ヨガの食事ーヨガ初心者のための基本
~~ヨガは食べすぎる者のためのものではなく、食べないもののためのものでもない~~「パガヴァッド・ギータ―(6.16)」
健康と強健のための食物
なくてはならない幸福を追求する様々な体系の例にもれず、ヨガにも固有の食事規則というものがあります。
ヨガの食事に関する智慧のほとんどは口承によりますが、一部の原則や具体的指示のいくつかはサンスクリット語経典に見ることができます。古来ヨガ修行者が食事に対して細心の注意を払ってきた理由が、古代の『チャンドーグヤ・ウパニシャッド』のなかで簡単に述べられているのですが、そこでは「心は食物で構成されている(アンナ・マヤ)」と述べられています。この教えによると、食物の最も粗悪な部分は消化管を通して排除され、それほど粗悪でない部分は肉となり(つまり肉体を維持し)、霊妙な部分は心となる(つまり、神経系と脳の作用に栄養を与える)そうです。食物によって維持されるは下位の精神とされ、マナスと呼ばれます。食物は智慧の場所あるいは智慧の源である上位の心、ブッディの構成要素にはならないのです。
同じウパニシャッドの一節に、水の最も粗悪な部分は尿となり、それほど粗悪でない部分は血となり、霊妙な部分が呼吸を形作る、とあります。
のちにこの概念は、インドの一般的な格言「その者の食するもののように、その者の心もある(ヤータ・アンナム・タータ・マナー)」で表されるようになりました。これは19世紀のドイツ人哲学者、ルートヴィヒ・フォイエルバッハの「人間とはその人の食べるものである」という有名な言葉と共鳴します。もちろん、インドでは、心と身体を切り離さずに見るときのみそれは正しいとされるのであり、精神及び〈自己〉が食事の習慣に影響を受けることはありません。
それでも、最も奥底にある本心、〈自己〉との関わり方は、食べるものに(また食べ方にも)ある程度影響されます。つまり、身体の生化学的状態はヨガの自己変質の過程において重要であり、食べることは身体の化学反応と心の状態に大きな影響を与えるのです。精神状態と体内に取り入れる物質とのあいだの密接な繋がりが見える極端な例が、アルコールや薬物などの摂取です。それらは血液や精神の機能を科学的に変えてしまいます。私たちが食物と呼ぶ物質も、それほど劇的ではありませんが、同じような影響を及ぼします。私たちの多くは血糖値の上昇と低下を経験していますし、食べ過ぎで体重が増えたときに味わう肉体的感情的な感覚も知っています。なかには数日間の断食によって、浄化と角錐を体験している方もいます。
栄養摂取は、健康を維持する重要な要素として益々重視されるようになっています。インド固有の医学体系であるアーユルベーダの修行者はずっと昔からそのことに気がついていました。アーユルベーダとヨガはお互いに影響を与え合っています。しかし、ヨガに於ける食事の主な目的は単なる身体的な健康の維持や回復ではなく、内的な環境、つまり心を汚れから遠ざけておくことにあります。2500年前につくられた「バガヴァッド・ギーター」では食物について次の三つに分類しています。
- 生命、純質(サットヴァ)、体力、健康、幸福感、満足感を助長し、風味が良く、油分が濃く、安定した、豊富な食物、こういったものはサットヴァな性格(の人)にあう。
- 刺激臭や、酸味や、塩気があり、辛くて、苦しく、舌を刺激し、しかも口の中が燃えるような食物、こういったものはラジャスな性格(の人)が欲する。
- 痛んでいて、味がなく、腐敗して、古くて、食べ残しの、不潔なもの(食物)、こういったものはタマスな性格(の人)にあう。
サットヴァ(純質)、ラジャス(激質)、タマス(暗質)、という〈自然〉の3つの特質にならった食物の3分類も、後世のヒンドゥー教において支持されています。ヨガ修行者にとって適切又は不適切な食物・植物についてより具体的に言及している経典もあります。たとえば、『ハタ・ヨガ・プラディーピカ』では、緑野菜、酸味のある粥、油ゴマ類、からし、アルコール、魚、肉、固形油かす、アギ、ニンニクなどが健康によくない食物として列挙されています。一方で、小麦、※、オオムギ、特定の種類のキュウリ、香味野菜、緑豆(ヤエイナリ)、バター、黒砂糖、蜂蜜、牛乳、ギ―(澄ましバター)などが勧められています。
