バガヴァッド・ギーターの教え(ヨガの古典の経典を通してヨガを学ぶ)(7)

01 ジュニャーナ・ヨガ

『バガヴァッド・ギーター』では、主に3つのヨガ、ジュニャーナ・ヨガ、カルマ・ヨガ、バクティ・ヨガが説かれています。そこで、ここからはこの3つのヨガについての簡単な説明を行っていきたいと思います。まず、最初にジュニャーナ・ヨガについて考えていきましょう。ジュニャーナ・ヨガの「ジュニャーナ」というのは「智惠」という意味です。普通、「智惠(あるいは知恵と一般的には書くでしょう)」と言うと、知識がたくさんあることを指しますが、ここでいうジュニャーナという言葉における智惠というのはそのような意味ではなく、真理を洞察する賢さを持っていることを意味しています。いわゆる博識であるとかたくさん知識を持っているということではなく、真理を洞察する力を持っているということが智惠と呼ばれているわけです。たとえば、社会的地位が高かったり、たくさんお金を持っている人であっても、実際は孤独や不安で苦しんでいたり、多くの悩みを抱えているということはよく皆さんも記事や逸話などで見聞きすることではないでしょうか。そういった意味では、その人は優れた知性を持っていたり、お金を稼ぐ能力はあるのかもしれませんが、自分の幸福を実現するという意味での賢さは漏っていないということになります。ヨガで言う智惠とは自分を幸せにする力のことであり、この智惠を得ることがジュニャーナ・ヨガであるわけです。

では、『バガヴァッド・ギーター』が教えている智惠とは一体何なのでしょうか。クリシュナは次のように述べています。

「アルジュナは訊ねた。クリシュナよ、智惠が確立し、サマーディを達成した人の特徴はどのようなものでしょうか。また、智惠が確立した人は、どのように語り、どのように座り、どのように歩むのでしょうか?聖バガヴァッド(クリシュナ)は答えた。アルジュナよ、心にある全ての欲望を捨て自己(アートマン)に満足している人、その人の智惠は確立している」

ここで、クリシュナは、智惠のある人はアートマンに、つまり自分自身に満足している人だと教えています。では、この自分自身に満足するとはどのような意味でしょうか。少し考えてみましょう。一般的に私たちは幸福を自分の外側に探しています。「お金がたくさんあれば私は幸せなのに」とか「美しい恋人がいれば私は幸せなのに」と思ったり、あるいは「美味しい食事をしているときは私は幸せだ」と考えています。このようなとき、私たちの幸福は自分の外側にあり、それを手に入れることが出来れば私は幸福になると考えているのです。しかし、『ヨーガ・スートラ』の記事でも紹介したように、私たちの心には相対性があり、喜びはいずれ苦しみに変わってしまいます。また、外界にあるものは変化しますから、喜びとして手に入れたものはいずれ失われてしまうのです。従って、幸福を自分の外側に求めるのではなく、自分の内側に、つまりアートマンに求めるべきだとクリシュナは述べているわけです。しかし、アートマンに満足しろといわれても、一体どのようにすれば良いのか、すぐに分かることではありません。

これには、アートマン自体が至福であるという理解が必要です。度々お話ししているように私たちの本質であるアートマンには、サッチダーナンダと呼ばれる3つの性質があると様々な経典で古くから言われてきました。これはアートマンに備わる3つの性質です。サット(存在)、チット(純粋意識)、アーナンダ(至福)の3つです。つまり、アートマンは、純粋な意識であり、その存在はなくなることがなく、常に至福であるということを表しています。この至福である自己だけに留まることがジュニャーナ・ヨガです。自分の外側にあるもの、つまり心や体や世界は常に移り変わっています。心は変化し、体も年老いていきますし、世界も目まぐるしい速さで変化していきます。愛する人もいずれは去ってしまいますし、大切にしているものもいつかは失われてしまい、自分自身の体も当然滅びてしまうのです。ですから、いかに喜びをたくさん作り出そうが、後でそれは失うと言うことによって、逆に苦しみとなって私たちに重くのしかかってくるのです。たくさんの喜びを集めた人は、転ずれば、多重債務者のように苦しまなければならないということです。しかし、多くの人は、その現実に気づこうとせず今ある喜びを必死に集めようとしています。

しかし、これは私たちの心の世界の出来事です。アートマンの至福だけに満足する人に苦しみは起こりません。そこには、永遠の完全な安楽があるのみです。このことに気づいたらなら、アートマンの至福に留まることが人間の最高の至福であるということが理解されるのです。このように、私たちの真の自己アートマンは至福であり、永遠に失われることありません。私たちは心によって様々なものに執着しては「私は何かを失う」とか「私はあの人に傷つけられた」と新お会いしたり怒ったりしているのです。ヨガでは、よく次のような譬えはなしがされることがあります。

