バガヴァッド・ギーターの教え(ヨガの古典の経典を通してヨガを学ぶ)(2)
01 クリシュナの教え~ヨガの神髄
前提のところでお話ししましたが、『バガヴァッド・ギーター』の冒頭で、パーンダヴァ軍とカウラヴァ軍が戦場に集まり、戦いの開始を告げるホラ貝の音が響き渡ります。その時、パーンダヴァ軍の司令官であるアルジュナは、敵軍に親族や友人がいるのを見て、「親族や友人を殺すことは罪であり、殺すことによってカースト制度も崩壊してしまう」と御者のクリシュナに迷いを告げます。そして、アルジュナは、自らが殺されることを望み、弓と矢を捨ててしまうのです。『バガヴァッド・ギーター』から引用しましょう。アルジュナはこう言います。
「悪い予感がする。戦いで親族を殺してよいはずがない。私は勝利も、国の支配も、幸福も望まない。国の支配、幸福、生命が何になるだろうか。親族が国を統治し、幸福になることを私は望んでいるのに、親族が生命と財産を捨て、戦おうとしている。私が殺されても、私は殺したくない。親族を殺すことで、全世界を支配できても、殺したくない。まして、この国の支配のためだけに、殺すことなどできない。ドリタラーシュトラの息子たちを殺しても、私に喜びはない。私を殺そうとする彼らであっても、私が彼らを殺せば、私は罪を犯すことになる。ドリタラーシュトラの息子たちと親族を殺してはならない。親族を殺して、幸福になれるはずがない。彼らは、欲深く、一族の滅亡と友人の殺害が罪であることを知らないかもしれない。しかし、私はそれらが罪であることを知っている。罪を犯してよいはずがない。一族の男性が滅亡すれば、規律がなくなる。規律が無くなれば、女性は堕落する。女性が堕落すれば、身分の違う相手との間に子を産み、身分が混乱する。身分が混乱すれば、祖先たちは正しく供養されなくなり、祖先たちは地獄に墜ちる。そして、子孫も、一族の男性を滅亡させた者も、地獄に墜ちる。一族の男性を滅亡させた者は、身分を混乱させる。カースト制度は崩壊し、一族の規律はなくなる。一族の規律が無くなれば、一族の人は必ず地獄に墜ちる。私はこのように聞いている。私は久野々幸福を願っているのに、親族を殺すという罪を犯すところだった。ドリタラーシュトラの息子たちは武器を手にしているが、私は抵抗もしないし、武器も手にしない。私は殺されても、幸福になれるだろう。」(佐藤裕之訳『バガヴァッド・ギーター』角川ソフィア文庫、以下同様からの引用を基本とする)
と。カースト制度の是非はさておくとして、アルジュナの言っていることは現代人の我々にとっても正論というか、少なくとも間違ったことを言っているようには聞こえません。親族同士で殺し合って良いと思う人は少ないでしょうし、人を殺すよりは殺される方が良いというアルジュナの悲痛な叫びは現代人にも響く言葉でしょう。こうして、戦意を喪失したアルジュナに対して、大変意外なことに御者であり神の化身でもあるクリシュナはアートマンの不滅と義務の遂行を理由に戦うことを勧めます。クリシュナはこういいます。
クリシュナ:アルジュナよ、この期に及んで何を怖じ気づいているのか。怖じ気ずくなら、あなたは軽蔑され、神の世界にもいけず、名誉も失う。怖じ気づいてはならない。あなたらしくない。心の弱さは卑しい。心の弱さを捨て、立ち上がれ。
アルジュナ:クリシュナよ、尊敬する長老ビーシュマとドローナ師に向かって、矢を放つことはできない。偉大な師たちを殺すくらいなら、私は物乞いの生活をした方がよい。たとえ、師たちが正しくなくても、師を殺せば、私が血で汚れたものを手にすることになるだろう。私たちの勝利か、彼らの勝利か、どちらがよいのか、私には分からない。目の前のドリタラーシュトラの息子たちを殺してまで、私は生きようと思わない。彼らに同情し、私は罪に苦しみ、義務について迷っている。クリシュナよ、私はあんたの弟子であり、あなたを信じている。教えてほしい。地上で最高の国を獲得したとしても、神々を支配することができたとしても、この苦しみがなくなる方法を私は知らない。
戦えというクリシュナに対して、アルジュナはなおも反論します。その反論も現代人の我々が聞いてももっともなことだと思う内容でしょう。自分の師や親族を殺すよりは、物乞いにでもなったほうがよいという心優しいアルジュナに同調する方がほとんどではないでしょうか。
