2023年3月25日(立川の溶岩ホットヨガ)

30代後半は人間誰でも悩むもの」

私、もちろん、30代ではございませんが、30代の後半に書いた日記をいくつかピックアップしていました。

「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て妻としたしむ」(石川啄木)

って、妻も俺にはおらぬか、苦笑。

–○月×日–

「見ることは喋ることではない 。言葉は眼の邪魔になるものです 。例えば 、諸君が野原を歩いてゐて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする 。見ると 、それは菫の花だとわかる 。何だ 、菫の花か 、と思った瞬間に 、諸君は心の中でお喋りをしたのです 。菫の花という言葉が 、諸君の心のうちに這入って来れば 、諸君は 、もう眼を閉ぢるのです 。それほど 、黙ってものを見るといふ事は難しいことです 」 ( 「美を求める心 」 )

土日とすっかり体調を壊して寝込んでしまった。一人暮らしで体調崩すと本気で辛い。何もかも不確かな中、ただ明瞭なのものは自分の苦痛だけだ。この俺よりも長生きしたげな苦痛によって痺れる精神だけだ。

孤独の闇の風がココロを荒らし尽くす。痺れた頭はただものを眺めることすらできなくなる。茫然として眼の前を様々なものが通り過ぎるのを眺めようとするのだが、何故草木は草木に見え、冷蔵庫は冷蔵庫に見えるのだろうか。

黙って目の前の光景を眺めていれば少しはココロが落ち着くだろうと思うのに、五月蝿い言葉がそれを邪魔する。

聞きたくもないのに心の奥底からゴチャゴチャと何か得体の知れないものがお喋りをしかけてくる。

耳を閉じてもお喋りは聞こえてくる。

「もう喋り掛けるな!」って言ってるのに、そいつを俺を逃さない。

俺は現実をボケっとただ眺めていたいだけなのに。スミレの花がす・み・れという言葉に置き換える。言葉に穢されたスミレはもはやスミレであってスミレでない。ただの記号だ。

一人で体調を壊して一人で家で寝込んでいると、どうしても左手に自殺という言葉が降りてくる。神の左手、悪魔の右手といったが、悪魔ではなく、神が死を唆す。しかし、自殺という想いを他人に語るほど退屈な馬鹿馬鹿しいことはない。

力んでいるのは当人だけだ。自殺してしまった人間というのはあるが、自殺しようと思っている人間とはそれ自体が矛盾している。

この歳のなっても俺には子供はおろか、自分の家族もいない。明日は誰にも見えないものだけれど、俺が果てつく先は孤独死でもあるのだろうか。俺が生きるために必要なものはもう俺自身ではない。欲しいのはただ俺が俺自身を見失わないように俺に話しかけてくれる人間と、俺のために多少は聞いてくれる人間だ。

今日、月曜日の早朝、先日紛失してしまった電子タバコの本体グローをコンビニでまた新たに買ってきた。アイコスはどうも味が良くないからだ。金で買えるものはいい。いくら無くしても、何度落としてしまっても、金を出せばまた手に入る。

ふと元カノが置いていった、腐り果てた人参の花をただじっと見ている。いらないお喋りが入ってくるまでの、ほんの数秒であろうと。この目に焼き付けておきたい。

本当に黙ってみることは難しい。
ましてやそれが己が人生であれば。

–○月×日–

日本人は桜にしろ花火にしろ移ろいゆくものが好きなものだ。

確かに、桜はその樹の下にしたいが眠ってると思われても仕方が無いくらいに美しいかもしれない。花火の煌めきは、戦場で散った仲間を想う美しさがあるのかもしれない。

だけれども、俺は消えて無くなってしまう美しさよりも、無くならない醜さの方が好きだ。

醜さと言ったら大袈裟かも知れないが、生け花よりも造花の方が好きなのだ。

先日、とても嬉しいプレゼントをもらった。相談のお礼ということで。その時、「形に残るものをあげるか、食べ物のようなものをあげた方が良いのか迷った」といわれたが、俺はこう即答した。

「どんなに美味しいものでも消えて無くなってしまう。だから俺は形に残るものの方が嬉しいよ」と。

哲学者ヘラクレイトスが言うようにこの世は「パンタレイ」(万物は流転する)なのかもしれない。

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶ泡(うたかた)は、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためし無し」

とはよく言ったものだ。しかし、ヘラクレイトスは昼夜、冬夏、戦争平和という反対物の対立ということに法則性を見いだしてそれをロゴス(真理)として認めたように、俺はどこかに変わらない何かがきっとあると信じている。

残念ながら、不惑を迎える歳になっても未だその変わらない何かを見つけてはいないし、手に入れてはいないが、いつかきっと俺はそれを見つけて手にしたいと思っている。

アルチュール・ランボーのもっとも有名な詩「永遠」の一説が好きだ。でも、永遠を見つけるのは難しいものなのか、原文は

Elle est retrouvée,

Quoi? ― L’Éternité.