ある人が納屋に入ってみると、暗がりのなかにとぐろを巻いている蛇のようなものを見付けました。驚いたその人は「蛇が出たぞ」と叫びながら家に帰り、ランプを取ってから納屋に戻って暗がりを照らしてみると、それは蛇では無く、ロープだったのです。その人は暗がりでロープと蛇を見間違えて驚いたわけですが、灯りを照らしたことで、真実を知り、恐れる必要がなくなったことに気づいたわけです。この話は、自分の本質を知らずに、外界のものを見て不安になったり恐れたりする私たちの性質をよく表現しています。つまり、アートマンである自己を知れば、不安になる必要も、恐怖する必要もないということを示しているわけです。つまり、永遠に至福であるアートマンである自己を知れば、私から何かを奪ったり、苦しみを与えることなどできないからです。私たちはいわば物質の暗がりに、つまり心や体や現象世界に様々な想像力を働かせることによって恐怖を作り出しているわけです。この暗闇を智惠という光で照らし、恐怖を取り除くことがジュニャーナ・ヨガの実践的な側面です。また、智惠を与えてくれる者をグルと呼びますが、グルには、「闇を払う者」という意味があります。

それでは、ジュニャーナ・ヨガの具体的な実践について考えてみましょう。私たちが日常生活をするとき、アートマンである自分を心や体だと思い込む瞬間が頻繁に起きているということがよく理解されるでしょう。つまり、考えごとをしているとき、アートマンである自分を心や体だと思い込む瞬間が頻繁に起きている、ということはよく理解されるでしょう。つまり、考え事をしているとき、「私は今考えている」とか、怪我をしたとき、「私は傷ついた」というように、心と体を自分だと認識しているからです。従って、このときあなたはアートマンを心や体を自分だと認識しているからです。従って、このときあなたはアートマンを心や体だと思い込んでいるわけですから、このような考えが生じたとき、「私は純粋意識アートマンである」と念想し、「私は心や体ではない」と考えて識別するのです。特に注意して識別すべきなのは、日常生活の中で生じる怒りです。たとえば、あなたが容姿を他人から馬鹿にされたとき怒りを感じたとすれば、あなたは体をアートマンだと思い込んでいるので怒りが生じるのです。ですから、「アートマンである私がなぜ容姿を馬鹿にされ怒らなければならないのか」と考えて怒りを手放すようにしましょう。同様に、誰かに、「こんなことも知らないの」とあなたの知性を馬鹿にされたとき、「アートマンである私が、自分の知性を馬鹿にされて怒る道理があるだろうか」と考えて怒りを手放します。

このように、私たちが怒りを感じるとき、そこにはアートマンと何か別の対象との結びつきがあるのです。それは心や体だけでなく、洋服や車やお金かもしれません。したがって、日常の様々な場面で怒りを感じたとき、「私は純粋意識アートマンである」と強く念想し、怒りを手放さなければなりません。むしろ、怒りが私たちの執着の場所を明らかにしてくれるのです。怒りを克服することで、自己の束縛から解放されるのです。こういった意味では、あなたを怒らせる人はあなたの師であるとも言えます。また、怒りだけではなく、喜びにも注意しなくてはなりません。普通私たちは怒りは手放した方が良いが、喜びはできるだけ受け取って良いと思います。しかし、これはヨガ的に考える間違えです。怒りの原因となる執着は喜びによって生じているからです。たとえば、野球がとても好きな人がいて、たくさん練習して他人より上手くなったとしましょう。そのとき、誰かに「あなたはとても野球が上手いね」といわれると、何だかとても嬉しくなるものです。しかし、このように喜びを感じるとすれば、その時、アートマンと野球は同一化してしまったともいえます。従って、誰か別の人に「あなた野球下手だね」と言われたとき、腹を立てる原因となります。このように怒りだけでなく、喜びにも注意して、あらゆる対象を識別した人の心の平安が揺らぐことはありません。

しかし、こうした一方で、喜びや悲しみ、怒りこそ人生の面白さであり、こういった感情を手放したくないと思う人がいるかもしれません。恋の欲望に身を焦がしたり、人生の難所で苦悩すること、こそこそ命の醍醐味であるとも言えるでしょう。もちろん、これも正しい意見です。心の相対性を受け入れることができるなら、それを楽しむこともできるでしょう。こういった意味で、不安や怒りをあなたの心から追い出すこと、心をいつも穏やかにしておくことは、1つの選択肢であると考えることもできます。何が人間の自然な状態であるかどうかは、その人自身で、決めることです。人生に喜びや悲しみが存在すること、これは1つの状態ですし、人間が至福であり続けるということも1つの状態です。どちらを選ぶかは、あなたの自由です。ここでお伝えしておきたいことは、人間は苦しんだり悩んだりするもので、永遠の至福を実現することはできないと考えることは間違いだ、ということです。少なくともヨガの教えでは、至福は決して特別なものではなく、至福こそむしろ人間の本来の状態であると教えているのです。

