バガヴァッド・ギーターの教え(ヨガの古典の経典を通してヨガを学ぶ)(3)
01 『バガヴァッド・ギーター』で学ぶジャニャーナ・ヨガ
ヨガの古典、『バガヴァッド・ギーター』では、主に三つのヨガについて教えられています。それは、ジャニャーナ・ヨガ、カルマ・ヨガ、バクティ・ヨガの三つです。まずは、ジャニャーナ・ヨガについて考えていきましょう。ジャニャーナ・ヨガでいう「ジャニャーナ」とは「智恵」という意味です。普通、智恵というと、知識がたくさんあることを指しますが、この場合の智恵はそのような意味での頭の良さではなく、真理を洞察する賢さのことを示しています。
たとえば、社会的地位が高かったり、事業で成功してたくさんお金を持っている人であっても、実際は、孤独や不安で苦しんでいたり、多くの悩みを抱えていることがあります。そういった意味では、その人は優れた知性を持っていたり、お金を稼ぐ能力はあるかもしれませんが、自分の幸福を実現する賢さは持っていないということになります。したがって、智恵とは、自分を幸福にする力のことであり、この智恵を得ることが、ジャニャーナ・ヨガです。ヨガというのはお金を稼ぐノウハウを学ぶ物でも社会的地位を上げるノウハウではなく、幸せになるための方法論であるわけです。
では、『バガヴァッド・ギーター』が教えている智恵とは一体何なのでしょうか。端的に言えば、ヨガで言うところの知恵とは何なのでしょうか。クリシュナは次のように述べています。「アルジュナが尋ねた。クリシュナよ、智恵が確立し、三昧(サマーディ)を達成した人の特徴はどのようなものでしょうか。また、智恵が確立した人は、どのように語り、どのように座り、どのように歩むのでしょうか。聖バガヴァッド(クリシュナ)は答えた。アルジュナよ、心にあるすべての欲望を捨て、自己(アートマン)に満足している人、その人の智恵は確立している。」と。ここでクリシュナは、智恵のある人は、アートマンに、つまり自分自身に満足している人だと教えています。では、この自分自身に満足するとはどのような意味でしょうか。少し考えてみましょう。
一般的に私たちは、幸福を自分の外部、外側に探しています。「お金がたくさんあれば、私は幸せなのに」とか、「美しい恋人がいれば私は幸せなのに」と思ったり、あるいは、「美味しい食事をしている時は私は幸せだ」と考えています。このようなとき、私たちの幸福は自分の外側になり、それを手に入れることができれば私は幸福になると考えているのです。しかし、こうした幸福感というのは、ヨガのレッスンやヨガの古典文献である『ヨーガ・スートラ』などで指摘されているように、私たちの心には相対性があり、喜びはいずれ苦しみに変わってしまいます。また、外界にあるものは変化しますから、喜びとして手に入れたものは、いずれ失われてしまいます。
したがって、幸福を自分の外側に求めるのではなく、自分の内側に、つまりアートマンに求めるべきだとクリシュナは述べているのです。ヨガでは、自己との向き合いを重視しています。しかし、アートマンに満足しろというのはどういうことなのでしょうか。ここでは、アートマン自体が至福であるという理解が必要です。私たちの本質であるアートマンには、サッチダーナンダと呼ばれる三つの性質があると様々な経典で古くから言われてきました。これはアートマンに備わる三つの性質です。サットは存在であり、チットは純粋意識、アーナンダは至福を意味しています。つまり、アートマンは純粋な意識であり、その存在はなくなることはなく、常に至福であるということを表しているのです。この至福である自己だけにとどまることが、ヨガの一つの種類であるジュニャーナ・ヨガです。
自分の外側にあるもの、つまり、心や体や世界は常に移り変わっています。心は変化し、体も年老いていき、世界も目まぐるしい速さで変化します。したがって、愛する人はいずれ去ってしまいますし、大切にしている者も失われ、自分自身の体ですら滅びてしまうのです。ですから、いかに喜びをたくさん作り出そうが、後でそれは苦しみとなって私たちに重くのしかかって来ます。たくさんの喜びを集めた人はまるで多重債務者のように苦しまなければなりませんが、多くの人はその現実に気づこうともせず、喜びを必死で集めています。ヨガ的に考えると、自分の外側(外因性要因)に一喜一憂するのではなく、自分の内側(内在的要因)を見つめ直す必要があると考えるわけです。
しかし、これは私たちの心の世界の出来事です。アートマンの至福だけに満足する人に苦しみは起こりません。そこには、永遠の、完全な安楽があるのです。これがヨガを通して目指す理想の状態であるわけです。このことに気づいたら、アートマンの至福にとどまることこそが人間の最高の至福であるということが理解されるわけです。
このように私たちの真の自己アートマンは至福であり、永遠に存在し失われることがありません。しかし、私たちは心によって様々なものに執着しては「私が何かを失う」とか「私はあの人に傷つけられた」と心配したり、怒ったりしているのです。ヨガのレッスンでは、よく次のようなたとえ話が紹介されます。
