マリア・テレジアおよびヨーゼフ2世の治世における初等教育政策

本研究は、マリア・テレジア(1740-1780)およびヨーゼフ2世(1765-1790)の治世における初等教育政策を、文化移転の観点から分析するものである。この分析により、従来の研究史上で指摘されてきた、カトリック・オーストリアの「遅れ」や、オーストリア啓蒙絶対主義の「特殊性」といった指摘に対して、新たな視点を提供することを目指す。特にプロテスタント・プロイセンを「基準」としたカトリック・オーストリアの「逸脱」という分析に対して、オーストリアを周辺化している議論への問題を指摘する。

分析対象である教育家フェルビガーは、教育の領域においてプロイセンからオーストリアへの文化の移転を行なった人物である。この文化移転の分析手法により、初等教育政策の分析からオーストリア啓蒙絶対主義を再考したい。

1.文化移転による研究手法

まず、本研究の分析手法として用いる「文化移転 (Kulturtransfer)」について、その研究史上での役割と、本研究における意義を記したい。

文化移転とは、異なる文化圏・国・地域の間での文化の移転のプロセスを、それを行なうアクターやメディアの分析を通して論じる議論の一種である。特に、移転先での文化の受容および選別のプロセスに焦点をあてることで、受け手側がどのように外来の文化を受け取り、アレンジをさせて自己の文化に取り入れていったのか、もしくは拒絶し、受け入れなかったのか。さらに、受容の際にどのように自己の文化を変容させ、変換して外の文化を受け入れたのか、を分析し、把握することである。[1] これはつまり、移転元のAから移転先のBへと文化が移転されていく、動的で通時的な過程を重視した分析の枠組みであるといえる。

文化移転の分析概念は、国際的ないし地域的な文化の意義を議論するものであり、その時代の人々の心性をも分析することができる概念として注目されてきた。歴史学において、文化移転を用いた先駆的研究として、1980年代にドイツとフランスの文化史学、独文学者であるエスパーニュやヴェルナーらを挙げることができる。彼らはドイツの歴史家ミッデルらとともに、フランスからドイツへの文化の影響、とくに18世紀から19世紀初頭のザクセンへのフランス文化の流入と浸透を分析することに文化移転を応用した。この一連の研究で文化移転が広く知られるようになり、独仏間だけでない広いヨーロッパ各地域間と、様々な時代の文化アイデンティなどの分析が行われていった。[2]

文化移転研究は、以下の手法によって分析がなされる。まず、移転先Bにおける文化受容の文脈における不足を確認する議論と、その特定された不足を補うために適していると思われる、異なる文化圏の文脈Aにおける、Bが受容した文化の模範、その発信者の特定を行う。次に、バイオグラフィー、職業、または文化的位置付け(多くの場合、文脈AとBに関連付けられた中間的な位置)により、文化受容に必要な伝達を行なうアクターの分析。特に仲介を行なうアクターの分析は、文化移転の性質とその範囲を検討するメディアとして重要であるといえる。さらに、Bへの文化の受容、その文脈における既存のモデルへの組み込みの過程を議論する。最後に、Aからの提案をBがどのように選別をして受容をしたのか、何を承認し、何を拒絶し、さらにアレンジを加えてBで受容するために文化を「発明(変換)」したのか、その多岐にわたる受容プロセスを分析することである。

この分析方法からもわかるように、移転元Aから移転先Bへ文化を移転する際、AとBでは様々な状況が異なるため、移転元の文化そのままを取り入れることはほぼ不可能であるといえるだろう。つまり、Bが受容を行なう際、以下の選別のプロセスが発生すると考えられる。まず一つ目に、Aでの文化をそのまま承認し、受容する。二つ目に、Aでの文化をBに適合した形にアレンジし、変化させたものを取り入れる。三つ目に、Bの状況に適合しないため、受け入れない。この受容・変換・拒絶の選別、そのための両者の双方向によるやりとり、さらに受容した文化が表面的な段階から内在化するまでの過程の分析が、移転先Bの文化を分析するために、文化移転が有効な議論の枠組みとして用いられる要因であるといえる。

さらに、文化移転研究を分析の枠組みとして用いることの利点として、「文化的傾斜」(Kulturgefälle)への批判を挙げることができる。ここでの文化的傾斜とは、特定の社会または体制の優位性が、その実態以上に先立って分析をされる状況のことをいう。これは、一方の分析対象を他方に対して優位的な立場に置くことで、両者を同等の立場として分析を行うことを不可能とし、一方を「基準」、もう一方を「特殊事例」として分析するというような、そこにまるで潜在的に上下関係や優劣(傾斜)があることを前提として分析を行う、という問題である。この文化的傾斜を克服するため、比較を行う両者の関係を分析する際、受容者側の受容の過程、特に外からの文化に対してどのような反応を示したのか、を重視し分析することができる文化移転は、その受け手側の文化の特質を多角的に分析することができるため、文化的傾斜の問題を乗り越えることができる議論として提示されている。[3]

さらに文化移転は、従来の比較史では分析をすることができない過程にまで議論を展開することができるとして、注目されている。比較と移転、それぞれの立場から歴史学、社会学の分析を行ったケルブレらの研究では、移転の議論は比較の議論と対立する場合もあれば、相互補完する手法として用いることができることを指摘している。後者の場合、双方の手法を併用する研究が成果を上げてきたことが論じられた。[4] 二つの分析対象における、すでに定着した文化を比較し分析を行う比較史と、一つの対象からもう一つの対象への動的なプロセスを通時的に分析する移転史は、相互補完の機能を担うといえる。文化移転研究を行う際には、まずは研究対象両者の比較研究が、前提として欠かせないプロセスの一つとなるといえるだろう。