クリシュナの教えは、時に多くの誤解を与えてきました。「クリシュナは戦争を肯定しているので、私はこの教えを受け入れることはできない」という意見を耳にすることもあります。実際に、クリシュナはアルジュナに、「敵と戦え」と勧めているからです。もちろん、クリシュナが好戦的な人であったはずはありません。しかし、なぜクリシュナは戦うことを肯定したのでしょうか。例えば、ラージャ・ヨガの立場であれば「私たちにはアヒムサー(非暴力)という規則があるので、あなたは戦ってはならない。直ちに、戦争をやめなさい」とアルジュナを説得したでしょう。しかし、クリシュナはそうは言いませんでした。では、クリシュナが「敵と戦え」と言うとき、そこにはどんな道理があるというのでしょうか。クリシュナは、上のように反論したアルジュナに以下のように言い放ちます。
「アルジュナよ、あなたは、悲しむ必要のないことについて悲しみ、偽善者のように語る。死んだ人についても、生きている人についても、賢い人が悲しむことはない。今まで、私もあなたも、この王たちも存在しなかったことはない。そして、この語、私たちが存在しなくなることもない。身体の中にはアートマンがあり、そのアートマンは、人が少年・青年・老年になっても、身体の中にある。そして、死後、別の身体を獲得する。このことを賢い者が知らないことはない。生きていれば、寒さ・暖かさ・楽しさ・苦しさを感じるが、それらは長く続かない。それらに耐えよ。賢い者は苦しさや楽しさにこだわらず、それらに悩まされない。そのような人が不死になる。身体は永遠でなく、アートマンは永遠である。真理を知る者は、この違いを知っている。世界のいたるところに、<永遠のもの>は存在している。それを誰も滅ぼすことはできない。アートマンは永遠、不滅、無限であるが、アートマンが獲得した身体には終わりがある。従って、アルジュナよ、戦え。」
と。これは一体全体どういうことでしょうか。クリシュナは、心優しきアルジュナのことを偽善者とまでいい、アートマンについて語り、アルジュナに戦うことを勧めます。これは現代人にとって分かりやすく説明すれば、肉体や身体のことをクリシュナは問題にしていないということです。分かりやすい言葉でいえば、魂と肉体との違いを述べているわけです。肉体は仮象のものであり、肉体にはたとえ戦争で死ななくともいずれ終わりが来て、滅びるものですが、魂は滅びることはないというわけです。肉体と魂(正確にはアートマン)の違いを知るものには、この世の生きている身体的な肉体の生き死には大きな問題ではないし、そもそも魂、いや、アートマンは不滅であり、それを滅ぼすことはできないのだから、アルジュナに戦争での生き死にを気にすることはないと言っているわけです。さらに、クリシュナはこう続けます。
「アートマンが殺すと考える者、アートマンが殺されると考える者、この両者は正しく理解していない。アートマンは殺すこともなく、殺されることもない。アアートマンは生まれることも無く、決して死ぬことも無い。アートマンは不生、永遠である。身体が殺されても、アートマンが殺されることは無い。アートマンを不滅、永遠、不生、不変であると知った者は、誰にも殺されないし、誰も殺さない。古い服を脱ぎ、新しい服を着るように、アートマンは古い身体を捨て、他の新しい身体を獲得する。刀はアートマンを切断しない。火はアートマンを焼かない。水はアートマンを濡らさない。風はアートマンを乾かさない。アートマンは切断されず、焼かれず、濡らされず、乾かされない。アートマンは永遠、偏在、堅固、不動である。アートマンに形はない。アートマンを考えることはできない。アートマンは変化しない。アートマンはこのようなものであるから、あなたは悲しむ必要はない。たとえ、アートマンは生まれ、死ぬとしても、生まれた者は必ず死ぬ。そして、死んだ者は必ず再び生まれる。従って、あなたは悲しむ必要はない。生まれた者が死ぬことは避けられないし、死んだ者が再び生まれることも避けられない。避けられないことを悲しむ必要は無い。(中略)全ての身体にあるアートマンは決して殺されることはない。従って、あなたが悲しむ必要はない。」
このように、クリシュナはアートマン(が人間の本質であって、わかりやすく言えば魂のようなもの)が決して殺されることのあるものでないし、さらに、身体的な意味での体の生死であれば、それは遅かれ早かれいずれ死ぬ者であり、仮想にすぎないので、気にすることはないとアルジュナを諭します。この辺りの思想というのは、同時代の古代ギリシアの哲学者プラトンの思想にも垣間見える発想です。プラトンの著書『ソクラテスの弁明』にはこう書いてあります。