ある人は納屋に入ってみると暗がりの中にとぐろを巻いている蛇のようなものを見つけました。驚いたことにその人は、「蛇が出たぞ!」と叫びながら、家に帰り、ランプを取ってから、納屋に戻って暗がりを照らしてみると、それは蛇では無く、ロープだったのです。その人は暗がりでロープを蛇と見間違えて驚いたのですが、灯りを照らしたことで、真実を知り、恐れる必要が無いことに気がついたのです。この話は、自分の本質を悟らずに、外界のものを見て、不安になったり恐れたりする私たちの性質をよく表現しています。つまり、アートマンである自己を知れば、不安になる必要も恐怖する必要も無いことが分かります。永遠に至福である私から何かを奪ったり、苦しみを与えることなどできないわけですね。ヨガが目指すべき心の平静を獲得するわけです。私たちは、いわば物質の暗がりに、つまり心や外の現象世界に様々な総合力を働かせることによって、恐怖を作り出しているわけです。この暗闇を智慧という光で照らし、恐怖を取り除くこと、ジャニャーナ・ヨガの実践的側面です。ちなみに、智慧を与えてくれる者を、ヨガの世界ではグルといいますが、グルには「闇を払う者」という意味があります。
02 ジャニャーナ・ヨガの実践
それでは、ジャニャーナ・ヨガの具体的な実践について考えてみましょう。私たちが日常生活をするとき、アートマンである自分を心や体だと思い込む瞬間が頻繁に起きているということは理解できるでしょう。つまり、考え事をしているとき、「私は今考えている」とか怪我をしたとき、「私が傷ついた」というように、心と体を自分だと認識しているからです。したがって、このときあなたはアートマンを心や体だと思い込んでいるのですから、このような考えが生じた時、「私は純粋意識アートマンである」と念想し、「私は心や体ではない」と考えて識別するのです。そして、特に注意して識別すべきなのは、日常生活の中で、生じる怒りです。
たとえば、あなたが自分の容姿を他人から馬鹿にされたとき、怒りを感じたとすれば、あなたは体をアートマンと思い込んでいるので怒りが生じるわけです。ですから、「アートマンである私がなぜ容姿を馬鹿にされて怒らなければならないのか」と考えて怒りを手放すようにしましょう。同様に、誰かに「こんなことも知らないの」とあなたの知性を馬鹿にされたとき、「アートマンである私が、自分の知性を馬鹿にされた怒る道理があるだろうか」と考えて怒りを手放します。これがジャニャーナ・ヨガの本質です。
このように私たちが怒りを感じるとき、そこにはアートマンと何か別の対象との結びつきがあるのです。それは心や体だけでなく、洋服や車やお金かもしれません。したがって、日常の様々な場面でい明かりを感じたとき、「私は純粋意識アートマン」であると強く想念し、怒りを手放さなければなりません。むしろ、怒りが私たちの執着の場所を明らかにしてくれると考えましょう。これがジャニャーナ・ヨガの考え方です。怒りを克服することで、自己の束縛から解放されるのです。こういった意味では、あなたを怒らせてくれる人は、あなたの師であるといえます。
また、怒りだけではなく、喜びにも注意しなければなりません。ヨガ的な考えでは、怒りと同様に喜びにも注意する必要があります。普通、私たちは怒りは手放した方が良いが、喜びはできる限り受け取った方が良いと思われています。しかし、これはジャニャーナ・ヨガにおいては誤った捉え方です。怒りの原因となる執着は、喜びによって生じると考えるからです。たとえば、野球がとても好きな人がいて、たくさん練習して、他人より上手くなったとしましょう。そのとき、誰かに「あなたとても野球が上手いね」と言われると、とても嬉しくなります。しかし、このように喜びを感じる起きは、そのとき、アートマンと野球は同一化してしまったのです。したがって、誰か別の人に「あなた野球下手だね」と言われたとき腹を立てる原因となります。このように、怒りだけではなく喜びにも注意して、あらゆる対象を識別した人の心の平安が揺らぐことはありません。他人の評価にあれこれ左右さえ、気にするようでは、ジャニャーナ・ヨガの目指す心の平安は目指せません。
しかし、一方で、喜びや悲しみ、怒りこそ人生の面白さであり、こういった感情を手放したくないと思う人がいるかもしれません。恋の欲望に身を焦がしたり、人生の難所で苦悩すること、これこそ命、あるいは人生の醍醐味であるともいえるでしょう。もちろん、これも正しい件です。心の相対性を受け入れられることができるなら、それを楽しむこともできるでしょう。こういった意味で、不安や怒りをあなたの心から追い出すと、心をいつも穏やかにしておくことは、一つの選択肢であると考えることもできます。何が人間の自然な状態であるかどうかは、その人自身で決めることです。人生に喜びや悲しみが存在すること。これは一つの状態ですし、人間が至福であり続けるということも一つの状態です。どちらかを選ぶかは、あなたの自由です。