このケルブレらのプロジェクトに参加したアイゼンベルクは、文化移転の研究で求められるのは、まず文化の動きの把握であり、次に、その動きを改革の源として分析することであるとしている。その文化の動きとは、外の文化の「発信者」からどのような刺激が発せられ、それが「仲介者」によってどのように受け手に合わせて変換され、最終的に「受け手」がその外の文化をどのように「固有の文化」として受容していくか、という過程を重視している。[5] つまり、比較史においては定着した文化の比較を行うが、文化移転史においてはその文化がいつ定着したのかは重要ではなく、むしろその定着の過程を分析するために有益であるといえる。

さらに文化移転研究においては、その分析対象の相互関連を分析するだけでなく、それを取り巻く研究分野の視点の相互の関連をも分析対象とする立場も示されている。文化移転を用いたトランスナショナル研究に尽力したウェルナーらは、文化の相互関連を分析することの重要性を指摘している。[6] ウェルナーらによると、孤立した単位として存在し、他の文化と絡み合わない、関連しない文化は存在せず、つまり、文化は常に相互に作用し、影響することによって変容していくと分析がなされている。この相互関連を分析するために、三つの段階が示されている。一つ目が、分析対象同士の相互関連、二つ目が、分析対象の見方を制御するさまざまな視点間の相互関連、三つ目が、その文化移転を分析する研究者の分析実践の相互関連が挙げられている。つまり、相互関連の分析を行う際には、従来の研究史における研究者の視点が内在化されていることを念頭に置き、分析を行うことで、潜在的な優劣性を批判的に分析するために、文化移転を用いることができることを指摘している。

この従来の研究史上における潜在的なバイアスは、例えば18世紀後期当時の「啓蒙された」ドイツ人による「遅れた」オーストリアの現状を嘆く旅の記録[7] のような史料を、批判的に分析を行わなかった従来の研究史によって発現したものである。したがって、そのような研究者側の分析視点をも議論の対象とすることで、より多角的な分析を行うことができる手法として、文化移転を活用したい。

2.研究背景

【分析対象】

本研究の分析対象は、マリア・テレジアおよびヨーゼフ2世の治世における初等教育政策である。マリア・テレジア以前のオーストリア・ハプスブルク君主国は、対抗宗教改革によるカトリック教会とイエズス会による文化・教育領域の独占により、「精神文化の発展が著しく遅れた後進地帯」として認識されてきた。マリア・テレジアは即位後、この「精神文化の後進性」の問題に着目し、精神的啓蒙を目指した教育改革に取り組む。その一つの成果が、1774年に制定された「一般学校教育令[8]」である。これは、すべての子供への統一的・画一的な教育を目指したいわゆる義務教育法であり、すべての学校が政府の管理下に置かれるという中央集権化を学校制度に導入した。初等教育機関として、従来の教会付属の学校に代わり、規範学校・高等小学校・下級学校の三種類に分類した。[9]

この改革の性格はその他の啓蒙絶対主義的改革と同様に、統治システムの効率化を目指した絶対主義的・中央集権的な官庁・官僚国家の確立を目指す改革の一つであった。これにより「国家のために生き、国家にとって有益な存在となる」ことを目指した「臣民教育」が成立することとなる。これは教会の支配力を排除し、国家管理と中央集権化を徹底することで、教育の領域における世俗化への第一歩を踏み出すこととなった。[10]

この時代のオーストリアは啓蒙絶対主義と称されるように、新たな諸改革を導入するために啓蒙思想が用いられた。その際オーストリアにおいては、啓蒙思想は本来の近代的自然科学・合理主義といった性格が歪められ、絶対主義支配を合理化するための思想的な「道具立て」としてのみ受容された。この結果、理性の力を通じて人間を伝統と盲信から解放しようとする啓蒙主義の理想と、国家にとって有益な民を組織的に養成しようとする専制的な目的の間で揺れ動く政策意識の下で諸改革は進められた。[11] したがって、オーストリアの啓蒙絶対主義は、あくまで国家の統治を円滑に行うための装置としてのみ受容され、従来のカトリックの教えと基本的には対立するものではなかったといえるだろう。

啓蒙絶対主義の諸改革において、教育改革はオーストリア啓蒙絶対主義の特徴を顕著に表す典型として挙げることができる。これは、教育改革がまさに前述した啓蒙思想の理想と専制的な目的の間で揺れ動く政策であるといえるからである。教育改革という急激な改革の導入を支える思想的基盤と人材をじっくりと育てる時間的余裕がなかったために、実際はすでに教育活動を行なっていた教会・聖職者を引き続き教育の担い手として活用するしかなかった現状があった。つまりこれがまさに、世俗化を推し進めながらも既存の宗教的組織・人材に頼らざるをえなかった啓蒙絶対主義改革の特徴を表しているといえる。