「しかし、アテナイ人諸君、それは難しいことではないかもしれない、死を免れるということは。難しいのは、悪を免れることだ。なぜなら、その方が死よりも足が早いからだ。だから、私は年を取って足が遅いので、のろい方の死に捕らわれたのだが、私の告発者たちは有能で鋭敏ので、より速いほう、悪に捕らえられたのだ。だから、今も私は君たちから死の刑罰を負わされこの場を立ち去ろうとしているのだが、彼らは真実によって裁かれ、邪悪と不正の刑罰を負わされて立ち去ろうとしているのだ。」(岸見一郎訳プラトン『ソクラテスの弁明』)
ここでソクラテスは肉体の生死よりも正義と悪を重視しています。また、プラトンは別の著作『パイドン』(岩田靖夫訳)にてこうも語っています。
「魂という、この目に見えないもの、自分と同じように高貴で、純粋で、目に見えない場所に行くもの、真実の意味で目に見えない場所であるハデスへ行くもの、善い神のもとへいくものー間もなく僕の魂も、神のみ旨とあれば、そこへ行かなければならないのだがーこのわれわれの魂が、本性的にこういう性質を持っているのに、肉体から分離されると、多くの人々のいうように、たちまち吹き飛ばされ滅びてしまうのか。とんでもない。親愛なるケベスとシミアスよ、むしろ、事情ははるかにこうなのだ。1つの場合はこうである。もしも、魂が純粋な姿で肉体から離れたとしよう。その場合、魂は肉体的な要素を少しも引き摺っていない。なぜなら、魂は、その生涯においてすすんで肉体と交わることがなく、むしろ、肉体を避け、自分自身へと集中していたからである。このことを魂はいつも練習していたのである。そして、この練習こそは正しく哲学することに他ならず、それは、また、真実に平然と死ぬことを練習することに他ならないのだ。それとも、これは死の練習ではないかね。」
と。プラトンも又、魂と肉体、デカルト以来の言葉で語れば「心と身体」あるいは「精神と肉体」を区別し、前者の不滅と重要さを語りました。これを後、たとえばニーチェが肉体の軽視、生命への軽視として批判したことはともかくとしても、西欧においても、インドにおいても、そして、日本のアニミズムにおいても、このような考え方は見て取られたわけです。むしろ、『バガヴァッド・ギーター』においては、プラトン以上にそうした思想が先鋭化されているとみてもよいと思います。
そして、クリシュナはこの魂、アートマンの不滅とその優位についてだけではなく、次のようなこともアルジュナに語ります。
「さらに、自らの義務を考えても、怖じ気づいてはならない。戦いより優れた義務は、クシャトリヤにはない。幸運なクシャトリヤだけが、このような戦いをすることができる。クシャトリヤがこのような戦いをすれば、死後、神の世界へ行くことができる。義務であるこの戦いをしなければ、あなたは自らの義務を果たさず、誇りを失い、罪を犯すことになる。人々は『あなたは誇りを失った』と語り継ぐだろう。尊敬されていた者が誇りを失うなら、死んだ方がよい。戦士たちはあなたを尊敬していたのに、『怖じ気づいて、戦いをやめた』と考え、軽蔑するだろう。敵は貴方を中傷し、あなたの力を見下すだろう。これよりも苦しいことは他にない。あなたは殺されれば、神の世界に行き、勝利すれば、地上を支配できる。従って、戦う決意をして、立ち上がれ。苦楽や得失や勝敗にこだわらず、戦え。そうすれば、あなたは罪を犯さない。(中略)行為することだけを考え、行為の結果を考える必要はない。行為の結果を目的としてはならないし、『行為をしない』と考えてもならない。心をヨーガ(ヨガ)の状態にして、執着を捨て、成功や失敗にこだわらず、行為をしなさい。ヨーガ(ヨガ)とは<区別せずに見ること>である。心を<ヨーガ(ヨガ)の状態>としないで行う行為は、心を<ヨーガ(ヨガ)の状態>として行う行為よりも、はるかに劣っている。心の状態が重要である。行為の結果を目的とする人は哀れである。」
と。クリシュナが言いたいことを少し分かりやすく説明しましょう。私たちが社会的な生活をするとき、そこには一人ひとり定められた職務があります。ある人は、畜産業者として豚や牛を育てるだけではなく、豚や牛を殺さなければ成りませんし、またある人は漁師として魚を捕らなければなりません。警察官は職務に従って、棒とを襲う犯人を射殺しなければならないでしょうし、死刑判決の是非はともかく、死刑執行人の刑務官は人を文字通り殺さなければなりません。仮に平和そうに見える農家の人であれ、作物を育てるため、虫も殺さないと言うことは無理ですし、むしろ害虫を殺さなければ作物も実り豊かには育ちません。人を助けるべき医師も、生まれてくる赤子を助けるために母親の命を諦めざるを得ない時もあるでしょうし、その逆もあるでしょう。同様にアルジュナのような戦士(クシャトリアとはインドに於ける戦士階級のことをいいます)であれば、戦って国を守ることが彼の職務だと考えることができます。農家が作物を育み、実り豊かな収穫を期待するように、戦士は国を守り、国で暮らす人びとの安全と平和を守ることがその仕事の定めです。米軍の兵士が国民を守るために、敵と戦い、敵を殺すのも同様です。
