「欲求体制」――マルクス欲求範疇の歴史的編成

序 社会科学のための欲求理論

社会科学の諸分野において、これまでの数多くの欲求にかんする研究では、欲求というカテゴリーをホモサピエンスの特質として捉える傾向が見られるが故に、「ヒトの欲求」を科学研究のカテゴリーとして、科学の考察対象として理論的に追求しているのは心理学の分野を除いて極めて少なかったと言える。結果的に、欲求への経済学、社会学もしくは歴史学の考察のほとんどは分類学に留まり、多くの場合、この分類学的考察も省略されたまま、「欲求」というカテゴリーは「暗黙の意味で」扱われるか、もしくはただ外生的要因としてみなされている。

しかし、歴史科学においても、現実の歴史過程においても、厳密な「個人的」欲求が表われることは一度もなかった。極めて早期の未開社会、たとえば採集―狩猟民族の集落においても、後に「直接的欲求」(unmittelbare Bedürfnisse)と呼ばれる孤立したもしくは自己完結的な欲求の型が存在するものの、この欲求の対象、欲求の満たす方法も大小さまざまな共同体(Gemeinde)に依存している。

生産を、それが依存する社会関係から切り離して、その人間と自然との質料交換の側面だけを取り上げることは可能である。ゆえに、経済学者は「生産」のカテゴリーを財と財、もしくは財と労働とのあいだの技術的関係に単純化することができる。しかし、後述の「社会によって作り出される欲求」(Societät geschaffnen Bedürfnissen)は無論のこと、古典派経済学の思想家がたまたま取り上げている生理的・自然的欲求(もしくは自然的「必要Bedarf」)のカテゴリーも、人間と自然界のみならず、人間と他の人間、人間と共同体・団体・社会との絡みにおいてはじめて規定できる範疇である。未開な採集―狩猟社会から現代のさまざまな産業社会まで、ある人間の欲求の充足は程度の差こそあれ、さまざまな社会関係(social relations)の網のなかにはめ込まれている。ゆえに、人間の欲求というカテゴリーは必然的に社会的な範疇である。

一方、人間の欲求およびそれの充足が依存する社会関係そのものは一つの歴史的範疇である。社会科学は、新古典経済学のように人間の欲求を理論的考察の対象ではなく、宙に浮く超経験的・超歴史的な仮設として扱うことをやめない限り、欲求のカテゴリーを実証可能なカテゴリーとして経験的に考察することはできないだろう。欲求のカテゴリーを経験的に扱うためには、欲求をそれが依存する社会関係から切り離して真空のなかで考察することをやめ、具体的な歴史過程のなかで考察しなければならない。ゆえに、経験科学の考察対象である人間の欲求は必然的に歴史的な範疇である。

これまでの欲求のカテゴリーへの歴史学的考察は確かにこれまで間接な形で行われてきた。というのは、人間の欲求は社会関係の一つの側面を表すものである限り、それは必然的に社会関係を制約する生産様式に規制される(Marx n.d.: 92)。とはいえ、社会関係はただ最終レベル(in der letzter Moment)において生産力の発展によって制限されている(注1)。それ自体は高度な自治性と適応性を持っている(注2)。社会関係の歴史的変遷は生産力発展の関数ではないかぎり、社会関係のさまざまな歴史的形態の特質の一端を示す欲求のカテゴリーも、生産の技術的側面への考察とは別に、独立に行われなければならない(Marx 1907:309)。この考察は、相対的自立性をもつ社会関係そのものの特質を明らかにするためにも、その社会関係によって促進・阻害もしくは変形せられた生産様式への理解を深めるためにも、必要である。

このように、本稿はまず欲求のカテゴリーをホモサピエンスの内的な性質(nature)として扱う心理学的アプローチとは別に、それを人と人との間の社会関係の一つの側面を表すものとして、それが依存する社会体制(それを生産様式mode of productionと呼んでもよかろう)が変化していく歴史過程において社会関係のさまざまな歴史形態の異なる性質を表すものとして、欲求カテゴリーを社会学、歴史学の研究対象とするアプローチを模索する。

無論、本稿も人間社会の歩みを欲求の視点で考察する新しいアプローチを模索するが、この理論的任務自体、すなわちこれまでに大いに発展させられた、いわゆる「生産アプローチ」での考察とは一線を画すような「欲求アプローチ」は、目新しい理論的試みではない。実際、「生産アプローチ」の代表者とされるいくつかの重要な理論家は、欲求の視点への適切な目配りも怠っていない。にもかかわらず、いわゆる「欲求アプローチ」は成熟したパラダイムとして確立されていない。少なくとも原因の一端は、生産力、生産様式など、「生産アプローチ」の諸カテゴリーに比べて、「欲求アプローチ」で取り上げられた諸カテゴリーの「使い勝手」さが劣るほかに、その含意は理論家によって千差万別であり、合意が達していないことにある、と考えられる。その結果、「欲求アプローチ」の理論的厳密性およびそれと在来の理論との整合性が厳しく問われる。この課題を克服するために、欲求の諸カテゴリーを独善な問題域に置くことをやめ、それを在来の社会学(もしくは政治経済学)のパラダイムに「はめ込める」ようにすることが求められる。

ゆえに、本稿が目指している欲求の社会学的・歴史的理論を可能ならしめるには、厳密に規定され、歴史の比較分析に適応している欲求の理論的体系がまず必要である。このような理論的体系は、社会関係の重層的構造を反映する柔軟性を必然的に持っている。この理論的体系における欲求の諸範疇(カテゴリー)は孤立した、宙に浮く範疇ではなく、①歴史学の経験材料に基づく分類学によってカテゴライズされる特殊な、具体的な範疇であり;②在来の社会学または政治経済学パラダイムと整合し、厳密に規定される理論的範疇であり;③重層的な構造(欲求体制→欲求の社会体系→支配的欲求もしくは中心的欲求)を持つ、体系化されている欲求の範疇である。本稿が提案する「欲求アプローチ」の有効性とその理論的意義の大きさは、本稿で議論されている欲求の諸範疇は上記三つの目標にどれくらい近づけるかにかかっている。そのため、本稿は下記の通りの理論的構成を目指している。

序章(本稿の序)で先行研究への考察、「欲求体制」論の位置づけおよびその理論的目的への説明を終えた後、第一章(本稿のI)は欲求の社会的構造を説明するための歴史的欲求の諸規定を与える。この章では、欲求の直接性と間接性(Iの1)、および生理的欲求と社会的欲求(Iの2)という二つの側面から、社会的欲求を直接的欲求および自然的欲求の範疇から区別する。第二章(本稿のII)において、共同体―団体的欲求体制における中心的欲求である直接的欲求、および資本主義的欲求体制における中心的・支配的欲求である必要な欲求が取り上げられる。欲求の直接性という一般的特徴とは別に、具体的な欲求体制における直接的欲求の追加的規定は第一節(IIの1)、中心的欲求としての必要な欲求の特徴は第二節(IIの2)、必要な欲求の資本主義的欲求体制における支配的欲求としての追加的規定は第三節(IIの3)および第四節(IIの4)で扱われる。

続く第三章(本稿のIIIで簡略にまとめられている)の理論的任務は「欲求体制」の諸規定およびその類型学の説明である。第一節で欲求体制と生産様式(労働の体制)との相互関係を検討する。続く第二節は規制される欲求の社会的体系(共同体が媒介するポトラッチ、酋長制・家産制国家が媒介する生産物の再分配、ツンフトなど諸団体が媒介する都市と農村との交換の三つの形態)、積極的な欲求の社会的体系(特殊資本としての商人資本が媒介する商業のための生産、資本の本来の機能を発揮する問屋に媒介される家内工業とプロト工業化(問屋制度)の二つの形態)、必要な欲求が支配する非典型的な欲求の社会的体系(17-19世紀東欧の再版農奴制および植民地支配の二つの形態)からなる欲求体制の過渡状態の性質と特徴を規定する欲求の社会的体系の類型学への検討に入る。第三節において、二つの欲求体制のあいだに挟まれている過渡的状態において、古い中心的・支配的欲求が新しい中心的・支配的欲求への移行の形態が考察される。その後、第四節と第五節は資本主義的欲求体制の独自な特徴と形態規定を紹介し、第六節は指令型計画経済を含む非典型的欲求体制を取り上げる。最後の第四章では、欲求体制の移行からなる歴史的欲求の動的理論の構築が模索される。

