はじめて学ぶヨガ哲学~エクササイズとしてのヨガを超えて(2)
この記事では、前回に続き、単なるエクササイズとしてのヨガを超えて、より豊かな人生、Well Beingを実現するためのヨガ、とりわけ『ヨーガスートラ』にフォーカスして、ヨガ哲学を紹介しています。
10 ヨガを通じて苦悩を収める2つの方法
サンスクリット語では、「アッビャーサ・ヴァイラーギャービャーン タン ニローダハ」と書いてあります。これは、アッビャーサ(繰り返しの練習)とヴァイラーギャ(正しい見極め)によって、苦悩の原因となるヴルッティ(考えの動き)は二ローダ(ケアすること)ができます、という意味です。パタンジャリは、苦悩の原因となる考えに簡単に自分を奪われ、揺れないようにするため、考えを収めることがヨガだと言いました。ヨガとは、真実を正しく見極め、心が揺れるたびに何度も繰り返し意志で引き戻すことで、具体的には、ヨガの瞑想を練習することで、心を収めることは可能だといいます。ヨガの瞑想を通じて、心の奴隷になるのではなく、自分が心を扱う王として中心にいるように、意識的に心を収めるようにする練習と努力が、必要であるわけです。
自分自身の中心で、心という道具をしっかり観て、使いこなすこと。進むべき目的に向かってまっすぐ進むことが、世界を恐れず自由に生きるヨガの生き方になります。自分を見失わず、前向きに努力して、日々を過ごすことでヨガのゴールは必ず達成されます。『ヨーガスートラ』第一章の5節目では、私たちを苦悩させるクリシュタ(苦悩をもたらす考え)を見極めることがヴァイラーギャ(見極め)だと記されていました。心の動きをよくみて、アクリシュタ(苦悩に繋がらない考え)を知り、理解を深めるための瞑想を繰り返しを実践することhがアッビャーサ(繰り返しの練習)です。ヴァイラーギャ(見極め)とアッビャーサ(繰り返しの練習)、この2つでヨガは必ず成功に私たちを導いてくれるとパタンジャリはいいます。
11 ヨガは繰り返しの練習で成功する
サンスクリット語では、「タットラ スティタウ ヤットナハ アッビャーサハ」とあります。これは、ヨガにおいて、意図的に繰り返し努力し続けることが、アッビャーサ(繰り返しの練習)ですという意味です。パタンジャリが示したヨガの定義は、「考えの動きを静かに収めること」でした。「揺れ動き、ふわふわ変わる考えに自分を奪われないように、自分の心のハンドルを握っておくこと」。そんな強い意志のもとにヨガの成功はあります。心や感情に流されそうになっても諦めず、何度も自分で心を扱う努力を続けることがアッビャーサです。
ヨガを達成するには、自分の成し遂げたいことはなにか。ヨガをしてどうなりたいのか。ゴールをきちんと見据え、そのために必要なことを選び、妨げになる障害を持ち、揺れない指針に従うことが大事です。自分の目指すこと、そのために必要なことを見極めたら、後は繰り返し、地道に練習を重ねるだけです。何度も諦めずに繰り返し練習すれば、誰でも必ずヨガは達成できるとパタンジャリは言っています。
12 ヨガの練習は長く、途切れなく
サンスクリット語では、「サ トゥ ディールガカーラ ナイランタルヤ サッカーラ アーセーヴィタ ドゥルダブーミヒ」とあります。これはアッビャーサ(繰り返しの練習)は長い時間、途切れることなく、自然にできるようになるまで、誠実な気持ちで続けることです、という意味です。一つ前のスートラで、パタンジャリはアッビャーサ(繰り返しの練習)は努力すること、だと言いました。ヨガの努力は、もう努力する必要がないほど、自然にヨガの生き方ができるようになるまで続けることです。暴力的なことをしない、嘘をつかない、盗まない、ため込まない。ヨガの指針が、自分の自然な習慣になるまで努力します。努力で心を磨き、真実の知識にぴったりと一致し、自由で快適なままでいることができるまで、何度も諦めずに続けること。ヨガの生き方が、毎日の生活の中で生かされ、瞑想やヨガの練習が一日の生活の中で当たり前のように組み込まれていること。たくさんの人々と関わりながら、忙しい毎日を生きながらも、淡々とヨガの教えに行いが一致するように気をつけていること。そんな生活が自然になるまでは、意識的な努力が必要です。
ヨガの練習もし、呼吸法も、瞑想も、心を磨く生き方も、特別なイベントではありません。月に1度、週に1度、時々思い出したようにすることではありません。もちろん、ヨガのレッスンを受けに行くということは、週に一回で良いかもしれません。しかし、ヨガはレッスンの時だけにするものではないとパタンジャリは言っています。生き方全体を、自分を高める方法に変えるように決意し、淡々と実行することがゴールに繋がるのがヨガなのです。努力しなくても静かな時間を心地よく思い、いつの間にか体と呼吸を整えることが朝の習慣になり、寝る前に一日を振り返り、自分と向き合う時間を続けていた、というように生活全体が変わるまで、繰り返し練習して続けることが大切です。インドの賢者はこう言っています。