このように考えてみると、先に紹介したラージャ・ヨガのような規則を守ることができる人はごく僅かな僧侶だけになってしまうことが想像できるでしょう。確かに、上座部仏教では、僧侶は働かずに、托鉢だけで生活し、お金に触れてはいけないなどの規則があります。しかし、もし全ての人がそのような態度であったなら、町は機能せず、社会はその構造を保てませんし、もっと大袈裟に言えば人類はすぐに滅びてしまうでしょう。托鉢僧に托鉢する作物を育てる農家がおり、そして、その農家の作物を売りさばく商品がおり、そんな彼らを守る治安を維持する兵士がいて、村が、町が、国が、社会が成り立っており、そうした互いの役割分担によって、ラージャ・ヨガのような僧侶のそうした行為は成り立っているわけです。したがって、戒律に厳しい僧侶の生活がいかに清いものだとしても、実際は庶民、いや僧侶以外のさまざまな人々の労働や職務の上に、そのような規則が成り立っているということは否定できない事実ではないでしょうか。
このように、ラージャ・ヨガのような、托鉢僧でもなければ、規則を守ることのできない私たちのような一般大衆は、どのようなヨガの実践をすれば良いのか。その答えとなるヒントが書かれているヨガの教えが、これが『バガヴァッド・ギーター』の教えの最大の特徴であるのです。つまり、クリシュナは、祭司階級であるバラモンに教えを説いたのではなく、武士階級であるクシャトリアに教えを説いているわけで、いわば僧侶ではない人、現代でいえば、多くの一般の人々にどうすればヨガを実践できるのかそれを説いているわけです。このような意味では、確かに『ヨーガ・スートラ』は偉大な古典とはいえ、私たちが学ぶべきヨガの古典、より私たちにとって身近なヨガの教えとしては、この『バガヴァッド・ギーター』にこそあるのではないかといえるかもしれません。『バガヴァッド・ギーター』こそ、祭司階級ではない日常生活を営む私たちへ向けて説かれたヨガの教えであるわけです。
それでは、クリシュナの教えを理解するために、まずは『バガヴァッド・ギーター』の世界観を理解していきましょう。
02 『バガヴァッド・ギーター』の世界観~古典的ヨガの世界観
『バガヴァッド・ギーター』には、ブラフマンやプルシャなど、様々な原理が出てきますが、その根底にある哲学体系はどのようなものでしょうか。この世界は、プルシャ(純粋意識)とプラクリティ(根源物質)という2つの原理によって成り立っているとサーンキヤ哲学は考えています。ここで、この古典ヨガの世界観の源となっているヨガ思想の基礎になっているサーンキヤ哲学について簡単に紹介しておきます。サーンキヤとは「教える」という意味で、サーンキヤ学派は漢語で数論派とも呼ばれます。サーンキヤ哲学は二元論の世界観を持っており、25の原理で世界を説明しているからです。サーンキヤ哲学の開祖は、古代インドの聖者カピラであると言われていますが、彼の説いた教えは詳細には伝わっていません。サーンキヤ哲学の内容が体系的に伝えられたのは3~4世紀頃、イーシュバラクリシュナによって書かれた『サーンキヤ・カーリカ』という本によって知ることができます。サーンキヤ哲学によれば、宇宙にはプルシャ(純粋意識)とプラクリティ(物質原理)という永続する2つの原理があり、プルシャがプラクリティを「見る」ことで潜在的であったプラクリティのバランスが崩れ、世界が誕生します。サーンキヤ哲学の世界の創造過程にはいわゆる人格神的な創造主はなく、無神論とも言われることがあります。このような世界観が『バガヴァッド・ギーター』でも通底している基本的な世界観です。
しかし、クリシュナは、この世界をさらに複数の原理の異なるプルシャとプラクリティが存在すると考えているのです。その複数のプルシャとプラクリティとはどのようなものでしょうか。クリシュナは次のように述べています。