差し当たり、本稿はこの理論的構成の前半、すなわち欲求の社会的構造を説明し、「欲求体制」の理論におけるコアの概念である中心的欲求と支配的欲求の規定と類型学の説明を取り上げる。

Ⅰ.歴史的欲求の諸規定。欲求の社会的構造

人間社会と同様、人間の欲求は本来、歴史的・実証的な範疇である。哲学および心理学における「自然的」もしくは「一般的」あるいは「超経験的」な欲求カテゴリーと区別するために、ここで議論されている欲求をすべて「歴史的欲求」と規定する。歴史的欲求とは欲求の歴史性のことである。

ある特定の歴史的段階において、さまざまな歴史的欲求は互いに絡み合ったり、その充足が相手の充足に依存したりするときがしばしばある。その際、これら歴史的欲求は一つの欲求の社会的体系(social system of need)になる。欲求の社会的体系とは、さまざまな欲求から構成される一つ有機的な社会的体系のことである。欲求の社会的体系は、その当時の特定の地域、特定の身分・階級・職業・年齢グループによって異なる性質を表わしている。人類社会において表わしている主な欲求の社会的体系とその特徴は、第三章(本稿のIII)で扱われる。

ある欲求の社会的体系におけるさまざまな欲求のグループにと同じように、欲求の社会的体系のあいだにも交通(Verkehr)や依存関係が見られる。地理的・身分的・政治的などの要素によって、これら欲求の社会的体系は一つの体系に統合されていないとはいえ、相手(他の欲求の社会的体系)を知っている限り、これら欲求の社会的体系の内部には、相手への欲求、またはその地理的分離、身分的・政治的隔離を打破する欲求がつくられている。元来の隔離の打破と、体系間の新しい関係の再編が始まる。その後、こうしたいくつかの欲求の社会的体系は長期に渡って安定している状態を維持することができる。このとき、これら欲求の社会的体系のあいだの交通や依存関係に新しい段階的特徴や傾向を見せる。われわれは、この状態におけるいくつかの欲求の社会的体系とそのあいだの関係を総じて、社会的欲求の体制(レジーム)、あるいは欲求体制(regime of need)と規定する。

過渡的欲求体制(注3)を除いて、欲求体制は、それが内包する欲求グループもしくは欲求の社会的体系が相対的に固定しているため、明確な経済学・社会学的な特徴を見せている。ゆえに、欲求体制のカテゴリーは社会科学の理論分析にもっとも適している。

欲求体制の形成は、どのような社会においても程度の差こそあるが、一定の社会的欲求(直接的unmittelbar欲求と対立する間接的mittelbar欲求、すなわちその持ち主である個人や団体が制御できない機構や仕組みによって媒介されている欲求)の存在を前提にする。厳密に言えば、ある欲求体制が純粋に直接的欲求によって構成されることはできない。というのは、欲求の対象の特質を考慮しなくても、直接的欲求の充足は自身、もしくは特定の人間あるいは固定的な人間関係から構成する共同体=団体にのみ依存し、不特定多数の他人あるいはこれら不特定多数の人間から構成されるメカニズム、すなわち匿名性を特徴とする社会gesellschaftに媒介されていない。ゆえに、直接的欲求は欲求体制を積極的に構成する要素ではない。

このように規定されている欲求体制は人類史において、直接的欲求を中心とする共同体―団体的欲求体制、必要な欲求が支配する(を中心とする)資本主義的欲求体制、自由な欲求を根底に据える連合した生産者の社会の欲求体制という三つの歴史的形態、およびその間の過渡的形態を有している。

これら欲求体制において、それぞれの欲求体制の安定した特徴を反映する欲求グループが存在する。その欲求グループが欲求体制を積極的に構成する要素であり、欲求体制の形成・変態・発展と解体を能動的に牽引し、欲求体制の性格を規定するような欲求グループを、この欲求体制における支配的な欲求と規定する。一方、ある欲求体制を構成する積極的な要素でなくても、この欲求体制における主な欲求のタイプであり、この欲求体制の社会力学的性質を、とくにこの欲求体制が変形するときの「負の因果性」の構造的強度を決めるような欲求グループを、この欲求体制における中心的欲求と規定する。

ここから歴史的欲求への追加的規定が現われる。社会的(共同体的)労働の諸形態に呼応して、人類社会は直接的欲求を中心とする欲求体制から、来るべき自由な欲求に構成される社会的欲求の体制まで、様々な欲求体制を通過しなければならない。このダイナミックな過程において、社会によってつくりだされる欲求の様々な歴史的形態が浮上する。ある欲求の社会的体系もしくはある欲求体制において、特定な歴史的形態(Form)を持つ範疇を「歴史的欲求」と規定する。

人類史において最初に現われている歴史的欲求は、地続きの生活圏(個人と家庭、もしくは部落や村落などの共同体、カーストあるいは中世のような職業団体)以外のものに媒介されることなく、素朴な「直接的欲求」である。

 

1.  欲求の直接性と間接性(直接性と対立する社会性):社会的欲求と直接的欲求の範疇

1.1  欲求充足の間接性

人類社会の最初の欲求体制――共同体―団体的欲求体制における中心的欲求、もしくは最初の「歴史的欲求」は直接的欲求(unmittelbare Bedürfnisse)である。確かに、「直接的」(unmittelbar)という用語は「仲介・媒介されていない」のように読み取れる。しかし、直接的欲求の「直接的」はまったく媒介されていない状態を指しているのではなく、欲求の持ち主にとって疎遠な、彼が能動的に制御できない機構(用語要吟味)――たとえば、匿名性を特徴とする社会(Gesellschaft)や市場メカニズム――に媒介されていないという意味で「直接的」である。

事実、欲求の直接性は個人の欲求が共同体(Gemeinde)、団体(Verband)によって媒介されることを排除しない。例えば、共同体および団体の成員は、その個人的欲求の一部を共同体―団体を通じて満たしている。他方、欲求の充足手段を供与する直接的生産者の労働は全て自己の欲求のために使われているとは言えない。(注4)

とはいえ、共同体のための直接的労働も、個人的欲求のための共同的労働(それは最初、共同体や団体からの反対給付として現われている)も、一定の政治―宗教的、親族的繋がりを前提に行われている。直接に個人的欲求のために行われていない生産労働の投下量は、やはり共同体―団体からの反対給付との間に、量的相関性が見られる。ゆえに、直接的生産者は自己の生産労働と自己の個人的欲求の充足の間に直接的な関連を見出すことができる。

これとは反対に、間接的(mittelbar)欲求の充足は匿名性が担保されているメカニズム(市場など)を介して満たされているため、そのような直接的関連が見られない。事実、必要な欲求を中心とする資本主義的欲求体制、またはそれに対応する資本主義的生産において、労働者の生産的労働(の投下量)と彼の必要な欲求の充足との間に何らかの必然的な繋がりも存在しない。(注5)この意味において、間接的欲求である社会的欲求(必要な欲求は社会的欲求の一つの歴史的形態)は直接的欲求と対立する。(注6)

1.2  欲求の自己完結性

欲求の直接性の第二の特徴はその自己完結性にあり、それによって直接的欲求は欲求体制を構成する消極的要素に過ぎない。直接的欲求が支配する生産様式では、

[交換のための剰余生産物]が少なければ少ないほど、すなわち交換手段がいまだに直接的労働生産物の性質や交換者の直接的諸必要(den unmittelbaren Bedürfnissen)とかかわりあいが深ければ深いほど、諸個人を結びつける共同団体――家父長的関係、古代の共同団体、封建制度、ギルド制度――の力は、まだそれだけ大きいにちがいない。(MEGA2 II/1.1, S.90.)