さらにオーストリア啓蒙絶対主義の特徴として、外国人知識人の登用と活躍を挙げることができる。新たな諸改革を推進するため、ヨーロッパ各地で当時最先端の知識を得た知識人がウィーンに集められ、活躍した。その一人が、本研究で扱うフェルビガーである。彼は外国人知識人として教育分野での諸改革を押し進めた人物に他ならない。この知識人達の活躍により、絶対主義的君主国家、カトリック信仰、バロック文化の伝統の残るオーストリアに適応する改革が行なわれていったのである。[12] その一方で、教育令の制定は世俗化への制度的前提を示したにすぎず、教育の場や内容が宗教から切り離されたわけではなく、未だ道徳としての宗教の役割は大きいことは看過できない。これは既存の施設・人員の動員により、制度の徹底を図る啓蒙絶対主義の一つの特徴として理解されている。

さらにオーストリア啓蒙絶対主義の特徴的な分析概念として、ヨーゼフ主義を挙げることができる。これは「啓蒙絶対主義のオーストリア的変種」[13] として分析がなされ、特に宗教・教会政策に代表されるヨーゼフ2世の諸改革のことを指しているが、マリア・テレジアの統治時代も含めるなど、現在も活発に議論されている分析概念である。宗教寛容令や修道院解散といった教会権力の弱体化を図る急進的政策が、他国と比べてヨーゼフ2世およびオーストリアの逸脱・特殊性として分析がなされてきた。そこでは、先ほど啓蒙絶対主義の分析の際にも指摘したような「啓蒙」と「専制」の自己矛盾が存在していた。より合理的・効率的に国家統治を行なうために啓蒙主義および宗教・教会を利用したのだという理解は、ヨーゼフ主義の寛容性を指摘している。[14]

また近年教育活動の分析などを通して、カトリック地域の遅れに対する問い直しが進められている。ドイツ識字教育研究においては、18世紀における民衆の教育と啓蒙が実際は新旧教といった宗派的差異や南北といった地域差によって左右されなかったと分析されており、つまり教育に対する人々のモチベーションを上昇させたのは、何よりもまず経済的誘因であったとされている。このような先行研究を踏まえると、特にドイツ北部プロテスタント地域と比べて遅れを指摘されてきたオーストリアにおいても、その分析を再考するべきであると考える。オーストリアの遅れを指摘する一つの要素として、世俗化を目指した教育令導入後も教会の役割が持続したことは、識字率・文字文化普及の遅れの原因であると考えられてきた。[15]

これらの研究背景を踏まえて、本研究では、文化移転を用いた初等教育の分析により、オーストリア啓蒙絶対主義およびヨーゼフ主義の再考を目指したい。「変種」と評価されたヨーゼフ主義が代表するオーストリア啓蒙絶対主義は、ヨーロッパ規模での共通性を前提としつつそこからの「逸脱」を強調するものであるといえる。その「逸脱」に対する「基準」として提示されてきたのが、北ドイツのプロテスタント地域(特にプロイセン)であり、オーストリアはそこに対する「遅れ」が指摘されてきた。

報告者の関心として、この「基準」と「逸脱」という暗黙の理解は問題視するべきではないかと考える。先述した文化的傾斜の議論からも読み取ることができるように、オーストリア・ハプスブルク史はドイツ史を一つの大きな柱とした西洋史の周辺として理解されがちであるといえるからである。さらに新旧教や南北といった分析対象の意図的な分断は、啓蒙絶対主義期オーストリアが多くの政策をプロテスタント側から取り入れていた事実を分析する際に妨げになりかねない。宗派・国家・地域を超えた文化受容の相互関係の分析こそが、オーストリアの「逸脱」を分析するに当たって重要であると考える。その際特に、オーストリア啓蒙絶対主義の「柔軟さ」に着目して分析を行なっていきたい。

この文化受容の相互関係を分析するための概念として、「文化移転」を用いたい。この手法は特に文化を移転する際に両者の間に存在する無意識下の優劣性を分析することを可能とし、実際に文化の受容の過程でどのような取捨選択が行なわれているのかを解き明かしていくことを重視している。[16] したがって、プロテスタントのプロイセンからカトリックのオーストリアが文化を受容する際のプロセスを分析することは、従来その遅れが指摘されてきたオーストリアと、先進として考えられてきたプロイセンの関係をより詳細に理解するために有益であるといえ、オーストリア啓蒙絶対主義の理解に貢献するものと考える。この文化移転を教育の領域において実際に行なった人物こそがフェルビガーである。フェルビガーの教育活動を分析することは、宗派・国家・地域を超えた文化受容の相互関係の分析において有益であるといえる。

【問題関心】

以上の視点から、文化移転を用いた啓蒙絶対主義期オーストリアにおける初等教育の分析を行いたい。そのアプローチの方法として、文化の移転元であるドイツ(プロイセン)、移転先であるオーストリア(ハプスブルク君主国)、文化の発信者・仲介者である教育家フェルビガー、文化移転のメディアであるフェルビガーの著作、文化の受容者であるオーストリアの宮廷教育委員会、さらには教育現場における、外からの文化の受容・変換・拒絶による自国文化への受け入れの過程、を分析していきたい。この分析により、「標準」と「逸脱」という二元論的な分析の克服を目指し、宗派・国家・地域を超えた文化受容の相互関係の分析こそが、オーストリアの「逸脱」を分析するにあたって重要であることを指摘する。