という短い一節だが、俺が知っているだけで、四通りの翻訳が出ているほどだ。下に並べてみよう。

堀口大學 訳 「もう一度探し出したぞ/何を?永遠を。」

小林秀雄 訳 「また、見つかった、/何が、/永遠が、/」

中原中也 訳 「また見つかった。/何がだ?永遠。」

金子光晴 訳 「とうとう見つかったよ。/何がさ?永遠というもの。」

俺にとっては金子光晴の訳が一番心にしみいる。

ランボーは恋人ヴェルレーヌとの愛を永遠として詠ったのだ。

俺は小さい頃から、壊れてしまう物、無くなってしまう物、消えてしまう物があんまり好きじゃなかった。

だから、食事も美味しい物を食べようとも思わないし(単なる栄養補給として思っていない、苦笑)、特別変わったことをしようともしない。いつも部屋にいて映画を見たり、小説を読んだりするばかりだ。

買う物も服やアクセサリーや本などが好きだ。

だけども、一瞬の花火の中に永遠が隠れているかもしれないとも思おうことはある。

花火を見ているときに一生懸命写メばかり撮っている人を見ると「なんでこの人はちゃんと自分の眼にその光景を焼き付けないのだろう。花火を記録として撮っておけば満足なのだろうか?美しいものは記録するのでも記憶するのでもなく、己の眼に焼き付けるものじゃないか」なんて心の中でつぶやいたりもする。

矛盾しているのは判っているのだが、永遠は一瞬のものかもしれないとも思うのだ。昔、前妻が婚姻届を届けに俺の本籍地があった世田谷区役所に行ったときに撮った前妻の「およ?」ととぼけた顔が今も心の中から消えないように。

少し話がそれてしまった。

今、永遠は一瞬の中に垣間見えるものかもしれないといったけど、そんな永遠は俺は望まない。

俺が手に入れたいのは、時間を超えた永遠だ。美味しいイチゴチョコレートをもらうよりも、壊れたガラクタのロボット人形をもらうほうが嬉しい子供時代から今もそれは変わらない。

もちろん、ロボット人形は永遠ではないかもしれないが、簡単に消えてなくなるものではない。

いや、もっと素直に言うと、「友がみな我より偉く見ゆる日よ花をかいきて妻とたしなむ」と詠った石川啄木の妻堀合節子のように「愛の永遠性を信じたく」思っているのだろう。

俺は二十歳の時に、自分とは凡そ釣り合わないと思った美女に恋をして人生を一度ダメにしてしまった。その女性とは永遠を望んだが、果たされなかった。

その後、二度、三度と何人かの女性と同棲してもそれは変わらず、至っては11年共に過ごした前妻に俺は見捨てられた(苦笑。

あ々、どこかにあるのだろうか。L’Éternité.は。

ちなみに、ドイツでは結婚式で「immer und ewig」と言う。素敵だね。immaerもewigとは「永遠に」という意味だ。ドイツ語では永遠とは「Ewigkeit」(エービッヒカイト)という。

早く結婚したいなあ、と思うもうすぐ四十になる男の戯れ言でした。

日本人は桜にしろ、花火にしろ、儚いものをよく好む。俺も毎年花見はするし、花火も見るので、文句は言えないが、どんなに美しいものでも消え去ってしまうものは悲しいものだ。

だから俺ははっきり言う。
桜も花火も大嫌いだ。

カタチあるものに求めてはいけないのだろう。時間と空間に制限されないものは「こころ」しかないかもしれない。

先日、早稲田の後輩が遊びに来て四年ぶりに会った。折角なので早稲田にでも行こうと早稲田まで車で繰り出した。

早稲田の名物のあゆみBOOKSで本を買ってもらい、本の裏書きに言葉を添えてもらった。

その後、近くの渋い居酒屋で食事をしたが、交わされる会話は大学時代と変わらぬものばかり。二人で40歳近くになったら、もっと変わっているだろうと思っていたが、学生時代と何も変わらないと苦笑した。