したがって、直接的欲求の充足はほとんど共同体や団体の内部で完結する。これら個人的欲求が人類社会全体の視点から見て孤立的であり、共同体の域を超えて「一つの内的な紐帯」である欲求体制に統合されていない(第三章以後を参照)。

反対に、「直接的労働生産物の性質」(その特殊な使用価値)と生産者の「直接的諸必要」とのかかわり合いが遠くなればなるほど、欲求の直接性が弱く、その間接性が強くなる。というのは、直接的労働の産物と直接的生産者の欲求とを取り結ぶ関係は「諸個人を結びつける共同団体」ではなく、徐々にではあるが、匿名性が支配する「社会」に規定されるようになり、個人的欲求の充足は匿名性が担保される市場メカニズムに介して充たされるようになる。結果的に、ある人の欲求は、他人の欲求の充足に依存するようになり、社会におけるさまざまな欲求がこうして「一つの内的な紐帯」である欲求体制に統合されている。

[この有機的な欲求体制]益々多面的になるにつれて、個人の生産は一面的になる。すなわち、社会的分業が発展すればするほど、交換価値としての生産物の生産あるいは交換価値としての生産物の性格が決定的な意味を持つ。(MEGA2 II/2, S.52.)

この生産と欲求の資本主義的体系において、

すべての主体は個人の社会的総欲求のひとつの側面を満足する。しかし、この特殊な分業から生まれる経済的関係自体は消えた。(MEGA2 II/2, S.54.)

……彼は使用価値を生産するだけではなく、他人のための使用価値、社会的使用価値を生産しなければならない。(K.I, S.55.)

このときから、

生産者たちの私的諸労働は実際に一つの二重の社会的性格を受け取る。それは、一面では、一定の有用労働として一定の社会的欲望を満たさなければならず、そのようにして自分を総労働の諸環として、社会的分業の自然発生的体制の諸環として、実証しなければならない。他面では、私的諸労働がそれら自身の生産者たちのさまざまな欲望を満足させるのは、ただ特殊な有用な私的労働のそれぞれが別の種類の有用な私的労働のそれぞれと交換(K.I, S.87.) [しうるかぎりであって、このことが]他人への需要という欲求として(als Bedürfniß andrer Nachfrage)」という新たな「生産者(直接的生産者)自身の欲求[を創出するのである。(MEGA2 II/1.2, S.320.)]

ゆえに、自己完結的な属性をもつ直接的欲求は、たとえそれが共同体―団体的欲求体制においても、欲求の社会的体系を構成する積極的要因ではない。一方、間接的欲求である社会的欲求は自ずと欲求の社会的体系に結集する傾向があり、欲求の社会的体系から切り離して語ることはできない。この自己完結性の違いによって、直接的欲求および社会的欲求の規定は違う方法で考察しなければならない。

というのは、直接的欲求の自己完結性により、その範囲およびその充足の仕方を規定する要因は、直接的生産者の生理的属性、直接的生産者が所属する共同体あるいは団体の社会的・経済的特徴、およびその共同体あるいは団体における直接的生産者の位置づけという三つの要因を逸脱することはない。直接的生産者が位置する欲求体制の規定は、直接的生産者の直接的欲求を規定する要因ではない。すなわち、次節に述べられる自然的欲求(注7)を規定する要因を除いて、直接的欲求に外的制限(第四節で述べられる外的強制は、直接的生産者の共同的労働あるいは社会的労働への強制であって、彼がもつ欲求への制限ではない。)を課すメカニズムは存在せず、団体あるいは共同体の一員である直接的生産者は、自己の直接的欲求の範囲を能動的に調節し、直接に決めることができる。

しかし、たとえば、第三節で述べられるように、資本主義的欲求体制において、労働者の必要な欲求(労働者の階級としての必要な欲求の略、以後同)範囲は彼の直接的生活圏(家庭もしくは共同体)の必要によって規定されているというより、彼にとって疎遠な社会的生産および社会的生産の条件によって規定され、彼の階級的地位によって規定され、さらに彼の直接的生活圏とは無関係の資本家の必要な欲求によって制限されている。

したがって、欲求の自己完結性は同時に欲求の範囲を自力で制御できることを意味する。反対に、自己完結性を持たない欲求のカテゴリーは、欲求の持ち主が完全に制御できず、いわば外部から強制されている部分を含んでいる。このことから直接的欲求と対立する、社会的欲求の第二の側面――欲求の社会性と歴史性が現われる。

2. 社会的欲求と欲求の社会性(自然性と対立する文化・歴史性)

直接的欲求のカテゴリーを含む、マルクスが扱った欲求カテゴリーのほとんどが最初から社会学的(歴史的)な範疇である。ただ、唯一の例外は「自然的欲求」である。(注8. MEGA2 II/1.2, SS.715-6)

自然的欲求の範疇はマルクスの発明ではない。自由主義経済学、更にその前の農業経済学理論家テュルゴーはすでにこの欲求にたいする満足の優位、「それは生理的必然の優越」(MEGA2 II/3.2, S.348.)であることを強調した。

生理的欲求の同義語である自然的欲求とは、「从作自然象的个人的赤裸裸的存在所生的需要」(日本語訳文なし)であって、人間の生物学的特徴、人間の自然界における生物学的位置づけに規定されている、人間を生理的存続させるのに必要不可欠な欲求である。衣食住など基本的な欲求はこのカテゴリーに含まれる。この「交換される商品の自然的特殊性」また「交換者の特殊的な自然的欲求」は客体の措定であって、この種の欲求は人間と自然の関係によって決められるものである。言い換えれば、自然的欲求は社会的分業の体系によって規定される欲求ではないので、「経済的形態規定の外部に属する」(MEGA2 II/1.1, S.166.)ものである。

とはいえ、「形態の外部にある内容」であっても、それが「諸欲求と生産との一つの体系[システム]のなかで、そのようなものとして展開されてゆく」ことも、「使用価値そのものが、経済的形態をみずから規定するものとして、形態それ自体のなかに」入り込むことがありうる(MEGA2 II/1.1, S.190.)。

スミス(Smith 1977: 100-1)はすでに労働の自然価格を議論する章で労働日の延長に休息の欲求による生理的限界を見出し、労賃の最低限は自然的欲求の充足によって規制されていることを語った。『賃銀、価格、利潤』において、マルクスもそれに呼応し、「労働力の価値の最低の限界は、生理的要素によって決定される」(MEW, Bd.16, S.147.)と述べた。要するに、自然的欲求の範疇が「経済的形態規定の外部」にあるにもかかわらず、資本主義社会において、この範疇は自然の強制による社会的法則として働く場合がある。これは、後に見るように、資本主義的欲求体制の支配的欲求である必要な欲求の追加的規定となる。

一方、自然的欲求の対概念は「文化的欲求」、もしくは「社会によってつくりだされる欲求」(durch die Societät geschaffnen Bedürfnissen)である(MEGA2 II/1.1, S.30.)。自然に、社会によってつくりだされる欲求は「経済的形態規定」の内部にある徹底した社会的欲求である。すなわち、この欲求の充足(外延)だけでなく、この欲求の中身も社会的である。社会によってつくりだされる欲求は、欲求充足の社会化――とりわけ自然的欲求の充足の社会化――の必然的な産物である。

欲求の(自然性と対立するという意味での)社会性という側面で「文化的欲求」、もしくは「社会によってつくりだされる欲求」から区別されているとはいえ、どの種の歴史的欲求[歴史的欲求の規定は第二章冒頭を参照]も必然的に自然的欲求の範囲を含んでいる。というのは、人間の社会的・歴史的存在は人間の生物学的存在を前提しなければならないからである。

まさに自然的欲求のカテゴリーにおいて、直接的欲求と社会的欲求との最後の違いが現われる。それは、自然的欲求そのものは経済的形態規定の対象であるが、この欲求の充足は特定の社会的歴史的条件に依存し、したがって、自然的欲求は社会的法則として経済関係に影響する場合があるからである。