【史料】

本研究では、教育家フェルビガーの教育活動を研究対象の中心に据える。フェルビガーは、ニーダーシュレジエンのサガーン(プロイセン)にてカトリックの初等教育政策に従事したのち、その功績が認められてマリア・テレジアの下で初等教育政策の中心的役割を担った人物であり、1774年の一般学校教育令の起草者でオーストリア宮廷教育委員会の委員長として、初等教育改革に従事した。彼はカトリック聖職者としてプロテスタントの教育活動から学び、多くの教育的著作を執筆し、その著作はオーストリア・ハプスブルク君主国内だけでなく、ロシアにまでも普及した。このようなフェルビガーの広範囲に及ぶ教育活動・著作の影響力は、オーストリアという国家の枠組みを超えた文化移転の分析に有益であるといえる。このことから、フェルビガー自身が文化移転を行なったアクター、その著作がメディアと分析することができる点も、彼を研究対象として興味深く感じる理由である。フェルビガーの詳しい来歴に関しては、後述する。

史料としては、フェルビガーの著作を挙げることができる。サガーンで教育活動に携わり始めた頃から多くの著作を記しており、フェルビガー自身が活動の場を移しても、執筆活動は継続的に行われてきた。サガーンからウィーン、さらにプレスブルク(現在のスロバキア・ブラチスラヴァ)に居を移した彼の人生において、その土地に合わせた教育論が展開されていることが期待される。その変化を分析することにより、どのようにフェルビガーというアクターが、メディアを通して文化の移転を行っていったのかを分析する。

さらにもう一つの史料として、オーストリア国立文書館の一般行政文書に分類される教育委員会の文書[17] を挙げる。この宮廷教育委員会は、マリア・テレジア時代から教育改革の中心的役割を担う国家機関であった。すべての学校・教師の管理を担い、調査委員を派遣して各地の学校の状況を報告させるなどの機能を有していた。それらの報告書は各領邦の教育委員会からウィーンの宮廷教育委員会に提出された。さらに宮廷教育委員会はマリア・テレジアに直接報告書を提出することも許されていた。フェルビガーは1774年から1781年までこの委員長を務め、会議に出席をし、中心的な役割を果たしていた。[18] この宮廷教育委員会の文書はウィーンのオーストリア国立文書館に保管されており、年代・地域に分けて大量に残されている。主な史料の性格としては、宮廷教育委員会内の会議の議事録や視察文書、各領邦に設置されていた教育委員会とのやり取りなど、多岐にわたる。この宮廷教育委員会文書から、フェルビガーを宮廷教育委員会に受け入れ、その教育論を取り入れていく際の、受容者側である宮廷教育委員会の議論を分析したい。

また、文化移転の重要な分析手法として、より実際の文化の受け手に近づくこと、つまり、初等教育の分析においては、教育現場(学校や修道院といった場、教師や生徒といった人)での受容の反応を分析し、それにより当時の人々の心性の実態・変化を分析することが、本来の文化移転研究においては重要であるといえる。しかし、学校現場にまで分析対象を下すためには、まずはそれを分析することができる史料を見つけなければならないことから、現時点では難しいと考えている。したがって、現場の人々の受容の反応を分析することは教育史に文化移転の手法を取り入れた際に重要な目的となると考えるが、これは史料が許す限りで行いたいと考えている。想定することができる史料としては、宮廷教育委員会の文書内に、教育委員会による各学校の視察の報告書が稀に存在しているため、それを用いて現場の反応を分析する、という可能性は残されている。さらには、女子修道院など、独自に文書館を有する教育機関に残されている文書から、その教育政策の受容を分析することもできるだろう。

以上に挙げたように、中心となる史料はフェルビガーの著作、そして宮廷教育委員会の文書となる予定である。

3.文化移転のアクターとしてのフェルビガー

啓蒙絶対主義期オーストリアの初等教育政策を文化移転の手法を用いて分析する際、欠かすことのできない存在として挙げるのが、フェルビガーである。文化の発信者、仲介者、ときには受容者としても理解することができるような立場で初等教育政策に関わり続けたフェルビガーを、文化移転の重要なアクターとして分析する。

対象としてのヨハン・イグナーツ・フォン・フェルビガー (1724-1788)は、マリア・テレジアの即位を発端として勃発した七年戦争でプロイセン領となったニーダーシュレジエンのサガーン出身である。1748年にはサガーンのアウグスチノ会僧院長として、諸宗派が共存する地域でカトリック学校の評価を高めようと教育活動に従事する。教育活動に関心を示す中で、フェルビガーはプロテスタント側から知識を得ることに抵抗がなく、1762年には自主的にベルリンで有名な敬虔主義の学校を訪問し、同時代の新しい教育論と教授法を学んだ。その際、特に北ドイツの教育学を参考にしていた。これらの学びを通して、1765年にはサガーンのカトリック系学校を対象とした「一般ラント学校法」[19] を起草する。これらの活動が評価され、1774年にはマリア・テレジアによりウィーンへ招致された。ウィーンに到着するとすぐにオーストリア宮廷教育委員会の長官に任命され、「一般学校教育令」を起草し、オーストリア初等教育改革の中心的存在として教育活動に従事した。さらに1777年には初等教育政策の最高監督権を得たが、1781年ヨーゼフの単独統治下では宮廷教育委員会長官を解任され、プレスブルクへと移動し、その後1788年にその地で逝去した。

フェルビガーの教育論として特徴的なのが、フェルビガー・メソッドと呼ばれる五つの教育方法である。これはどれもより効率的に授業を行なうために考案された授業方法であり、教育内容を統一化・画一化するための仕組みであった。[20] さらには教科書を意欲的に執筆・編纂し、特に『方法論の書』(Methodenbuch)はハプスブルク君主国全域で出版、受容された。フェルビガーを中心として考案された初等教育改革は、授業内容・教科書・時間割の統一など近代的な教育・授業形態を導入していった。

