二 スピノザ
1 人生
バルフ・デ・スピノザ(Baruch de Spinoza:1632~1677)は汎神論者とも無神論者とも呼ばれるオランダの哲 学者で俗に「神に酔える人」とも呼ばれます。反デカルトの急先鋒。ポルトガルから亡命してきたユダヤ人家 庭に生まれた彼は、最初ユダヤ教の学者となる教育を受けたが、それに満足できず、次第に教団から離れて いきデカルト哲学や自然科学を研究するに至ります。その為、1656年に教団より破門され、アムステルダムを 追われて各地を転々と渉り、最後にバークに移って学問の研究に従事したそうです。スピノザはその出自で あるユダヤ教からもキリスト教からも無神論者として非難され(神学政治論を匿名で出版したせい)、死ぬまで 清貧の生活を送り、レンズ磨きの職人をしていたとされています(殆ど伝説。多くは謎に満ちている)。
2 著作
(1)エチカ(倫理学)の要点
1 実体は唯一神のみ、神は無間の属性を持つ
2 思惟と延長のみが人間に知ることが出来るもの
3 精神と身体は互いに排他的なものではなく平行している(物心平行論)
4 精神の最高の徳は神の認識である
5 神への知的愛
(2)神学・政治論
1 啓示とは自然的認識の限界を超えるものであり、従って、人間本性の法則がその原因とはなり得ない
2 奇跡とは超自然な出来事ではなく原因を知る事の出来ない異常な出来事 3 自然の法則に反する聖書の記述は無神論者によって書かれたものである
3 思想
(1)神即自然 まず、スピノザは実体を「実体とは、それ自身のうちに在り、かつそれ自身によって考えられるもの、言い換え れば、その概念を形成するのに他のものの概念を必要としないものと解する」と定義します。つまり、実体とは 自分だけで存在して、考えるのに他のものを必要としないものであると言う訳です。そして、彼はこれを当時の 通念に従って神と名づけました。この時点でスピノザによる鋭いデカルト批判が伺われます(即ち、神の概念 を使わなくては説明出来ない様な精神や物質は実体ではない)。と言え、実はこのスピノザの定義はそう目 新しいものではなく(目新しいのはその書『エチカ』の極端に数学的(幾何学的)な形式《定義-公理-定理 -系》の方)、ギリシア以来の伝統的な哲学史の定義に沿ったものと言えるものでした。しかしながら、ただ伝 統的な系譜ではプラトンのイデア論のようになってしまい、この世は仮象とでも呼ぶべきものになってしまいま す。そこで、スピノザはこう考えたのです。普段、我々が目にしたり、感じている自然も精神もみんなすべて神 とは別の物ではないという事です。即ち、スピノザは神は絶対に無限な存在、無限に多くの属性よりなる実体 であると定義しました。そして、神は無限に多くの属性を持つ実体であるから、神以外の他に実体が存する事 になれば二つの実体が同じ属性を有する事になってしまい、それでは、その二つともが共に独立的なもので はなくなってしまうので(つまり、実体の概念に相反してしまう)神以外の実体は有り得ないとします。こうして 、すべては神によって生じしめられ、神の内に存在する、と言う事になる訳です(全ては神である)。つまり、唯 一の実体は神であり、神は完全かつ無限、永遠なる実体で、この世界の一切のもの(精神も物質も神の属性 に過ぎない)はこの唯一の実体たる神からの変様体に過ぎないと言う事です。これが、「神即ち自然」=「神 即自然」の思想と呼ばれる所以です(一般には汎神論と言われることもある)。 また、スピノザにおける神は何ら自己以外のものを持たないのであるから、一切を生じせしめる神の働きは決 して他のものなどの外的強制によって強いられるものではなく、神の働きは自由であると考えます(とは言え 、この自由は無秩序な自由ではなく、神が自己自身の内的必然性により自己の法則に従って働くものである とされている)。つまり、神の働きを目的論的に捉えてはならない訳です。更にスピノザは、神と個々の事物と の関係を原因と結果の関係とします。しかしながら、この因果関係はいわゆる時間的な(後と先の様な)因果 関係ではなく(スピノザの哲学には変化する時間、或いは歴史と言う概念はない)、「永遠の相の下に」考察さ れた関係であるのです。それは、三角形の内角の和が永遠に変化しない様に、現実の中に永遠(イデアとで も呼ぶべきもの)を垣間見る関係と言えます(これは神の必然的法則によって決定された所産的自然と能動 的自然の関係とも言いかえれる)。つまり、世界の一切は神と言う実体の持つ論理の必然に従っている訳で あって、自由などはない、と言うことであり、自由は大いなる必然の全てを人間が認識出来ないと言う限界か ら来る錯覚に過ぎないとされる訳です。
(2)精神と物質の関係 以上のように、スピノザにおいては精神や物質は実体ではないと考えられた訳ですが、こうした精神と物質は 神の無数の属性のうちのふたつであり、それら二つだけしか我々は知り得ることが出来ないと考えます(感情 や意志、判断などは様態)。そして、この二つは全く別の独立した異なる属性では在るが、根本的には神と言 う唯一の実態から現われた二つの属性に過ぎない訳ですから、精神と物質は元々一つのものの二面的な現 われに過ぎないと推論します(物心平行論)。したがって、精神と物質の関係について、精神の秩序と物質の 秩序は同一であるからお互いが相互作用しなくとも並行的な対抗関係に在ると考えます。これは、いわば後 の哲学者ソシュールの思想である言語におけるシニフィアン(表現する記号)とシニフィエ(表現された意味) のような密接不可分な関係に在ると言う訳です。
(3)倫理説 さて、スピノザによると我々には意志の自由はなく、我々が自由に行っていると思う事は、あたかも下へ向か って落下する石が自由に落下していると思っているに等しい勘違いであるとされております。こうした展開(機 械論的な世界観)からは倫理など生まれるまでもなく、まさしくレッセフェーレ状態になってしまいそうですが 、スピノザは独自の倫理説を展開します。スピノザによると、まず存在するという事は「自己を保存する」と言う 事に他ならないのだから、全ての個物は自己を保存しようと努力しなければならないとされます。従って、我 々はそういった自己保存を遂行するためにも外界の影響(外的原因)によって生まれる感情に左右されては ならないとされます(受動と能動。感情は受動的である)。そして更に、スピノザは我々の本質は純粋な認識 の内に在るとし、その認識を発展させるために努力しなければならないと説きます。即ち、そこにおける真の 認識とは上述までの論理より判るように、一切を神の中において眺める事であるから、我々は自らが神に依 存している事を自覚して神の中に同化し、それと一つになったものとして省みなければならないとされた訳で す。これが、神に対する「知的愛」と言うものになります。