性質上、共同体―団体的欲求体制の中心的欲求である直接的欲求はほかの社会的欲求より、その内的構成(自然的欲求と文化的欲求の相対的割合)において、自然的欲求の部分をより多く含有している。というのは、文化的欲求は社会的分業の体系の発展の結果であり、歴史的に、社会的分業の体系の高度の発達によってつくりだされる欲求のほとんどは間接的欲求である。(注9)

しかし、直接的欲求はただその内的構成において、相対的により多くの自然的欲求によって構成されている点で、他の社会的欲求、とりわけ必要な欲求と区別されているだけではない。直接的欲求のなかで、いわば純粋に人間の生物学的必要から生まれるとはいえない部分、もしくは今日では「文化」と呼ばれる構造によって規定される部分――たとえばイニシエーション、祭り、祭祀や儀礼などへの個人的、もしくは団体―共同体的必要――も、厳密にいえば、「文化的」と「自然的欲求」、双方の性格を持っている。

というのは、原始社会の人々の「物質」もしくは「経済」への考えは、今日では「精神」や「イデオロギー」、もしくは「宗教」として捉えられる要素を含んでいる。ゆえに、彼らの考えのなかで、こうした今日では明らかに「非生産的」もしくは「非経済的」(注10)活動は、彼らの文化的欲求を満たすことで、いわば文化的欲求の媒介を経て、彼らの自然的欲求の充足に行われている。したがって、厳密的に、自然的欲求を文化的欲求から区別される生理的欲求とみなすマルクスの規定を、原始的共同体に適用するのは不適切なことである。

自然的欲求は文化的欲求ではなく、社会によってつくりだされる欲求、すなわち社会的分業の発展によってつくりだされる欲求の対概念であって、共同体―団体的欲求体制以外の欲求体制においてはじめて文化的欲求の対概念とみなされうる範疇である。

Ⅱ.中心的欲求と支配的欲求

欲求の社会的構造、およびもっとも肝心な社会的欲求への規定を明らかにした現在、本稿ははじめて「欲求体制」のコアの概念群――中心的欲求と支配的欲求――の規定に触れることができる。

第三章(本稿のIII)で詳しく述べるが、社会的欲求、もしくは社会的欲求が媒介する欲求の社会的体系は欲求体制の積極的な構成要素である。とはいえ、特定の欲求体制において、こうした積極的な構成要素は同時に基本的な(fundamental)構成要素とは限らない。すなわち、ある欲求体制の中心的欲求と支配的欲求は必ずしも同一の欲求のカテゴリーとは限らない。人類史における最初の欲求体制――共同体―団体的欲求体制はそうである。

また、ある欲求体制の中心的欲求もしくは支配的欲求は複数の欲求体制をまたがって能動的な役割を発揮する場合がある。歴史的欲求は、それが存在しているいくつかの欲求体制において現われている共通な性格とは別に、それが中心的欲求もしくは支配的欲求である欲求体制において、より独自な性質を有する場合がある。ゆえに、歴史的欲求の一般的類型学とは別に、特定の欲求体制の中心的もしくは支配的欲求である歴史的欲求の追加的規定を考察する必要が出てくる。

1. 直接的欲求の追加的規定:共同体―団体的欲求体制の中心的欲求

第一章(本稿のI)の冒頭で言及された直接的欲求は非常に普遍的な歴史的欲求である。「普遍的」というのは、それが複数の地域や社会形態をまたがるだけでなく、これまでのすべての欲求体制をまたがって存在しているからである。

歴史的欲求である直接的欲求への考察に入る前に、本稿の議論が依拠しているマルクスの「直接的欲求」の範疇について少し触れておきたい。マルクスは「直接的欲求」という用語のほかに、「個人的欲求」、「直接的必要」、「自己必要」、「生活欲求」などの表現を用いたことがある。ほとんどの場合、マルクスの文脈に現われている「直接的欲求」の含意は、第一章のように類型学的に、欲求充足の直接性と間接性に立脚する、「社会的欲求」一般と対立する「直接的欲求」一般である。

しかし、「直接的欲求」へのマルクスの規定はじっさい、二重に与えられている。それは欲求充足の直接性とは別に、生産そのもの(とくに生産諸手段)への欲求と対立する意味での生活そのものにたいする欲求を指している(MEGA2 II/1.2, S.42, S.585.)。この第二の規定において、直接的欲求というカテゴリーは生産の動機は個人的欲求の直接的充足にある社会の歴史的形態を示唆している。

「直接的欲求」へのマルクスの第二の規定はまさに資本主義的欲求体制に先行する欲求体制の中心的欲求としての特殊な規定である。

とはいえ、直接的欲求は共同体―団体的欲求体制の中心的欲求であっても、その欲求体制の支配的欲求ではない。というのは、前で述べた通り、直接的欲求の範囲は一般に共同体や団体の境界を超えることはなく、したがってそれが能動的に一つの社会的[]欲求体制を構成することはない。

資本主義に先行する欲求体制の中心的欲求である直接的欲求は、その欲求体制のいくつかの特徴を色濃く反映している。

第一に、資本主義社会に先行する社会形態では、「使用価値のための、直接的自己需要のための(für den unmittelbaren Selbstbedarf)、生産が優勢」(K.III, S.839.)である。この「直接的使用価値のための、生産者たちの自家使用のための生産」(K.III, S.589.)は、「生産物はつくるが、商品をつくりはしない」(MEW, Bd.16, S.123.)。商品生産が例外的に行われているというのは、それは個人的欲求のなか、直接的欲求のための生産によって充足されていない部分のために行われ、したがってこの非常に限られている部分によって量的に制限されている。全体的に、生産のほとんどは直接的生産者の個人的欲求のために行われる。自然に、生産の限界は個人の欲求の充足によって制限される

第二に、欲求は質的にも量的にも分割されている。資本主義的欲求体制における平等な市民同士の社会的欲求と異なり、前資本主義社会(一部の採集―狩猟社会を除いて)の欲求はまずは生産的階級と不生産的階級の分割、続いて従属的階層と特権的階層との分割に応じて、質的に分割されている。たとえば、中世の西欧社会では直接に個人的欲求のための生産か、領主や共同体のためのサービスとしての労働が支配的であり、これらの労働の「役だちやその生産物によって」不生産的諸階級の「個人的な欲望」(K.I, S.647.)(注10)が満たされるが、不生産的諸階級のなかでの特権階級は他の階級に持つことを許されない奢侈的欲求を持っており、その充足は高度な専門性を持つ熟練労働に依存するところが多い。この奢侈的欲求のための生産に従事する労働者の個人的欲求は確かに自己の労働で充足されていないがゆえに、直接的欲求ではない。しかし、この(特権階級のための)生産は社会的な規模で行われておらず、それに応じてこのような専業に従事する労働者の数も非常に限られている。ゆえに、彼らの欲求は当時の欲求体制においては直接的欲求の例外(あるいは補充)でしかない。しかし、これらの労働者が領主や国王にサービス労務を提供する隷属民ではない場合、すなわち彼らは商人(問屋)のために働き、問屋が彼らの労働所産、彼らの個人的欲求および特権階級の欲求を媒介する場合、これらの労働者はすでに伝統的なサービス関係から逸脱し、したがって(商人資本に媒介される)彼らの欲求は、資本主義的欲求体制における労働者の必要な欲求への過渡となる。

第三に、しかしやはり、資本主義に先行する社会形態では、問屋のために働くケースはごく例外的なものである。一部の自由都市、共同体の境界において、社会的欲求のための生産は商人や商人資本によってある程度まで発展させられているとはいえ、商人と商業活動が厳しく制限されている自給自足の農村や、労働力の供給と商品の販売権を同職組合に支配・独占された都市、政治―宗教的特権階級が強力な影響力と強制力をもつアジア的国家と社会では、直接的欲求のための生産は、真の普遍的な社会的欲求――ただの共同体や団体の共同的欲求ではないもの――のための生産を除斥する傾向がある。直接的欲求のための生産の堅牢さは、真の社会的欲求のための生産の拡大にとっての「負の因果性」的制限となる。資本主義的経営の試みはブローデルのいう通り、十回中九回まで赤字の決算となる(ブローデル 1988: 98)。

