ヨガの呼吸 ~生命の力と至福への秘密の架け橋~
多次元の肉体
ヨガの八支則の第四則である呼吸法を理解するためにはまず、身体がいわゆる「人間」を構成している多次元構造の最も外側のレベル、あるいは層でしかないといことを正しく認識しなければなりません。同様に、呼吸とは普遍的な生命力の力(プラーナ)の外側にすぎず、その最も深い根は「生命」、つまり究極の「実在」そのものなのです。古代の考えによると、生命の力は肉体を取り巻く場を形成して、体と心のあいだに橋を架けます。つまりヨガに於ける呼吸法とは酸素を肺に取り入れる操作であるだけでなく、生命の力の流れと、共依存関係にある精神的プロセスとを調整する技法なのです。
ヨガの実践において、呼吸のコントロールは精神のコントロールに等しいのです。このことは根本的であり、実践的な重要性においては、同じくらい広範な影響を及ぼします。生命の力を正しく調整してこそ、ヨガ修行者は神経系や身体の機能全般に影響を与えて、更には脳に依存する心の活動を超えて、存在の霊妙な次元に近づく手段を得られるのです。
『タイッティリヤ・ウパニシャッド』に見られる非常に古い教義によると、形を与えられた人間は「鞘」(コーシャ)と呼ばれる五つのレベルで同時に存在しています。下に外側の例から挙げていきましょう。
1 アンナ・マヤ・コーシャ(食物鞘)。物質的な肉体のこと(デーハ)。
2 プラーナ・マヤ・コーシャ(生気鞘)。物質的な肉体を囲む生体エネルギーの層。
3 マノー・マヤ・コーシャ(意思鞘)。「下位の」精神(マナス)のことで、あらゆる感覚器官の入力処理装置の役目を果たす。
4 ヴィジュナーナ・マヤ・コーシャ(理知鞘)。「上位の」精神であるブッディのことで、判断力のある理解と智慧の場所。
5 アーナンダ・マヤ・コーシャ(歓喜鞘)。人が本質的な喜びに満ちた究極の「実在」とつながるときに通過するエネルギーの層。
アドゥヴァイタ・ヴェーダンタ哲学のもっとも偉大な主唱者シャンカラによれば、アーナンダ・マヤ・コーシャは究極の「実存」と同じではなく、超越した「自己」、つまり究極の「実存」から魂を隔てている無知の最後のベールの事です。「自己」は私たちの真の本質であり、五つの覆いを超越するものです。この教義は古代の賢人が忘我状態で得た万能の経験から生まれたもので、その理解に役立つものは私たちの日常生活の中にはほとんどない。行為の忘我状態にある魂を溢れさす至福に匹敵するものはなく、場合によっては非常に強烈な経験であるオルガズムのスリルでさえ、「自己」に近づく、ましてや「自己」に同化する至福(アーナンダ)と比べれば取るに足りないものです。ある意味で「至福」という言葉は「自己」についてもちいるときには誤解を招く事にもなる。至福が一つの経験であるのに対して、「自己実現」とは経験ではなく、心や体を超越した出来事、すなわち真の自己同一の回復なのです。
呼吸に乗って至福へ
それが何であれ、私たちは自らが熟考したり注意を払ったりするものになることができます。これはさまざまなウパニシャッドで最初に表された奥深い智慧の一片であり、ヨガとヴェーダンタ哲学の実践の基本なのです。つまり注意力とは、私たちが世界をどのように経験するかを決定する要因なのです。スポーツ好きの人間が大通りを歩いていれば沢山の店の中から即座にジムを見つけられますが、愛書家がすぐに見つけ出す古本屋は見落とすかもしれません。子供は良心よりもずっと早くおもちゃ屋を見つけるだろうし、大人の男性は流行に敏感な女性に連れていかれるまで、小さなブティックには気づかないかもしれません。犯罪者はどの店にセキュリティーアラームがついていて、どの店についていないか察知するでしょう。注意力が自分が行う選択や決定を指示し、その逆に選択肢や決定が注意力と存在の質を形成するのです。
インドの賢人たちによれば、凡人は注意を短命なものに向けるので、賢人たちが考える唯一の価値ある追及、つまり「自己」(アートマン)の実現による永遠の幸福の追求にはエネルギーを注ぎません。それに対して賢人は、「自己」にのみ注意を向けるので、世俗的な野心は極端に少なくなります。けれども「自己」にたいしてのみひたすら集中しているの、実際に「自己」を実現する、つまり「自己」になることができます。しかし、凡人は自我人格を活性させ続け、不幸せや悩みを抱えたままです。
ヨガ修行者は注意が運命を決定する力を持つことを理解しているので、心に対する警戒を強めることに全力を尽くします。こうした努力の中で、彼らの呼吸の助けを借ります。ヒンドゥー教の出家者でヨーガ指導者、社会活動家でもあったスワ―ミー・ヴィヴェーカナンダは次のように述べています。