「世界には二種のプルシャがある。可滅のものと、不滅のものである。可滅のものは、一切の被造物である。不滅のものは揺らぎ無き者といわれる。しかし、それとは別の至高のプルシャがあり、最高のアートマンと呼ばれる。それは不変の主であり、三界に入ってそれを支持する。私は可滅のものを超越して、不滅のものよりも至高であるから、世間においても、ヴェーダにおいても、至高のプルシャであると知られている。迷妄なく、このように私を至高のプルシャと知る人は、一切を知り、全身全霊で私を信愛するものである。」
と。この節で、クリシュナは、プルシャには三つの種類があると述べます。また、別の箇所ではプラクリティには低次のもの(阿修羅的なプラクリティ)と高次のもの(神聖なプラクリティ)があると述べるのです。さらに、クリシュナは、「地、水、火、風、空、マナス、ブッディ、アハンカーラ。私のプラクリティは、8種類に分かれている。これらは低次のものであって、私にはそれとは別の高次のプラクリティがある。それにより、世界は維持されている。」とあり、さらに「迷える人びとは、人間の体をとる私を軽んずる。彼らは万物の偉大な主として、私の最高の状態を知らない。彼らはむなしい願望を抱き、むなしい行為をし、むなしい知識を得て、分別を失い、人びとを迷わせる阿修羅的なプラクリティに依存する。しかし、偉大な人びとは、私の神聖なプラクリティに頼って、私を不変なる万物の原初であると知り、一心に私を信愛する。」と言っております。
これらのことを簡単にまとめると、クリシュナは、(1)至高のプルシャ、(2)不滅のプルシャ、(3)可滅のプルシャ、(4)高次の(神聖な)プラクリティ、(5)低次の(阿修羅的な)プラクリティ、と、このゆおに『バガヴァッド・ギーター』の哲学の背景には、非常に難解な理論的体系が存在しております。この時点で、かなり混乱される方がいらっしゃるかもしれませんが、とにかく、これらの原理の特性や関係について順番に考えてみましょう。
03 『バガヴァッド・ギーター』の五つの原理
まず、一番初めに取り上げる原理は、至高のプルシャです。これはパラブラフマン(パラは超えたという意味)とも呼びます。これはブラフマンが生じる、あらゆるものの根源です。クリシュナはこう語ります。
「行為は、ブラフマンから生じると知れ・。ブラフマンは不滅の存在から生ずる。それ故、偏在するブラフマンは、常に祭祀において確立する。このように回転する祭祀のチャクラ(車輪)を、この世で回転され続けぬ人、感官に楽しむ罪ある人は、アルジュナよ、空しく生きる人だ。他方、アートマン(自己)において喜び、自己において、充足し、自己において満ち足りた人、彼にはもはやなすべきことがない。彼にとって、この世における成功と不成功とは何の関係も無い。また、万物に対し、彼が何らかの期待を抱くことも無い。それ故、執着することなく、常になすべき行為を遂行せよ。実に、執着なしに行為を行えば、人は最高の存在に達する」
と。クリシュナは、ブラフマンが生じる不滅の原理があり、それが第一原理パラブラフマンだと説明されています。このパラブラフマンの中で、ブラフマンが働き、世界が生じるのです。では、この第一原理とはどのようなものなのでしょうか。クリシュナは次のように説明します。
「この全世界は、非顕現的な形の私によって、遍く満たされている。万物は、私のうちにあるが、私はそれらのうちには存在しない。しかも、万物は私のうちに存在しない。見よ、私の神的なヨガを。私のアートマン(本性)は、万物を支え、万物を実現するが、万物のうちに存在しない。居たるところに行き渡る強大な風が、常に虚空(エーテル)の中にあるように、同様に万物は私のうちにあると理解せよ。劫末においては、万物は私のプラクリティ(根本原質)に赴く。劫の始めにおいて、私は再びそれらを出現させる。自らのプラクリティに依存して、。プラクリティの力により、この無力なる一切の万物の群れを繰り返し出現させる」
パラブラフマンは、空間のようでもあり、全てのものがその中で展開しています。現在の宇宙物理学のビッグバン仮説やサイクリック宇宙論に似ているような考え方ですが、このような考えについては、クリシュナの言うように、この原理について私たちの知性では理解することはできません。つまり、意識(プルシャ)でもなく、物質(プラクリティ)でもないものについて、私たちの知性では想像することすらできないと考えるわけです。このような宇宙の第一原理の考え方は、多くの宗教哲学において共通した考え方でしょう。たとえば、老子の道教の最高の原理はタオ(道、太極)ですが、これもパラブラフマンと共通した原理を持っています。『道徳経』の中で老子は道を以下のように説明しています。
