『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(6)
01 ヨガ思想と仏教の無我説
仏教とヨガ思想の関係についても触れておきましょう。一般的に仏教はアートマンを否定すると考えられています。それに対して、ヨガは、既に見てきたように、アートマンの存在を認めています。初期仏教の経典『発句経』(ダンマパダ)には次のような節があります。「『一切の事物は私(アートマン)ではないものである』と明らかな智恵を持って観る人は、苦しみから遠ざかり、離れる。これこそ人が清らかになる道である」と。これが、仏教がアートマンを認めていない根拠の一つになっていますが、一切の事物(心、体、世界)はもちろん、アートマンではありません。一切の事物をプラクリティとするならば、プルシャであるアートマンは、一切の事物に当たらないからです。むしろ、一切の事物がアートマンではないという理論は、それ以外にアートマンが存在するという前提で成り立っており、これはヨガの立場と全く同じ立場です。仏陀は明確にアートマンがあるとは言いませんでしたが、その存在は認めていたということになるでしょう。
02 ヨガ思想が考える苦しみからの解放
これまで私の本質であるプルシャについてお話ししてきましたが、次に、『ヨーガスートラ』が述べている苦しみからの解放について根本的な原理を理解していきましょう。「どうすれば私たちは苦しみから離れることができるのか?」という問題に対して、『ヨーガスートラ』の答えは、非常にシンプルです。それは「見る者」と「見られるもの」の分離です。つまり、プルシャである私が、心や体であるプラクリティを自分の本質だと思い込んでいる点に全ての苦しみの原因があるので、この二つの関係を切り離せば良いと述べるのです。「苦しみの原因は、見る者と見られるものとの結合である。これを切り離さなければならない」。見る者はプルシャであり、見られるものはプラクリティです。この二つが結びつくことで、私たちの苦しみが生じるのです。つまり、プルシャである私には本来苦しみは起きておらず、プラクリティである心や体に苦しみが生じているだけなので、この二つを識別して切り離してしまえば良いということになります。これが、ラージャ・ヨガの目的です。
ここでパタンジャリが「苦しみの原因は見る者と見られるものとの結合であり、これを切り離すべきだ」と述べているのは、混乱を誘う部分です。なぜなら、ヨガの語源であるユジュという言葉には、「結合する」という意味と「結びつける」という意味があるからです。しかし、ここでは、ヨガの目的はプルシャとプラクリティを「切り離す」ことだと述べているのです。ですから、ヨガの言葉の意味が結合であったとしても、『ヨーガスートラ』の文脈においては、「ヨガとは切り離すこと」であると考える必要があります。もちろん、これはすべてのヨガにおいて同じということではありません。他のヨガの経典『バガヴァッド・ギーター』の中でクリシュナは「ヨガとはブラフマンとの結合である」と述べているからです。「心が静まり、欲望の静まったヨギー(ヨガの修行者のこと)は、ブラフマンと結合し、最高の至福を得る。」と。
また、ラージャ・ヨガの最終的な境地であるカイヴァリヤ(独存)に達すれば、プルシャとプラクリティは完全に切り離されるとしても、それまでの段階で対象とのサマーパッティ(合一)という方法が用いられます。これは瞑想のディヤーナやサマーディと同じ意味で、一つの対象に集中し続け、その対象と一体になることです。ですから、最初は一つの対象に集中するという方法をとりながら心の働きを弱めていき、最後には「全てを切り離す」という段階的なものとして考える必要があります。
ではそもそも、この二つの原理が結びつく原因は何でしょうか。その原因について『ヨーガスートラ』は次のように述べます。「所有者(プルシャ)と所有物(プラクリティ)は、両者の本性と力を認識するために結合する。この結合の原因は無知である」。無知について既にお話していますが、ここで無知で述べられているのは、プルシャである私が心や体であるプラクリティを自分自身だと思い込むことです。つまり、私たちは自分の本質を正しく知らないので無知だという訳です。
『ヨーガスートラ』は、この二つの原理が結合する目的は両者の認識であると述べています。前の箇所でプルシャは世界を見ているだけの傍観者だというお話をしましたが、その理由の一つは、この一節です。つまり、プルシャはプラクリティを認識しようとしているだけで、そこに積極的な働きかけはないと考えることができるからです。また、結合の原因を無知というのであれば、世界の誕生そのものも悲観的に捉えていることになります。したがって、プルシャがプラクリティに対して何か成長を促したり、より理想的な変化を期待していると考えることも理にかなわないということになるでしょう。
03 カイヴァリヤ
このように、プルシャとプラクリティの結合、そして、世界の誕生そのものを悲観的に捉えているのが、このヨガ思想の基本的な立場です。したがって、ラージャ・ヨガの実践によって、この結合を切り離し、苦しみの世界から解放されるという道筋を考えることができます。「この無知が消滅すれば、結合は起こらない。その切り離された状態をカイヴァリヤと呼ぶ。識別智の確立によって、その結合は切断される。」。ラージャ・ヨガによって、この無知を取り去り、プルシャとプラクリティが切り離され、プルシャがただ独りになることをカイヴァリヤ(独存)あるいは解脱と呼びます。これを仏教では涅槃(ニルヴァーナ)と呼びます。これは単に苦しみがなくなったというだけではなく、もう再び苦しみの世界には生まれ変わることがない状態を指しています。つまり、心の作用が完全に消滅してしまえば、当然、この世に生まれ変わる動機はなくなるからです。