私たちの子の体において呼吸の動きは「物言わぬ糸」である。それらをとらえて制御することで、私たちは神経の流れである糸の束を、その中から施行という丈夫なより糸を、最後にプラーナというロープをつかみ、自由へ到達するようコントロールするのだ。
「ゴーラクシャ・パダッティ」(ゴーラクシャの足跡)の次の韻文から明らかなように、ヴィヴェーカナンダの比喩表現はサンスクリット語諸経典に基づいています。
鷹でさえ、ロープに結びつけられていれば、飛び去ってもまたもとの場所へと戻される。生命の本質もグナに縛られていれば、呼吸や子機に引っ張りまわされる。
ボウルでさえ、棒で撃たれれば高く飛ぶ。生命(ジーヴァ)のj本質もまた、呼吸(プラーナ)と呼気(アバーナ)に打たれれば、とどまることはない。
呼吸と呼気によって、生命の本質は右の道や左の道を駆け上がったり駆け下りたりする。こうしてあちこち動き回っているせいで、それは目には見えない。
グナという語は「より糸」を意味し、有限の存在という織物を編む「自然」の三つの特質、タマス(暗質)、ラジャス(激質)、サットヴァ(純質)をさします。この三つのグナは呼吸の仕組みを通して魂を縛ると考えられています。しかし呼吸はまた解放、つまり悟りへの秘密の鍵でもあります。なぜならば呼吸は制御をすることによって、魂と心の内的世界もまた制御され、「自己」への入り口が開かれるからです。
バラマーハンサ・ヨガーナンダは、スリー・ユクテスワに教授されたクリヤー・ヨガについて第二次世界大戦直後に著した有名な「あるヨギーの自叙伝」で、次のように述べています。
クリヤーによって、外へと向かう生命力は感覚のために浪費されたり汎用されたりすることが無くなり、より霊妙な脊柱のエネルギーと再結合する。このように声明を強化することによって、ヨガ修行者の身体と脳細胞はその霊的不老薬で充電される。―(略)―魂を体に縛り付けている呼吸というひもをほどくことで、クリヤーは声明を長らえさせ、意識を無限に拡張させる。ヨガは、物質に束縛された感覚と心の主導権争いに打ち勝ち、帰依者を解放して再びその永遠の王国を引き継がせる。彼は、自分の本質が肉体的な器にも、呼吸―空気、すなわち自然の本質的な強制力に従う死すべき奴隷の象徴―にも縛られるものではないことを知るのである。
クリヤー・ヨガによる呼吸制御についてのヨガーナンダの見解は、プラーナヤーマを必要とするほかのヨガの方法にも当てはまります。彼の説明からも明らかなように、様々な流派における呼吸制御の理論や実践が類似性を持つ背景には、すべての流派が支持する徹底した経験主義的指向があります。
現代のヨガ解脱者、スワ―ミー・ラーマは、伝統的な見解について繰り返し書いています。
呼吸はプラーナの力の表面的な現れである。呼吸は体の全組織を調整するはずみ車である。ちょうどエンジンのはずみ車の制御装置がほかのすべての機能を制御するのと同じように、表面の呼吸を制御することは、私たちの生命という機会の粗くて微妙な、肉体的精神的な部分の制御につながる。
普通私たちの呼吸はかなり不規則ですが、それはちょうど、心的活動のほとんどが、稲妻の閃光のように光ったり消えたりする一貫性のない無計画な思考の流れから成っているのとよく似ています。そのうえ呼吸と同じで、私たちの思考はめったに深くはなりません。ヨガ的観点で言えば、不規則で浅い呼吸は不規則で浅い思考を生み出します。興味深いことに、私たちは集中するとき、しばしば息を止めます。ヨガにおいては、呼吸の休止はすぐれた芸術になっています。
生命拡張としてのプラーナヤーマ
プラーナヤーマという語はプラーナ(生命)、(生命の力)とアヤーマ(拡張・延長)の組み合わせであり、呼吸や生命エネルギー、さらには生命さえ引き延ばすことを意味します。一部の研究者はプラーナを単なる酸素であるとして、古くから伝わるプラーナの概念の神話的要素を取り除こうとしてきました。しかし、古代の権威たちは、つねにプラーナを、空気や呼吸、そして未知なる要素、つまり鋭敏なヨガ修行者ならその光明を体験できるとされる宇宙エネルギーの一種であるととらえていました。
生命の力のうねる波動や振動は、半自動的な反応である呼吸のリズムとして身体に表れます。それは有機体の生命機能であり、ある程度は自律神経に制御されています。しかしながら、不随意の整理運動である心臓の鼓動や腸の蠕動とは異なり、呼吸は変化をつけたり長時間完全に止めたりと、かなりの程度まで意識的に行うことができます。十九世紀の後半、ハリダスという名で通っていたヨギンは、鍵をかけた秘密の箱に四十日間閉じこもり、医療関係者たちを驚かせました。インドの偉大なサンスクリット語学者、スレンドラ・ナース・ダスグプタは記しています。
