(2)正義への功利主義、義務論、徳倫理学という三つのアプローチ
ある社会が公正かどうかを問うことは、われわれが大切にするもの―収入や財産、義務や権利、権力や機会、職務や栄誉ーがどう分配されるかを問うことです。公正な社会ではこうしたよきものが正しく分配される。つまり、一人一人にふさわしいものが当たられるというわけです。しかし、ふさわしいのが何であり、それがなぜなのかを説明しようとすると途端に困難に陥ります。
こうした問題にアプローチする仕方として、大きく三つのアプローチの仕方が存在しています。1つは、幸福の最大化という考え方(功利主義)です。われわれの生きる市場社会にとって、これは当然の出発点であるともいえるでしょう。なぜなら、現代の政治的議論のほどんどは、経済的繁栄の促進、生活水準の向上、経済成長の支援に関するものばかりです、。われわれがこうした問題に気を配るのは、もっとも明白に言うと、経済的に繁栄していないよりは、繁栄していることの方が個人としても社会としてもとても都合がいいと信じられているからです。
端的に言えば、経済的繁栄が重要なのは、それが人々の幸福に貢献するからなのです。つまり、功利主義者の言葉を借りれば、功利主義はわれわれがどうやって、そしてなぜ幸福を最大化すべきなのか、つまり最大多数の最大幸福を追求するべきなのかに関する最も影響力が強い主張であるのです(功利主義)。
次に、正義を自由に結びつける理論を見て見ましょう。この理論は、個人の権利や尊重を強調する一方で、どの権利がもっとも重要かについて見解を異にしています。これは個人の権利の尊重を強調する一方で、どの権利が最も重要かについては見解を異にします。正義とは自由及び個人の権利を尊重するという考え方は、現代政治において、功利主義の考える幸福の最大化と並んで同じくらい馴染み深いものでしょう(義務論)。
しかし、この自由を起点とする正義へのアプローチは幅広い学派が形成されています。事実、現代の最も激しい政治的議論のいくつかは、この学派内で対立する自由放任派あるいはリバタリアニズム、と公正派あるいは平等主義的な傾向の理論です。彼らは制限のない市場は公正でも自由でもないと主張しており、その見解によれば、正義の観点から求められるのは社会的、経済的に不利な状況を是正し、すべての人へ成功への公平な機会を与える政策だといっています。もう少し分かりやすく言えば、自由原理至上主義のリバタリアンと人権原理主義のリベラリストが対立しているといってもよいでしょう。
そして、三つめは、正義は美徳や善良な生活と深い関係にあると考える理論です。現代社会では、美徳論は文化的保守派や宗教的右派と結びつくことが多く、時には共同体主義(コミュニタリアリズム)ともいわれる考え方も含みます(徳倫理学)。
今三つの立場をまとめてみましたが、大きくいうと、正義に対する見方は、(1)功利主義(2)義務論(3)徳倫理学の三つが挙げられるわけです。そして、私はこれから(2)の義務論に立った正義論及びそれに基づくリベラリズムについてこれらを再検討し、見直ししていきたいと考えています。
少し抽象的な話が続いてしまったので、イギリスの哲学者フィリッパ・ルース・フットが1967年に発表した倫理学の思考実験で有名な「トロッコ問題」をサンデルのリメイクしたバージョンに沿った上で例に上記三つの考え方とその良い面悪い面を検討していくことで、それぞれの立場を深く掘り下げていきましょう。
まず、あなたが路面電車の運転士で、時速約100㎞で電車を走らせているとします。しかし、ふと前方をみると、五人の作業員が工具を手にして線路のメンテナンスをしながら線路上に立っていました。電車を止めようとするのですが、ブレーキが故障して効きません。五人の作業員をこのまま撥ねてしまえば確実に全員は死んでしまいます。ふと右側へ目をやるとメインの線路を外れる待避線があることに気付きました。しかし、残念ながらそこにも作業員はいたのです。だが、それは一人だけでした。路面電車を待避線に切り替えれば、一人の作業員は死んでしまいますが、五人は助けられることに気付きます。