現在では、このようなリストが役に立つとは思わないかもしれませんし、今日の栄養学を支持する方が多いと思いますが、道徳律(ヤマ)の実践である適度な食事(ミタ・アーハラ)、の勧めにも一定の理があるように感じます。食べ過ぎることはある種の盗みであり、おそらく現代の食習慣における唯一最も有害な要素といえるでしょう。定期的に行う断食(ウパーヴァーサ)のヨガ実践もまた、健康の維持・回復のすぐれた手段であり、これについてはますます多くの医師も認めるようになっています。
ヨガの経典はとりわけ食事を適度な量に抑える必要性を強調し、食べすぎはあらゆる種類の病を引き起こして、ヨガの最終的な成就を妨げると警告しています。また、タントラ経典は、現代の暗黒時代において、人は食物に意義や慰めを求める傾向にあると述べています。そのため私たちは食事の習慣に関して、二重に注意をしなければなりません。
しかし、ヨガの経典で述べられている特定の食事規則は、厳密に伝統的な環境及びインド特有の植生状況でした意味を成さないように思われるかも知れません。たしかに、教本の大まかな指針は有効ですが、食事は個人の必要条件に合わせて調整しなくてはならないのも事実で、栄養作用の実験をしたり、身体に関する知識を学んだりすることも大切です。医者でヨガ修行者のルドルフ・バレンティーン氏はスワーミー・マーラーの生徒で、『食事と栄養 ―全体論的なアプローチ(Diet and Nutrition: A Holistic Approach』という総合的な手引きを編集しました。このような書物には、インド以外の文化圏に住むヨガ修行者にとって、非常に役立つと思われる詳細で分かりやすい助言があります。
菜食主義
多くのヒンドゥー教徒と同じく、ヨガ修行者は、果物、野菜、穀類、ナッツ類とミルクや乳製品をバランス良く取り入れる、典型的な乳摂取菜食主義者です。仏教(チベット仏教を除く)のヨガ修行者も肉は食べません。なかには食事から動物性食品をすべて除く完全菜食主義者もおり、わずかですが、果食主義者もいます。食べることに対して最低限のことしかしないアプローチを取る人々です。
ヒンドゥー教や仏教における菜食主義の根拠は主に哲学的かつ倫理的なものですが、健康面も重要です。ヒンドゥー教徒と仏教徒、それにジャイナ教信者は他者を傷つけないという道徳的美徳(アヒンサー)を支持しているため、食べるために殺生することをしません。動物を殺すことはカルマとして自らに返ってくることであり、人がより精神的であればあるほど深刻な結果になると彼らは信じています。それに、肉を食べることは食べた者に動物の粗悪な性質を移すことだとも考えられています。現代のヨガの世界では、動物の肉の低い振動数という観点から説明されています。
カルマ・ヨガの模範的な行者であったマハトマ・ガンディーは、自分が肉体的に兼好であるのは、腸全摘であるだけでなく、食べる、飲む、眠るといった規則的な習慣を徹底的に厳守しているお陰でもあると考えていました。ガンジーの食事の実験はよく知られており、彼は同等の力を持ったあらゆる体質に適応する、定まった食事の規則などないことを認めていました。「“甲の薬は乙の毒”という有名なことわざは、日々の実証で得る幅広い経験が基になっている」と彼は記しました。一方でガンジーは「食事は無視され得てゃならないきょうりょくなようそである・・・(略)・・・菜食主義はヒンドゥー教の極めて貴重な贈り物の一つである」とも述べました。そして、ごく自然と野菜のみの食事に興味を感じることがないのなら道徳的な強い信念を養う必要がある、ということを明確にしました。
以下、引用です。
人が菜食主事に忠実であり続けるためには、道徳的基盤が必要だ。・・・(略)・・・なぜならそれは精神を作りあげるためであって、肉体をつくるためではないからだ。人は肉を超えた存在である。そして私たちが気に掛けるのは人の精神である。人は肉食動物として生まれたのではなく、大地が育んだ果実やハーブを食べて生きるために生まれた。菜食主義者はそういった道徳的基盤を持つべきである。