現代でさえ、このように一か月以上明らかに生命を止めた状態でいられるヨガの行者の例が多く立証されている。私自身、ヨガ行者が九日間そうした状態でいるのを目の当たりにしたことがある。
今日の科学者は、こうした実験では呼吸のスピードが完治できないほどに遅くなっていると考えています。呼吸を完全に止めることが不可能だとしても、呼吸の停止(クンバカ)時間を延ばすヨガの技はなおも恐るべき偉業であり、酸素欠乏で脳波損傷するとする医学的正論へ異論を申し立てています。
呼吸の制御は特定の理論に基づいた実践です。つまり、様々なプラーナの流れという概念、そして蛇の力(クンダリーニ・シャクティ)の概念に縛られているのです。時代をさかのぼってヴェーダ期の概念によれば、人の体の普遍的な生命の力には五つの基本があります。
1 プラーナ。入っては上昇する生命の力の流れの事で、呼吸、及び胸部と頭部に関連する。
2 アパーナ。下降する流れの事で、発声、排出、そのほか同様の機能に関係する。
3 ウダーナ。のどに位置する上昇する流れの事で、発声、排出、そのほか同様の機能に関係する
4 サマナ。 下腹部に位置する中央の流れで、主に消化に作用する。
5 ヴィヤナ。吸気と呼気が行われていない時でも、全身にゆきわたって機能する拡散した流れである。
古代の「チャンドーグヤ・ウパニシャッド」は、この五つのエネルギーの流れを「天世界の門番」と呼んでいる。このいいまわしは、それぞれの機能を熟知し制御することによって、人は内的な天国へと続くドアをこじ開けます。つまり、通常の二次元的意識を超越することができるということを示唆しています。
さらに、ウパプラーナとして知られる五つの副次的流れに分類されます。これは瞼の開け閉めやあくび、嘔吐などの身体的機能を制御すると考えられています。
最も重要な流れは、吸気に関連するプラーナと、呼気に関連するアパーナの二つで、これは動力を供給するピストンやエンジンのようなものです。10の流れはすべて、ダクトを連想させるナディーという特定の通路に沿って循環しています。全部で七万二千本ほどもあると言われていますが、これは正確な数字ではなく、数の多さを象徴しているにすぎません。
ハタ・ヨガの経典では、たいてい十二もしくは十四の主要は動脈のみ言及されます。もっとも重要な通路は、スシュムナ・ナディーとして知られる中央通路と、DNAのらせん構造を思わせる巻きつくような形の二本の通路です。この二本のらせん状の流れは、左をイダ・ナディー、右をピンガラ・ナディーといいます。
全てのナディーは下腹部、つまり最も低いエネルギー中心ムーラダラ・チャクラにある「球(カンダ)」で生まれ、そこから前進に、さらにそれを超えて広がります。ヨガ修行者や千里眼を持つ人々はよくこの通路網(ナディー・チャクラ)を発光繊維でできた木のような構造、と説明します。
蛇の力を角錐させる確実な呼吸法を実践したい生徒は、カラダのエネルギー場を描いた伝統的な絵図を用いなければなりません。別のやり方は危険ですのでやめましょう。不完全なプラーナヤーマを続けてクンダリーニが間違った通路にでも入り込もうものなら、カラダが衰弱したり精神が不安定になったり、深刻な状況に陥ることもあります。蛇の力に偶然目覚めたゴーピ・クリシュナの苦難は、良く知られています。
呼吸制御の最初の訓練は、体内の様々な生命の流れを調整、調和させることです。第二の訓練は、尾てい骨のあたりにある最も低いエネルギー中心(チャクラ)から頭頂にあるエネルギー中心へと伸びる中心軸、スシュムナ・ナディー(もっとも慈悲深い導管)に沿って生命の力を誘導することです。「ハタ・ヨガ・プラディーピカ」の著者は次のように説明しています。
生命の力がスシュムナを通って流れるとき、心は安定する。
これは蛇の力の覚醒、つまり「ハタ・ヨガ・プラディーピカ」が言う、「あらゆるヨガ実践の基本」によって健康と三昧(サマーディ)の両方を獲得する一般的な方法です。呼吸の制御によって、ヨガ修行者は身体を活性化・調和させ、精神集中と高い意識状態への誘導、そして悟りの瞬間における心身の完全なる超越に向けて確固たる基礎を作るのです。
プラーナヤーマの8つの古典的技法