その後輩とは、よく戸山公園でキックボクシングの練習をしたものだが、今もミットとグローブがあれば、「ミット打ちしにいこう」と言い出しそうだった。

線香花火の残りも尽きた。高層マンションの灯りと首都高の車のテールランプが残るばかりの夜景が美しい。今年は海に行かなかったことが悔やまれる。

–○月×日–

俺は男でも女でも人を単純に好きになったり、嫌いになったりしない。性格が合うだとか、顔がタイプだとか、価値観が一緒だとか、そういうのはあまり重視しない。だから、一目惚れなんていうのは人生において経験したこともなければ、仮に女性と付き合っても最初好きであることはない。

これは昔も語ったことがあるのだが、俺は「思い出」を一番大切にする。「思い出」とは「記憶」とよく混同されるが、私が言う「思い出」は「記憶」とは少し違う。「794年(なくよウグイス)平安京」という「記憶」とは違い、その人と共に体験した出来事を「思い出」と言っている。「共有体験」と言い換えてもいい。その「思い出」が積み重なることで俺は人を好きになり、人を愛するようになる。

以前も引用したが(この引用の仕方は少し間違っているのだが)、俺は小林秀雄の『無常という事』の「思い出が、僕等を一種の動物である事から救うのだ」という言葉が好きだ。実は、この前の一節の「思い出は美しく見えるとみんなよく言うが、その意味をみんなが間違っている。僕等が過去を綺麗に修飾するのでは無く、過去の方で僕等に余計な思いをさせないだけなのである。」という言葉も好きな箇所だ。

人間だけが「思い出す」ということが可能であり、「思い出」だけが人と分かち合うことができるものだと思っている。

俺は他人との関係性を、この「思い出」の共有をなしに考えることはできない。人と人の関係は共に体験したことによって形成されると思っている。大東亜戦争後、ガダルカナルで散った戦友の実家に訪れる兵士にあるのは階級でも友情でも、性格の一致でもなく、共に戦った戦友としての体験である。

太宰治は少し極端で、著書『思ひ出』にて「思ひ出だけでも、みよの心に植ゑつけたいと念じたが、それも駄目であつた。」と「思い出」を植え付けようとまでしているが、「思い出」とは植え付けれることができるようなものでもない。「思い出」は共にはぐくむものなのだ。

少し話が本題とずれてしまったが、だから、俺が人を好きになるには時間がかかる。昔愛した前妻でさえ、付き合って最初の二年間は毎日のように「俺たちは合わないんじゃないか。別れた方がいいんじゃないか」と言ったものだ。

前妻は美人だったし、よく気がつく女だったが、それで俺は人を好きにならない。美人など探せばどこにでもいるものだし、性格など多種多様であってしかるべきだ。

よく俺が恋愛論で人にいうことがあるのだが、それは「相手のことを好きな理由を述べられたら、いけない」というものだ。というのも、仮に「彼は背が高いから」だとか「彼は性格が優しいから」だとか「彼は私を大切にしてくれるから」だとか、ましてや「彼は収入があるから」では、いくらでも「取り替え」が効いてしまうからだ。

もっと背が高い男ならそっちがいいのか?もっと性格が優しいならそっちがいいのか?という話になってしまう。好きなことに理由があっては、その理由があることが故に、他の人と取り替え可能になってしまうのだ。

俺が好きというのは、たとえば、「私はトマトが好きだ」という台詞と同じように理由がないものじゃなくちゃいけないものだと思っている。トマトが好きなのに理由なんてない。好きだから好きだというトートロジーでしかない。

こう言うと「思い出」で人を好きになるのなら、理由があるじゃないかと思う人もいるかもしれない。確かに、「思い出」はトマトが好きだというレベルのものと少し違う。

だけど、トマトが好きなのを選べないように、「思い出」も選びようがない。共有して積み重なっていった「思い出」はいつしか「生き様」となり「歴史」へとなる。それはもはや「取り替え」のきかないものであり、他者と比べることができるものではない。

なんだか文章がひどくだれてしまったな。今日はストレス発散に文章を書いているので、良い文章が書けない。まあ、こんな時間に起きている時点でいけない。

俺はこれまで人生で三回ほど大きな挫折を味わった。とりわけ、最近は失敗することが多い。こんな時、人生の苦楽をともに分かち合えるような相手と「思い出」をはぐくむことができれば幸せだと思う。

