『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(11)

01 ヨガに於ける解脱とその難しさ

さて、これまでヨガに於ける究極の境地であるカイヴァリヤ、解脱について解説してきましたが、このような状態を皆さんが好き好んで求めるとは言えないと思います。もし、皆さんに「今生を最後にして、もうこれ以上生まれ変わりたくないと思いますか?」と聞くとすれば、殆どの皆さんが「いや、私はそこまで考えていません。また生まれ変わって、家族や友人たちと楽しく暮らしたいです」とお答えになるのではないでしょうか。一般的に私たちは、大切な家族や恋人、友人たちと今生のみならず、来世でもずっと一緒にいたいと願っています。また、この世には数々の楽しみがあり、また生まれ変わってこの世を満喫したいと思うでしょう。このように人生を楽観している人にとって、ラージャ・ヨガの究極の境地であるカイヴァリヤは殆ど価値のないものです。この世界を楽しめているのであれば、わざわざ解脱する必要はないし、解脱したいとも思わないからです。したがって、このようなヨガの境地に至る動機と熱意を一体どこから持ってくるのか、という大きな問題です。多くの人は、「悟り」という響きの中にある漠然としたイメージによって、これを求めたり、日々の苦しみで生じる苦しみを多少は減らしたいと思って、このようなヨガの話に興味を持つかも知れませんが、それでは動機としては不十分でしょう。

「この人生を生きているのは辛い」「この世から離れたい」「もう苦楽の波に揺れられるのは疲れた」というある種の深刻さが求められます。ですから、本記事のはじめに既にお話ししたように、この教えはこの世で苦しんでいる人のためのものであって、むしろ苦しんでいる人は幸いであるという見方もできるわけです。なぜなら、その人にとって解脱は近いからです。もちろん、今、この記事を読んでいるあなたにはそれほど深刻な問題はないかもしれません。しかし、いずれそのような深刻さに襲われる時期が来ないとも言えないでしょう。特に、今、人生の絶頂にある方は用心すべきです。心は相対的に苦楽を生むので、その喜びはいずれ苦しみとなって現れてくることに疑いはないからです。ですから、今そのような深刻さがなくても、未来に訪れる苦難のためにカイヴァリヤという避難所までのルートを確認しておく必要はあるでしょう。

02 肉体から離れる

では、ラージャ・ヨガによってカイヴァリヤに到達したとき、私たちは一体どのような状態になるのかもう少し考えてみましょう。カイヴァリヤでは、プルシャである私からプラクリティである心や体を引き離されるのですから、当然その人は肉体から離れることになりました。つまり、その人は死んでしまうのです。もちろん、プルシャの永続性や輪廻についてはお話してきましたので、これは一般的な意味での死ではありますが、プルシャが純粋な状態へ戻るという、修行者にとっての解放です。しかし、いずれにせよ、肉体から離れてしまうのだから、死ぬという事実は否定できません。

今お話ししたように、ラージャ・ヨガが最終的に死に向かっているとすれば、多くの方はそれを実践したいと思わなくなるでしょう。もちろん、ラージャ・ヨガのある段階で止めて、日常の怒りや不安を取り除く方法として利用することはできます。しかし、最終的にカイヴァリヤまで到達すれば死んでしまうわけですから、この方法を多くの人に勧めることができるかと聞かれれば、否定せざるを得ません。また、これは基本的に人生の最後に行うべきものであると考える必要があります。

このように、サマーディに入って、亡くなった人の肉体はしばらく腐ることがないと言われています。近代インドの聖者ヨガナンダは、『あるヨギーの自叙伝』という本の中で、同じような話に触れています。日本では、空海が有名ですが、空海(日本の仏教僧で、真言宗を日本に導入した人物です)も禅定に入ったまま亡くなり、その遺体は今でも高野山の奥の院に残っているという信仰があります。もちろん、現代まで空海の遺体があるかどうかはわかりませんが、サマーディに入って亡くなったのであれば、遺体は腐らずに長く残っていたのではないかと考えることもできます。

以上のようにラージャ・ヨガに関して言えば、それは自分の人生の役目を終えたひとがこの世から永遠に離れるための方法であって、「今の人生においてまだやり残したことがある」とか「この先も人々とかかわっていたい」と思うなら、その人にとって今生はまだ解脱の機会ではないかもしれません。そのために私たちは何度も生まれ変わるわけですから今生において無理にカイヴァリヤを目指す必要はないといえるでしょう。機会を見て、あるいはその人の要求に応じて、このラージャ・ヨガの段階を深めていけばよいと思います。