『ゲーランダ・サンヒター』には、ヨガ修行者であればかならず習得しなければならない8つのプラーナヤーマを説明しています。これは「壺(クンバカ)」と呼ばれ、呼吸停止を表す用語です。
- サヒタ・クンバカ(接合した壺)は、一対四対二のリズムでおこなう吸気、停止、呼気に視覚化を組み合わせた複雑な実践法であり、息を止める直前に下腹部を絞めます(ウディヤナ・バンダ)。
- スーリヤ・ベーダ・クンバカ(太陽を貫く壺)は、必ず右の(太陽の)鼻孔から息を吸い、左の(月の)鼻孔から息を吐きます。息を止めている間は、喉を締めます(ジャーランダラ・バンダ)。
- ウッジャイ・クンバカ(勝利の壺)は、両鼻孔を通して息を吸い、鼻の中でブラーナを維持し、それをさらに口の中に引き込んで、喉を締めることで楽に行える限り、そこで保持します。
- シータリ・クンバカ(冷やす壺)は、口と丸めた舌の下の隙間を通して息を吸い、少し息を止めた後、両鼻孔から息を吐きます。
- バストリカー・クンバカ(ふいごの壺)は、口と両方の鼻腔で素早く息を吸ったり吐いたりします。その際、鼻腔は鞴のように動きます。
- ブラマリ・クンバカ(ハチのような壺)は、耳を塞いで様々な内なる音(ナーダ)を一心に聴きながら息を吸い、その後が内時間息を止めます。息を吸ったり吐いたりするときに意図的に出す、うなるような音からこの名前が付きました。
- ムールッチャ・クンバカ(徐々に弱まる壺)は、精神を眉間(第三の目)に集中させながら、締めた喉の助けを借りて静かに息を止め、その後ゆっくりと息を吐きます。これをおこなうと、失神しているかのような多幸感が生じます。
- ケーヴァリ・クンバカ(孤独な壺)は、可能な限りひたすら呼吸を止めます。この訓練は、一度につき64回繰り返し、それを1日に5回から8回実行しなければなりません。
正しくおこなえば、プラーナヤーマは身体に刺激的な影響を及ぼします。『ハタ・ヨガ・プラディーピカ』では、連続しておこる3つの症状・兆候について述べています。最初の兆候は汗が噴き出すことです。次に身体が震え出します。そして突然生命の力が上昇して頭頂の中心へと流れ込みますが、これは独自の症状を伴ったプロセスです。ハタ・ヨガの伝統的な指導を受けたアメリカ人のサンスクリット語学者である、テオ・バーナードは、自分でもプラーナヤーマの実践を成功させて、それらの症状を目撃しています。(以下引用)
私は始めたばかりのところで第一段階を経験した。2、3セット終えると、自然に汗が流れ始めた。~(略)~数週間すると第二段階である震えに気がついた。それは私がバストリカーを完成させかけているときに起きた。最初はむずがゆい感覚を覚えた。修行を続けて行くうちに、その感覚は強くなった。すぐに、まるで虫が体中を這い回っているように感じだした。訓練中に脚が突然震えた。その後、不意に他の筋肉の収縮し、あっという間に全身が震えだして自分では抑えられなくなった。そんなときはパドマ・アーサナの体位をするように言われていた。そうすれば身体のけいれんを抑えられた。自分の段取りを遵守することによって、こういった症状は全て消滅した。
バーナードは、訓練中の最後の儀式を終えようというときに、生命の力が中央通路へと入り込む第三の段階を経験しました。しかし結局それは、彼自身我身のサマーディではなく精神の経験として捉えているような忘我状態でした。「それは儀式によって生み出された精神状態だった」と彼は述べています。彼の師はバーナードに、本物のサーディ経験を享受するためには、心と身体のすべての不純物が取り除かれるまで精力的にヨガの実践を続けなければならないと伝えましたが、不運なことにバーナードは。その試みを完成させる前に、ヒマラヤ山脈で事故に遭い、若くして亡くなってしまいました。
ヨガ修行者は、完成の途中に現れる向上の兆しに注意を向けて、そこから励みと力を得ます。また、ヨガとは美病名バランスの上に成り立った難事業であるため、警告の兆候にも留意をしなければなりません。「ハタ・ヨガ・プラディーピカ」によると、間違ったプラーナヤーマを実践することによって、しゃっくりや喘息、頭痛など慢性的な病気にかかることがあります。良い兆候と悪い兆候についてはあちこちのサンスクリット語経典で説明されてはいますが、それは本来、豊かな体験知として口承されるべきでしょう。
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【監修者】 | 宮川涼 |
プロフィール | 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。 |