バガヴァッド・ギーターの教え(ヨガの古典の経典を通してヨガを学ぶ)(4)
01 ヨガの古典『バガヴァッド・ギーター』から学ぶヨガ
次にバクティ・ヨガについて考えてみましょう。バクティ・ヨガは、信愛のヨガと呼ばれています。『バガヴァッド・ギーター』の中で、度々クリシュナは、「私を信愛し、念想せよ」とアルジュナに要求しています。つまり、あらゆる行為を神への捧げ物として行い、神を信頼することがバクティ・ヨガの実践といえます。ところで、皆さんは何か特定の宗教を、あるいは神様を信じているでしょうか?現代社会、とりわけ日本において、神様はかなり縁遠い存在になっているのではないでしょうか。確かに、合格祈願や結婚成就、商売繁盛などを願って私たちは神社仏閣、パワースポットと呼ばれる場所へ足繁く通っているかもしれません。しかし、それは信仰とは全く関係が無いものでしょう。なぜなら、そのとき私たちは自分の願望を神様に投影しているに過ぎないからです。つまり、自分の願い通りになればそれで良いし、もし願いが叶わなければ「神などいない」と思うだけだからです。それは宗教という以前に、エゴイズムでしかありません。
では、ヨガにおける神に対する信仰とは何でしょうか。神、ブラフマン、イーシュヴァラとは宇宙の原理、法則です。この原理を信頼することが、ヨガにおける本来の信仰です。これは、人格心を信奉するような宗教とは違い、自分に降りかかる困難を宇宙、自然から与えられたものとして受け入れる態度のことです。イエス・キリストは磔刑されましたが、その刑を前にしても「父よ、できrことならこの杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の望むようではなく、御心のままにしてください」(マタイの福音書26章39節)と祈りました。「神よ、どうか私の望むようにしてください」とは祈りませんでした。神を信頼していたので、イエスは十字架を引き受けたのです。
このような態度を、バクティ・ヨガとして行ってみましょう。たとえば、病気になれば、それが治るように神様に祈ることがあるでしょう。「私は苦しいので早くなおしてください」とお願いしたくなるかもしれません。しかし、これは自己の願望をただ神に投影したに過ぎません。むしろ、病気になっても、これをブラフマンの法則として受け入れ、「この病気もブラフマンに与えられたもので、これもまたむしろ私には必要なことなのだ」と考えることができたら、それはもう立派なバクティ・ヨガです。つまり、エゴにとって良い悪いではなく、全てはブラフマンによって作られたものであるという視点であらゆる事柄を受け入れ、また、ブラフマンへの捧げ物として行為するのです。
このような考え方は、古代の占星学にも通じるものです。占星学では、私たちの人生の経路をある程度知ることができるとされています。もしこのように人生の出来事がブラフマンによってある程度決められているなら、私たちは決まった道を歩きながら、あれでもないこれでもないと迷い、悲しんだり怒ったりしているだけだとも考えられます。心配しようが、しまいが、ブラフマンが用意した道を歩いているから、私たちが悩むだけ時間の無駄であるともいえます。
つまり、「クリシュナを信愛せよ」というバクティ・ヨガの教えは、「この人生はブラフマンによって作られたもので、私のエゴの選択によって作られるものではない」というヨガの人生観を表しているわけです。結局、過去の出来事でくよくよ悩んでいる人は、自分のエゴが今の状況を作り上げたと勘違いしているので悩んでいるのです。私のエゴがこの人生の舵取りをしていると思えば、一つ一つの出来事に一喜一憂しなければなりませんが、ヨガにおいては、信頼できる船長が舵取りしていると思って、その航海は豪華客船のバカンスのように捉えることもできるわけです。その船長とは、ブラフマンの意志であり、あなたが全てをゆだねることができれば、その航海に不安はなくなります。海の天気を見ながら心配するのか、ゆったりくつろいで景色を眺めるのかあなたはどちらを選ぶでしょうか。
以上のように、神への信愛を日々の生活にとりれることがバクティ・ヨガです。私たちは、エゴで判断するような「運が悪い」「運が悪い」というような世界に生きているわけでありません。すべてブラフマンの働きがあり、そこに悪い者はないのですから、とにかく、自分の人生を全面的に信頼してみればいいのです。しかし、私たちの人生は説きにひどい風に遭難することもあるでしょう。災害で家で失ったり、耐えがたい苦痛を伴う病気をにかかったり、事業の失敗など悲惨なことが起きることもあります。では、なぜ神はは私たちにこのような過去も苦な目に会わせるのでしょうか。
