ルサンチマンの哲学
01 ルサンチマンの本質的意義
ルサンチマンという言葉は、ressentimentという仏語に由来します。定義的に言うと、ルサンチマンとは、現実の行為によって反撃することが不可能であるとき、想像上の復讐によってその埋め合わせをしようとする者が心に抱き続ける反復感情のことだ、ということになります。この言葉はニーチェ哲学でよく問題となる言葉ですが、ニーチェはこのルサンチマンという心理状態、心理現象自体がニーチェの問題であったわけではありません。ニーチェの問題は、このルサンチマンが想像する力となって価値を生み出そうとするとき、道徳上の奴隷一揆が始まるのであり、そして、実際にそうであったと考えました。ここでいう道徳というのは、我々が普段理解している道徳と同じものとして理解して間違え在りません。つまり、ニーチェによれば、我々はみなこの奴隷一揆の成功で作られた体制の中で、それを自明のもの、当たり前のものとして生きているということが、ニーチェの問題意識であったわけです。ニーチェの『道徳の系譜学』にはこう書いてあります。
「道徳における奴隷の叛乱はまず、ルサンチマンそのものが創造する力をもつようになり、価値を生みだすことから始まる。このルサンチマンは、あるものに本当の意味で反応すること、すなわち行動によって反応することができないために、想像だけの復讐によってその埋め合わせをするような人のルサンチマンである。すべての高貴な道徳は、勝ち誇るような肯定の言葉、Yah(Yes)で自己を肯定することから生まれるものである。ところが、奴隷の道徳は最初から、『外にあるもの』を『他なるもの』を、『自己ならざるもの』を、否定の言葉、Nein(No)で否定する。この否定の言葉、Nein(No)が彼らの創造的な行為なのだ。」(中山元訳『道徳の系譜』一部筆者による改訂あり)
さて、ルサンチマンに基づく価値の創造ということにおいて、まず注目すべき点は、初発の動機に否定があるということです。他のものに対する否定から出発するという点が特徴的であるわけです。なので、ニーチェはこれは価値創造が否定から始まるという点で本当の意味での価値の創造ではなく、本質的に価値の顛倒、価値転換でしかありえないと考えるわけです。有名なイソップ童話の「狐とブドウ」の話を使って説明すると(この例がよく使われるので)、この話では、お腹を空かせた狐は、たわわに実ったおいしそうな葡萄を見つけた。食べようとして懸命に跳び上がるが、実はどれも葡萄の木の高い所にあって届かない。何度跳んでも届くことは無く、狐は、怒りと悔しさから「どうせこんな葡萄は酸っぱいに決まっている。誰が不味そうな葡萄なんか食べてやるものか」と負け惜しみの言葉を吐き捨てると別の食べ物を探しに去っていった、という話です。
狐はブドウに手が届かなかったわけですが、このとき狐は届かないことを悔いたり、ブドウをどんなに恨んだとしてニーチェ的な意味でのルサンチマンとは関係ありません。ここまでは当然理解出来ると思いますが、更にここで狐が「あれは酸っぱいブドウだったんだ」とフロイトでいう合理化や反動形成のように自分を偽って(?)自分を言い聞かせて自分を誤魔化したとしても、それはまだニーチェ的な意味でのルサンチマンとは言えないということです。自分を偽ることや誤魔化すことは歪んだ心理状態として問題視することはできても、ニーチェ的な意味での問題にはならないのです。ニーチェ的な意味でのルサンチマンの問題になるのは、酸っぱいブドウだったと誤魔化すことではなく、たとえば「甘いものを食べない生き方こそが善い生き方だ」といって自己を正当化するために顛倒した価値意識が生まれるときに、狐ははじめてニーチェが問題にする意味でルサンチマンに陥ったといえます。
日常生活の面でみれば、誰にでもルサンチマン的な要素がないとはいえません。求が満たされないことに対し,もっともらしい理由や理屈をつけて正当化する合理化やえて反対の行動をとり,欲求や感情を抑える反動形成といったフロイトで指摘されているような心理状態は青年期以降人間ならば誰しも体験したことがあるでしょう。もっとも、人格の根幹がこの種の反転的な価値意識によって作られているような人いますから、経験的にいっても、処世訓としてこの種の人々には余り近づきになりたくないものです。極端にいえば、自分の意見という野のがすべて他人に対する反感から作られている人といいますでしょうか。しかし、既に指摘したように、現実生活を現に生きている我々への処世訓としてこの種の理解は役立つものの、ニーチェの問題意識はそのような個人的な問題ではないことに注意しましょう。