「もしあなたが優しい人でありたいなら、優しい振る舞いや言葉を、初めは意識して、努力して行うのです。いつも意識的に繰り返すことで、いつかその優しさは、意識しなくても自然にできるようになっているでしょう。自分のつく嘘や暴力的な発言に敏感になり、無意識に避けるようになっているはずです。そこまで人やアッビャーサ(繰り返しの練習)を続けることができます。日々の行いで、身につけたい習慣や思いは、その心地よさから、やめたくても、やめられなくなっているはずです。そのとき人は、本当に優しい人、大きい人となります。心からわき上がり慈悲にあふれる人となるのです。ヨガは人を高める道であり、ヨガをすることで人は決して後戻りをしません」
そうなるには、とても長い時間がかかるかもしれません。もしかしたら残りの人生の時間がすべて必要になるかもしれません。それでも長い時間の努力が、成熟と誇りを与え、ヨガの努力は必ず報われます。行いに責任を持ち、体にも心にも最適な過ごし方を考え、実行することを自然に気持ちよく、楽しく感じるはずです。ヨガはあまりの気持ちよさの、辞める理由が見つからなくなってしまうといいます。規則正しい生活や暮らしや自分の優しさや慈悲深い態度に、清々しさや喜びを覚え、心地よさを維持するように楽しく続けていれば、ヨガは一生を通して自分のものになるはずです。慈悲深さが自然の振る舞いになるまで、優しい言葉が当たり前のように口から出るまで、自分の心を調査させ、心にも体も朗らかできるように、ヨガは何度も繰り返し続けることができます。
ヤマ(気をつけること)、ニヤマ(するべきこと)、そしてヨガを達成するための努力が、毎日の習慣となるまで丁寧に、途切れることなく、続けることがアッビャーサ(繰り返しの練習)で、また心が二ローダ(ケア)されること、そして、静かに包み込まれることを、このスートラでは、ドゥルダ・ブーミヒ)静寂の境位、自己に深く至ること)という言葉で表現されています。ドゥルダ(確実に、揺らがない)ブーミ(ヨガの達成)、それはアッビャーサ(繰り返しの練習)によってなされるとパタンジャリは言っています。
13 ヨガではありのままを見極める
サンスクリット語では、「ドルシュタ・アヌシュラヴィカ・ヴィシャヤ・ヴィトルシュナッシャ」とあります。これは、五感で感じることや人の話や本で聞いたことに対しても、簡単に惑わされず、強い欲に心が囚われていない人の心の状態をヴァイラーギャ(見極めがある状態)といいます、という意味です。ヴァイラーギャはヨガを達成するために大事な方法の一つです。物や人に過剰に期待を上乗せした欲望に駆られると、物事のありのままが見えなくなってしまうことがよくあると思います。たとえば、恋愛においては作家スタンダールの結晶化作用なども有名ですね。
On se plaît à orner de mille perfections une femme de laquelle on est sûr ; on se détaille tout son bonheur avec une complaisance infinie. Cela se réduit à exagérer une propriété superbe, qui vient de nous tomber du ciel, que l’on ne connaît pas, et de la possession de laquelle on est assuré.
(自分が(相手の愛を)確かだと思える女性を、数多くの完全さ(美点)で飾るのを楽しいと思う。自分の幸福全体を、無限の喜びを持って自らにこまごまと語る。そのことは結局、素晴らしい所有物(愛する女性の美点)を誇張することになる。その所有物は、今しがた空から私たちのもとに落ちて来たのであり、それについて知らないのだが、それを所有していることは確信している。)
スタンダール『恋愛論』
そして、心はいつも「気になる物(人)をどうやって手に入れようか」という計画や心配で忙しく、心が忙しいと、自分自身を観る時間もゆとりもなくなってしまいます。落ち着いて瞑想すべきときなのに、目を閉じた途端、ものことや也人のことばかり考えてしまうことはありませんか?