この輪廻の終わりについて理解を深めるために、宇宙の構造を見ながら考えてみましょう。プルシャは永遠に変化せず、存在するものですから、この宇宙が始まる前からずっと存在していると考えることができます。心の識別作用によって宇宙が誕生し、肉体に生まれ変わるところから物質世界との関わりが始まります。心は、世界に対して執着を持ち、繰り返し生まれ変わることになります。そして、ラージャ・ヨガによって、カイヴァリヤに達して、心の作用が消滅すれば、そこで輪廻は終了します。したがって、輪廻の主体はプルシャではなく、心です。心の作用が次の生の動機を作るので、肉体は繰り返し生まれ変わるのです。プルシャはただ何もせずそれを眺めているだけです。カイヴァリヤに達して心の作用が完全になくなれば、プルシャはそのまま純粋な状態へと戻っていきます。
また、プラクリティが切り離されると、その人のプルシャは自分の心も、体も、世界そのものも認識することはありません。このようにプルシャが孤立した状態であれば、当然苦しみなど起こりようもありませんから、完全な静寂を実現したと言えるでしょう。では、このカイヴァリヤを実現するための方法とは何でしょうか。この節でパタンジャリは「識別によって結合を切り離すことができる」と述べています。この識別については何度もお話していますが、プルシャである私とプラクリティである心や体を違うものとして捉えることです。それでは、この結合を切り離すためのヨガの実践について考えてみましょう。
04 アヴィヤーサとヴァイラーギヤ
ヨガの実践において『ヨーガスートラ』が最初に述べているのは、アヴィヤーサ(繰り返し取り組むこと)とヴァイラーギヤ(執着から離れること)です。「これらの心の働きは、アヴィヤーサとヴァイラーギヤによって止めることができる」。それでは、アヴィヤーサとヴァイラーギヤとは一体どんなものなのか考えていきましょう。アヴィヤーサとは、「心の働きの停止状態にとどまろうとする努力」のことです。「それは絶え間なく熱心に取り組むことで確立」されるものとされています。アヴィヤーサは、ヨガでいう瞑想のことです。何らかの対象に一心に集中することで、心の働きの停止は実現します。これをラージャ・ヨガではダーラナと呼んでいます。ダーラナには熱意と努力が欠かせません。瞑想を始めてやると誰でも経験することですが、座って呼吸などに集中していてもさまざまな思考が湧いてしまい、一つの対象に心をとどめておくには努力が必要だからです。
現代人はとにかく考えすぎていて、一種の思考中毒のようなものです。考えることで様々な不安や苛立ちが起き、ストレスの原因となるので、心の安定には考えている時間を減らすことが大切です。この考えないという練習が瞑想の基本的なトレーニングです。瞑想はすぐに上手くできないかもしれませんが、繰り返し取り組むことで、集中力が付いてきます。また、ラージャ・ヨガの八支則については、これから説明しますが、このような段階を通して瞑想の集中を維持しやすい状態を作ることができます。このように、心の動きの停止状態にできるだけ止まっておこうと努力することがアヴィヤーサです。
ヴァイラーギヤとは、『ヨーガスートラ』にこう定義されています。「見たり聞いたりした対象に執着しないことがヴァイラーギヤである。最高のヴァイラーギヤとは、自己の本質がプルシャ(真我)であると悟ることにより、グナ(体や心)へ執着から解放されることである」と。ヴァイラーギヤとは、執着を捨てることです。執着とは、ある対象をまるで自分の一部、あるいは自分そのもののように捉えてしまい、それを守ろうとしたり、手放せないでいる態度のことです。執着によって、悩み苦しみが生じるので、これを手放さなければ私たちの心は平安になりません。特に、体や心に対する執着は大きな苦しみの原因です。この点について少し考えてみましょう。
まず、体は私たちにとって執着の対象になりやすいものです。「もっと鼻が高ければ可愛くなれるのに」とか「背が高ければモテるのに」と顔や体のことで悩んだ経験が誰にでもあるでしょう。また、体を自分だと思い込んでいるので、「病気になりたくない」「年を取りたくない」という不安が生じたり、「女優のような美しい顔に生まれたら、私の人生は幸福なのに」と悩んだりします。このように、体に対する執着によって、私たちの心は穏やかではなくなるのです。
心に対する執着は、自分の意見や考えに対して、それを自分そのものだと思い込んでしまうことです。特に思考は私たちにとって自分らしいもので、自分の思考を批判されると怒りが生じます。たとえば、仕事で必死に考えた企画を会議で発表したのに、それを周りから馬鹿にされた場合、まるで自分を馬鹿にされたり批判されたような怒りが生じます。つまり、自分が考えた企画は自分自身ではないのに、思考を自分だと思い込んで執着しているので怒りが生じるのです。
では、このような執着をどのように取り除けばよいのでしょうか。その方法をパタンジャリは、「私の本質がプルシャであると悟ることによって」と述べています。つまり、「私は心や体ではなく、純粋意識であるプルシャだ」という認識を強く持つことです。この場合は、「プルシャである私がなぜ仕事の企画を否定されて怒りを感じる必要があるのか」と考えてみると良いでしょう。私の考えた企画と私は違うものだからです。このように自己の本質がプルシャであり、プラクリティを自分だと思わないように、徹底的に識別することが、ヴァイラーギヤです。「私はプルシャであり、心や体はプラクリティであって、そこに実体はなく、常に変化するものだ」と考えることで、様々な執着の根源を絶ちきることができます。