そして、このルサンチマンが否定から価値創造するという意味において問題があるという問題意識は、本質的な意味においてニーチェを超えるような見解を打ち出すのはちょっと不可能なほど彼の仕事は突出しているといえるでしょう。ニーチェというと「Got ist Tod.(神は死んだ)」という名言の方が有名で、「神は死んだ」という彼の台詞は特異なものとしてフィーチャーされますが、これは実はあまり正しい認識とは言えません。実は、ニーチェが「神は死んだ」という前に、既にカントによって、神は事実上の死亡診断書を突きつけられているというのが正しい理解だと思います。これは世界史で言ってしまえば、30年戦争の講和条約であるウェストファリア条約が既に神聖ローマ帝国の事実上の死亡診断書であったのに対して、ナポレオンのライン同盟の成立が神聖ローマ帝国の消滅を示したように、ウェストファリア条約以降事実上神聖ローマ帝国な有名無実であったように、カント以降神は有名無実となっていたからです。なので、ニーチェの思想として極めて独創的であるかというとそうでもなく、むしろ、このルサンチマンの理解の方が彼の際立った特徴を示している思想といえるでしょう。
02 善悪の起源
最初に、ニーチェの『道徳の系譜』に依りながら、ニーチェの道徳起源論を簡単に概観しておきましょう。ニーチェは最初は『イギリスの心理学者たち」の見解を非貴台に出して言います。それはこういう見解です。もともと非利己的行為というのは、それによって利益を受けた人々の側から賞賛され、価値ある事、善いこととして賞賛されていた。しかし、後になってその起源が忘れられて、単に習慣的に賞賛されてきたというだけの理由によって、非利己的行為がそれ自体として、本質的に善いものであるかのように感じられるようになったという指摘から始まります。
これに対してニーチェの見解では、価値評価の源泉は他者にあるのではない、つまり利益を受けた人々の側にあるのではありません。優れた人々、高貴な人々が、劣った奴、駄目な奴と比較して、自分と自分の行為を価値の高い、優れた良いものだと感じて、そう評価したことによります。ニーチェは、質が悪い、劣ったという意味のでschlechtと対立する意味での、つまり質が良く、優れているという意味でのgutに価値評価一般の源泉を見るわけです。だから、「よい(gut)」という語が羽島から「非利己的な行為」と結びついていたわけではないというわけです。
しかし、この議論には、少なからぬ疑念も湧き起こります。まず、第一に一般的にいえば、社会が非利己的な行為に価値を認める風習を育成することは、いわば人間社会の成立と存続の普遍的・本質的な条件なのであって、その成員が貴族であるか否かとは関係ないことです。高貴な人や、力のある人だって、彼らなりの仕方で、非利己的行為を賞賛し、価値あるものとみなすに違いありません。だから、「よい(gut)という評価が初めから「非利己的な行為」とも結びついていたことは疑え得ないでしょう。ここでは、むしろ、ニーチェが「利己的」と「非利己的」というあの対立全体がいよいよ人間の良心に重くのしかかってくるのは、貴族的価値判断が没落してからのことである」といいっているのは正しい面があると思いますが、今言ったことはとはそれとは別のもっと本質的・原理的なことです。
それから、第二にこれも一般的にいって、階級や位階と関係なく、価値評価に関して事故による評価が他者による評価と独立に、それと無関係になされるというのも幻想であると言わざるを得ないでしょう。もちろん、ここの具体的な場合には、高貴な人が他者の評価とは無関係に自分自身と自分の行為に誇りを感じたりすることは大いにあり得るでしょうが、そんなことは、どんな階級の人々にも当たり前のことであって、問題はもっと本質的・原理的なことです。
その後、ニーチェは主として語源的な詮索に基づいて、元来、schlecht(劣っていること)の反意語であったgut(良質であること)がbose(邪なこと)の反意語のgut(善良であること)に変質していくさまを描いています。貴族的価値評価方式から僧侶的価値評価方式へのこの転換を行ったのが、ユダヤ・キリスト教であるおというわけですが、ニーチェに依れば、それがルサンチマンに基づくものであったということになるわけです。同じ土壌で、つまり同じルールで戦えないとき、密かに土俵そのものを作り替えて勝利をかすめ取るというのがその大きなポイントです。
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【監修者】 | 宮川涼 |
プロフィール | 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。 |