「道は何もしない。何もしないからこそ全てのものが道によって維持されている」「道は空っぽの容器のようであるが、それが一杯になることはない。深淵であり、万物の源のようである。」
と。道教の教えでは、道は全く何もしません。しかし、何もしないからこそ全てのものの基礎になっているのです。道教で、そこから、陰陽、そして、五行(地、水、火、木、金)が展開していきます。この世界の展開は『バガヴァッド・ギーター』の哲学とも共通するものがあります。
では、『バガヴァッド・ギーター』の宇宙論において、このパラグラフマンの中で万物が展開する際に、ブラフマンとプラクリティの間にはどのような力が作用しているのでしょうか。『バガヴァッド・ギーター』では、それは可滅のプルシャによって、あるいは宇宙を創造するダイヴィ・プラクリティによって、創造されると説明されています。この宇宙の原理を『ヨーガ・スートラ』を比較しながら理解を深めてみましょう。『ヨーガ・スートラ』において宇宙が誕生する原因は、プルシャとプラクリティが両者の本性を理解するためであると述べられています。
「プルシャ(所有者)とプラクリティ(所有物)は両者の本性と力を認識するために結合する」(『ヨーガ・スートラ」第二章、23節)とあるように、『ヨーガ・スートラ』は本質的に二つの原理だけで世界を説明しており、そこに創造主の働きを想定していません。一方、『バガヴァッド・ギーター』においては、創造主の働きによって世界が生じると述べられているわけです。ここでクリシュナは、私が万物を出現させると述べており、これは宇宙の創造主としてのクリシュナの一面が現れております。その上で、アートマン(私)とブラフマン(神)と現象世界(プラクリティ)の3原理が想定されています。
04 宇宙の昼と夜とヨガの考える宇宙観
現代の宇宙論では、撰述したビッグバン理論という考え方が主流ですが、『バガヴァッド・ギーター』では、宇宙はちょうど私たちの昼と夜のように、顕現期と消滅期が繰り返されると教えています。このような考え方は仏教にもありますので、古代インド思想の根底にある世界観であるともいえます。
「ブラフマーの世界に至るまで、諸世界は回帰する。アルジュナよ。しかし、私に到達すれば、再生は存在しない。ブラフマーの昼は千ユガで終わり、夜は千ユガで終わる。それを知る人びとは、昼夜を知る人びとである。昼が来る時、非顕現のものから、すべての顕現(個物)が生ずる。夜が来るとき、それらはまさにその非顕現と呼ばれるものの中に帰滅する。この万物の群は繰り返し生成し、夜が来ると否応なしに帰滅する。昼が来ると再び生ずる。」
と語られています。ダイヴィ・プラクリティによって誕生した宇宙は、長い時間をかけてまた消滅してしまうというわけです。この宇宙の顕現期をブラフマーの昼、消滅期をブラフマーの夜と呼んでいます。また、この昼の期間を1カルパ、仏教では、1劫(ごう)と呼び、1カルパはさらに千ユガという小さな周期に分かれていると考えられています。そして、この1ユガには以下の四つの区分があるとされています。サティヤ・ユガは、172万8千年、トレータ・ユガは、129万6千年、ドゥヴァパラ・ユガは、86万4千年、カリ・ユガは43万2千年です。それぞれの期間の比率は、4:3:2:1となり、サティヤ・ユガの人間は、知性が高く、道徳性に優れており、年代が下がるにつれ、道徳性は廃れていき、カリ・ユガの人間は欲望や争いを本性として生きています。現代と言えば、まさにこのカリ・ユガに入ったばかりで、それはクリシュナが去った今から5千年ほど前から始まったとされています。
この四つの区分を一つとして、432万年が一つのユガです。この1ユガが、千回繰り返されるとブラフマーの昼が終わると言うことをクリシュナは述べているのです。それは時間にして、43億2千万年という途方もない長さですが、また同等の夜の時間があり、86億4千万年かけて宇宙が周期的に繰り返されているのです。このように、なかなか壮大な宇宙論をクリシュナは述べているわけですが、大事なポイントは、周期的に宇宙が誕生と消滅を繰り返すという点です。
インドの古典思想には、このような宇宙論があり、これを象徴したのが、トリムルティ(三神)と呼ばれる神々です。トリムルティは、宇宙を創造するブラフマー、宇宙を維持するヴィシュヌ、宇宙を破壊するシヴァの三神で、この三神は、ヒンドゥー教の中で特に崇拝されています。また、クリシュナは、ヴィシュヌ神の化身であると考えられています。
