バガヴァッド・ギーターの教え(ヨガの古典の経典を通してヨガを学ぶ)(5)

01 シャンカラの思想(8世紀のインドの哲学者シャンカラ)

最後に、8世紀インドの哲学者シャンカラ(A.D.700~750年頃)の思想についても少し触れておきたいと思います。「私は最高のブラフマンである、という確信を持ってアートマン(自己)を見る者は再び生まれ変わることはない」という『カタウパニシャッド』の言葉があります。このような考えを、ヨガの思想に限らず、インドの古典思想では、宇宙の原理ブラフマンとアートマンを同一視することを梵我一如と呼びます。ヴェーダ聖典に古くから見られるものですが、シャンカラによってさらに論じられました。これをアドヴァイタイ・ヴェーダーンタ(不二一言論、ふにいちげんろん)と呼びます。では、シャンカラはどのような教えを説いたのでしょうか。このヨガ哲学を少しのぞいてみましょう。

これまで見てきた『バガヴァッド・ギーター』では、サーンキヤの二元論、プルシャプラとプラクリティの関係によって世界を証明しています。しかし、シャンカラはこの二つの原理によって世界が生じるのは富豪値と考えました。サーンキヤ学派は二元論の立場に立って、宇宙の根本原理としてプルシャとプラクリティの存在を想定し、プラクリティには、サットヴァ・ラジャス・タマスの三つのグナがあり、その均衡状態が崩れると宇宙が展開すると主張しています。しかし、この三つのグナがの均衡状態が崩れることは不可能です。なぜなら、宇宙が展開する前には、この均衡状態を破る原因となる無知は存在しないし、その他の原因も認めていないからです。仮に、三つのグナが一つの他のグナの原因だとすれば、常に活動が起こっているか、全く活動が起こらないかのいずれかです。

サーンキヤ学派の体系においても、プルシャは不変なものと考えているから、プラクリティがプルシャのために存在するのは不合理だというわけです。また、プルシャに変化が起きるのも不合理です。したがって、プルシャとプラクリティが互いに関係することは成立しません。『ヨーガ・スートラ』はプルシャとプラクリティが結合する原因は無知であると説明しています。「この苦しみの原因は、観る者(プルシャ)と観られる物(プラクリティ)との結合である。これを切り離さなければならない。無知によって、この結合が起きている。」と。しかし、シャンカラは、世界が生じる前に無知は存在しないのだから、無知によってプルシャとプラクリティが結合するという『ヨーガ・スートラ』のい理論は成立しないと反論したのです。また、三つのグナそのものには均衡を崩す動機は存在しないし、純粋意識は普遍なので、不変であるプルシャが根源物質であるプラクリティに影響を与えることも理にかなっていないと考えたのです。

したがって、プルシャとプラクリティが結合していないのであれば、この世界はそもそも存在しておらず、あるとすれば夢や幻のようなものに過ぎないと説いたのです。つまり、アートマンである私には現象世界は現れていないので、その幻想を見破ればいいということになります。

「目がないから私は見ない。耳がないから私は聞かない。言語器官を持たないから私は語らない。心を持たないから私は考えない。プラーナを持たないから私は行為しない。統覚機能がないから認識主体ではない。したがって、智慧も無知もない。私は純粋意識であって、常に解脱しており、清浄であり、不変であり、不動であり、不死であり、不滅であり、身体を持たない。虚空のように、宇宙に満ちている私は、飢えも渇きもなく、心配も迷いもなく、老いることも死ぬこともない。なぜなら、私は身体を持たないから。」

このようにシャンカラは、アートマンで在り、ブラフマンである私はプラクリティである感覚器官と結びついていないし、また心とも結びついていないのだから、私たちは考えてもいないし、ましてや悩んだり、迷ったりすることはない。また、身体もないのだから老いることもなく、死ぬこともないと述べるのです。また、感覚器官も心もないわけですから、ラージャー・ヨガのようなヨガの実践も必要ないし、サマーディも存在しないと主張しました。

このような考え方は、確かに一つの極端な例に思えます。もちろん、シャンカラの説を私たちが素直に受け入れることができるかどうかはまた別問題ですが、シャンカラの教えの本質は、ヴェーダの古い教えに立脚していて、むしろその障害をシンプルな理論で取り除いたのです。つまり、「プルシャとプラクリティは本当は結合していないのです。あなたはすでに解脱しているので、解脱のため努力する必要はありませんよ」というわけです。

02 バガヴァッド・ギーターが考えるヨガの秘説とは

さて、話を『バガヴァッド・ギーター』に戻しましょう。クリシュナは、「私は、今、まさに古のヨガをあなたに説く。あなたは私を信愛していて、友であるから。実にこれは最高の秘説である」と語りかけます。クリシュナがアルジュナにヨガの秘説を語るわけです。