しかし先行研究において、このフェルビガーの教育論は、そのほとんどが同時代のドイツ教育家の提唱する教育論からの模倣であった点が指摘されている。フェルビガー自身が熱心に学んだ北ドイツでの教育論が、サガーンでもウィーンでもそのまま適用されているという分析である。したがってフェルビガーは、オリジナルの思想を提唱した教育家としての評価はなされておらず、むしろ学校教育制度の導入を推進した人物として評価されている。[21]

この点から、フェルビガーを文化移転の「発信者」として分析することには、一抹の不安を覚える。しかし、これこそが研究史上におけるカトリック聖職者であるフェルビガーへの評価の揺れを引き起こしている要因の一つであるとも考えられる。現に先行研究において、フェルビガーは啓蒙主義者・カトリック啓蒙主義者として錯綜した評価を受けてきた。[22]

しかしフェルビガーの書簡の研究を通してプロテスタントとの関わり合い、ネットワークを重視した先行研究においては、異なる評価を得ている。そこではフェルビガーを教育分野におけるカトリックとプロテスタントの重要な「仲介人」として評価し、カトリック啓蒙主義の典型的な代表者として、フェルビガーは既存の政治的・宗派的垣根を越えた存在として分析されている。[23]

さらに注目すべきフェルビガーに関する先行研究として、コヴァルシュカの一連の研究を挙げたい。[24] プレスブルクにおけるフェルビガーの教育活動への新しい評価を行なった彼女の研究では、従来なされてきたヨーゼフ治下でのフェルビガーの過小評価に関しての再考を促した。従来の研究では、聖職者であるフェルビガーはヨーゼフ主義と相容れないため、ヨーゼフの単独統治開始とともにプレスブルクへと左遷されたとの分析がなされてきた。このヨーゼフによるフェルビガーの実質上の更迭措置は、フェルビガーに対する高すぎる給金や、ヨーゼフが新しく設置しようとした軍事学校に対する意見の食い違いといった様々な理由が従来の研究において挙げられてきた。その一つの理由として、フェルビガーが聖職者であるという点も指摘されてきた。つまり教育の世俗化を目指したヨーゼフにとって、聖職者がその中心的役割を担うことに抵抗があったためであると考えられてきたのである。したがって従来、フェルビガーはプレスブルクへの左遷と同時に教育活動の表舞台から退いたとの見方がなされてきた。

しかし、コヴァルシュカはプレスブルクにおけるフェルビガーの教育活動に着目をし、実際に文書館史料の分析を行なった。その結果、フェルビガーは引き続きプレスブルクにおいても当地の教育活動に従事し、ウィーンの宮廷教育委員会から締め出されたわけではなく、むしろオーストリアではじまった初等教育政策を、さらに他のハプスブルク君主国内領邦に普及する重要な役割が期待されていたことを明らかにした。つまりコヴァルシュカの主張によれば、フェルビガーはむしろ初等教育令の有効範囲を広げ、プレスブルクにまで教育制度を導入、徹底させるために、その地での教育活動を任されたのだとの分析がなされた。その際彼女が指摘したのは、従来の研究史においてはフェルビガーが聖職者であるためにヨーゼフと相容れなかった、などの一種のバイアスがかかってフェルビガーの教育活動が分析されてきた、という点である。

このコヴァルシュカの指摘を踏まえると、フェルビガーは教育改革のアクターとして北ドイツのサガーンからオーストリア、さらにはプレスブルクという東のハプスブルク君主国領邦にもその文化の移転を行なったアクターであるということが、改めて理解できる。

4.今後の分析の可能性

今後分析を行っていくにあたり、特に以下の二つの議論は、フェルビガーを通した文化移転の分析を行う際、中心となる議論になると想定している。

まず一つ目に、フェルビガーをウィーンへ招き入れる際の議論である。前述したように、1774年にマリア・テレジアによって招致されたフェルビガーであるが、その際、聖職者であるフェルビガーを改革の中心的な担い手として担ぎ上げることに、宮廷内で反発を示す人々もいた、との指摘が先行文献でなされている。[25] さらに、フェルビガーが作成し宮廷教育委員会に提出した一般学校教育令の起草案は、委員会によって議論され、いくつかの変更が加えられ、受け入れられたとの記述も見受けられる。[26] これらの記述は、19世紀の歴史家ヘルファートの著作を引用元として先行文献では言及がなされているが、その変更の過程を示す当該の史料は、宮廷教育委員会の文書として挙げられているのみである。この議論を把握するためには、宮廷教育委員会の該当年の文書を、網羅的に分析する必要があり、史料の分析を通して、文化の受容者である宮廷教育委員会が、どのような文化であれば受容し、または拒絶し、さらには自国に合わせてアレンジを加えていったのか、を今後分析していきたい。

次に二つ目として、フェルビガーをウィーンから左遷する際の議論を挙げることができる。1860年にヨーゼフ2世による単独統治がはじまると、フェルビガーはウィーンからプレスブルクへと拠点を移すこととなる。これは、ウィーンからプレスブルクへのさらなる文化の移転であると分析することができる一方で、ヨーゼフの統治の下で、フェルビガーの教育論の何が受容され、受容されなかったのかを、その後任を務めたゴットフリート・ファン・スヴィーテン(1733-1803)に期待されていた役割との比較も通して、分析していきたい。

これらの分析を通して、フェルビガーをアクターとしたオーストリアにおける初等教育を、文化移転を用いて分析し、オーストリア啓蒙絶対主義により多角的な分析を加えることを目指す。

5.参考文献

【一次史料】

<文書館史料>

Österreichisches Staatsarchiv オーストリア国立文書館

・Allgemeines Verwaltungsarchiv, Unterricht und Kultus, Studienhofkommission, Studienhofkommission Teil 1 (1500-1791),

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87 Normal-, Haupt- und Trivialschulen in Niederösterreich, 1766-1791.