03 ヨガは、0に戻していく

解脱の理解のために、少し別の観点からでもお話ししましょう。「私たちはなぜ生まれてくるのか」「私たちは何のために生きているのか」という問題が昔からよく議論されてきました。人生を現象的な面から見ると、私たちは何も持たずに生まれてきたように思えます。全くにおいて他者に依存した赤ちゃんとして、言葉も、知識も、生き抜くすべも知らず、ただ泣いて生まれてくるからです。仮に赤ちゃんの状態をわかりやすく「0」の状態と呼べば、まさに、私たちの人生は、この「0」である状態に、少しずつ「1」を足していくように、言葉を身につけ、知識を身につけ、仕事や財産や家族や友人などを自分に足していくようなものです。こうして、「0」であった自分に少しずつ「1」が足されていくことで、この数が増えると私たちは幸福になると考えても良いでしょう。なぜなら、そのとき、私たちは家族や友人に恵まれ、知識にあふれ、体は強く健康で在り、仕事は充実し、財産を築いて豊かな生活をしているからです。もちろん、これは、一般的な意味での幸福と呼べると思います。

しかし、既に察されていた方も多いかもしれませんが、ヨガの思想では、この価値観を全く逆に考えています。つまり、私たちが生まれてくるのは前世からのサンスカーラの影響なので、0で生まれてくるのは前世からのサンスカーラの影響なので、0で生まれてくるわけではないと考えられるからです。つまり、解脱とはサンスカーラを消滅させることなので、この数を少しずづ減らしていって0に戻す作業であるといえます。しかし、なぜ世間的な価値観を逆転させなければならないのでしょうか。普通、私たちは自分の愛着あるもの喜ばしいものをできるだけ身のまわりにおいておきたいと思います。しかし、それらにどれだけ喜びや愛着を持とうが、結局のところ、それらはいずれ苦しみに変わってしまいます。長い人生の中で健康が失われたり、仕事やお金がなくなったり、家族が亡くなったりすることは明白な事実です。それは徐々に失われていくか、何かのきっかけで突然失われるか、あるいは死に際してすべて奪い去られるかでしょう。そして、これらに対する執着によって、次の生へと生まれ変わることになります。

ですから、『ヨーガ・スートラ』では、これらに対しての執着を手放していくことが苦しみからの解放であると教えてくれるわけです。つまり、一般的な価値観でいえば、数を増やしていくことが幸福だと考えていますが、むしろ逆で、この数が多ければ多いほど執着は増え、私たちに多くの苦しみの原因を与えてしまうと考えることができるからです。従って、悟りや解脱とは足し算ではなく、引き算であると考えることができるかもしれません。数を少しずつ減らしていって、0に戻す作業であるわけです。0に戻ったとき、私たちはあらゆる苦しみから解放されるわけです。このように大切だと思って、強く握りしめているものを、むしろ逆に手放していくことが悟りであり、ヨガの基本的な実践というのが、そこにあるということになるわけです。

04 透明なカルマ

それでは、執着を手放していくヨギー(ヨガをする修行者のこと)の心情とは一体どのようなものなのでしょうか。『ヨーガ・スートラ』には、次のように述べられています。「ヨギーのカルマ(行為)は白くも黒くもない。そのほかの人のカルマは、白、黒、灰色の三つに色分けすることができる。この三つのカルマは蓄積され、それが今生や来世で機会に応じて願望となって生じる」。ここで、パタンジャリは、ヨギーのカルマは黒でも白でもない、無色であるべきだと述べています。白はよいカルマ、黒は悪いカルマです。よい行いをすれば未来でよい結果となって現れ、悪い行いをすれば悪い結果となって現れてきます。また、善と悪の入り交じった灰色のカルマがあることになります。グレーゾーンとでもいうべきでしょうか。一般的に、悟りを開いた人は誰にでも優しく、苦しんでいる人のために働く人格者であると思われています。このように良い行いをすることは、白いカルマです。ヨガの悟りとは、この白いカルマをたくさん行い功徳を積み重ねていくことのように思ってしまいますが、パタンジャリはそうではないと考えるわけですね。つまり、良い行いをすれば、それもまた来世に生まれ変わる種になるのであって、良い行いに対しても無関心でなければ解脱には至らないと考えるからです。

では、ここでいわれているヨギーの無色のカルマとは一体どういう行為なのでしょうか。それは、何も行為しないということになります。「行為をしないのであれば生きていけないのではないか」とういう話になりますが、そういう意味ではありません。これは、願望や意図のない行為、サンスカーラを生じない行為のことです。私たちが生きていく上で、食事をしたり、眠ったり、排泄をしたりすることは必要なことです。排泄をするとき、「トイレに行きたい」という欲求はありますが、「早くトイレに行きたくならないかな」という願望はあまり聞かないと思います。このような純粋に身体を維持するための行為ではサンスカーラが生じることはありません。しかし、例えば、食事などに対してあれが食べたい、これが食べたいという欲望があれば、それは願望のある行為ということになり、サンスカーラが生じます。このように考えてみると、解脱を求める人は、何も求めずにただ生きていくという、非常に消極的な人間像ができあがります。