お伝えしておきたいことは、人間は苦しんだり悩んだりするもので、永遠の至福を実現することはできないと考えることは間違いだ、ということです。少なくともヨガの教えでは、至福は決して特別なものではなく、至福こそ人間本来の状態であると教えているのですから。
03 カルマ・ヨガ
それでは、次にカルマ・ヨガについて考えてみましょう。カルマは行為という意味で、行為のヨガとも言われます。このヨガについてクリシュナは次のように述べています。「あなたの職務は行為そのものにある。決してその結果にはない。行為の結果を動機としてはならない。また行為しないことに執着してはならない。アルジュナよ、執着を捨て、成功と不成功を平等に見よ。ヨガとは平等の境地である」とあります。私たちが人間として生きていく限り、様々な仕事をする必要があります。農業をする人、酪農をする人、鉄を加工する人、世の中には、様々な役割があって、人間の命は保たれています。アルジュナのような軍人であれば、戦争で国を守るという役割があります。
カルマ・ヨガは、生活の中で、社会との関わりの中で行うヨガです。ラージャ・ヨガのような瞑想法は確かに悟りを開くための一つの方法ですが、すでにお話ししたように、すべての人がこのような実践ができるわけではありません。行為をやめれば、人は生きていけませんから、人が生きていくためには、行為が継続される必要があるのです。したがって、人として生まれたからには、その人に役割を果たす義務が生じます。しかし、行為をしたままではラージャ・ヨガのような瞑想はできません。では、行為をしたままで、一体どのような悟りに近づけば良いのでしょうか。そこで、クリシュナは、カルマ・ヨガを行え、と教えたのです。カルマ・ヨガには大きく二つの実践があり、それは行為の結果に執着しないこと、そして、成功と不成功を平等に見ることです。クリシュナはこう語っています。
「あなたの職務は行為そのものにある。決してその結果にない。行為の結果を動機としてはいけない。また無為に執着してはならぬ。アルジュナよ。成功と不成功を平等(同一)のものと見て、ヨガに立脚して諸処の行為をせよ。ヨガは平等の境地であるといわれる。実に行為(のヨガ)は、知性のヨガよりも遙かに劣る。知性に拠り所を求めよ。結果を動機とする者は哀れである。知性を備えた人は、この世では、善行と悪行を共に捨てる。それ故、ヨガを修めよ。ヨガは諸行為における巧妙さである。知性を備えた賢者らは、行為から生ずる結果を捨て、生の束縛から解脱し、患いのない境地に達する。あなたの知性が迷妄の汚れを離れるとき、あなたは、聞くであろう事と聞いたこととを厭うであろう。聞くことに惑わされた知性が、揺るぎなく確立し、サマーディにおいて不動になるとき、あなたはヨガに達するであろう。(中略)この世における成功と不成功は何の関係もない。また、万物に対し、何らかの期待を抱くこともない。それ故、執着なしに行為を行えば、人は最高の存在に達する。実際、ジャナカ(聖王の名)などは、行為のみによって成就に達した。また、単に世界の維持のみを考慮しても、あなたは行為をなすべきである。最上の者が何かを行えば、他の人々も同様にする。彼が手本を示せば、人々はそれに従う。アルジュナよ、私にとって、三界においてなすべきことは何もない。得るべき物で未だ得ていないものは何もない。しかも私は行為に従事しているのだ。なぜなら、もし私が諾々として行為に従事しなければ、人々はすべて私の道に従うから。もし私が行為をしなければ、全世界は滅亡するであろう。私は混乱し、これらの生類を滅ぼすであろう。愚者が行為に執着して、賢者は執着することなく、世界の維持のみを求めて行為すべきである。賢者は行為に執着する愚者たちに、知性の混乱を生じさせてはならぬ。賢者は専念して行為しつつ、愚者たちをして、一切の行為にいそしませるべきである」
と。人間は生きている限り行為が生じますが、私たちはその行為に勝敗をつけ、成功を得ようと努力し、失敗を避けようと必死です。つまり、私たちが行為をするとき、そこにはエゴの視点が存在し、エゴの欲望や期待によって心には様々な苦楽が生じてしまうのです。ここで『バガヴァッド・ギーター』の解説で最初に説明しました通り、宇宙の第一原理パラブラフマンを思い出してみましょう。パラブラフマンは空間のようであり、その中で、あらゆるものが展開しています。では、エゴではなく、このパラグラフマンの視点から私たちの日常生活の動きを見たらどうでしょう。結局は成功も失敗もエゴが作り出したものに過ぎず、本質的にはプラクリティの動きがあるともいえます。ですから、行為そのものには必然性がありますが、そこには本質的な目的も結果もありません。ただそれぞれのグナに従って、活動しているだけなのです。したがって、行為の結果に執着せず、自分に与えられた役割を純粋に行うこと、エゴによって、生じた余計な執着や願望を手放すことがカルマ・ヨガの実践です。