それに気づいたら、ヴァイラーギャ(ありのままに観る)な態度と、心が囚われていることから離れるヨガの練習を真剣にする絶好のタイミングです。ヴァイラーギャ(見極め)とは、物や人に対して、どれだけ自由なバランス感覚をもっていることができるか、という物事に対する態度のことです。物の本当の価値を、ありのままに観ることができる心のあり方を意味しています。
物や人に対してもほどよい距離感をもって、依存することなく、囚われずにいること。心を欲望や真お会いでいっぱいにしておくのは、もったいないことですよとパタンジャリは言います。他人や物で心が詰まると、静かに自分に向き合う(ヨガの)瞑想ができません。たとえ瞑想のために座っても、雑念やフラッシュバックする残像にあっという間に乱れてしまうでしょう。極端に言えば、心的外傷後ストレス障害(PTSD)のように、日常的なストレスをはるかに超える外傷的な出来事(トラウマ体験)があり、その後、その出来事がフラッシュバック
したり、関係する事柄を回避したり、否定的な感情が強まったり、過覚醒などを伴う疾患を煩ってしまうこともあります。
貪欲に求め、執着し、失うことの不安で心をいっぱいにして、心が忙しくなっていませんか?関わる人々、過去に関わった人、未来に出会う人に対する期待、後悔、恐怖、心配に囚われていませんか?自分だけの見方で他人を評価し、誰かと自分を比べて自分を卑下していませんか?ヨガは、物や人に対して客観的に、あるがままを受け止める態度を養うことでもあります。囚われず、恐れず、依存せず、逃げて引きこもることもありません。どんな関係でも、自分の求められていることを知り、冷静に状況を見て、程よいバランス感覚で、心をいつも風のように自由に流す方法を教えます。そのために私たちが養うべき大事な質が、ヴァイラーギャ(見極め)なのです。
『ヨーガスートラ』の中で繰り返し強調される、成功のために磨くべき性質の1つが、ヴァイラーギャ(見極め)です。関わる物や人に対して、程よい距離とバランス感覚を保つこと。物は私が使う物です。そして、他人は、私が関係を持ち、その中で、お互いの課題を学び合うための相手です。人生の主役であるはずの私が、物をもたれ、物に使われ、他人に生き方をコントロールされてしまっては貴重な人生が奪われ、苦悩や不安で心がいつも苦しくなってしまうでしょう。マルクスの疎外理論(人間が、 自己の作り出したもの(生産物・制度など)によって支配される状況、さらに、人間が生活 のための仕事に充足を見出せず、人間関係が主として利害打算の関係と化し、人間性を喪失 しつつある状況のこと)にも通底するものがありますね。
こうして他人の顔色ばかりうかがって、ビクビクし、媚びへつらい、逆に威嚇して怖がらせるようなことをし、損得勘定だけで人と付き合っていたとすれば、心は外の人に奪われてしまいます。他人は元々、私たちを悩ませる力は持っていません。物も私たちを苦しめる力を持っていません。もし私たちが、他人の自由を認め、依存せず、期待せず、自分の価値観や思いを押しつけず、大切に思う気持ちだけを持っていたら、お互いを苦しめ合う理由もありません。でも、身近な人間関係が私たちを悩ませるように思うのは、そこに他人の自由を認めない自分の狭いこだわりがあるからではないか、と問いかける必要があるかもしれません。
ヨガで肝心なことは、外の物と人に対する適切な距離感、バランス感覚のヴァイラーギャ(見極め)を保つことです。お互いの自由を認め、調和をし続ける広い心と、思いやりと優しさを持つこと。物と人は既存と期待を持ちすぎれば、裏切られ、傷つけ、傷つけられる苦悩を生む原因となってしまうでしょう、物と人とのありのままを見極め、頼りすぎず、拒絶せず、バランスを保つように自分の考えを整理して、冷静なスペースをあけて自由に保っていることがヴァイラーギャの意味です。そして、外の世界をありのままに観ることができるようになるまで、持つべき態度がヴァイラーギャ(見極め)なので、それには以下の4つのステップがあります。
私たちは、一瞬で心に「ほしい!」という衝動が走ります。そんな風に魅力的に映る物に対して、どのようにヴァイラーギャ(見極め)を養うべきか。欲望のあまり、心が激しく揺さぶられる状態から、「今の私に必要がないな」と涼しい態度で、物から自由でいることができるまで、徐々に高めるべき4段階のヴァイラーギャ(見極め)をみてみましょう。ヴァイラーギャー(客観的態度)は、物の価値を正しく見極めること。
