『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(10)
01 ラージャ・ヨガにおけるサマーパッティ(合一)
瞑想が深まっていくと、集中している対象と自分の心は徐々に一体となります。その結合が持続されている状態が、サマーパッティ(合一)です。『ヨーガ・スートラ』にはこう書いてあります。「透明な水晶が近くに置かれたものの色や形を映すように、心の動きが抑制さえれたヨギーの認識主体と認識過程は、認識対象と1つになっている。これがサマーパッティ(合一)である。」とあります。私たちの心の動きの多くは、基本的に自分と自分以外のものを分けることで成り立っています。つまり、呼吸に集中しているときは、心が呼吸に集中しているのであって、心と呼吸は違うものとして認識されているはずです。ですが、瞑想が深まり、この区別が取り払われたなら、心と呼吸に違いはありません。心は呼吸と合一し、呼吸そのものになっているのです。これは自分と他人を区別するアハンカーラが消滅していくために、このように対象と自分が一体となっていくのです。これは段階的に進んでいきますが、心が対象と合一したとき、ヨガの目的である心が殆ど動かなくなります。
02 ヨガの瞑想を極めることで対象から意味が失われる
さて、『ヨーガ・スートラ』は次のように話を進めます。「サヴィタルカ・サマーパッティでは、瞑想の対象に対する言葉、形、知識、言葉による概念がまだ混在している。記憶が消え去り、対象の形だけが照らされ、それ自体の有り様が空のようになっていること。これがニルヴィタルカ・サマーパッティである。」。ここで述べられているサヴィタルカ・サマーパッティは、先程のサンプラジュニャータ・サマーディで説明した対象の知識がまだ残っている状態です。では、次のニルヴィタルカ・サマーパッティとはどのような心の状態なのでしょうか、少し考えてみましょう。
この心の状態では、対象の形だけが残り、対象の意味は失われています。私たちは、普段、対象の形に様々な意味や印象を持っています。例えば、リンゴを見ると、それは単に丸くて赤い物体として見えるのではなく、甘くて美味しそうな果物として見ています。このように見えるのは、その対象に対して、リンゴという言葉、そしてリンゴから連想される知識や経験が付随しているからです。ですから、私たちは、物そのものの純粋な有り様を見ているのではなく、記憶と知識によって物を見ているということになります。では、このリンゴからこれらの記憶や知識を全て取り去ってしまったらどうでしょう。全く意味を持たないただの物体となって目の前に現れてきます。そこに存在はしていますが、形としては見ているだけで私たちの心に何も印象を投げかけてこなくなるのです。
このような状態を、その存在が空になったと理解するすることができます。空は仏教の『般若心経』にも出てくる言葉ですが、サンスクリット語ではスンニャーという語で、実態のない、あるいは物がそこにないような状態を表しています。これは、心理学のゲシュタルト崩壊とよく似ています。ゲシュタルト崩壊は知覚における現象のひとつで、全体性を持ったまとまりのある構造(Gestalt, 形態)から全体性が失われ、個々の構成部分にバラバラに切り離して認識し直されてしまう現象を指します。例えば、文字などをずっと見ていると、その形の一部に意識が集中してしまって、その文字の意味が失われてしまうのです。試しに少しやってみましょう。「家」という漢字があります。この漢字を見ると、私たちの心にはその人の記憶によって様々な印象が浮かんできます。それは「あったかい家庭」というような印象だったり、大工さんだったら「建築としての家」という印象が思い浮かんでくるかもしれません。
では、次に「家」から「宀」(うかんむり)を抜いた図を想像してみましょう。このような漢字は存在しないので、この字を見ているだけでは何の印象も浮かんでこないはずです。この形をじっと見てから、また「家」を見ると、今まで「家」という漢字によって連想されていたものが消えて、単なる図像として見えてくるのではないでしょうか。このように、その意味が消えて、ただカタチだけとなるような状態を空と考えることができます。対象に付随していた記憶が一切失われてしまうしまうなら、それはただの形になってしまって、私たちに欲望などの心の作用を生じさせることがなくなるのです。あるいは、甘い物が好きな人はケーキを見ると食べたくなるでしょう。この心の作用は、これまでの経験から生じているのであって、この印象が消えてしまえば、私たちがケーキを見ても食べたいと感じることはなくなるでしょうし、ケーキだとすら認識しなくなるのです。このように、瞑想によって対象から意味が一切失われてしまう状態が、ニルヴィタルカ・サマーパッティです。このように世界から意味が失われ、空っぽのように認識されるなら、そこに苦楽の原因となるサンスカーラが生じる隙がなくなってしまうのです。
03 識別のない心の状態
そして、さらに精妙な対象におけるサヴィチャーラ・サマーパッティとニルヴィタルカ・サマーパッティがある。精妙な対象は、プラクリティの根源状態へと還元される、と『ヨーガ・スートラ』に記されています。さらに、ヨガの瞑想を進め、心の作用の停止を進めてみましょう。ここでは、心の根源的な作用であったブッディの働きがなくなってしまいます。つまり、心は世界を識別することを辞め、あらゆるものはその本質的な状態、プラクリティの根源状態へと還元されるのです。つまり、前述の」ニルヴィタルカ・サマーパッティでは、その形としての識別(リンゴであれば、丸くて赤いという区別)がありましたが、ニルヴィタルカ・サマーパッティでは、その区別ですらなく、あらゆるものを根源的な状態として見るのです。これが、ただあるがままの世界です。つまり、このとき私たちは、心の作用を通さずに、世界を見ていることになります。そこでは、私たちが普段生活しているような世界とは全く別の世界が現れてきます。しかし、これは何も世界が変化したわけではありません。心のフィルターを外して世界を見ているために、今までとは全く違う世界として認識されるのです。