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132 Protokolle der Studien-Hof-Kommission, 1760-1775.

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Niederösterreichisches Landesarchiv ニーダーエスタライヒ州立文書館

・Archivalien der niederösterreichischen Studienkommission.

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・Engelbrecht, Helmut, Geschichte des österreichischen Bildungswesens: Erziehung und Unterricht auf dem Boden Österreichs, Band 3 Von der frühen Aufklärung bis zum Vormärz, Wien 1984.

・Hersche, Peter, Muße und Verschwendung: Europäische Gesellschaft und Kultur im Barockzeitalter, 2. Teilband, Freiburg/ Basel/ Wien 2006.

・Helfert, Joseph Alexander von, Die österreichische Volksschule: Gründung durch Maria Theresia1860, 2016.

・Klueting, Harm (Hg.), Katholische Aufklärung: Aufklärung im katholischen Deutschland, Hamburg 1993.

・Kaelble, Hartmut und Jürgen Schriewer (Hg.), Vergleich und Transfer: Komparatistik in den Sozial-, Geschichts- und Kulturwissenschaften, Frankfurt am Main 2003.

・Kovács, Elisabeth, Katholische Aufklärung und Josephinismus: Neue Forschungen und Fragestellungen, in: Harm Klueting (Hg.), Katholische Aufklärung: Aufklärung im katholischen Deutschland, Hamburg 1993, S. 246―259.

・Kowalská, Eva, Johann Ignaz von Felbiger and the Hungarian monarchy, in: Studia historica slovaca, Band 19, Bratislava 1995, S. 73–94.

・―――, Dokumente aus dem Nachlass von Johann Ignaz von Felbiger, in: Mitteilungen des Österreichischen Staatsarchivs, Band 44, Wien 1996, S. 145–162.

・―――, Die vergessene Rolle von Johann Ignaz von Felbiger in Ungarn, in: Hungarian studies, Band 32 (2), Budapest 2018, S. 239–250.

・Krömer, Ulrich, Johann Ignaz von Felbiger: Leben und Werk, Freiburg im Breisgau 1966.

・Lambrecht, Karen, Johann Ignaz von Felbiger (1724-1788) und das Stift der Augustiner–Chorherren zu Sagan, in: Sagan und Sprottau in der schlesischen Geschichte: “Les vues des Sagan”: Hg. im Auftrag der Stiftung Kulturwerk Schlesien. Bearb. von Werner Bein, Würzburg 1992, S. 85–90.

・―――, Zur Forschungslage über den schlesischen Schulreformer Johann Ignaz von Felbiger in den Ländern Ostmitteleuropas, in: Silesiographia. Stand und Perspektiven der historischen Schlesienforschung. Festschrift für Norbert Conrads, Würzburg 1998, S. 257–265.

・―――, Gelehrte Briefe: Sagan und das Korrespondentennetz von Johann Ignaz von Felbiger, in: Marek Hałub und Anna Mańko-Matysiak (Ed.), Śla̜ska republika uczonych, Dresden 2004, S. 307–329.

・―――, Tabelle und Toleranz: Johann Ignaz von Felbigers Reform der Volksschulbildung in Ostmitteleuropa, in: Martin Scheutz, Wolfgang Schmale und Dana Štefanová (Hg.), Orte des Wissens, Bochum 2004, S. 153–167.

・―――, „Die Schüler werden nicht zum Nachdenken angeleitet“ – Der Schulreformer Johann Ignaz von Felbiger (1724–1788) und die Leopoldina, in: Norbert Conrads (Hg.), Die tolerierte Universität. 300 Jahre Universität Breslau 1702 bis 2002: Katalogbuch zur Ausstellung „Die tolerierte Universität“, Stuttgart 2004, S. 201–209.

・―――, „Die nötige Erziehung in der Religion und in den bürgerlichen Pflichten“ – Die katholischen Reformbemühungen Johann Ignaz von Felbigers und Karl Egon von Fürstenbergs, in: Joachim Bahlcke (Hg.), Konfessionelle Pluralität als Herausforderung: Koexistenz und Konflikt in Spätmittelalter und früher Neuzeit, Leipzig 2006, 575–601.

・Langer, Andrea und Georg Michels (Hg.), Metropolen und Kulturtransfer im 15./16. Jahrhundert: Prag–Krakau–Danzig–Wien, Stuttgart 2001.

・Melton, James van Horn, Absolutism and the EighteenthCentury Origins of Compulsory Schooling in Prussia and Austria, Cambridge 1988.

・Katharina Middell und Matthias Middell, Forschungen zum Kulturtransfer: Frankreich und Deutschland, in: Grenzgänge: Beiträge zu einer modernen Romanistik, Band 1, Heft 2, Leipzig 1994, S. 107–122.