貪欲に追い求めることでも、拒絶し、無視して、強情になることでもありません。ありのままのことを、ありのままにみて、心が動かされない強さがあるということです。たとえ欲望が心に湧き上がっても、ヴァイラーギャ(見極め)の態度が磨かれると、こんな風に対応できます。
第一段階:確認 努力の見極め(ヤタマーナ・ヴァイラーギャ)
それは本当に必要なのか?意識的に努力して、物の価値を見極めるようにします。魅力的に思う物は、本当に必要か。それとも幻想の欲望なのか。欲しいという思いが沸き起こっても、物の価値の真価を問い、自分が持つべき物かどうかを見極めることができるようになるのが第一段階です。「欲しいなあ」と思っていても、欲しいという感情より、必要かどうか、という客感的事実を意図的に、努力して見極めるように分析します。「それに本当に価値があるのか?自分が持つことに意味があるか?」。ここをよくみて、持つ価値がある、必要があると判断したものは手に入れて大事に使い、それ以上心に物を占領されないようにします。もし、意志と努力で見極め、今の時点で自分に必要ない、持つ価値がないと分かったら、持たないようにします。
手に入れなくても大丈夫、そう決めたら潔く立ち去り、自分の気持ちを奪う物から離れます。それ以上、心が囚われないように。物で頭を忙しくし、気持ちを揺さぶられないように。さっぱりと見極め、悩みの種をにろーだ(収める)こと。ヴァイラーギャ(見極め)の最初のステップは、物事の真価を問い、欲望と必要を見極めること。その態度をヤタマーナ・ヴァイラーギャ(冷静に価値を分析して見極めること)といいます。
第二段階:自信 さらに見極め続ける(ヴァティレーカ・ヴァイラーギャ)
見極めたことに自信を持ち、自分の意志と判断力を確認し、さらに鋭く真価を見極めること。ヨガをする前と比べて、自分が物に心を躍らされていないか。気持ちを囚われていないかを確かめる段階です。前に欲しくてどうしようもなくなったら、欲望に駆られるままに手に入れていたかもしれません。でも、本当に必要か。それとも雰囲気や気分だけでほしがっているだけなのか?第一段階のヴァイラーギャ(見極め)で必要と、幻想を見分けることができたら、無駄なことに心は奪われなくなり、心の疲労や迷いは減少するはずです。実際に自分が成長してきたことをみて、ありのままを観る目を養い、自分自身を信頼し、さらに鋭く見極めることをヴァティレーガ・ヴァイラーギャといいます。既に手放したこと、もう過去のように物や人に揺れることがない自分に信頼と誇りを持ち、磨いた価値観を高め続けることが第二段階のヴァイラーギャ(見極め)です。
第三段階:確信 本当のことを確信する(アイケェーンドリヤ・ヴァイラーギャ)
本当に大事なことは1つだけと見極め、他はそんなに大事なことではない、と心を定め、心が散らかり、忙しくなることを収めている状態です。探求すべきことを見極め、誇りと自信と信念を持つことで、他人がなんといおうと、どう評価しようと、心が簡単に動かなくなります。大事な事を絞りこむkじょとで、他人からの称賛も、批判も煩わされないほど、自分への理解と自信を高めているのがこの段階です。
他人や物が、自分自身を変えることはできないと知り、ありのままの外の世界を受け止め、期待することも、裏切りられることもない状態です。期待がないので、落胆もなく、後悔や恥、自責に囚われることもない強い自分を確立しているのが、第三段階のヴァイラーギャ(見極め)。この段階で、自分以外の物や誰かの考えに、心を惑わされないようになります。
第四段階:自由 物と他人に囚われない(ヴァシーカーラ・ヴァイラーギャ)
物や人に対する微妙なバランスを自然に保っている状態。『ヨーガスートラ』の第一章15節のスートラに出てくるヴァイラーギャ(見極め)です。物を持っていても、物に心を奪われていない状態です。誰といても、他人に自分をコントロールされることがなく、物があってもなくても、自分自身の自由と幸せは、なくなることも増えることもないと、物や他人の事実を知っているのがこの段階です。自分と物との違いを正しく見極めることで、何かに依存することがなくなります。なぜなら、外の世界の物は、どんな物も、私たちの中心である幸せを許し、自由を奪うことはできないと知るからです。自分の外の物や他人に、幸せを依存しない状態です。