もう一つの点は、物事を平等に見ることです。私たちは普通、物事に優劣をつけて「これは良い行い、これは悪い行い」とか「これは優れている、これは劣っている」と判断しています。このように、物事に優劣をつければ、それを起因して心に苦楽が生じていることになります。たとえば、どこかのリゾートで楽しんでいる時間は自分にとって価値のある時間で、仕事をしているときは自分らしくない時間だと思うなら、それらの行為はエゴによって判断されているのです。また、「私は雑用ばかり押しつけられている」とか「あの人は、有名に鳴ってうらやましい」というように考えるなら、それもまた物事に優劣をつけていることになります。これもまた、パラブラフマンの視点から見るとすれば、当然このような違いはないといえます。
以上のような価値判断は心に勝手に生じてくるものですが、心に惑わされずに、心を識別し、物事を平等に見るように努めなければなりません。このように行為の結果に執着せず、物事を平等に見てそれに囚われない態度を確立することがカルマ・ヨガです。行為を平等に見るという点について、クリシュナは、行為だけではなく、あらゆるものの価値を均等に見るように説きます。「理論と実践によって得られた識別知によってアートマンの至福に満たされ、感覚を制御し、土や石や黄金同じ物と見る人はヨギー(ヨガを行う人)であるといわれる。親しい者、仲間、敵、中立の者、憎い者、親戚に対して、また善人と悪人に対し、平等に考える人は優れている。」と。この節で、クリシュナは、金や石も同じものとして見るように説いています。また、善人や悪人も、友人も敵も、喜ばしい人も嫌いな人も平等に見るように言います。結局、このような違いは私たちの心に生じている幻想に過ぎません。この世界に現れている価値の違いは私たちの心によるものであって、あらゆるものは全て平等なのです。このように考えるなら、ラージャ・ヨガのような瞑想によって涅槃に入ろうが、社会生活をしようが、パラブラフマンの視点から見れば、それもまた同じであるといえます。「ヨガとは平等の境地である」と言われていました。このように世界を見る人は、あらゆるものを平等に見て、悟りを得ることができるのです。
04 人は行為せずには生きられない~カルマ・ヨガの視点
また、クリシュナは、次のように述べます。
「アルジュナよ、この世には、二種の立場があると前に私は述べた。すなわち、知識のヨガによるサーンキヤ(理論家)の立場と行為のヨガによるヨギー(ヨガの実践者)の立場とである。人は行為を企てずして、行為の超越に達することはない。また単なる行為の放擲のみによって、成就に達することはない。実に、一瞬の間でも行為をしないでいる人は誰もいない。というのは、すべての人は、プラクリティ(根本原質)から生じるグナ(要素)により否応なく行為をさせられるから。運動器官を制御しても、思考器官(マナス)により感官の対象を想起しつつ座す心迷える人、彼はエセ行者と言われる。しかし、思考器官により感官を制御し、執着なく、運動器官により行為のヨガを企てる人、彼はより優れている。あなたは定められた行為をなせ。行為は無為よりも優れているから。あなたが何も行わないなら、身体の維持すら成就しないであろう。」
結局のところ、私たちがこの世に生まれてきたからには、食べたり、飲んだり、仕事をしたり、遊んだりという行為を避けることができません。私たちの体のがプラクリティでできているので、その束縛から逃れることはできないからです。ですから、行為しないこと、つまり瞑想は本来人間にそぐわないものであるとクリシュナは指摘するのです。また、瞑想していても心の中で行為に執着しているなら、つまり、願望や欲望を持って瞑想しているなら、それは偽りの瞑想であると述べます。こういった意味では、社会の中で生活する人にとってラージャ・ヨガのような瞑想法よりも、行為をしながらもそれに執着しないように心がけるカルマ・ヨガの実践に向いていいるといえます。
私たちの生命その物がプラクリティによって生じていると『バガヴァッド・ギーター』では説かれています。ですから、プラクリティの動きに逆らったところで、一体、どのような勝利が得られるというのでしょうか。したがって、これを制御するのではなく、プラクリティを識別し、それに囚われないことが大切であるとクリシュナは説いたのです。ですが、私たちはプラクリティの動きを自分自身で生み出していると考えています。つまり、タマス質の行為は怠惰で眠気のあるもの、ラジャス質の行為は活発で感情的なもの、サットヴァ質の行為は調和で在り、自制的なもの、これらを自分で行っていると思い込んでいるのです。しかし、これらは私の行為ではなく、それぞれのグナによって生じる行為なのです。
したがって、私が行為しているのではなく、プラクリティが行為していると見なければなりません。パラブラフマンの中で万物が動くように、自分の行為もそのように見て、結果に執着せず、行為を平等に見ることがカルマ・ヨガです。このようにプラクリティの動きを識別する人のアートマンは汚されるということがありません。