2. 必要な欲求としての社会的欲求

いくつかの過渡的欲求体制において、直接的欲求ではなく、必要な欲求でもない特殊な型の社会的欲求が、一時期に欲求体制の中心的欲求もしくは支配的欲求になったが、差し当たり、われわれの主な関心は欲求体制の中心的欲求であり、資本主義的欲求体制における中心的欲求である必要な欲求の範疇である。

資本主義的欲求体制においての必要な欲求は実は二種類に分かれている。資本主義的欲求体制の中心的欲求は労働者の階級としての必要な欲求(略称「労働者の必要な欲求」あるいは「必要な欲求」)であるが、その支配的欲求は資本家の階級としての必要な欲求(特別に言及されていないかぎり、それを「資本家の必要な欲求」あるいは「(資本の)価値増殖欲求」と略する)である。

必要な欲求は労働者個人の欲求ではなく、彼の階級としての欲求であり、労働者個人がその可除部分を受け取ったに過ぎない(資本家の必要な欲求も同様であり、それは資本家の個人的必要を反映するものではなく、その資本家が持つ資本量によって規定されている)。ゆえに、必要な欲求は間接的欲求であり、社会的欲求の一種である。必要な欲求が他の社会的欲求と区別されるのは、その欲求の充足が資本主義的生産と分配の仕組みによって媒介されているからである。

また、同じ理由(欲求の充足が資本主義的生産を介して行われなければならない)により、資本主義的欲求体制において、「支配的欲求」という範疇がはじめて完全に成立している。欲求体制における中心的欲求は欲求体制の主な欲求の型であり、その欲求体制の社会力学的性質を規定する欲求である。それに対して、欲求体制の支配的欲求は欲求体制を構成する積極的要素であり、欲求体制における他のあらゆる欲求の中身およびその充足の仕方(外延)を規定する(注11)ものでなければならない。

差し当たり、本節は中心的欲求である労働者の必要な欲求に着目し、それがいかに支配的欲求である資本家の必要な欲求に支配されているかを次節で考察する。

いわゆる(労働者の)必要な欲求は、「食物や衣服や採暖や住居などのような自然的な欲望」のほかに、「一国の文化段階によって定まるものであり、ことにまた、主として、自由な労働者の階級がどのような条件のもとで、したがってどのような習慣や生活要求をもって形成された」……[かという]「歴史的な精神的な要素(ein historisches und moralisches Element)を含んでいる」(K.I, S.185.)。

同じく、必要な欲求の充足によって再生産される労働力、その価値構成の要素では「一つは主として生理的な要素、もう一つは歴史的ないし社会的な要素である」。労働力の価値の、したがって必要な欲求のこの二つの要素において、自然的欲求の部分が「生理的要素」として「労働力の価値の最低の限界」を決定する。「これらの必要欠くべからざる生活必需品の価値が、労働の価値の最低の限界となっている」。(MEW, Bd.16, S.147.)

「こうした純然たる生理的要素のほかに、労働の価値は、どこの国でも、伝統的な生活水準によって決定される。この生活水準は、純然たる生理的な生活ではなく、人々がそこに住み、そして育てられる社会的諸条件から生じる、一定の欲望の充足である」。たとえば、「イングランドのいろいろな農業地域の平均賃金は、それらの地域が農奴制の状態から脱したときの事情のよしあしに応じて、今日でもなお多少ちがいがある」。(MEW, Bd.16, S.148.)

「歴史的伝統と社会的慣習」が労働者の必要な欲求の形成にたいする「重大な役割」は、労働力の価値に規定される労賃と労働日にも反映されている(K.I, SS.246-7.)。

残念ながら、労働力の価値規定、もしくは労賃及び労働日における「歴史的精神的な要素」はこれまで過小評価され、経済的形態規定の一部としてみなされているとは言えない。賃労働を研究するほぼすべての研究者は『資本論』の第一巻に現われている労働力の価値規定をマルクスの唯一の出発点と勘違いして、必要な欲求の規定的役割を看過した。

しかし、そのタイトルどおり、『資本論』の第一巻が与えた労働力の価値規定は「資本の生産過程」にとっての必要な形態規定であり、社会的使用価値の一種である労働力の再生産過程にとって充分の形態規定とは言えない。というのは、労働力という特殊な社会的使用価値の再生産は、他の社会的使用価値と異なり、ただ社会的生産過程ではなく、社会的再生産のほかの諸契機(流通、分配及び消費過程)をも通過しなければならない。ゆえに、直接的生産過程の諸結果ではない労働力商品を考察する際、われわれは視野を「資本の生産過程」から、「資本の生産過程」の前提をつくる「資本主義的生産の総過程」に広げなければならない。

マルクス(MEGA2 II/3.2, S.614.)が指摘したように、労働力という特殊な商品の再生産は、その再生産にとって必要な生活手段の生産のほかに、「生産的でなく部分的には消費費用にはいる多くの機能」を必要とし、これらの機能は社会的生産過程ではなく、社会的流通、分配や消費過程に依存するところが多い。労働力の再生産にとって必要なこれら諸契機は、いずれも労働者の必要な欲求の範囲に反映される。この範囲は前述のように、「歴史的な精神的な要素」という柔軟な部分を含んでいる。ゆえに、労働力を再生産するための必要な社会労働によって規定される労働力の価値を考察する際、労働者の必要な欲求にかんする欲求理論の構築が前提である。

3.  必要な欲求の追加的規定:支配的欲求である必要な欲求

資本主義的欲求体制において、資本家の必要な欲求(あるいは資本の価値増殖欲求)の支配は、機械制に基づく拡大再生産(資本のもとへの労働の実質的包摂)を前提にするものである。この独自な資本主義的生産では、「経済的合理性」が「法則」として、社会のあらゆる階級に強制される。その結果、労働者の様々な欲求は無論のこと、資本家の個人的欲求も、そのなかで「社会的に必要」に相当する部分だけが「合理的」あるいは「必要」と認められ、「階級として」の間接的欲求に認められる。また、「必要」と認められるかぎり、その欲求の充足は資本主義的社会の分配と再分配の仕組みを介して、充たされる。

このような「法則」は資本の蓄積と労働力の再生産までに全面的に適用させられる時点で、資本家の必要な欲求が資本主義的欲求体制における支配的欲求となる。

資本家の必要な欲求の「支配的」特徴を詳しく考察しよう。支配的欲求は、当然のことに、他の欲求より優越な欲求である。しかし、資本家の必要な欲求の「優越性」は、それが他の欲求より優先的に充足されるだけに留まるものではない。資本主義的欲求体制において、個人の欲求の充足手段は社会的であるがゆえに、あらゆる個人的欲求は社会的欲求(社会に媒介されている欲求)である。資本家の必要な欲求の「優越性」は、あらゆる社会的欲求が自分に従属させられ・規定されていることにある。というのは、労働者は自分の欲求を充足させるためには資本の価値増殖欲求のために働かなければならないだけでなく、労働者の欲求充足そのものもまた資本の価値増殖欲求の一つの契機にされている。資本家の個人的欲求の充足も、資本の価値増殖欲求の充足を妨げない程度に抑えられなければならない。

資本家の必要な欲求はこうして労働者の必要な欲求と必然的に結ばれているのは、資本主義社会での労働力が一つの社会的使用価値であって、社会的欲求の対象だからである。そして、特殊な社会的使用価値である労働力はちょうど、資本の価値増殖欲求という社会的欲求の対象である。その労働力の維持は、前述のように、資本主義的欲求体制が成立する時点で、「合理性」あるいは「必要性」の法則は労働力の再生産に支配するようになるため、労働者の必要な欲求によって規定されている。

さらに資本主義的欲求体制における資本の価値増殖欲求の「支配」は、ある量的規定性を持っている。それは、資本主義社会では欲求が市場と貨幣によって二重に媒介されているため、支払能力を有さない欲求は市場に媒介されない。ゆえに、主流派経済学が愛用する「需要」の範疇は、スミスや多くの古典派経済学者(もしくは近代経済学の古典伝統)が気づいているように、社会的欲求の量によって規定されているのではなく、支払能力がある社会的欲求の量によって規定されている。

