ヨガとは何か?(3)
01 はじめに
これまでの記事で「束縛から逃れる」ということの意味を考えてきましたが、ここでは、私たちを束縛している要素として「言葉」「価値」「社会」という三つを考えていきます。私たちは「言葉」を浸かってこの世界を認識し、他者に何かを伝達します。「言葉」は私たちにとって「思考の枠組み」であり、便利な道具であるものの、逆にその「枠」の外には出られないという意味で、束縛となる場合があります。また、私たちは何らかの「価値」を求め、それに照らし合わせて自分の行動を決定したり選択したりします。どのようなものに「価値」を置くかは人それぞれですが、自分が重要だと考えている「価値」自体が、私たちを束縛している場合があります。さらに、「社会」という枠組みは、私たちがよりよく生きるために構築されてきたものですが、そこに窮屈さや閉塞感を感じたりすることがあります。もちろん、それらはあるときには束縛状態を形成しますが、それがすべてではなく、私たちがより良く生きるために役立つ場合も多々あるということに注意が必要です。ここでの問題は、それらがどのようなときに「束縛」となり、どのようなときに「自由になるための武器」となるかを考えるということです。
02 「言葉」について
先にも述べましたが、私たちは「言葉」を用いて認識・思考し、自分の意志を伝達します。私たちは「言葉」以外のものを用いてそれらを行うことができません。一般に身振りや態度などの「非言語的コミュニケーション」も「言語的記号(つまり言葉)」として扱われます。このように私たちの認識や思考が、「言葉」の枠内のみで行われることを「言語の専制」と呼ぶ場合もあります。つまり、私たちは自由に認識し、思考しているつもりですが、実は「言葉」という制度に囚われているというわけです。「専制」という言葉には、そんなニュアンスが込められています。言葉の機能の中心に「分類」があります。これは、言葉は「私たちが知覚したものを分類する」ために用いられるという意味です。しかし、この分類が自由に行われることはありません。なぜなら、それは「あらかじめ存在する何らかの概念の中に当てはめていく」という方向で行われるのが普通だからです。
その一方で、私たちは新しい概念をさらに強調したものとして「ありえない」などという表現や、「面倒くさくて、いらいらする」という概念として、「うざい」という表現を作り出したりしています(もちろん、これらの表現は、比較的新しいものであるために、その「概念の内容」は固まっておらず、人によって使われ方がさまざまであるという特徴も持っています)。しかし、そのようなことは、あまり頻繁に行われるものではありません。私たちは似たような知覚を得た場合に、それに同じ概念を当てはめて理解するのが普通です。このことをもう少し説明してみますが、その前にまず以下の質問を考えてみてください。
次の中で仲間はずれのものを一つだけ探し出しなさい。
(1)アリ(2)クモ(3)チョウ(4)トンボ
もちろん、答えは「クモ」です。クモは足が八本ある節足動物で、「クモ類」に属しますが、他の三つは同じ節足動物でも、足が6本ある「昆虫類」に属します。これは小学校の入学試験などでは常識の類いの問題のようです。友人の娘さんが幼稚園に通っている頃、この問題にこう答えたそうです。「答えはアリ。その理由は、アリは私に踏まれるけど、他の三つは私に踏まれないから」と。残念ながらこの答えでは小学校の入学試験では×をつけられてしまいます。「踏まれるか踏まれないか」というのは、事実に基づくものであって、その判断基準が間違っているわけではないのですが、極めて主観的な判断であるため、正解とならないわけです。これらの四つの生物を分類する方法自体は無限に存在します。たとえば、「飛ぶか飛ばないか」「複眼か単眼か」「三つの文字で構成されているか否か」などなど。しかし、それらの分類基準は設問にある「一つだけ」という条件を満たしていないため不正解というわけです。しかし、「一つだけ」ということなら、たとえば、「幼虫の頃、水生である」というのは、実はトンボのみに該当するものであり、その意味では「トンボ」を正解にすることもできます。また、「アリ」のみが「群居性」であることから、「アリ」を選ぶことも可能です。
何かを分類するための基準は、実は無限に存在します。しかし、私たちはそれらのうちから恣意的にある種の「基準」のみ選び出し、それによって「分類」を行います。そして、「正解とされる分類」というのは、それが「社会において一般的に用いられる基準である」もしくは「社会において重要度が高いとされている基準である」ということによって裏打ちされているだけです。つまり、私たちが何かを学ぶということは、社会において重要とされている分類基準を自分のものとすることを意味します。そして、このとき私たちは少しだけ「自分を殺す」ことになります。それが「大人になる」ということであり「社会化する」ということです。しかし、このとき忘れてはならないのは、「どのような分類基準であれ、本来は等しい価値しかもっていないはずだ」ということです。それらの重要度に差を付けるのは、社会の要請によるものであって、「本来的な正しさ」はそこには存在しないということです。