瞑想中、あるいは何かの拍子に、一時的にこれに近い体験をすることがあります。これは一瞥体験や悟り体験などと呼ばれることがあります。心の識別作用が止まった世界を見ると、「私の存在は宇宙全体と全く同じだ。私は宇宙全体と一体化している」と感じるのです。このような体験は、大変神秘的なものですが、つかの間のその時間が終われば、また普段の心の作用に戻ってしまいます。この感覚のまま日常生活を送ることはできないからです。こういった体験によって人生が一変すると感じたり思う人が多いようですが、そうはなりません。普段の生活に戻ればまた不安が襲ってきたり、何かに執着するようになるからです。このように煩悩が生じれば、また以前と同じように快不快の体験を繰り返すことになります。結局、このような体験をしただけでは、完全な心の平安を確立することはできないのです。
もちろん、こういった神秘体験が偽物だと言っているわけではありませんが、このような体験にはある種の誘惑があり、「私は悟った」と思い込んだり、「私はこれこれの体験をした」といって自慢したり、自分を覚醒者であると勘違いして、傲慢になってしまう危険性があります。また、繰り返し同じ体験をしたいという願望に囚われ、苦しみの原因となることもあるので、注意しなければなりません。従って、悟り体験だけを求めるよりは、パタンジャリが述べたように、アヴィヤーサとヴァイラーギヤを繰り返し行い、日常生活の中から欲望や執着を取り除くことの方がよほど大切です。つまり、サンスカーラを消化し、新たなサンスカーラを作らないようにしなければ、結局、その人の人生には苦楽がついて回るからです。一時の体験だけで、その人が苦楽の世界から解放されることはないわけです。
04 ヨガに於ける絶対的真理の獲得
では、話を続けましょう。以上のように世界全体がプラクリティの根源的な状態へと還元されたとき、結合された世界とそれを見ているプルシャの2つが残っていることになります。『ヨーガ・スートラ』にはこう書かれています。「ニルヴィタルカ・サマーパッティによって、一切の汚れが浄化されると、真の自己が照らし出される。このとき、絶対的真理を見る。この絶対的真理は、聖典で学んだり、推察された知識とは全く異なっている。なぜなら、それらの知識は特定の対象に限定されているから。この絶対的真理の印象によって、全てのサンスカーラが消える。(中略)識別智を確立した人は、最上の知識に対しても無関心になる。これをダルマメーガ・サマーディと呼ぶ。このサマーディによって、煩悩とカルマが消える。そのとき、智惠を覆っていた汚れはすべて取り除かれ、現れてくる無限の智惠によって、これ以上知るべきものはなくなる」と。このように智惠のサマーディをダルマメーガ・サマーディ(法雲三昧)と呼んでいます。智惠とは、一般的な知識を指す知恵のことではなく、涅槃や宇宙の原理などの真理を洞察する知性のことです。では、このとき私たちに現れる智惠というのは一体どのようなものなのでしょうか。それは、私たちが認識している世界は心の作用によって作り出された幻影であり、実態のないものであるという事実です。私たちがあらゆる外的な惑わし、つまり心の作用が完全に停止したとき、その宇宙の構造は初めて姿を現します。
それは、このような瞑想状態においては可能ではないかと思うのです。つまり、私たちがあらゆる外的な惑わし、つまり心の作用が完全に停止したとき、その宇宙の構造が姿を現し、それまで伝え聞いたり、推測することしかできなかったものが目の前に現れてきます。このような智惠は個人の智惠ではなく、宇宙の智惠、あるいは神の智惠と呼ぶことができるかもしれません。この印象によって、それまでの個人のサンスカーラは全て消し飛んでしまうことでしょう。ちょうど、燦然と輝く太陽の下では、マッチの光が殆ど何も影響を与えないようにです。宇宙の根源的な状態を知ることができれば、この小さな個人の存在は希薄になり、私という個人の枠を消えて全体に溶け込むのです。
05 ヨガに於ける最後のサマーディ、カイヴァリヤへ
『ヨーガ・スートラ』では、「この印象すらなくなったら、一切が消滅する。これがニルヴィージャ・サマーディである。(中略)グナがプラクリティの原初の姿へ戻れば、そのとき、カイヴァリヤは実現する。プルシャの目的はなくなり、純粋意識は本来の状態へと戻る」とありますが、これが最後のサマーディです。ニルヴィチャーラ・サマーパティによって得られた智惠の印象さえ失われたなら、私たちはカイヴァリヤに赴きます。つまり、プルシャとプラクリティの関係は絶たれ、プルシャだけが純粋なままで残るのです。これでようやく、ヨガにおける最後の目的地カイヴァリヤまでたどり着いたことになります。しかし、このような状態について私たちは一体何を語れば良いのでしょうか。語るべき言葉が何かあるのでしょうか。つまり、最終的に到達する印象が光や闇であれば、それはまだ見るべき対象があり、「私は光に包まれている」とか「私は闇の中にいる」と表現することができます。しかし、光や闇ですらないもの、純粋な意識の有り様については完全に沈黙するしかありません。それは、私たち人間の知性では捉えることができないものだからです。しかし、このような状態を実現することに一体どのような意味があるのでしょうか。
