ヨガをする前の時間つぶしのための哲学4

ソクラテス以前の哲学者

ヨガをする前の時間つぶしのための哲学

ヨガをする前の時間つぶしのための哲学2

ヨガをする前の時間つぶしのための哲学3

第十二回 アナクサゴラス

さて、今日はアナクサゴラスですね。まあ、それほど著名な哲学者じゃないんですが、皆さんもご存じの若きソクラテスを熱中させた哲学者として有名でもあります。で、この哲学者はなにを言ったかというと、ようするに先のエンペドクレスが動力因を憎しみだと か愛だとかいう訳の判らんもんを挙げていたのに対して、このオヤジは「理性( ヌース)」が動力因であると説いたところに意義があったわけです。

といっても、「太陽は燃える石である」と喝破したことでも有名なように、彼は 基本的に唯物論者でありまして、理性を掲げる観念論者じゃありませんでし た。そこが、ソクラテスは「せっかく理性という概念を持ち出してきたのに、結 局のところ機械論じゃないか!」と落胆させたゆえんでもありました。とはいえ、経験論を軸に考えていくというのは自然科学の基礎であるわけで、決して軽んじるべきではないと思います。

ところで、アナクサゴラスのアルケーとは何であったか、それについても触れておきましょう。まず、彼は「スペルマタ(種子)」をアルケーと捉えました。そ して、このスペルマタはエンペドクレスのように四つの種類しかないものではな く、かといって現代科学のように113種類だか何種類だか忘れましたが、そういう 有限な数ではなくて、「無数」にあると考えたのです。現代ではスペルマというと精子を意味していますね。その意味では、人間の生命の根源を奇しくも捉えていたと考えることができるのではないえしょうか。

さて、万物はこの無数のスペルマタによって構成されてくるわけですが、彼の面白い発想は、一つ一つのモノには全ての種類のスペルマタが含まれていると考え たところにあります。その意味では素粒子論とも繋がってくる先駆的な発想であったともいえるかもしれません。目の前のコップには、すべてのスペルマタが含まれている わけです。そして、目の前のコップと隣にある林檎が異なるのは、その無数のス ペルマタのそれぞれの種類の割合によってであると考えたのです。つまり、無数のスペルマタのうち、ある特定の種類のスペルマタの分量の多さによって、物事 はその姿を変えてくると考えられたわけです。

第十三回 レウキッポスとデモクリトス

今回はレウキッポスとデモクリトスの二人ですね。何で今まで一人ずつ扱って きたというのに、急に二人もいっぺんに扱うかというと何も筆者が「面倒くさ くなった」とか、「簡略化しよう」と何気に合理化をはかっているとかいうわ けではなくて、レウキッポスが余りにも資料を欠いており(その実在を疑う説 もある)、通常レウキッポスの思想はその弟子デモクリトスと一括して説明さ れるのが通例だからであります。

さて、Vorsokrathikerらしくまた例によって彼らの考えたアルケーを取り上げ たいですが、今度のそれは「アトム」です。少なからず予想されていた方がい るかもしれない寒いギャグをいえば、もちろんあの「鉄腕アトム」のことでは ありません。「アトム」とは「分割されえぬもの」というような意味でして、 要するに、「原子」のことです。多くの現代人が、「原子」と聞くと非常に納得しやすいものがあるかもしれません。古典物理学も何もない時代に自分の観念だけでそうした根源を考えつくと言うことは凄いことですよね。

そして、この「アトム」は今までのエンペドクレスやアナクサゴラスの考えた 元素と違いそれぞれ一つ一つの間に性質上の差異は認められず、ただ形が違う だけとされたのです。そして、多様なの事物や現象はその「アトム」の配列と 位置の違いによってだけ生じてくるものであると考えられました。

ところで、デモクリトスが考えたことの特色というのは何もこの「アトム」だ けには限りませんでした。というよりも、哲学史的にはむしろ今から述べるこ との方がより重要であるかもしれません。それというのは、彼らは「空虚(ケ ノン)」を認めたのです。というのも、上の「アトム」が運動するためには、 その間に「空間」がなければならない、そしてこの「空間」は何も埋まってな い「空虚」でなければならない、と考えたからです。

これは、パルメニデスの「有があり、非有はない」という命題に真っ向から対 立するものでもあります。すなわち、「非有」の存在が説かれたわけです。こ のようにデモクリトスらは「アトム(有)」と同じ程度に「空虚(非有)」に もその存在を認めたことになったのです。

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