たとえば、前述の例でいうと、友人の娘にとって重要なのは、「自分が踏めるか踏めないか」ということでした。そして、それらの生物でさえ「自分の足が何本で在るか」ということよりも、「自分が子供に踏まれる存在であるか否か」の方がはるかに重要な問題であるかもしれません。ここからわかるのは、「本来的に正しい分類」などというものは想定できないということです。分類は、常に「何らかの価値基準」(=重要度)のもとに行われるものであり、前記の例でいえば、「そう答えると、小学校入試で点数を取れるから」ということでしかありません。私たちは目的を離れた正しさを得ることができない存在です。その意味で、正しさとは常に何らかの目的の下での正しさでしかありません。
03 ルシャンドルの「ドグマ人類学」
フランスの法制史家・精神分析家のピエール・ルジャンドルは「牛をつなぐには角をもってするが、人をつなぐにはことばをもってする」という法哲学者アントワーヌ・ロワゼルの言葉を引きつつ、「言葉を使う動物」である人について考えています(『西洋が西洋について見ないでいること』)。人は言語を用いて世界を認識します。そして、その認識とそこから導き出される論理によって、自分にとって好ましい結果を求めて行動します。しかし、その際の論理はきわめて不完全なものでしかなく、また言語による認識も決して完全なものではありません。このように限られた機能の中で、人は最善を求めて行動します。ルジャンドルは以下のようにいいます。「換言すれば、自己と世界に対する関係は言葉のスクリーンを経由するということです。人間のアイデンティティには複数の水準がありますが、わたしがいわんとしているのは、自己への同一化(それが主観的なアイデンティティ形成です)と、世界の同定および世界への同一化ということです、そのすべてにとって前提となるのが言葉のスクリーンなのです」そしてまた、言語は「分割」という機能と「紐帯」(結びつけるひも)としての機能を持っているともいいます。「紐帯という概念には二重の含意があります。まずそれは分解された要素のあいだの関係という観念のことを考えさせます。つまり言語による分割というものを考えなければならない。そしてまた、紐帯という以上は、拘束のことをいっているのでもあって、つまりは規範的なもの、制定されたものが問題となっているわけです。こうして『話す動物とはなにか』という問いに対して、はっきりした答えが描き出されてきます。つまり『言語によって分割された動物』であるけれども、同時に又「制定された動物」でもある、ということです」。
ここで言語の「制度的な側面」について考えておく必要があります。私たちは言葉という道具を用いて、世界を切り取って認識します。また、私たちが認識するのは世界だけではなく、自分自身さえ言葉によって認識します。それが「アイデンティティ=自己同一性」であり、「私は何であり、何でないか」を決定することです。そして、そのとき、私たちが使用する言葉という道具は、ある文化において形成されてきたものです。言葉のもつそのような側面を、ルジャンドルは「ドグマ性」という概念を用いて検討しています。ここで「ドグマ」とは「教条」などと訳される概念であり、私たちが無根拠かつ強固に信じている「認識の枠組み」のことを指します。たとえば「教条主義」という語が、その内容を吟味検討せず、ただ単に「お題目」としてその字面の表現にのみ従うという意味で使われることをあわせて考えると、「ドグマ=教条」の意味が理解できるかと思われます。ルジャンドルは、以下のようにいいます。「ドグマ的な次元、それはフィクションによって支えられた明証性の次元、ひとがそれを真実と認めるに当たって、いかなる証拠をも必要としないほど強力な明証性の次元です。(中略)、<鏡>を見ると、ひとは自分の姿を認めるし、夢を見ると、それは自分が見ている夢なのだと思う。そういう明証性があります。それと同じように、今日でも生き延びている大いなる儀礼的な伝統のレヴェルでいえば、おのおのの主体は、自分が人間のイメージ、自己のイメージを、いかなる<テキスト>、いかなる<鏡>のうちに見いだしているかということを知っています。」
私たちはそのように「文化」の中で培われてきた制度的な「認識の枠組み」によって自己さえも認識します。ここで注意しなければならないのは、それは決して否定されるべきことがらではないということです。ルジャンドルが指摘するのは、この「ドグマ性」を認識し、そこで何をなしうるのかを考える必要があるということです。言葉による認識は「ドグマ的」な次元で行われるものですが、それは同時に紐帯を形成するものです。しかし、この社会は「ドグマ性」を否定的な要素とし、捨て去ろうとしてきたこともあります。もちろん、「ドグマ性」において、その制度的な側面が強調されることにおり、往々にして「全体主義的な思想」と結びついてきたということには十分に注意を払う必要があります。しかし、その反動としての個人主義が拡大することに関しても同様に十分に注意する必要があるということに対して、ルジャンドルは警鐘を鳴らしています。