今日の医療は、肉やその他の動物性食品を制限した食事が健康上菅レテいることに気がつき始めています。乳製品アレルギーの人が多いと言うこともあり、広く喧伝されている乳製品のメリットに疑問を呈する医者の数はゆっくりと増えてきています。個々人で実験してこそ、自分の体質に合った、サットヴァの要素を高める植物は何かが分かります。そうして修行者は身体的、感情的、そして精神的な幸福へと導かれるのです。
食べることのヨガ
何を食べるのかと同じくらい重要なのが、どのように食べるかです。余り注意を払わずにぼんやりと成される行為というのは、無意識のパターンや悟りを欠いた苦しみの状態を持続させるだけのものです。これは私たちの食事の取り方にもあてはまります。美味しい野菜料理、しかも最も健康的で最も栄養のある食材で調理した、自然の美点が詰まった料理を食べる機会があったとしても、もし何も考えず無頓着に、たとえばテレビを見たりしながらガツガツと食べれば、食事の度に与えられるヨガ修業の機会を逃していることになります。食べることのヨガとは、身体に栄養を与える家庭に意識的に参加することを求めており、そうすることで私たちは内的存在に栄養を与えるのです。この考えについては、スーリヤ・ヨガ(太陽のヨガ)の師である現代の達人オムラーム・ミハエル・アイヴォンホフが明確にといています。以下引用です。
食物の最も霊妙な粒子を受け取るためには、充分に自覚をして、しっかりと目を覚まし、愛に満ちていなければならない。もし組織全体が完璧な方法で食物を受け入れるように準備ができれば、食物は秘められたと身を注ぎ込むために移動し・・・(略)・・・食物自体が解放されれば、純粋で神聖なエネルギーとして食物が持つあらゆるものが与えられる。
アインヴォンホフは更に言います。
「教えを受けるもの」が何をすべきかお話ししよう。まずわきまえるべきは、自然が準備した恵みを受け取るために、可能な限り最高の状態を整えなければならないということ。そうして、心を落ち着かせ、沈黙を維持し、思考を創造主に集中させることから始める。・・・(略)・・・最初の一口が最も重要であることも忘れたはなるまい(どんな行為も最も重要な瞬間は最初の一歩である)。というのも、それは一度解放されれば最後までやまない力が解放される合図だからである。つまり、調和のとれた状態で始めれば、何をするにしても最後には調和は保たれるだろうからだ。
そうしてからゆっくりと食べ、徹底的に嚙む。それは消化のためだけではなく、口が、粗末な粒子を胃へと送る前に霊妙な神秘的エネルギーを吸収する精神の実験室だからである。
この内面の集中に加えて、「粗末なものを光と喜びに変える」という感謝の気持ちも養うべきだとアイヴァンホフは説明しています。伝統的に感謝の念は食べ物の一部を「神」にささげることで表されます。したがって、「バガヴァッド・ギーター」では、自分のためだけに料理をするもの、つまり、感謝や献納の義務を理解しないものは泥棒である、と明言しています。
アイヴァンホフにとって栄養を取ることは、始まり、つまり人間存在を調和させたり混とんと苦悩の中に投げ入れたりする思考や気分を生じさせるものなのです。アイヴァンホフはブルガリア人グノーシス主義者であったが、この点に関する彼の教えは、彼自身熟知しているヨガ伝統と本質的に一致しています。その明快な教えは、適度な食事(ミタ・アーハーラ)と規律に則った食事(ユクタ・アーハーラ)をよしとするあらゆるヨガの教義に含まれている事です。栄養摂取の規律とは、何よりもまず、生命の子の重要な側面に十分な注意を払うことなのです。
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【監修者】 | 宮川涼 |
プロフィール | 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。 |