「行為のヨガに専心した真理を知る者は、「私は何も行為しない」と考える。見て、聞き、ふれ、嗅ぎ、食べ、進み、眠り、呼吸しつつも。語り、排泄し、把捉し、目を開き、閉じつつも。感官が感官の対象に働くのみと考えて。諸行為をブラフマンに委ね、執着を捨てて行為する人は、罪悪により汚されない。蓮の葉が水に汚れないように。身体により、マナスにより、ブッディ(知性)により、また単に諸感官のみにより、ヨギーたちは行為をなす。アートマンを清めるため、執着を捨て。行為のヨガに専心した者は、行為の結果を捨て、窮極の寂静に達する。専心しない者は、欲望のままに、結果に執着して束縛される。すべての行為を意(こころ)に放擲して、支配者たる主体(デーヒン)は九門の都城において安らかに坐する。何も行為せず、行為させず。主君(個我)は、世人(身体)の行為者たる状態も、行為も、行為の結果との結合も作り出さない。ただ本性のみが働く。主君(個我)は何人の罪悪をも、善行をも受け取らない。だが、知識は無知により覆われ、それにより生類は迷う。しかし、知識により彼らのアートマンの無知が滅せられたとき、彼らの知識は太陽のようにかのさいこうの存在を照らしだす。(中略)知性が確立し、迷妄なく、ブラフマンを知り、ブラフマンに留まる人は、好ましい者を得ても喜ばず、好ましくないものを得ても嫌悪しない。外界との接触に執心せず、アートマンのうちに幸福を見出し、ブラフマンのヨガに専心し、彼は不滅の幸福を得る。実に、接触から生ずる諸処の享楽は、苦を生むものに過ぎず、初めと終わりのあるものである。アルジュナよ、知者はそれらにおいて楽しまない。まさにこの世で、身体から解放される前に、欲望と怒りから生ずる劇情に耐えうる者は、専心した幸福な人である。内に幸福あり、内に楽しみあり、内に光明あるヨギーはブラフマンと一体化し、ブラフマンにおける涅槃に達する。」
たとえば新幹線などに乗って、小さな窓から対向車両が動き出すのを見たとき、自分は動いていないにもかかわらず、あたかも自分が進んだかのような錯覚をした経験はないでしょうか。このような錯覚が日々私たちにも起きています。つまり、アートマンである私が、プラクリティの動きを見て、「私が考えている」「私は欲しがっている」「私は年をとった」というように認識しているのです。このように、あらゆる心の動きを識別し、「アートマンである私は考えたことも、行為したこともない」と見て、行為の結果と執着から離れる人は、カルマ・ヨガの実践者です。次は、バクティ・ヨガについて考えてみましょう。
バガヴァッド・ギーターの教え(ヨガの古典の経典を通してヨガを学ぶ)(4)
バガヴァッド・ギーターの教え(ヨガの古典の経典を通してヨガを学ぶ)(3)へ続く
バガヴァッド・ギーターの教え(ヨガの古典の経典を通してヨガを学ぶ)
『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(1)
『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(2)
『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(3)
『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(4)
『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(5)
『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(6)
『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(7)
『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(8)
『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(9)
『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(10)
『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(11)
『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(12)
『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(13)
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【監修者】 | 宮川涼 |
プロフィール | 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。 |