02 カルマ・ヨガ

それでは、次にカルマ・ヨガについて考えてみましょう。カルマという言葉は、行為という意味で、行為のヨガとも呼ばれます。このヨガについて、クリシュナは次のように述べています。

「アルジュナよ、苦しみがない解脱を獲得するためには、<心による方法>と<行為による方法>の2つがある。行為をしないから、行為に影響されないわけではないし、行為を全くしないからといって、解脱できるわけではない。行為をしなければ、少しの間も人は存在できない。意図しなくても、身体の手足等が人に行為させる。身体を動かさず、座り、瞑想していても、心に迷いがあれば、その人は劣っている。しかし、身体が行為しても、心によって、感官のはたらきを抑え、執着がなければ、その人は優れている。あなたは定められた行為をしなさい。<行為すること>は、<行為しないこと>よりも優れている。行為をしなければ、あなたの身体は維持されない。人は行為に影響される。しかし、祭式であれば、その行為に影響されない。執着を離れ、祭式をしなさい。」

私たちが人間として生きていく限り、様々な仕事をする必要があります。農業をする人、酪農をする人、鉄を加工する人、世の中には様々な役割があって人間の命は保たれています。アルジュナのようなクシャトリアや(軍人)であれば、戦争で国を守るという役割があります。カルマ・ヨガは生活の中で、社会との関わりの中で行うヨガです。ラージャ・ヨガのような瞑想法は確かに悟りを開くための1つの方法ですが、既にお話ししたように、全ての人がこのような実践が出来るわけではありません。行為をやめれば人は生きていけませんから、人が生きていくためには、行為が継続される必要があるのです。

したがって、人として生まれたからには、その人には役割を果たす義務が生じます。しかし、行為をしたままラージャ・ヨガのように瞑想することはできません。では、行為をしたままで、一体、どのように悟りに近づけば良いのでしょうか。そこで、クリシュナは、カルマ・ヨガを行えと教えたのです。カルマ・ヨガには大きく2つの実践があり、それは行為の結果に執着しないこと、そして、成功と不成功を平等に見ることです。人間は生きている限り行為が生じますが、私たちはその行為に勝敗をつけ、成功を得ようと努力し、失敗を避けようと必死です。つまり、私たちが行為するとき、そこにはエゴの視点が存在し、エゴの欲望や期待によって心には様々な苦楽が生じてしまうのです。クリシュナはこう続けます。

「供物として捧げた残りの者を食べる人は、正しい人で、何の罪も犯さない。しかし、自分のためだけに料理する人は、悪い人で、罪を犯す。生き物は食べ物で成長する。食べ者は雨から生じる。雨は祭式から生じる。祭式は行為から生じる。行為はブラフマンから生じる。ブラフマンは<不滅の存在>から生じる。従って、一切に偏在しているブラフマンは、常に祭式に含まれている。このような関係を理解せず、行為をしない者は、罪を犯し、感官で感じた快楽に溺れ、虚しく生きる。一方、自分自身に喜びと満足と幸福を感じる人にとって、行わなければならない行為はない。自分自身に喜びと満足と幸福を感じる人は、行為をしても、行為をしなくても、何の影響も受けず、生き物に何らかの影響を与えるこもない。従って、執着せず、行為をしなさい。執着せず、行為をする人は、解脱する。ジャナカ王等は、行為だけによって解脱した。世界が存在するためだけであっても、あなたは行為をしなければならない。」

ここで『バガヴァッド・ギーター』の解説で最初にお話しした宇宙の第一原理パラブラフマンを思い出してみましょう。パラブラフマンは空間のようであり、その中であらゆるものが展開しています。では、エゴではなく、このパラグラフマンの視点から私たちの日常生活の動きを見てみたらどうでしょうか。結局は、成功も失敗もエゴが作り出したものに過ぎず、本質的にはプラクリティの動きだけがあるとも言えます。ですから、行為そのものには必然性がありますが、そこには本質的な目的も結果もありません。ただそれぞれのグナに従って活動しているだけなのです。従って、行為の結果に執着せず自分に与えられた役割を純粋に行うこと、エゴによって生じた余計な執着や願望を手放すことがカルマ・ヨガの実践であるのです。クリシュナはこう語っています。