「行為の結果にこだわらず、なすべき行為をする人は、放擲者(サンニャーシン)であり、ヨギー(ヨガをする人)である。単に祭火を設けず、行為をしないものはそうではない。放擲(サンニャーシン)と言われるもの、それをヨガとしれ、アルジュナよ。というのは、意図(願望)を放擲しなければヨガを行う者は誰もいないから。ヨガに登ろうとする聖者にとって、行為が手段であるといわれる。ヨガに登った人にとって寂滅が手段であるといわれる。実に、感官の対象と行為とに執着せず、すべての意図を放擲した人はヨガに登った人だといわれる。自ら自己を高めるべきである。自己を沈めてはならぬ。実に自己こそ自己の友である。自己こそ自己の敵である。自ら自己を克服した人にとって自己は自己の友である。しかし、自己を制していない人にとって、自己はまさに敵のように敵対する。事故を克服し、寂滅した人の最高の自己(アートマン)は、寒暑や苦楽においても、毀誉褒貶においても、統一された状態でいる。理論知と実践知によりアートマンが充足し、揺るぎなく、感官を克服し、土塊や石や黄金を平等(同一)に見るヨギーが専心した者と呼ばれる。親しい者、盟友、敵、中立者、憎むべき者、縁者に対して、また善人と悪人に対し、平等に考える人は優れている。ヨギー(ヨガをする人)は一人で隠棲し、心身を統御し、願望なく、所有なく、常に専心すべきである。清浄な場所に、事故のため、高すぎず、低すぎない、布と皮とクシャ草で覆った、堅固な座を設け、その座に座り、マナス(意志、思考器官)をもっぱら集中し、心と感官の活動を制御し、自己の清浄のためにヨガを修めるべきである。」

というわけです。これらの話は一見すると分かりづらいことをいっていますが、要は静かに瞑想しなさい、といっているわけですね。

03 『バガヴァッド・ギーター』の説くヨガの秘説をまとめる(1)

それでは、最後に、『バガヴァッド・ギーター』を概観し振り返ると共に、『バガヴァッド・ギーター』の主題について更に続きを含めて検討してみましょう。もともとパーンダヴァ軍とカウラヴァ軍が戦場で対峙いたとき、アルジュナは一族を滅ぼす戦いの意義について悩み、戦意を喪失します。それに対して、クリシュナ(バガヴァッド)が、彼を鼓舞して戦わせるために説いたのが『バガヴァッド・ギーター』です。まず、クリシュナは、人間の主体(デーヒン)が不生不滅、常在、永遠であることを説いて、すべての人の身体に宿る主体は決して殺されることがないから、万物について嘆く必要は無いと述べます。

次にクリシュナは、クシャトリアの「自己の義務」からして戦うべきであると説きます。これはサーンキヤ哲学における知性であるといいます。続いてクリシュナはヨガ(実践)における知性について説きます。『バガヴァッド・ギーター』において「ヨガ」という言葉が「サーンキヤ」という対で用いられる場合、それは「行為のヨガ」を意味し、「サーンキヤ」は「知識のヨガ」に相当します。クリシュナは、行為の結果を考慮せず、行為そのものを目的にせよと勧め、続いてヨガの第一義とします。

「あなたの職務は行為そのものにある。決して結果にはない。行為の結果を動機としてはいけない。また無為に執着してはならぬ。アルジュナよ、執着を捨て、成功と不成功を平等(同一)のものと見て、ヨガに立脚して諸々の行為をせよ。ヨガは平等の境地である」といわれます。ここで、行為の結果を動機としない知性を確立することは「知性のヨガ」と呼ばれています。クリシュナは知性の確立の重要性を説くともに、ヨガの第二の定義を述べます。

「知性を備えた人は、この世で、善行と悪行をともに捨てる。それ故、ヨガを修めよ。ヨガは諸行為における巧妙さである」というわけです。そして、行為者が知性を確立し、行為の結果を顧みず、行為に専心すれば、平等の境地に達しうることを「行為における巧妙さ」と述べたのです。知性を備えた賢者は、行為から生じる結果を捨て、解脱して患いのない境地に達する。知性が確立し、サマーディに住する時、すなわちすべてを平等とみる境地に至った時、「ヨガに達する」といわれます。

クリシュナは、知性が確立し、サマーディに住する人の特徴を列挙しています。心にあるすべての欲望を捨て、自らアートマンにおいてのみ満足する。幸不幸に左右されず、愛執、恐怖、怒りを離れる。すべてのものに愛着なく、善悪のものを得ても、喜びも憎しみもしない。感官の対象から感官をすべて収める。それから彼は、知性を確立する方法を説く。

「すべての感官を制御して、専心し、私に専念して坐するべきである」と語られ、ここで知性の確立、すなわち「知性のヨガ」にはクリシュナに専念することが必要であるということが初めて明らかにされる。このことは、後の『バガヴァッド・ギーター』において「知性のヨガ」が言及される際に、更に明瞭となってきます。知性を確立した人は寂静に達します。これは「ブラフマンの境地」とも呼ばれ、臨終の時においても、この境地にあれば、ブラフマンにおける涅槃に達し、完全に輪廻から解脱する。

