者である王は、この計画全体を目標にして、たえず何かになりつつある魂が、どのような性質のものになった場合に、どのような位置、どのような場所を占めて、そこに住むべきであるかを工夫されているわけです。しかし、それがどのような性質のものになるかは、私たち一人ひとりの意志にその責任があるとされたのです。」(303)

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【監修者】宮川涼
プロフィール早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。

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