「現在、個人主義というイデオロギーは、大規模に拡大したナルシシズムとして機能しています。映画作家ヴィム・ヴェンダースの表現を借りるなら、個人は「ミニ国家」となっている(『ベルリン天使の歌』)。つまり、自分ひとりですべてであるような存在、<鏡>の論理から解放された神のような存在となっているのです。そこから帰結するのは、主体と社会の大規模な崩壊という現象です。人間のドグマ的次元という主題はそうした現象について熟考するようにわれわれを誘っているのです。」
「<鏡>の論理」とは、私たちが「自己を認識する」ときに<鏡>に映る自己像の把握を通してそれを行うことを意味しています。もちろん、その認識の時に私たちが使用するのは言葉です。そこにおいては、私たちは、ドグマから純粋な意味で自由になることはできません。私たちがそのドグマから自由になるためには、言葉のもつドグマ性を認識し、それを所有することを目指すほかはないということです。
04 自由に思考するには
私たちは、社会の側に存在する分類基準を無視するわけにはいきません。人間は群居性の動物であり、共同体をつくって生活する生き物です。社会の側の分類基準を自分のものとするというのは、そのような社会に生きていく上で、とても重要なことです。なぜなら、そうすることによって、私たちは会話することができますし、意思を疎通させることがより簡単になるからです。しかし、「他の人たちが考えるように考える」ということは、とても重要なことである反面、「他の人たちが考えるようにしか考えられない」という状況を発生させてしまいます。そのとき人は「言葉による束縛」、もしくは「言語の専制」を実感します。そうならないためにも、社会の側の分類基準は便宜的なものでしかないということを、しっかりと把握しておく必要があります。<言葉>とは、私たちが「ともに生きていく」ための基本的な仕組みであると考えることが重要です。そして、私たちは、できるだけ自分を殺さずに、社会の側の分類基準とうまくやっていかなければなりません。そのとき重要なのは、「言葉の世界の主人は自分である」という意識を持ち続けることです。すなわち、言葉は、私たちを束縛するために存在しているものではありません。言葉は認識の道具であり、意思伝達の道具であり、思考の道具です。
言語が「伝達」の手段であるときは、私たちは社会の側の分類基準に従わなければなりません。しかし言語が「認識や思考」の手段であるとき、私たちはそれに必ずしも従う必要はありません。自由に認識し、自由に思考してよいはずです。すでに述べたように、問題は、認識と思考のための道具である言語を、伝達のための道具として使ってしまっているところにあるわけですから、その二つの用途を明確に区別することができれば、その束縛から逃れることが可能になると考えられます。しかし、実のところ、それはそれほど容易なことではありません。ここで私たちの思考や認識は、単に「思考し、認識すること自体」を目的として行われるのではなく、<価値>という基板の上に存在する営みだということに注意が必要です。また、私たちは言葉を使って何らかの<価値>を実現しようとしています。したがって、以下の項目では<価値>について考えていくことにします。
05 道徳はどうやって形成されるのか
<価値>とは、たとえば私たちが「何をよいことだと考え、何を悪いことだと考えるか」というときの判断の基準となるものです。もちろん、「美しい」とか「美しくない」とか「素晴らしい」「素晴らしくない」という場合でも、同様に<価値>がその判断の基礎となります。そして、「良い・悪い」という価値判断を行う時、その基準となる価値観や規範のことを「道徳」と呼びます。ここでは、道徳が形成される仕組みについて考えていきますが、それは道徳として語られている<価値>が、私たちを束縛している場合があるからです。道徳とは、本来的に私たちの心の中にセットされている「感じ方」や「考え方」ではありません。私たちが生きている社会から学ぶものです。多くの場合、道徳は、「規範の内在化」という過程を経由して、私たちの心の中に形成されます。
道徳とは、私たちが所属している社会において長い間守られてきた規範やルールですから、もちろんそれが重要であることは間違え在りません。しかし、社会は変化し、それに伴って規範やルールも変化します。過去において不道徳とされていたことが、現在では公然と行われているという例を挙げるのは比較的簡単です。自殺でさえ、日本の武士階級においては、不道徳どころか、美徳であると考えられていた時代がありました。自殺が不道徳であるというのは、
ヨガとは何か(4)
『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(1)
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【監修者】 | 宮川涼 |
プロフィール | 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。 |