資本の価値増殖欲求の充足は、剰余価値の貨幣としての実現を持ってはじめて完了するので、その充足は労働者からの需要を求める。労働者からの需要はかれらの労賃に依存し、根本的に彼らの必要な欲求の量に規定される。故に、支配的欲求である資本家の必要な欲求にたいする考察も、中心的欲求である労働者の必要な欲求への考察も必然的に労働力の価値、または労働日と労賃への考察と関連付けて行われなければならない。このことが原因で、中心的欲求である労働者の必要な欲求への考察は前節で優先され、資本家の必要な欲求の「支配」はこの節の課題になった。

資本家の必要な欲求がこれまでの欲求体制における唯一の支配的欲求になりえたのは、それが社会のすべての階級に課せられる「法則」として、競争の仕組みによって強制されているところにある。

むろん、資本主義的欲求体制における「合理性」あるいは「経済性」という社会「法則」はあらゆる社会形態に共通する普遍的な経済的「法則」ではない。直接的欲求を中心とする共同体的・団体的欲求体制においても、労働力(あるいは労働時間)の節約という直接的生産者の生産労働を制限する「法則」が存在する。しかし、生産手段と自分自身の労働力の使用権を支配できる未開社会の経済主体(注12)にとって、生産活動の社会的側面は団体の意志によって制御されるものである。

とはいえ、団体の意志によって制御できない生産活動の自然的側面も存在する。それは彼らにとっての外的強制であり、この「経済」の領分が彼らに課せられる強制は彼らの生産活動の最低限(生理的限界)として、彼らの自然的欲求(注13)として現われる。この生理的限界のほか、個体としての未開人の労働時間を規制する社会的・文化的限界もある。たとえば、団体的・共同体的欲求を充たす祭祀・儀式、またその儀礼的交換(注14)のための生産物への必要も社会的強制として、彼らの最低労働時間を規制する。

しかし、この社会的強制は経済的法則として、彼らに課せられる外的強制ではない(注15)。というのは、これら共同的欲求による社会的必要は量的に調整できる限度のあるものであり、質的にもやはり生産階級の個人的必要に関係するものである。ゆえに、この社会的強制は共同体経済という社会形態に内在する内的強制であることは、共同体を構成する諸個人が理解できる。

中世の封建経済においても状況は変わらない。個人は相変わらず社会的強制によって労働しなければならない。国家と領主からの租税などを納めるほか、彼らは領主に対しても「僕婢奉公の義務Gesindezwangsdienstを負わされた」(ウェーバー 1973: 210-1)。これらサービス労働の量は共同体の政治―宗教的必要ないし特権階級の偶然な欲求によって変動するが、この労働への強制は「経済外的な直接的な強力」によって守られているものであり、したがって資本主義的欲求体制のような「経済的諸関係の無言の強制」(K.I, p.963, S.765.)ではない。ゆえに、この強制は社会的法則として支配される側に課せられる外的強制ではなく、支配する側によって課せられ、中世の身分等級制に依存する内的強制である。支配する側を倒し、身分的等級制度を覆すことでこの内的強制を解除できる。

しかし資本主義的欲求体制において、労働者の階級としての必要な欲求――労働力の価値を質的な面においても量的な面においても規定するこの欲求が、資本の必要な欲求(価値増殖欲求)に従属させられることで、資本家の個人的欲求によって制限されているようには見えない。というのは、純粋な資本主義的欲求体制において、労働者の必要な欲求の対象範囲によって規定される労賃は、等価交換の原則、労働力商品を含むあらゆる商品の価値量を規定する原則――商品の価値量はこの商品の再生産にとって社会的に必要な労働時間によって規定される――によって「合理的」に定められ、その「合理的」な水準を労働側も資本側もただ受動的に受け入れているように見える。

労働者の必要な欲求の充足は資本の必要な欲求を充足する一環であり、労働者の自身のための労働は彼の資本家のための役立ち(サービス)の一環である。ゆえに、労働者が資本の必要な欲求を充足するために必要な労働を供与している事実が、彼が自分の必要な欲求の充足にとっての「必要な」労働時間を働かなければならない形態を呈している。要するに、労働者の「必要な欲求」の「必要」(notwendig)は、資本に押し付けられた資本の「必要」であり、労働者個人または労働者階級にとっての必要ではない。というのは、労働者が提供した「必要な」労働量は、労働者の必要な欲求の対象を生産するのに必要な労働量よりはるかに多いからである。労働者が提供する「必要な」労働量は、資本の必要な欲求の充足に規定される労働量である。

しかし資本主義的欲求体制において、労働者の必要な欲求が資本の必要な欲求に従属させられること、また資本主義的経済における「必要」が労働者にとっての「必要」ではなく、資本にとっての必要であることは、価値の法則と等価交換の原則という「平等」かつ「自然」な規則の背後に隠れている。結果、本来支配する側による強制は、労働者階級と資本家階級双方に課せられる平等な義務として、階級関係の外部にある「外的強制」として、支配する側と支配される側によって自発的に貫徹される。

この自発性のゆえに、資本主義的欲求体制におけるあらゆる社会的欲求の資本の必要な欲求への従属は一種の経済的必要(「合理化」の必要)あるいは経済的「法則」――われわれはそれを必要な欲求の「法則」と名づける――として、真実の転倒された形として現象する。

とはいえ、われわれが知ったように、必要な欲求の「法則」はどんな社会的形態でも成立する真の社会的法則、あるいはあらゆる社会形態に依存しない真の自然的法則と異なり、資本主義的欲求体制に依存し、資本主義的欲求体制にかぎって有効である擬似法則(注16)である。この「法則」はどのように擬制され、擬似法則の有効性はどのように他の外部的諸契機に依存するかは必要な欲求の範疇にとっての追加的規定であり、それを明らかにすることは経済科学の正しい任務と言えよう。

まず第一に、必要な欲求の「法則」の有効性は、直接的生産階級の個人的欲求の充足が社会的分配過程に媒介される度合いに関連する。というのは、資本主義的欲求体制に先行する、直接的欲求を中心とする欲求体制において、生産者の欲求を個別な生産過程を通じて直接に充たすことができる。ゆえに、直接的生産者の個人的欲求の充足が他人の欲求の充足を前提にしなければならない状態にない。言い換えれば、必要な欲求の「法則」を成立させるためには、まず直接的生産者の欲求の充足が他人の欲求の充足に依存する状態をつくらなければならない。要するに、直接的生産者の個人的欲求を社会的欲求(必要な欲求はその一形態に過ぎない)にしなければならない。この場合、直接的生産者の欲求の充足は社会的分配過程(総生産物の各社会階層のあいだの配分)に媒介される。

資本主義的欲求体制において、社会的分配過程の仕組みを決定するのは階級間の、および支配階級である資本家階級を構成する内的諸階層の力関係である。直接に労働を搾取する個別資本、およびその資本に搾取される特定な労働者がこの社会的分配の仕組みを決定しているわけではない。個別の労働者は、ただ社会的総生活手段のなかで労働者の階級としての必要な欲求に応じて割り当てられた部分の可除部分を受け取ったに過ぎない。個別の資本も、ただ総剰余生産物のなかで投下資本(capital bestowed)の額に応じて配分される平均利潤を受け取ったに過ぎない。

直接な搾取過程と搾取の結果との分離は支配の事実を隠蔽し、あたかも個別な労働者と個別な資本が市場経済の「法則」に与えられた分け前を公平に受け取ったような外観をつくった。直接な搾取過程と搾取の結果との分離は個人の直接的欲求の、市場メカニズムに媒介される間接的欲求(社会的欲求)への転換の結果といえよう。

第二に、必要な欲求の「法則」の強制力は、支配階級である資本家階級がどの程度まで自己の必要を労働者階級が提供すべき「必要な」労働量として、労働者の階級としての「必要」として、労働者階級全体に押し付けられるか、それによって担保される。(注17)資本は、労働手段を直接的生産者から取り上げ、生産過程を資本の生産過程にすることで、労働者に剰余労働を強いる。直接的欲求のための生産と異なり、資本主義的生産の目的は剰余の取得による資本の生産にあり、取得される剰余の最小限は存在しない。(MEW, Bd.16, p.150, S.149.)