人生の次の扉を開けてくれるのは、いつだって馬鹿馬鹿しい偶然、些細なずれ、話にならない勘違いだ。俺の好きな映画『ウォール街』でしがない証券マンのバドはこう言っている。「人生はほんの5,6秒で大きく変わってしまうこともある」と。その5、6秒のきっかけから思い出が生まれ、人生が生まれ、歴史が作られていくかもしれない。

俺は俺の「思い出」があり、「人生」があり、「歴史」がある。我が家に置いてある「思い出」の赤いハートの時計(この時計を買ったときの思い出はよく覚えていて、俺が前妻と赤羽のニトリに買い物に行ったときに、二人が仲良く心と心を合わせて暮らせていけますように、と願って無邪気に笑いながら買った安時計だった)がもはや正確な時を刻まなくなったように、俺の人生は狂っちまったかもしれないが、また人と「思い出」を作っていければ、とそう願ってやまない。

–○月×日–

”Miser sui satisfactionem epistolae.”

哲学者中島義道は人間嫌いで有名だが、彼は「人間嫌いとは、つまるところ自分の信念と感受性に忠実に、世間と妥協しないでどこまで生き抜くことができるか、平たく言えば『わがまま』をどこまで貫けるか」と語っているが、俺はまさにこの「わがまま」を貫いてきたんだろうな。

だから、恋人もみな去って行くし、友も消えて言った。俺が好きなマンガ『グラップラー刃牙』で範馬勇次郎はこう言っている。「強さとは何か?…強さとは己のわがままをどこまで貫き通せるかどうか、だ」と、奇遇にも中島義道と同じことを語っている。

俺は強さに憧れた。そして、人間なんて大嫌いだ。

俺はニーチェと出会って哲学に惹かれ、ハイデガーと格闘し、カントの苛烈さに心惹かれた。俺は院生の頃、指導教官によく「ニーチェとカントは同じなんです。俺はそれを証明したい」と言って「馬鹿なことをいうな」と言われたが、定年を過ぎ老いた中島義道は俺と同じことを言っている。

中島は、こう語っている。

「カントが教えてくれることは、すべての『目的』は、人間理性が自然に持ち込んだものにすぎないということ。自然にも、歴史にも目的なんぞ片鱗も含まれていない。ただ、われわれ人間の眼にはあたかも目的があるかのように見えてしまうだけ。これは、ほとんどニーチェである。

じつは、カントは一般に考えられているよりはるかにニーチェに近い。カントは神を半殺しにし、ニーチェは神を完全に殺した、とはよく言われることであるが、カントは神に致命傷を負わせ、『殺した』のではなく、『死ぬにまかせ』たのだ。『理性の限界内における宗教』とは、もはや宗教ではないだろう。ニーチェは、ずっと後に出てきて神の死を確認した検視官にすぎない。

(中略)

『明るいニヒリズム』は、カントとニーチェとを結ぶところに発生する。それは、まずわれわれ人間に降りかかるこの世のあるいはこの世を越えるすべて事象が完全に無意味であることを認めること、とりわけわれわれが最も関心を持つ超越的対象(神、魂、自由)の意味の確定はわれわれ人間の能力を超えていることを潔く認めることなのだ。

しかも、「神は死んだ!死後、私は永遠の無である!善悪のいかなる基準もない!」と叫ぶことを控え、たぶんそうかもしれないと思いつつ、そうでない可能性を握りつぶすわけでもない。

(中略)

私が死んでも、地上では人々はあくせく働き続けるであろうし、太陽の周りを地球は回り続けるであろう。しかし、このすべては『死んでしまった私からの』記述ではない。錯覚かもしれない客観的世界からの記述である。

(中略)

ヒトラーという男が、ありとあらゆる倫理学の定式に当てはまらないこと、あらゆる学説をせせら笑うかのようにすり抜けてしまうこと、こうしたことに興味を覚えている。もしかしたら、アイヒマンの宣言したごとく、彼の格律(信念)はカントの定言命法に反しないかも知れないとさえ思われる。彼が私腹を肥やすためではなく、権力を握るためではなく、世界に冠たる冠たるドイツ帝国を築くためではなく、ただひたすらユダヤ人の絶滅に邁進するのは、『自分の信念に誠実であれ』というカント倫理学の中核にー奇妙にー合致してしまうのである。

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【監修者】宮川涼プロフィール早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。

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