アルジュナは、クリシュナが知性の確立を説きながら、なぜ自分を戦闘へと駆り立てるのかと疑問に思います。クリシュナはそれに対し、人間は行為しないわけにはいかぬと説きます。「人は行為を企てずして、行為の超越に達することはなく、また単なる行為の放擲によってのみ成就に達することはない」。「行為の超越」とは行為の結果を顧みないことであり、『バガヴァッド・ギーター』の最終章で、「最高の成就」と呼ばれる行為者の達する最高の状態です。また、ここで放擲という語は、行為を放棄するという一般的な意味で用いられています。一般、世間的な生活を放棄した遠離者が放擲と呼ばれる(後代では、遊行期にある人を指す)。しかし、『バガヴァッド・ギーター』においては、放擲という語が全く別の意味でも用いられ、しかも重要なキーワードであることが次第に明らかになってきます。

人は一瞬の間でも行為しないことはない。すべての人は、プラクリティ(根本物質、物質的原理)から生ずるグナ(サットヴァ、ラジャス、タマスという三要素)により、否応なく行為させられる。人は定められた行為をなすべきである。クリシュナは、執着を離れて、「祭祀のために行為」をすることをアルジュナに勧める。人は祭祀により神々を繁栄させ、そして神々は望まれた享楽を人に与える。神々に祭祀を捧げないで、彼らに与えられたものを享受するものは盗賊である。そして、祭祀の残り物を食べる善人はすべての罪悪から解放され、それに反し、自分のためにのみ調理する悪人は罪を食べる。

万物は祭祀から生じ、祭祀は行為から生ずる。行為はブラフマンから生じ、ブラフマンは不滅の存在から生ずる。祭祀を行うことにより、ブラフマンは万物を生み偏在する。それ故、祭祀を行わぬ人は罪ある人である。以上、単に祭祀の重要性を説くものであるかのように見える。しかし、『バガヴァッド・ギーター』の独創性は、絶対者(最高神)が行為の本源であると知って、すべての行為を絶対者に捧げる祭祀として行うべきあると説いたことにある。そのことは、後の箇所で明らかになります。

そこで、「執着することなく、常に、なすべき行為を遂行せよ」というになる。そのためには、すべての行為を絶対者(最高神)に委ねることが必要である。「すべての行為を私のうちに放擲し、アートマンに関することを考察して、願望なく、『私のもの』という思いなく、苦熱を離れて戦え。」とクリシュナは言います。クリシュナは、ここで初めて「放擲」という語を独自の意味で用いています。同様の表現は後の章に出るが、この箇所においては未だ彼の真意はそれほど明瞭ではない。

その後の章に入ると、クリシュナは自己の本性を明らかにする。彼は不生不滅であり、万物の主であるが、自己のプラクリティ(根本原質)に依存し、自己の幻力(マーヤー)により出現する。彼の神的な出生と行為を如実に知る者は、身体を捨てた後、再生することなく、彼のもとに至る。彼について真実に知るということは、彼にひたすら帰依することである。彼に専心し、帰依する者は、知識によって浄化され、彼と同性質になる。クリシュナは、諸グナ(純質、激質、暗質)と行為を配分して、四種姓を想像した。彼の行為(実な彼の定次のプラクリティの働き)は彼を汚すことはない。彼は行為の結果を顧みない。そのような理解し、彼の道従う人は、諸行為により束縛されない。欲望と意図(願望)を離れて行為し、その行為し、その行為が知識の火により焼かれている人は賢者である。行為の結果に執着しない人は、行為に従事していても罪に至ることはない。たまたま得た物に満足し、相対を超え、妬み(不満)を離れ、成功と不成功を平等に見る人は、行為をしても束縛されない。

「執着を離れ、束縛から解放され、その心が知識において確立し、祭祀のために行為する人にとって、その行為は完全に解消する」といいます。この後の箇所において、「祭祀のための行為」の意味が明らかになる。祭祀を構成する諸要素はすべてブラフマンであるとされる。ブラフマンに捧げる行為が、「祭祀のための行為」である。その行為に専念する者は、まさにブラフマンに達する。以下で列挙する宗教的行為は「祭祀のための行為」に他ならない。それらの行為に専心する人はすべて「祭祀を知り、祭祀により罪障を滅している」。祭祀の残りものという甘露を味わう人々は、永遠のブラフマンに達する。ここでもまた、「祭祀の残りもの」を食べることの意義が再度強調される。

バガヴァッド・ギーターの教え(ヨガの古典の経典を通してヨガを学ぶ)(6)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(1)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(2)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(3)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(4)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(5)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(6)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(7)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(8)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(9)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(10)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(11)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(12)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(13)

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【監修者】宮川涼
プロフィール早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。

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