さて、この時どうすれば良いでしょうか?ほとんどの人がこういうのではないでしょうか。「待避線に入れ。何の罪もない一人の人を殺すのは悲劇だが、五人を殺すよりはまし」だと。これは手塚治虫の漫画『どろろ』にも出てくるような話でもあります。漫画やアニメ、映画をみた方がいらっしゃるかもしれませんが、主人公の百鬼丸は、父親に加賀の国を救うために、息子である百鬼丸が鬼神にその肉体の48か所を譲り渡すという約束で加賀の国の平和と繁栄を取引したのですが、このとき父親が言うのは「お前(百鬼丸)一人の命とこの国全体の人間たちの命を比較すれば当然後者を大切にするのは当たり前だろう。」と。
このようにいわれて反論できる人はなかなかいないかもしれません。五人の命を救うために一人を犠牲にするのは正しい行為のように見えるからです。
さて、もう一つ別の物語を考えてみましょう。歩道橋問題ともいわれる思考実験ですが、上のトロッコ問題=路面電車問題の応用編です。今度は、あなたは運転士ではなく、線路を見下ろす橋の上に立っている傍観者です。そして、今回は待避線はありません。線路上を暴走路面電車が走ってきているのを今まさに目撃しています。路面電車の先には先ほどと同じように五名の作業員がいます。ここでもブレーキは効きません。傍観者であるアナタにもブレーキが一向に踏まれることもなく、ものすごい勢いで五名に向かって路面電車が暴走しているのが分かります。その時、隣にとても太った巨体の男がいることに気が付きました。そして、その男を仮に橋から突き落とせばどうやら路面電車は止まりそうです(というか、止まることが分かっていると仮定しておきましょう)。当然そうすればその男は死んでしまうでしょう。ちなみに、あなたが飛び降りてもあなたの体格では電車は止まりません。
その太った大男を線路上に突き落とすのは果たして正しい行為でしょうか。おそらくほとんどのひとがこういうでしょう。「もちろん正しくない。その男を突き落とすのは完全な間違いだ」と。実際アメリカの進化生物学者マーク・ハウザーが5000人以上が回答したテストでは、「最初の質問に対して89%の人が「許される」と答えたのに対して、2番目の質問に「許される」と回答したのは11%であった。」そうです。
誰かを橋から突き落として確実な死に至らしめるのは、たとえ五人の命を空くためであっても、実に恐ろしい行為に思われているわけです。しかし、だとすると、ここには1つの難問が立ち上がってきます。最初の運転士の話では、五人を救うために一人を救うことは正しいとされたのに、二つ目の例では正しくないと思われるのはなぜなのでしょうか。どちらも五人の命を救うために一人を犠牲にするのはやむを得ないというロジックであったわけです。仮に数が重要だとすれば、両者はまったく道徳的に変わりません。
もちろん、人を突き落として殺すのは残酷なことに思われます。しかし、一人の男を路面電車ではねて殺すのも残酷ではないのでしょうか。こう反論する人がいるかもしれません。突き落とすのが間違っている理由は、橋の上の男を本人の意思に反して利用する事に保管らず、彼はただ単にそこに立っていただけで当事者ではない、と。しかし、それをいうのであれば、待避線で働いていた作業員も同じでしょう。彼もまた事故にかかわることを選んでいるわけではありません。中には、鉄道員は傍観者がとらないリスクを職務上負わされているのだ、という方もいるかもしれません。しかし、緊急時に自分の命を捨てて他人の命を救うことは彼のジョブディスクリプションには書かれていないでしょうし、自分の命を投げ出すかどうかは路上の傍観者であろうと作業員であろうと変わりはないようにも思えます。
となると、ここで両者を分け隔てているのは、犠牲者に与える影響(一命を殺す)ということではなく、決定を下す人の意図にあるのでしょうか。路面電車の運転士であるあなたは、自分の意図は一人の作業員を殺す事ではなく、五人の作業員を助けることであったと。しかし、太った男についても意図は電車を止めることであり、五人を助けることであることには変わりはありません。さらに、路面電車のハンドルを切るという行為と隣の太った男を突き落とすという行為では、意味が違うという主張もあるかもしれません。
道徳的ジレンマの中には対立する道徳原理から生じるものがあります。たとえば、路面電車の物語にかかわる1つの原因はできるだけ多くの命を救うべしという功利主義的アプローチです。それに対して、正当な理由があっても無実の人を殺すのは間違っているとして、これは正しくないという結論を下すのは義務論的あるいは徳倫理学の立場でしょう。