はじめて学ぶヨガ哲学~エクササイズとしてのヨガを超えて
00 序論~ヨガと「ヨーガスートラ」とヨガの目的
ヨガが、あらゆる苦悩から自由になる方法で、生きる道をインドではヨガといいます。そんなヨガのエッセンスが詰め込まれているのが、ヨガの教科書とも言える「ヨーガスードラ」です。何千年前から残る賢者たちが記したインド哲学の書であり、こう言っています。「すべての生き物は、自由になるために生まれてきている。
生物は、苦悩から元々自由な存在である。それが、この世の生物の本当の姿。自由になるために生きるという意味は、自分自身の真実の姿に元図ことに他ならない。」。すべての生物が自分自身の本当の存在に気づき、苦から自由になるたんめに、生まれている、しかし、人間は悩む生き物です。悩み、苦しむからこそ、問題を考え、苦悩の根源を知り、解決するための知恵を理解できる力を蓄えていく。もし解法の知恵を知りたいと寝返る知性ある生物として生まれることができたら、それは何よりも幸せなことだ。
自分を知り、苦から自由になる知恵を知る。知恵を知るために、知性を磨く。知性を磨くための適切なガイドと教えと方法と手に入れる。人に生まれ、道を選び、ガイドを得るという三つをそろえ、その人が本当に何を望み、自由になる生き方を選び、すべての力を向けるとき、生きる目的は必ず達成されます。
ヨガは、人が抱えるあらゆる苦悩から自由になる生き方であり、自由に向かう道であるとインドでは伝えられています。ヨガという生き方mヨガという言葉の意味。目的とゴール。自由へ繋がるヨガの実践方法と達成へのプロセス。そして、自由になった人々がみている世界、物事の受け止め方、ヨガに関するすべてを195の短い詩でまとめられているのが、これから取り扱う『ヨーガ・スートラ』です。
01 『ヨーガスートラ』とは?
紀元前5~3世紀にパタンジャリによって記されたヨガに関する教えがたくさん詰まった経典です、ヨガについての明確な手引き書でもあります。まるで「ヨガの取扱説明書」ともいえるほど、一節目の詩から、最後195節目の詩まで、一切の無駄がなく、ヨガの定義から目的、ゴールまでが一気に語られています。一つ一つ厳選された言葉が短いスートラ(詩)という形式をとり、ぴったりとヨガという意味を決めているのです、ヨガの目的、ゴール、効率的な練習法、注意事項など、ヨガを極めたいと願い人々が迷い無く、道を進むための具体的な方法が『ヨーガ・スートラ』にまとめられています。
『ヨーガスートラ』では、人のブッディ(知性)がサマーヒタ(静かに落ち着いた状態)で、大事な事を見極めながら、知り事ができるように、整ってういることを、サマーディ(三昧)の状態と言います。心が整理整頓され、みるべきものの真実を見ることができることが、『ヨーガスートラ』で定義される「サマーディ」です。サマーディは、一言で言えば、ヨガの悟りともいえるでしょう。サマーヒタ、ブッディ(静かで、穏やかな、真実を常にみる迷い無き知性)。それは、無知と混乱のない冴えたブッディ(知性)で、自分と世界の真実をはっきりと見ることができることを意味します。
真実を知り、自分と世界を抵抗せずに受け入れ、どこにいても、どんな条件でもくつろぐ自由があり、生きながら、自分のままであること。すべてに納得できる大きさと広さを持ち、自由な自分でいることができるという意味です。ヨガの達成は、私たちの考える力、ブッディ(知性)が鍵を握っています。晴れた空のように、本当のことをまっすぐ見る。澄み切った状態であり続けることです。恐れも、悩みも苦悩も憎しみも嫉妬もない心の状態。誰かの敵にならず、誰のことも敵としてみることがない態度。温和に生き、抱える悩みがなく、澄んだ知性であること、そのためのできるすべての努力がヨガなのです。
ヨガは考えを無理矢理辞めようとすることでもなく、何も考えないように無感動、無反応になることでもありません。むしろ、考えという物に向き合い、その性質を知り、しっかりと捉え、考えをうまく使える技術を身につけ、苦悩に繋がるような無駄な頭の騒音を鎮めて、本当に考えるべきことを見据えることです。考えを敵にすることでも、考えから逃げることでもありません。考えを上手に使えるようになること、それが心を納めるというヨガの意味です。
研ぎ澄まされた知性で真実を深く考え、苦悩の原因となる考えに向き合い、静かに自分に定まり、苦しみ、悩み、混乱がない自由な自分であり続けることをヨガでは目指します。サマーディ(静かに澄んだ知性)であること。そのためには、ブルッティ(心の動きや変化するノイズ)を二ローダ(収める)すること。心を収めるための方法は、アーサナ(ヨガのポーズ)やプラーナーヤーマ(呼吸法)だけではありません。毎日の生き方を正して、後悔に引きずられ、怒りや不安に簡単に振り回されないようにすること。普段から行いを正しくし、自分を磨くヨガに生きることをクリヤー・ヨーガ、もしくは、カルマ・ヨーガ(行いのヨーガ)といい『ヨーガスートラ』の第二章で詳しく説明されています、
生きる目標を定め、揺れることなく毎日をきちんと調和させること、起きること、食べること、話すこと、人との付き合い方、部屋の掃除や整頓、仕事、友人、新羅関係、いつもの習慣や家族や友人との関わり方、すべてにおいて心を意識的に見て、正しく定めるようにすることがヨガに生きるということであり心を磨くヨガにおいて一番大切なことです。マットの上で練習をする時間はもちろんですが、マットの上にいかいはるかに長い時間も心を浄化するために生き方全体を積極的に変えることで、すべてをヨガにすることができます。