・Neugebauer, Wolfgang (Hg.), Schule und Absolutismus in Preußen, Akten zum preussischen Elementarschulwesen bis 1806, Berlin 1992.

・Reinalter, Helmut, Der Josephinismus als aufgeklärter Absolutismus, in: Reimund Haas (Hg.), Fiat voluntas tua: Theologe und Historiker Priester und Professor; Festschrift zum 65. Geburtstag von Harm Klueting am 23. März 2014, Münster 2014, S. 589–600.

・Romberg, Winfried, Johann Ignaz von Felbiger und Kardinal Johann Heinrich von Franckenberg: Wege der religiösen Reform im 18. Jahrhundert (Arbeiten zur schlesischen Kirchengeschichte, Bd. 8), Sigmaringen 1999.

・Schmale, Wolfgang (Hg.), Kulturtransfer: Kulturelle Praxis im 16. Jahrhundert, Innsbruck 2003.

・Stanzel, Joseph, Die Schulaufsicht im Reformwerk des J. I. von Felbiger (17241788): Schule, Kirche und Staat in Recht und Praxis des aufgeklärten Absolutismus, Paderborn 1976.

・Wangermann, Ernst, Aufklärung und staatsbürgerliche Erziehung: Gottfried van Swieten als Reformator des österreichischen Unterrichtswesens 1781–1791, München 1978.

・Weber, Franz, Geschichte des Katechismus in der Diözese Rottenburg von der Aufklärungszeit bis zur Gegenwart: Mit einer Vorgeschichte über die schwäbischen Katechismen von Canisius bis Felbiger, Freiburg im Breisgau 1939.

・Werner, Michael und Bénédicte Zimmermann, Vergleich, Transfer, Verflechtung. Der Ansatz der Histoire croisée und die Herausforderung des Transnationalen, in: Geschichte und Gesellschaft, Band 28, Heft 4, 2002, S. 607636.

・H・バラージュ・エーヴァ(渡邊昭子・岩崎周一訳)『ハプスブルクとハンガリー』成文社、2003年。

・フリッツ・ハルトゥング、ルードルフ・フィーアハウス他(成瀬治編訳)『伝統社会と近代国家』岩波書店、1982年。

・ロビン・オーキー(三方洋子訳、山之内克子・秋山晋吾監訳)『ハプスブルク君主国1765-1918:マリア=テレジアから第一次世界大戦まで』NTT出版、2010年。

・丹後杏一『オーストリア近代国家形成史:マリア・テレジア、ヨーゼフ二世とヨーゼフ主義』山川出版社、1986年。

・寺田光雄『民衆啓蒙の世界像:ドイツ民衆学校読本の展開』ミネルヴァ書房、1996年。

・山之内克子「啓蒙期オーストリアにおける教育:初等学校の制度的変遷を中心に」浅野啓子・佐久間弘展編著『教育の社会史:ヨーロッパ中・近世』知泉書館、2006年、271–291頁。

[1] Andrea Langer und Georg Michels (Hg.), Metropolen und Kulturtransfer im 15./16. Jahrhundert: Prag–Krakau–Danzig–Wien, Stuttgart 2001.; Wolfgang Schmale (Hg.), Kulturtransfer: Kulturelle Praxis im 16. Jahrhundert, Innsbruck 2003.

[2] Katharina Middell und Matthias Middell, Forschungen zum Kulturtransfer: Frankreich und Deutschland, in: Grenzgänge: Beiträge zu einer modernen Romanistik, Band 1, Heft 2, Leipzig 1994, S. 107122.

[3] Ebd.

[4] Hartmut Kaelble und Jürgen Schriewer (Hg.), Vergleich und Transfer: Komparatistik in den Sozial-, Geschichts- und Kulturwissenschaften, Frankfurt am Main 2003.

[5] Ebd., S. 399f.

[6] Michael Werner und Bénédicte Zimmermann, Vergleich, Transfer, Verflechtung. Der Ansatz der Histoire croisée und die Herausforderung des Transnationalen, in: Geschichte und Gesellschaft, Band 28, Heft 4, 2002, S. 607636.

[7] Friedrich Nicolai, Beschreibung einer Reise durch Deutschland und die Schweiz, im Jahre 1781: Nebst Bemerkungen über Gelehrsamkeit, Industrie, Religion und Sitten, Bd. 4, Berlin/ Stettin 1784.

[8] Allgemeine Schulordnung für die deutschen Normal-, Haupt- und Trivialschulen in sämtlichen Kaiserl. Königl. Erbländern.

[9] 下級学校(Trivialschule):最低限の読み書き計算、宗教道徳を教える最も初歩的な学校。高等小学校(Hauptschule):下級学校の基礎教育に加えて、その応用、ラテン語と作文、家政、農業、地理、歴史、測地学など、将来の専門的職業や勉学につながる教科も教える学校。規範学校(Normalschule):高等小学校の教科内容に加えて、教員養成コースを有する学校。

[10] 山之内克子「啓蒙期オーストリアにおける教育:初等学校の制度的変遷を中心に」浅野啓子・佐久間弘展編著『教育の社会史:ヨーロッパ中・近世』知泉書館、2006年、271–291頁。

[11] Helmut Engelbrecht, Geschichte des österreichischen Bildungswesens: Erziehung und Unterricht auf dem Boden Österreichs, Band 3 Von der frühen Aufklärung bis zum Vormärz, Wien 1984.