ゆえに、資本主義的生産は生産者の直接的欲求の満足をはるかに超える剰余生産を要求する。生産過程が終了したあと、労働者階級ははじめて自分が生産した社会的総生産物のなかで、自分の必要な欲求の対象の範囲に相当するものを配分される。この意味において、剰余労働と剰余生産が必要労働および必要生産の概念よりも論理的に先行する。結果的に、必要のための生産が剰余のための生産に従属される状態は、資本家階級の絶対的優位を反映し、必要な欲求の「法則」の強制力を担保する。

とはいえ、この強制力――労働者が資本家のために提供する剰余労働には限度がある。この擬制法則は真の法則に制限されているからである。というのは、剰余労働の最小限を決定する法則は存在しないが、その最大限を規制する法則は存在する。第二章第二節で述べたように、自然的欲求は人間の自然界における位置によって客観的に規定される範疇であり、その範疇に真の自然的法則が反映されている。自然的欲求の充足は労働力の正常な再生産にとっての必須条件であるため、いかなる生産形態においても前提である。

資本主義的欲求体制において、自然的欲求の充足は一方には社会的生活手段の提供に依存し、したがってこれら社会的生活手段と交換するための労賃――労働者の必要な欲求によって規定されるもの――は人間の自然的欲求(あるいは生理的欲求)の充足にとって十分な額でなければならない。他方、どの商品の再生産にも時間がかかると同様、労働力という商品の再生産には、その再生産に必要な「生産手段」である社会的生活手段のほかに、一定の「生産時間」――人間の労働能力の回復にとって必須な余暇を必要とする。したがって労働者の自然的欲求は労働日の生理的最大限をも規定する(MEW, Bd.16, p.150, S.149.)。

この自然的法則による規制とは別に、必要な欲求の「法則」の強制力はある社会的法則によっても制限されている。それは労働力という特殊な商品はほかの商品とは異なり、「ただ生きている個人の素質として存在するだけ」(K.I, p.223. S.185.)である。そして人間は社会性を持つ動物であり、自己の生理的属性を維持する自然的欲求以外に、自己の社会性を維持する文化的・精神的欲求をも持っている。人間は動物体としての自己だけでなく、社会体としての自己を維持するために必要な文化的・精神的欲求の充足は、賃金の文化的最低限と労働日の文化的最大限を決める。

資本家は賃金をその文化的最低限まで引き下げ、労働日をその文化的最大限までのばそうとたえずつとめており、「これにたいして労働者はそれと反対の方向にたえず圧力をくわえている」。最終的に、賃金の現実な変動は「資本と労働とのたえまない闘争によってはじめて決ま」り、「事態はけっきょく闘争者たちのそれぞれの力の問題となる」(ibid., S.149.)。

第三に、必要な欲求の「法則」の擬制は資本のもとへの労働の形式的包摂から始まり、資本のもとへの労働の実質的包摂の完成をもって完結する。

資本のもとへの労働の形式的包摂、したがって「売り手を買い手への経済的従属に陥らせるのは、買い手が単に労働諸条件の所持者だからであって、けっして政治的・社会的に固定された支配・従属関係のゆえではない」(MEGA2 II/4.1, p.228, S.97.)。この形式的包摂は、支配者と被支配者とのあいだの超経済的支配関係を「剰余労働を領有する者とそれを提供する者とが純粋な貨幣関係」(ibid.)にする。結果、「経済的諸法則が、一方では社会全体を支配しながら、他方ではその純粋に経済的な能力によって、したがって経済外的な諸要因の助けをかりることなしに《純粋な自然法則》として自己を貫徹しうる」(ルカーチ 1991: 379.)。

とはいえ、手工芸の熟練が労働過程の結果を大きく左右できるほどの重要性を持つかぎり、たとえば初期の資本主義的マニュファクチャーにおけるように、熟練はこの経済的「法則」の貫徹を制限し、労働者の欲求の資本の必要な欲求への完全な従属を制限する。熟練がもたらす生産性の向上は資本の包摂によって発展させられた労働の諸形態に依存しない。それは熟練工の生産性として現われ、資本の生産性として現われていない。この制限は機械制大工業の普及によって取り除かれる。(MEGA2 II/3.6, p.412, S.2161.)

もし、労働のサービス形態の資本主義的形態への転換、あるいは資本のもとへの労働の形式的包摂は、労働過程を同時に資本主義的生産過程、すなわち資本の価値増殖過程にし、労働の果実を資本の果実にすることで、労働の生産諸力の向上を資本の価値増殖の一環にするための前提をつくったとすれば、機械制大工業に基づく「独自に資本主義的な生産様式」、あるいは資本のもとへの労働の実質的包摂ははじめて技術的合理性を資本の価値増殖の条件にし、労働をその技術的合理性に従わせた。この「独自の資本主義的な生産様式」において、資本による労働の強制は技術的合理性による労働の強制に化したことで、資本―賃労働関係に外在する強制のように見える。このときからはじめて、必要な欲求の「法則」が完全に成立し、その「法則性」の有効性が完全に認められる。

「法則」に従い、あらゆる社会的欲求の資本の必要な欲求への従属、したがって社会再生産のあらゆる契機の資本主義的生産への従属が進行しつつある結果、資本主義的生産に支配される社会の下部構造のあらゆる上部構造に対する絶対的優位が成り立つ。資本家階級の、この「法則」の有効性への動かない信仰は、「資本主義社会の自己認識を意味する……ブルジョア社会とその経済的構造の理論」(ルカーチ 1991: 378)としての史的唯物論(上部構造と下部構造との間の強い構造的因果性を描く理論)の有効性を担保する。(注18)

とはいえ、「独自に資本主義的な生産様式」がまだ社会的再生産のあらゆる諸契機を完全に支配するまえに、必要な欲求の「法則」はただ近似的に成立したに過ぎない。この擬似法則の有効性はさまざまな歴史的・社会的条件に影響される。これら歴史的・社会的条件の一つは「闘争者たちのそれぞれの力」(MEW, Bd.16, p.150, S.149.)である。

Ⅲ.続き:欲求体制の諸規定

今回の報告から省略。目次のみ掲載

1.  欲求体制と生産(労働)体制との対応関係

2.  欲求の社会的体系の類型学

                 2.1 直接的欲求は欲求の社会的体系の積極的な構成要素ではない

                 2.2 規制される欲求の社会的体系1:共同体が媒介する部落間のポトラッチ

   2.3 規制される欲求の社会的体系2:酋長制・家産制国家が媒介する生産物の再分配

   2.4 規制される欲求の社会的体系3:ツンフトなど諸団体が媒介する都市と農村との交換

2.5 積極的な欲求の社会的体系1:特殊資本としての商人資本が媒介する商業のための生産

2.6 積極的な欲求の社会的体系2:問屋制度、家内工業とプロト工業化

2.7 必要な欲求が支配する非典型的な欲求の社会的体系1:再版農奴制

2.8 必要な欲求が支配する非典型的な欲求の社会的体系2:植民地支配

3.  過渡的欲求体制:支配的欲求の変質もしくは交代

4.  資本主義的欲求体制:まとめ

5.  資本主義的欲求体制の追加的規定:必要な欲求の支配の(不生産的諸部門への)拡大

6.  必要な欲求が支配する非典型的欲求体制:指令型計画経済

IV.続き:歴史的欲求の動的理論:欲求体制の移行

これまでの欲求体制――共同体―団体的欲求体制およびさまざまな過渡的欲求体制において、能動的な欲求(社会的欲求)と消極的な欲求(直接的欲求)の区分はあるが、一般に消極的欲求は能動的欲求の充足にとっての妨げである。ゆえに、「支配的欲求」という範疇の成立、あるいは資本の必要な欲求が支配的欲求になるには、その欲求の充足にとっての妨げである元の欲求体制における消極的欲求を一掃しなければならない。