もちろん、皆さんはこのような態度に対して何ら魅力を感じないかもしれません。しかし、世界から離れようとしている人が世界に対して積極的に働きかけるということは不自然ですから、解脱という観点で見れば、これは全くヨガ的には正しい態度ということになります。このように、ただそのまま、あるがままの自分として何も求めずに生きていくといういう身で、瞑想は非常に肯定される行為になります。瞑想は何かの目的のための手段としての行為ではなく、何も行為しない行為だからです。つまり、その人は何も願望を持たずにただ座っているだけなので、瞑想によってサンスカーラが生じることはないのです。『ヨーガ・スートラ』には「瞑想による心の集中状態では、カルマの蓄積は生じない」とあります。私たちが苦しみ原因の一つは、強い願望を持っているかどうかという点にあります。「お金持ちになってもっと良い暮らしをしたい」「成功してみんなに認められたい」「いつもドキドキする恋愛をしていたい」など様々な願望を持って行為しているので、生きることに欠乏感や不満を感じてしまいます。願望を持たず、目標をもたず、ありのままの自分を受け入れたとき、そこに苦しみ生まれず、心は静寂になります。

このように考えてみると、ヨガでいう解脱とは、「私は悟ったぞ」とか「私はサマーディを得ました」というように、何かを獲得して喜ぶような達成感のあるものではないということになります。それは何もせず、誰にも知られずに、ただひっそりと世界から離れていくようなものだからです。このように、解脱とは、世界に対して消極的な、無関心な態度を向けることです。「愛の反対は、憎しみではなく、無関心である」という有名な言葉がありますが、「愛の反対は解脱である」ともいえます。私が目を閉じて瞑想をすれば、世界で何が起きていようとも私は至福です。しかし、目を開けて世界を見るとそこには様々な問題があり、それらと積極的に関わるなら、心は乱れ瞑想は進まないでしょう。このような意味で、『ヨーガ・スートラ』の中では、積極的な愛についてはほとんど言及していません。パタンジャリのような聖者が、愛について消極的なのは、現代の私たちにとっては少し不満に感じる点かもしれません。他者や世界に対して無関心な態度をとることは、薄情であるとか無責任であると感じる方もいることでしょう。確かに、そうした側面があることは否定できないと思います。しかし、ラージャ・ヨガが求める最高の境地カイヴァリヤを実現すれば、プラクリティである世界と断絶するために、他者と関わることも、また他者を救うこともできなくなります。

パタンジャリは『ヨーガ・スートラ』で「見られるものは共有性よって、存在しているので、解脱した人にとって消滅しているが、他の人にとっては存在し続けている」と書いています。ヨガにおける解脱は、確かに、その人にとっての解放です。しかし、他の人にとってはそうではありません。ヨガで解脱を達成した人以外は、以前と変わらず同じように苦楽の世界に生きています。つまり、解脱した人だけが至福を実現するのであって、人類全体が幸福になるわけではないわけです。サーンキヤ哲学では、私たちの本質であるプルシャは多数存在すると考えています。人間のプルシャが一つしかなければ、一人の解脱は人類全体の解脱になるかもいしれません。しかし、プルシャは複数存在するので、世界の消滅と苦しみからの解放は解脱した人だけに起きており、他の人にはまだ苦しみの世界が引き続き存在しているのです。

05 ヨガにおける他力の思想

これまで見てきたように、『ヨーガ・スートラ』の思想の中には、「この私さえ苦しみから解放されればそれでよい」という自己中心的な考え方がないとは言い切れません。もちろん、自分の幸福を実現することに、何ら批判される謂れはないともいえるでしょう。しかし、他方で他の人々はそのままで良いのか。多くの人がまだ真理を悟らずに苦しんでいるというのに、その人たちを放っておいて自分だけが解放されることが果たして正しいことなのか、という問題があると思います。これは、実はヨガ思想だけではなく、仏教などでも取り上げられた問題でした。初期仏教は、ラージャ・ヨガと同じく、自己の解脱だけを目指していました。しかし、その後現れてきた大乗仏教には、自分の解放だけではよしとせず、如何にして他者をも救うことができるのかという問題が盛り込まれるようになったからです。この他者というのは、ラージャ・ヨガのような厳しい規則に耐えることができない私たち一般大衆のことです。多くの人は、なぜ自分に苦しみが起きているのか理解せず、心を喜ばせることで自分は幸福になると思い込んでいます。仮に、このような人たちに禁欲や無執着を勧めたところで、一体誰がこの規則をまともに実践できるというのでしょうか。結局のところ、このような厳しい教えには誰も本気で耳を貸さないでしょうし、興味本位でこのような方法について知りたがっている人も、それを聞いたとたん自分にはとても無理だと思ってすぐに諦めてしまうでしょう。このような状況の中で、自力ではなく他力によって救われようという考え方が広まってきました。これは1世紀頃から広がりだしたヒンドゥー教や大乗仏教の思想に共通する特徴です。日本でも、とりわけ、大乗仏教の阿弥陀信仰が大きな影響力を持ちました。つまり、一般の私たちが自力で解脱することは大変困難なので、阿弥陀如来という神様(仏様)に救ってもらおうと考えたわけです。この問題について、次の記事で考えてみましょう。

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(12)

【目次】

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(1

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(2)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(3)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(4)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(5)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(6)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(7)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(8)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(9)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(10)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(11)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(12)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(13)

バガヴァッド・ギーターの教え(ヨガの古典の経典を通してヨガを学ぶ)

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【監修者】宮川涼
プロフィール早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。

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