[12] Ernst Wangermann, Aufklärung und staatsbürgerliche Erziehung: Gottfried van Swieten als Reformator des österreichischen Unterrichtswesens 1781–1791, München 1978.

[13] Helmut Reinalter, Der Josephinismus als aufgeklärter Absolutismus, in: Reimund Haas (Hg.), Fiat voluntas tua: Theologe und Historiker Priester und Professor; Festschrift zum 65. Geburtstag von Harm Klueting am 23. März 2014, Münster 2014, S. 589–600.

[14] Rainer Bendel und Norbert Spannenberger (Hg.), Katholische Aufklärung und Josephinismus: Rezeptionsformen in Ostmittel– und Südosteuropa, Köln/ Weimar/ Wien 2015.

[15] Peter Hersche, Muße und Verschwendung: Europäische Gesellschaft und Kultur im Barockzeitalter, 2. Teilband, Freiburg/ Basel/ Wien 2006, S. 846.

[16] Langer und Michels, a. a.O.; Schmale, a. a. O.

[17] Österreichisches Staatsarchiv, Allgemeines Verwaltungsarchiv, Unterricht und Kultus, Studienhofkommission, Studienhofkommission Teil 1 (1500-1791), 77 Normal-, Haupt- und Trivialschulen im allgemeinen, 1754-1789; 87 Normal-, Haupt- und Trivialschulen in Niederösterreich, 1766-1791; 88 Normal-, Haupt- und Trivialschulen in Niederösterreich, 1770-1791; 132 Protokolle der Studien-Hof-Kommission, 1760-1775; 133 Protokolle der Studien-Hof-Kommission, 1776-1791.

[18] Michael Hochedlinger, Petr Mata und Thomas Winkelbauer (Hg.), Verwaltungsgeschichte der Habsburgermonarchie in der Frühen Neuzeit, Band 1: Hof und Dynastie, Kaiser und Reich, Zentralverwaltungen, Kriegswesen und landesfürstliches Finanzwesen, Wien 2019.

[19] Königlich preußisches General-Land-Schul-Reglement für die Römisch-Katholischen in Städten und Dörfern des souveränen Herzogtums Schlesien und der Grafschaft Glatz.

[20] フェルビガー・メソッドは次の五つから成る。①一斉授業(Zusammenunterricht):教室の全員が一斉に共通の学習作業に集中する。②一斉朗読(Zusammenlesen):全員で一斉に音読をする。③図表授業(Tabellarisieren):黒板、図や表を用いた講義方法。④文章暗記方法(Buchstabenmethode):それぞれの単語の一文字目を手がかりとする暗記法。⑤カテキズム(Katechisieren):問答形式による復習と応用理解。

[21] Ebgelbrecht, a. a. O.

[22] Franz Weber, Geschichte des Katechismus in der Diözese Rottenburg von der Aufklärungszeit bis zur Gegenwart: Mit einer Vorgeschichte über die schwäbischen Katechismen von Canisius bis Felbiger, Freiburg im Breisgau 1939.; Ulrich Krömer, Johann Ignaz von Felbiger: Leben und Werk, Freiburg im Breisgau 1966.; Winfried Romberg, Johann Ignaz von Felbiger und Kardinal Johann Heinrich von Franckenberg: Wege der religiösen Reform im 18. Jahrhundert, Arbeiten zur schlesischen Kirchengeschichte, Bd. 8, Sigmaringen 1999.

[23] Richard van Dülmen, Die Prälaten Franz Töpsl aus Polling und Johann Ignaz von Felbiger aus Sagan: Zwei Repräsentanten der katholischen Aufklärung, in: Zeitschrift für Bayerische Landesgeschichte, Band 30, München 1967, S. 731–823.; Karen Lambrecht, „Die nötige Erziehung in der Religion und in den bürgerlichen Pflichten“ – Die katholischen Reformbemühungen Johann Ignaz von Felbigers und Karl Egon von Fürstenbergs, in: Joachim Bahlcke (Hg.), Konfessionelle Pluralität als Herausforderung: Koexistenz und Konflikt in Spätmittelalter und früher Neuzeit, Leipzig 2006, 575–601.

[24] Eva Kowalská, Dokumente aus dem Nachlass von Johann Ignaz von Felbiger, in: Mitteilungen des Österreichischen Staatsarchivs, Band 44, Wien 1996, S. 145–162.; derselbe, Die vergessene Rolle von Johann Ignaz von Felbiger in Ungarn, in: Hungarian studies, Band 32 (2), Budapest 2018, S. 239–250.

[25] Ludwig Boyer, Annäherung an die Schulwirklichkeit zur Zeit Maria Theresias: Quellen zur „Realgeschichte“ des niederen Schulwesens in Österreich, Wien 2006, S. 57.

[26] Joseph Alexander von Helfert, Die österreichische Volksschule: Gründung durch Maria Theresia–1860, 2016.

 

立川で学ぶ「ヨガの思想」

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(1)

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バガヴァッド・ギーターの教え(ヨガの古典の経典を通してヨガを学ぶ)

バガヴァッド・ギーターの教え(ヨガの古典の経典を通してヨガを学ぶ)(2)

バガヴァッド・ギーターの教え(ヨガの古典の経典を通してヨガを学ぶ)(3)

バガヴァッド・ギーターの教え(ヨガの古典の経典を通してヨガを学ぶ)(4)

バガヴァッド・ギーターの教え(ヨガの古典の経典を通してヨガを学ぶ)(5)

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