注釈一部

注3:厳密に言えば、「過渡的欲求体制」は一つの形容矛盾である。「過渡的」という形容語は、欲求体制の特徴である固定性と矛盾する流動性を内包しているからである。方便のために、本稿において、元来の欲求体制が解体しつつあるが、新しい欲求体制がまだ完全に確立されていないあいだの状態を「過渡的欲求体制」で指しているが、それは後に見るように、欲求体制の三つの歴史的形態という具体的な状態ではなく、この三つの形態の間の過渡的状態の総称である。

注5:労働者の個人的欲求の充足度の一般条件を規定するのは、彼の(資本家のための)生産的労働ではなく、彼の労働力価値であって、彼の階級としての必要な欲求の範囲である。

注9:マックス・ウェーバーが指摘した、大規模な灌漑の需要から生まれるアジア的官僚制国家は数少ない例外の一つである。こうした例のほとんどは、『人間の経済』においてカール・ポランニーが提起した三つの社会の「統合形態」のうちの「再分配」に該当する。とはいえ、階層化の発展により、直接的生産者のこうした共同的労働への反対給付が徐々に減少することは普遍的な現象で、直接的生産労働の支出と直接的生産者が受けた反対給付のあいだの量的規則性が喪失する時点で、その労働はもはや彼の直接的欲求の充足のために行われているとは言えなくなる。

注10:サービスとしての労働にかんして、マルクスはそのなかの「用役給付(Dienstleistung)」を「直接的諸欲求をみたすための……の労働」(MEGA2 II/1.1, S.196.)と述べているが、現物サービス(Naturaldienst)も同様に直接的欲求をみたすための労働である。

注11:この特徴が支配的欲求のもっとも重要な形態規定である。というのは、共同体―団体的欲求体制においても、支配階級の欲求の充足は、直接的生産階級の直接的欲求の充足を優先する。ただし、前者が後者の充足範囲および充足の仕方を規定していない。
また双方の充足も、欲求体制そのもの(多くの場合、それは今日では「上部構造」――当時では必ずしもそうではないが――と呼ばれている構造に規定されているもの)に制限されている。このことは一般に欲求の質的差異――異なる地位、階級や身分を持つ者の欲求が質的に区別されている――として現われる。ゆえに、共同体―団体的欲求体制において、支配階級の欲求は直接的生産階級の欲求を完全に「支配」していない。この種の欲求体制には支配的欲求のカテゴリーは存在しない。
一方、資本主義的欲求体制における資本家の必要な欲求と労働者の必要な欲求のいずれも階級的欲求である。資本家の必要な欲求は労働者の必要な欲求の範囲と実現手段を規定するとともに、労働者の必要な欲求を、資本家の必要な欲求の充足の一つの契機にする。この意味において、資本家の必要な欲求は労働者の必要な欲求を「支配」している。

立川で学ぶ「ヨガの思想」

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(1)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(2)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(3)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(4)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(5)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(6)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(7)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(8)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(9)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(10)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(11)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(12)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(13)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(14)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(15)

バガヴァッド・ギーターの教え(ヨガの古典の経典を通してヨガを学ぶ)

バガヴァッド・ギーターの教え(ヨガの古典の経典を通してヨガを学ぶ)(2)

バガヴァッド・ギーターの教え(ヨガの古典の経典を通してヨガを学ぶ)(3)

バガヴァッド・ギーターの教え(ヨガの古典の経典を通してヨガを学ぶ)(4)

バガヴァッド・ギーターの教え(ヨガの古典の経典を通してヨガを学ぶ)(5)

バガヴァッド・ギーターの教え(ヨガの古典の経典を通してヨガを学ぶ)(6)

バガヴァッド・ギーターの教え(ヨガの古典の経典を通してヨガを学ぶ)(7)

バガヴァッド・ギーターの教え(ヨガの古典の経典を通してヨガを学ぶ)(8)

お勧めのヨガスタジオ

ヨガを定期的にレッスンしたい方や、豊富なバリエーションからヨガピラティスだけで無く、ボクササイズキックボクササイズHIITなどのエクササイズをしたい方には、立川駅徒歩1分、国内唯一の、イタリア溶岩石「バサルティーナ」を使用した、立川溶岩ホットヨガスタジオ「オンザショア」をおすすめしたいと思います。バサルティーナは火山石の中で最も美しい色調と流れがある溶岩石で、古代ローマの時代より建築家に愛されてきました。現在も国内外の有名ブランドや、美術館などにも好まれて利用されています。イタリア中部バーニョレッジョで採掘されるバサルティーナについて、また溶岩石の効果についてより詳しくお知りになりたい方はこちらをどうぞ!

スタジオ名立川エリア唯一の溶岩ホットヨガスタジオ「オンザショア」
住所〒190-0012 東京都立川市曙町2丁目14−10 エトロワビル 3F
TEL042-595-8039
事業内容溶岩ホットヨガ、ピラティス、キックボクササイズ、ボクササイズ、HIIT、バトルロープ、総合格闘技、パーソナルトレーニングなど
特徴50種類の豊富なレッスンと早朝から深夜まで開催しているヨガのレッスンなど
対応エリア立川、西国分寺、国分寺、国立、昭島、東大和、日野、青梅、あきる野、府中、武蔵村山、福生、羽村、八王子など
定休日年中無休
URLhttps://ontheshore.jp/

立川エリアで唯一の熔岩ホットヨガスタジオ「オンザショア」でアナタも今日からヨガを始めてみませんか?

ヨガとは

ヨガの効果

ホットヨガとヨガの違い

立川ヨガ 立川エリア唯一の溶岩ホットヨガスタジオ「オンザショア」

海辺でヨガをする女性 立川発イタリア溶岩ホットヨガピラティス専門スタジオontheshore
ヨガで健康で美しく

東大和市のおすすめのヨガスタジオ

日野市のおすすめのヨガスタジオ

国立市のおすすめのヨガスタジオ

昭島・拝島(中神・東中神)のおすすめのヨガスタジオ

立川のおすすめのヨガスタジオ

立川北口のおすすめのヨガスタジオ

青梅市のおすすめのヨガスタジオ

福生市のおすすめのヨガスタジオ

国分寺・西国分寺のおすすめのヨガスタジオ

武蔵村山市のおすすめのヨガスタジオ

八王子市おすすめのヨがスタジオ

立飛駅おすすめのヨガスタジオ

玉川上水駅のおすすめのヨガスタジオ

豊田駅のおすすめのヨガスタジオ

武蔵小金井のおすすめのヨガスタジオ

高幡不動駅のおすすめのヨガスタジオ

多摩センター駅のおすすめのヨガスタジオ

羽村駅おすすめのヨガスタジオ

武蔵境駅おすすめのヨガスタジオ

小平市おすすめのヨガスタジオ

小作駅おすすめのヨガスタジオ

府中本町駅おすすめのヨガスタジオ

あきる野市おすすめのヨガスタジオ

矢川駅おすすめのヨガスタジオ

谷保駅おすすめのヨガスタジオ

分倍河原駅おすすめのヨガスタジオ

三鷹駅おすすめのヨガスタジオ

吉祥寺駅おすすめのヨガスタジオ

西荻窪駅おすすめのヨガスタジオ

荻窪駅おすすめのヨガスタジオ

阿佐ヶ谷駅おすすめのヨガスタジオ

瑞穂町おすすめのヨガスタジオ

東飯能駅おすすめのヨガスタジオ

高尾駅おすすめのヨガスタジオ

相模原駅おすすめのヨガスタジオ

小宮駅おすすめのヨガスタジオ

多摩動物公園駅おすすめのヨガスタジオ

武蔵小杉駅おすすめのヨガスタジオ

所沢駅おすすめのヨガスタジオ

中野駅おすすめのヨガスタジオ

高円寺駅おすすめのヨガスタジオ

新宿駅おすすめのヨガスタジオ

渋谷駅おすすめのヨガスタジオ

池袋駅おすすめのヨガスタジオ

コロナ時代におけるスポーツの効果(スポーツ庁)

PAGE TOP
ご体験予約