体に関して言えば、私たちの洋氏は輪廻のたび毎に変わるのですから、今生はそれほど美しくなくても来世では美人かもしれないし、今生は美人でも来世はそうでないかもしれないと考えなくてはいけません。そして「毎生ごとに変わる顔に執着して、一体どんな意味があるのだろうか」と考え、執着を手放すべきです。また、体は年齢によって変化するものですから、年を取ることが悪いと思うのではなく、「体は変化するし、生まれては死ぬものである」と客観的に捉える必要があります。
同様に、心も変化するものですから、自分の考えが絶対に正しいと思うのではなく、「他人が批判するのであれば、そこに自分では気づかなかった可能性があるのではないか」と客観的に捉えてみると良いでしょう。自分の考えと自分は違うものなので、自分の考えに対する執着を手放せば、他人の意見を素直に聞くことができるようになります。このように日常生活の中で、プルシャとプラクリティの結合が起こりそうな出来事があれば、その度にアヴィヤーサを繰り返し、私とプラクリティを識別するのです。このための実際的な方法として、自分の怒りや欲望をよく観察してみると良いでしょう。
誰かに「あなたブスだね」と言われ腹が立ったら、「プルシャである私がプラクリティである顔を批判されて怒る必要があるだろうか」と考えて直してみましょう。「もっとお金が欲しい」という欲望があれば、「プラクリティであるお金を欲しがったところで、プルシャである私が幸福になるだろうか。お金によって様々な快楽を手に入れたとしても、それは相対的に苦しみを生むだけではないか。このようなものに執着して何になるだろう」と考えてお金に対する執着を手放します。
また、心に対しても同様に執着を手放すべきです。たとえば、「あなた頭悪いね」と馬鹿にされたとき、「プルシャである私が、プラクリティである心を馬鹿にされたことで怒る道理があるだろうか、心は私ではないのに」と考えて怒りを手放します。お酒を飲みたいと思ったら、「プルシャである私がなぜお酒を欲するのか。私の心がお酒を飲みたがっているだけで、私が飲みたがっているわけではない」と捉えて欲望を抑えます。このように、怒りや欲望をよく観察すれば、自分の執着の対象が明らかになります。むしろ、怒りや欲望をきっかけとして、プラクリティの束縛から自分を解放することができるのです。
もちろん、「美しくなろうとすることは悪いことだ」とか「お金を持ってはいけない」と言っているわけではありません。美人だろうがなかろうが、お金を持っていてもいなくても、執着を手放しておくことが大切です。それらに執着すれば、いずれ苦しみになってしまうからです。以上のように考えて、ヴァイラーギヤによって、心を浄化していくことは、ヨガの実践者だけではなく、本来は誰しもが行うべきことです。一般的に執着することはそれほど悪いことだと考えられていません。それは、物を大切にすること、あるいは一種の愛情として歓迎されてさえいます。しかし、執着が強ければ強いほど、その対象が失われたときには、私たちは胸を引き裂かれるような激しい心の苦しみを味わうことになります。
また、執着しているからといって、それが本当の愛であるという訳でもありません。執着によって相手を過度に束縛したり、自分の願望を押しつけたりと、不自然な形で現れてくる場合も多いからです。ですから、執着はできるだけ手放すことが心の安定にはとても大切なことなのです。さて、以上で、アヴィヤーサとヴァイラーギヤについて考えてきました。『ヨーガスートラ』の第一章では、心の作用を止める方法として、この二つが主要な実践として述べられていますが、第二章では、八支則の実習が求められています。そこで、次は、この八支則について詳しく考えていきましょう。
『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(7)
【目次】
『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(1)
『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(2)
『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(3)
『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(4)
『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(5)
『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(6)
『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(7)
『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(8)
『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(9)
『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(10)
『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(11)
『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(12)
『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(13)
バガヴァッド・ギーターの教え(ヨガの古典の経典を通してヨガを学ぶ)
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【監修者】 | 宮川涼 |
プロフィール | 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。 |