こういった人生の困難に直面したときには、神を呪ってやろうと思うこともあるでしょう。しかし、こういった困難に対しても、神を信頼する勇気が必要です。ソクラテスが悪法も法なりと法を重んじた超に、こういった困難に陥っても方を信じる姿勢です。なぜなら私たちの魂はまだ発展途中の段階にあるからです。もし何も困難がなければ魂が成長することができるでしょうか。それはいわばいびつな形をした石のようなもので、様々なな障害にぶつかりながら少しずつ角が削られ、丸くなっていくようなものです。このような抵抗がなければ、私たちの魂はゆがんだ形のまま来世へと持ち越されるでしょう。
これまでの人生を眺めてみると、多くの躓き石があったことが分かると思います。そのたびに、あなたは傷ついてきたのかもしれませんが、その躓き石がなければ、ヨガ的にいえば、あなたの魂は身は磨かれなかったでしょう。磨かれた魂だけが、神の光をこの世に反映させることができるのです。このように世界を見るならば、あらゆる場所に神の愛があることが分かります。その石をおいてのが他ならぬ神ご自身だからです。あらゆるものを神の愛と捉えて、信頼し、執着せず、恐れず、心に平安を絶やさない人は、バクティ・ヨガを行っているといえます。
「すべてのものに敵意をもたず、友愛が在り、哀れみがあり、『私のもの』という思いはなく、執着がなく、苦楽を平等に見て、忍耐強く、常に満足し、自己を制御し、決意も固く、心から私を求め、信愛する人、私は彼を愛する。何事にも期待せず、清潔であって、中立を守り、いらぬ心配や計らいを離れ、私を信愛する人、私は彼を愛する。喜ばず、憎まず、望まず、善し悪しの判断を捨てて私を信愛する人、私は彼を愛する。以上の教えを念頭に念想し、私に専念する信者たち、私は彼らをこよなく愛している。」
以上のヨガは、クリシュナの教えの実践的な側面でしたが、『バガヴァッド・ギータ―』が説いている教えの中で、特に重要なのは、クリシュナ自身が私たちを救おうと宣言する点です。
「すべての行為を私に捧げ、私に専念し、ひたむきなヨガによって私を念想する人々、私に信愛注ぐ人々を、私は輪廻の海から救い出す。私のみに意識と知性を集中せよ。そうすれば、あなたは私の中に住むであろう。これに疑いはない。」
クリシュナは、ここで「私に信愛を注ぐものを、私は輪廻の海から救い出す」とはっきり述べています。つまり、ラージャ・ヨガであれば八支即という段階を自分の努力によって達成し、解脱するという自力の思想でしたが、バクティ・ヨガでは、クリシュナを信愛すれば救ってもらえるという他力の思想に変わっているのです。また、クリシュナは、パラブラフマンやブラフマンのような宇宙の根本原理を念想することは困難だと述べて、人格神である自分に帰依するように求めます。
「アルジュナは、尋ねた。このように常にあなたに専念し、瞑想する信者たちと、不滅で非顕現なものを瞑想する人々では、どちらがよりヨガを知る者でしょうか。聖バガヴァッドは答えた。常に私を念想する最高の信仰をもった人々は、「最高に専心した者」と考える。もちろん、不滅で、知られざる、非顕現的で、全宇宙に満ちており、不可思議で、不動で、ゆるぎない堅固なものを念想する人々、感覚を制御し、あらゆるものを平等に見て、生きとし、行けるものの幸福を喜ぶ人も、同様に私に達する。しかし、非顕現のものを念想する人々の苦労はより大きい。なぜなら、身体を持つ私たちにそのような念想は困難だから。」
つまり、私たちのような一般大衆が抽象的な宇宙原理を想像したり、アートマンのような純粋意識を想定するのは、なかなか難しいので、クリシュナのような人格神を通して念想した方が、ヨガ的にたやすいはずだというわけです。このような神の化身をアバターラと呼びます。神聖な存在が目の前にいることで、私たちはその高次な存在とつながりを感じることができるのです。これは現代の私たちにとっても同じです。お寺や神社に行けば、そこに神殿や仏像があるので、信仰の対象として拝みやすいのです。もしそういった対象が何もなければ、私たちは何を頼りにすればいいのかと不安になって、心は迷ってしまうのです。
現代のインドで、ヒンドゥー教が広く信仰されている理由は、クリシュナという人格神がいたからだとも言えます。つまり、抽象的な宇宙原理ブラフマンを信仰するバラモン教や戒律や瞑想修行によって悟りを開こうとする上座部仏教は大衆に受け入れづらく、人格神を崇拝するヒンドゥー教が好まれたのです。このヒンドゥー教の人格神を仏教に持ち込んだのが大乗仏教です。これは日本においても、同様の問題がありますので、次に日本の仏教についても少しお話しておきましょう。
02 大乗仏教と阿弥陀如来とヨガ