既にお話ししてきたように、カイヴァリヤに達すれば、プラクリティである世界とは断絶されて、プルシャが完全に独立した存在になります。心も体もなく、あらゆる印象は消滅しているので、再び生まれ変わる輪廻転生は終わりました。しかしながら、そこには家族や友人もいませんし、豪華な宮殿もありません。美味しい食事や優雅な音楽、香しい匂いもありません。当然ながら、修行者は八支即の最初の段階でこのような感覚的欲望は捨ててきたので、こういったいわゆる楽園や天国のようなものを求めていないはずですね。もちろん、ヨガの究極的な境地の中に、人としてなにか喜ばしいものを見いだしたいという心情は理解出来ます。頑張って勉強して第一志望の大学に合格したのに、何のご褒美も貰えないのでは落胆するでしょう。ですが、これは私たちの損得勘定では測りきれない悟りの境地です。心の作用は快感によって執着を生み、それが苦の原因となることはすでに学んできましたから、この点は理解されるでしょう。ですから一般的に想像される極楽のようなものがあるとすれば、それは苦の原因となり、結果的に心にはまた苦楽に束縛されてしまうことになります。仏教では、六道輪廻という考え方があります。六道とは、天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道の6つの世界のことです。私たちがいるのは人間道ですが、これよりも低い世界として、戦いを好む人が行く修羅道や動物が住む畜生道、飢えや渇きに苦しむ餓鬼道、悪人が裁きを受ける地獄道などがあります。
この6つの中に神々の住む天道もあります。ここには他の六道に比べれば高い世界なので快楽がありますが、それもまた輪廻の輪の中に属しています。つまり、天国もまた輪廻の輪の中の1つであって、通過点にしか過ぎないと考えることができるのです。『ヨーガ・スートラ』にも次のような節があります。「プラクリティに束縛されている者は、神々であっても繰り返し生まれ変わる。その他の人々(ヨギー)は、信念、努力、聖典、サマーディ、智惠によって解脱する」と。この節の神々とは、イーシュヴァラではなく、天界に住む天使のような存在を指します。つまり、神々の住む天国のような場所であっても、そこはまだプラクリティの世界であり、それに対する執着があれば、また生まれ変わることになります。プラクリティの束縛から解放されたヨギーだけが解脱すると述べているのです。このような意味において、解脱は輪廻の輪から外れており、一切の苦楽がない世界です。また、プラクリティという対象がないわけですから、誰かと話すこともなく、何かを見ることも、味わうことも、嗅ぐことも、触ることもありません。このような状態を私たちの知っている言葉で喩えるならば、「無」です。
「それは孤独で辛いものではないでしょうか?」と疑問に思う方がいるかもしれません。しかし、孤独は私たちが心によって作り出した大きな幻想の1つです。それはアハンカーラによって生じた一種の誤解だからです。肉体を自分だと思い込み、私と他人は隔てられていると考えることによって孤独が生まれるのです。これは単なる夢で、人間存在の本質に孤独はありません。このように解脱とは、心の作用による幸福ではなく、アートマンの至福だけが存在す最高の境地であると言えます。
『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(11)
【目次】
『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(1)
『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(2)
『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(3)
『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(4)
『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(5)
『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(6)
『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(7)
『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(8)
『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(9)
『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(10)
『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(11)
『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(12)
『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(13)
バガヴァッド・ギーターの教え(ヨガの古典の経典を通してヨガを学ぶ)
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【監修者】 | 宮川涼 |
プロフィール | 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。 |