「欲望が無く、心の働きを抑え、何も求めない人は、身体だけが行為するのであって、罪を犯すことはない。与えられたものに満足し、寒さや暑さなどの対立的な見方をせず、妬まず、成功や失敗にこだわらない人は、行為をしても、行為の結果に影響されない。」

さらに、クリシュナは行為について解き続け、ヨーガ(ヨガ)の状態にある修行者(ヨギー)は、すぐにブラフマンに到達すること、行為をブラフマンに捧げれば罪に汚されな子と、アートマンを知れば、ブラフマンを知ることを語り、ヨーガ(ヨガ)の状態とアートマンについて説明し、欲望や怒りがなく、心の働きを抑え、アートマンを知る修行者はブラフマンという解脱を獲得すると説きます。

「アルジュナよ、<行為をしないこと>によっても、<行為をすること>によっても、最高の幸福を獲得することができる。しかし、<行為をすること>は<行為をしないこと>よりも優れている。憎しみや愛しさがない人は<行為をしない人>である。憎しみや愛しさなどの対立的な見方をしない人は、輪廻という苦しみから解放される。愚かな者は、理論と実践を区別するが、賢い者は区別しない。理論と実践の一方によって、両方の結果が獲得される。理論によって獲得されるものは、実践によっても獲得される。理論と実践を区別しないことが正しい。<行為をしないこと>はヨーガ(ヨガ)によって獲得される。<ヨーガ(ヨガ)の状態>にある修行者は、すぐにブラフマンに到達する。<ヨーガ(ヨガ)の状態>にある人は、心で何も考えず、身体を動かさず、感官を通して何も感じない。生き物の本質であるアートマンになり、行為をしても、行為に影響されることはない。<ヨーガ(ヨガ)の状態>にある人は、何を見ても、何の音を聞いても、何に触れても、何の匂いを嗅いでも、食べものを食べても、動いても、眠っても、呼吸しても、話をしても、排泄しても、何をつかんでも、目を開いても、目を閉じても、感官が働き身体が行為をしていると考え、私自身は何も行為していないと考える。(中略)賢い者は、バラモン・牛・象・犬・シュードラを区別して見ることはない。ブラフマンは、バラモン・牛・象・犬・シュードラに等しく存在する。従って、それらを区別して見ない人は、ブラフマンを見ることになり、輪廻しない。心に乱れや迷いが無く、ブラフマンをしり、ブラフマンに身を捧げた人は、楽をもたらすものを手に入れても、喜ばず、苦をもたらすものを手に入れても、悲しまない。」

もう一つの点は、物事を平等に見ることです。私たちは普通、物事に優劣をつけて「これは良い行い、これは悪い行い」とか「これは優れている、これは劣っている」と判断しています。このように、物事に優劣をつければ、それを起因として心に苦楽が生じることになります。たとえば、どこかのリゾートで楽しんでいる時間は自分にとって価値のある時間で、仕事をしているときは自分らしくない時間だと思うなら、それらの行為はエゴによって判断されているのです。また、「私は雑用ばかり押しつけられている」とか「あの人は有名になって羨ましい」というように考えるなら、それもまた物事に優劣をつけていることになります。これもまた、パラグラフマンの視点から見るとすれば、当然このような違いはないと言えます。

以上のような価値判断は心に勝手に生じてくるものですが、心に惑わされずに、心を識別し物事を平等に見るように努め無ければなりません。このように、行為の結果に執着せず、物事を平等に見てそれに囚われない態度を確立することが、カルマ・ヨガです。行為を平等に見るという点についてクリシュナは、行為だけではなくあらゆるものの価値を均等に見るように説きます。

「理論と実践によって得られた識別知によってアートマンの至福に満たされ、感覚を制御し、土や石や黄金を同じものと見る人はヨギー(ヨガをする人)であるといわれる。親しい者、仲間、敵、中立の者、憎い者、親戚に対して、また善人と悪人に対し、平等に考える人は優れている」

この節でクリシュナは、金も石も同じものとしてみるように説いてます。また、善人も悪人も、友人も敵も、喜ばしい人も嫌いな人も平等に見るようにと言います。結局、このような違いは私たちの心に生じている幻想に過ぎないわけです。この世界に現れている価値の違いは私たちの心によるものであって、あらゆるものはすべて平等なのです。このように考えるならば、ラージャ・ヨガのような瞑想によって涅槃に入ろうが社会生活をしようが、パラブラフマンの視点から見れば、それもまた同じであると言えます。「ヨガとは平等の境地である」と言われていますが、このように世界を見る人は、あらゆるものを平等に見て悟りを得ることができるのです。

バガヴァッド・ギーターの教え(ヨガの古典の経典を通してヨガを学ぶ)(8)

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【監修者】宮川涼
プロフィール早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。

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