日本の宗教の中で、最も信仰されている神様は、おそらく大乗仏教の阿弥陀如来でしょう。日本のお寺の多くは、この阿弥陀如来を祀っています。阿弥陀如来は衆生を救う仏の象徴で、仏になるときに48の請願を立てましたが、その本眼は「すべての者が浄土に生まれ変わるまで、私は涅槃に入らず衆生を導く」というものです。つまり、大衆仏教にも、阿弥陀仏の本眼によって誰もが救われるという思想があるのです。仏教は大きく上座部と大乗に分けられますが、その思想を大まかにいえば、上座部はブッダの教えである八正道をもとに戒律や、瞑想修行などによって解脱を求める立場であり、大乗は、この阿弥陀如来によって救われるという立場です。これをヨガに当てはめれば、上座部仏教はラージャ・ヨガ、大乗仏教はバクティ・ヨガといえるかもしれません。日本に上座部仏教はありませんから、日本でも自力の修行によって悟りを開く上座部仏教ではなく、大乗仏教の立場が広まったのです。
この大乗仏教の立場を積極的に広めたのが、鎌倉時代の僧侶で浄土真宗の開祖親鸞でした。親鸞は9歳で出家し、29歳まで比叡山で天台宗の修行に明け暮れましたが、煩悩をなかなか断つことができず苦悩します。結局、比叡山を降りて、京都の中心地にある六角堂で100日間の瞑想を行ったとき、夢に観音菩薩が現れ、お告げを聞くのです。このときの親鸞の煩悩は女性に対するものであったといわれていますが、煩悩を抱えたままの自分でも阿弥陀如来が救ってくれるという仏の慈悲に救われたのです。このような体験によって、自力ではなく、他力によってしか人は救われないと悟った親鸞は、法然に弟子入りし、浄土宗を広めていきます。
親鸞の教えは現在では、浄土真宗となりましたが、この宗派の実践は念仏で、とにかく、「南無阿弥陀仏」を唱え、瞑想修行などはしない立場です。これを他力本願と呼びますが、つまり阿弥陀如来に救ってもらうことが第一で、自分で悟ろうとする努力を手放したのです。この親鸞の思想は、『歎異抄』(弟子の唯円の著)にある次の一説によく表れています。
「善人なおもって往生を遂ぐいわんや悪人をや(阿弥陀仏の慈悲によって善人ですら往生するのですから、悪人はなおさらです)
これは親鸞の語録としてよく知られているものですが、善人(自力で悟りを開こうとする人)よりも悪人(自力で救われないと悟った人)の方が救いは早いと親鸞は考えました。つまり、自分の力で、修行して悟りを開こうとする人よりも、「私にはとてもそのような実践は無理だから、阿弥陀様に救ってもらおう」と考える人の方が救いは早いと説いたのです。『バガヴァッド・ギータ』にも悪人であっても、クリシュナを信じる者は救われるという節がありますが、親鸞も神の前に自分の無力をさらけ出す尊さを教えたのです。
「私は万物に対して平等である。私に好きなものも嫌いなものもない。信愛を込めて私を愛する人々は私のうちにあり、私もまた彼らのうちにある。たとえ悪人であって、ひたすら私を信愛すれば、彼はまさしく善人であるとみなされる。彼は正しい決心をしたから。彼は敬虔な人となり、永遠の寂静に達する。アルジュナよ、確信せよ。私の信者は滅びることがない。実に私に帰依すれば、生まれの悪い者でも、女性でも、商人でも、奴隷でも悟りに達する。得のあるバラモンや王仙である信者はなおさらである。この無常で不幸の尽きない世に生まれたからには、私を信愛せよ。心を込めて私を信愛し、私を供養し、私を礼拝するものは、まさに私の状態に達する。」
この節で、クリシュナは悪人でも女性でも商人でも悟りを得ることができると述べています。親鸞も阿弥陀仏の前には僧侶も衆生も関係なく、皆が平等に救われるといいます。このような思想は初期仏教にはない考え方でした。つまり、一般人がどんなに功徳を積んでも、出家して修行しなければ、悟りを開くことはできないと考えられていたからです。結局、親鸞は戒律を捨て、妻帯し、肉食をしたといわれています。これは当時の僧侶としてはありえないことで、他宗派から非難されましたが、阿弥陀如来の前にすべての人が平等であるという信念によって、あえてこのような禁を犯したともいえるでしょう。現代の日本の僧侶は、妻帯し、飲食も肉食もしている方がほとんどですが、その背景には親鸞の想いがあるのです。
自分の力で悟ろうとするラージャ・ヨガと、クリシュナを信愛して、悟りに導いてもらおうとするバクティ・ヨガはある意味対極のヨガです。どちらが正しいということはできませんが、自力で悟りを得るのか、他力で救われるのか、これは古くからヨガの修行者たちが問いかけてきた問題でもあります。
バガヴァッド・ギーターの教え(ヨガの古典の経典を通してヨガを学ぶ)(5)
『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(1)
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バガヴァッド・ギーターの教え(ヨガの古典の経典を通してヨガを学ぶ)
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【監修者】 | 宮川涼 |
プロフィール | 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。 |