事実を見極めることによって、人や物や状況に、簡単に自分を流されない冷静さと強さが備わります。物は私が使う物。自分が気高く心を律することができていれば、物だけではなく、人に対して同じことがいえます。自分を信じ、誇り高く生きることで、損得勘定ではなく誰かのためになることができ、常に学びとなることを選び、実行できる人になります。誰かの顔色を伺いながら行いをすることなく、自分でいることに堂々としていることが、人から自由であること。ここまで見極めることが、カヴァシーカーラ・ヴァイラーギャです。物事を見極める目を養うことで、私たちは苦悩からの自由というヨガの本当の目的を達成することができるとパタンジャリはいうわけです。この4つの段階をアパラ・ヴァイラーギャ(努力で達成する見極め)といい、意志と努力、考え方と生き方、毎日のヨガの練習で養える見極めです。
14 ヨガで見つける本当に大切なこと
サンスクリット語では、「タッパラン プルシャッ・キャテーへ グナ・ヴァイトゥルシニャン」といいます。これは、自分の神事を理解した時に、見極めは完全になります。完全な知恵と見極めによって、人はどんな物からも自由になります。物事や状況、関わる人々のあるがままを認め、受け入れることができる心の広さは、物事に対するヴァイラーギャ(見極め)ができているからだ、とパタンジャリは言います。物や人との関係に、程よい距離感とバランスが取れているとき、心の静けさは保たれます。第一章15節のスートラで言われた4段階のヴァイラーギャ(見極め)の後ろに起こる、完全なるヴァイラーギャが、このスートラで述べられています。
完全ヴァイラーギャ(見極め)は、自分自身の真実を知ることによって起こります。体・考えの変化を観る存在であるのが本当の自分。物や状況、変わる物に囚われることがない存在が自分自身の本質です。変わる物の中にある、変わらない存在。意識の中の意識。自分は無数の命に宿るただ1つの意識の源であると理解した時、その人はどんな物や人にも囚われません。本質は1つの根源である自分自身。その上にすべてが変わり動くことがわかること。これが、完全なるパラ・ヴァイラーギャ(完全な見極め)をもたらします。
見極めのある人は、豊かな感情や変わる心を楽しむことはあっても、囚われず、望みも執着にも乱されず、心に突き動かされてリアクションすることなく、さっぱりと物と人に関わり、自分にリラックスしていることができます。それができるのは、変化する無数の物の中で、唯一変わらない存在こそ自分自身である、という確信があるからです。儚く流れる物に気持ちを盗られる弱さから自由です。自分自身を完全に受け入れ、確固とした自信に満たされ、自分であることにためらいも、迷いも、抵抗もありません。物や人がなくても、自分の自由、強さは変わらないこと。物や人があっても、恐れず、逃げず、動じることがないこと。
考えの動き、感情の起伏、怠惰、忘れっぽさ、不完全さ、心のすべてを受け入れることができるとき、自分を縛る束縛から人は完全い解放されます。考えを作るサットヴァ(純質)、ラジャス(動質)、タマス(鈍質)という3つのグナ(質)でさえ、もうその人を束縛することはできません。自分と物との違いを見極めることがパラ・ヴァイラーギャなのです。
15 自分の真実を知るヨガの瞑想
サンスクリット語では、「ヴィタルカ ヴィチャーラ アーナンダ アスミター ルーパ アヌガマーット サンプラッニャータハ」といいますが、これは体、感覚、心と自分自身をそれぞれ見分け、自分の本質を分析するという順番に従って、真実を分析して瞑想することで、サンプラッニャータ(はっきりした理解)が生まれる、ということです。体、感覚、心は自分自身の本質ではないことを見極めるために、一つ一つ分析し、知るべき事をはっきりさせる瞑想がサンプラッニャータ・サマーディ(真実を見極める瞑想)です。真実を見極め、穏やかに、悩みから自由で、シャンティ(静寂)な状態であるために、本当の自分自身を分析して知る瞑想です。このサマーディ(瞑想)は、聖典やヨガの経典が教える自分自身の真実の知識アートマン(真我)を知るための瞑想といわれます。自分を間違いなく理解するためにヴィタルカ(分析)し、真実を見極めるためのサマーディ(瞑想)がサンプラッニャータ・サマーディ。これは、別名、真実とそうでないものを分析するので、サヴィタルカー(分析する)サマーディ(瞑想)とも呼ばれます。
はじめて学ぶヨガ哲学~エクササイズとしてのヨガを超えて(3)
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【監修者】 | 宮川涼 |
プロフィール | 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。 |