これらの神々は、宇宙を創造し、維持し、破壊するという実際的な役割を担っていますが、より高い原理として、ブラフマンがあります。したがって、トリムルティは、ブラフマンの三つの様相であるとも言われます。ブラフマーとブラフマンは呼び名こそ似ていますが、ブラフマーは創造神、ブラフマンは宇宙の原理となるので、この二つを混同しないように気をつけましょう。
さて、このブラフマー神ですが、もう少し詳しく説明すると、四方を向く、四つの顔を持つ世界の創造神で、プラジャーパティと同じです。ブラフマー神の妻、サラスヴァティー女神は、仏教の弁財天として日本でもよく信仰されています。ヴィシュヌ神とは、世界を維持する神、ヨガの古典『バガヴァッド・ギーター』に出てくるクリシュナはこのヴィシュヌ神の化身とされています。シヴァ神とは、世界を破壊する神です。瞑想する姿で描かれることが多く、ヨガの創始者とも言われています。シヴァの教えを聞いた大蛇(アーディ・シェーシャ)がパタンジャリとして生まれ代わり、ヨガの指導者となった伝説があります。
ヨガのスタジオえ、ヨガのレッスンの始まりや終わりなどに唱えられることもある「オーム」のマントラというものがあります。このマントラは、古くから非常に神聖なものとして用いられてきたものです。「オーム」という音は「ア」と「ウ」と「ン」の三つの音の連なりからなっています。このときの口の形は、大きく口を開けて「アー」、口を中ぐらいに開けて「ウー」、最後は、口を閉じて「ンー」の音を出します。この「オーム」の音には様々な意味がありますが、その一つは、始まりから終わり、すなわち世界を創造するブラフマー神、維持するヴィシュヌ神、破壊するシヴァ神の三神を一連の音で表しています。また、一つの宇宙周期、宇宙の原理のブラフマンの象徴ともなります。
このようなオームの象徴は、ヒンドゥー教のみならず、仏教などにも見られます。東大寺南大門には左右に金剛力士像が置かれていますが、左は阿形像、右側が吽形像で「あーうーん」となり、これも宇宙の始まりと終わりの象徴であると考えられます。これで、『バガヴァッド・ギーター』の世界観についての基本的な前提についての説明を終えます。次は、クリシュナが述べるヨガの実践的な側面について考えていきましょう。
バガヴァッド・ギーターの教え(ヨガの古典の経典を通してヨガを学ぶ)(3)へ続く
バガヴァッド・ギーターの教え(ヨガの古典の経典を通してヨガを学ぶ)
『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(1)
『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(2)
『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(3)
『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(4)
『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(5)
『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(6)
『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(7)
『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(8)
『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(9)
『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(10)
『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(11)
『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(12)
『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(13)
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【監修者】 | 宮川涼 |
プロフィール | 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。 |