毎日の生活を少し正すことで、誰もが必ず混乱や無知、欲望や悲しみなどで曇ったブッディ(心)をきれいに二ローダ(ケア)し、サマーディ(澄んだ心でいること)が達成できるというわけです。大きく優しい、広い心の人になるための道がヨガです。海のように深く広く、慈悲深い心でいることがサマーディ(穏やかな心)であり、そのために自分を成長させる努力をすることがヨガです。人の心は何もしなければ成長することはできません。何もせずに育つのは自然のプログラムで変わる肉体だけです。心は、意志と努力で成長させる必要があります。大きく広い心になることを自分の意志で選び、成長するための行いを決意し、実践することで心の成長が初めて可能になります。
今より成長できる場所に行く努力を惜しまず、凶よりも大きくなれる状況に出会い、怯まずに困難に立ち向かい、乗り越え、苦悩やさまざまな経験から学ぶことで心は成長します。意識を変えるだけで、人は誰でも、いつからでも、自分を磨くヨガをすることができるのです。心を奮い立たせ、人として成熟するために心を扱うことがヨガの二ローダ(収めること)の意味です。誤魔化すことなく、物や他人に期待し、依存する関係を手放し、自分の足で立ち上がる意志がヨガをする態度です。自分の人生を切り開くために、必要の無いものや悩みの種を手放し、見極めることが必要です。持っている物を誰かのために惜しみなく譲り、内側で抱えている依存関係を一つ一つ手放すことができます。意志と決意で、心はもっと強く、大きく、自由に成長させることができるのです。
何かを期待することから、自分が誰かに何かをすることができる生き方を選ぶこと。誰かの端目に自分を使うことができる心の大きな人になる生き方がヨガの達成を進めてくれます。世界に貢献し、調和に生き、どんなことにもびくともしない大きな心になることがヨガの生き方なのです。大きな心の人は、他人の意見や外側の変化に簡単に動かされない強さとゆとりを持っています。過酷な状況にも柔軟に対応するしなやかさ、遊びを忘れない自由。ヨガの道は、大きく自由な人になる生き方を示してくれているのです。パタンジャリは、ヨガとはチッタ(心の動き)と二ローダ(ケアすること)とヨガを定義しました。静かな心で己の本当を見極めたら、苦悩などと言う妄想を笑える心の広さが確立されるといいます。自分のまま、いつも自由に幸せでいることが、あなたにもきっとヨガでできるというそういうヨガという生き方とゴールを教えてくれるのです。
02 ヨガの説明をはじめよう
サンスクリットの原文では「アタ ヨーガ アヌシャーサナン」と書いて始まります。これは、「さあ、これからヨガの説明をしましょう」という意味です。「アタ」という音はオーム(聖音)と同じように世界が形を現したときに起こった音で、その音は、祝福、吉兆を意味し、強い祈りと願いがこまっています。パタンジャリは、ヨガについての195個の詩を「アタッ」という音から始めました。祈りを込めた音から始まる「スートラ(詩)」でヨガについての手引き書『ヨーガスートラ』を完成させたのです。その祈りは、ヨガについての教えを完璧に完成することができるように、ヨガの教えが多くの人に伝わり、多くの人を救うように、国を超え、時代を超えて、苦悩と悲しみを超えるヨガの教えを人々が手にすることができるようにといったたくさんの願いが「アタッ」という言葉に込められています。
今も「アタッ」の音であるパタンジャリの願いは確実に届いています。ヨガの教えがインドから海を渡り、原文のサンスクリット語のまま現在も私たちが日本で日本語を通して勉強をできるということが何よりの証です。そのヨガが、アヌシャーサナン(伝統的な考え方に従って)解き明かしていきましょう。本当のヨガの教えが、サンプラダーヤ(教えの伝統にしたがって)間違いなく私たちの下へ届くはずです。
さて、ヨガとは二ローダ(心をケアすること)であるとパタンジャリは言いました。二ローダという言葉は、サンスクリット語で、止める、収める、静かにするという意味があります。生きることは苦痛の連続かもしれません。連続する苦悩から自由になるためにどうすればいいのか。自由になるための教えと方法がヨガなのです。人が望む究極の自由は、知るべき事を知ったときにかなうといいます。自分を自由にするためにヨガがあるのです。パタンジャリがヨガの教えの数々を読み取った『ヴェーダ』には人間の生きる理由がこう記されています。「人間は自由になるためのこの世界に来た。自由になる術は、自分の真実を知ることにある。苦悩しているという考えは、実体にない物に過ぎない。本当に実体があるのは、考えを観る存在であり、考えの本質である自分自身である。自分自身とは、自由で幸せの意味である。ヨガとは、自分の本当を知り、一切の苦悩から自由な本来の自分自身に帰るための道であり、真実に至る生き方なのだ」と書いてあります。
私たちは、誰もが自由に幸せになるためにこの世界にやってきています。それをかなえるためには、徹底的に自分自身を知ることです。自由の扉を開けるための生き方がヨガであり、そのすべをパタンジャリが教えてくれているのです。ヨガのゴールは、サマーディであるとパタンジャリは言います。サマーディとは「サマーディ サマーヒタ ブッディ」。心が静まり、苦悩に揺れ動くことがない状態です。サマンとは、穏やかであること。ブッディは考え、理解し、決断する心の機能のことです。静かに澄んだ知性(ブッディ)が私たちに真実を理解させ、悟らせてくれます。私たちの知性に深い理解が起きることが悟りといえるでしょう。
サマーディとは考えを止めることではなく、深い理解やひらめきを得るために考えや感情を静かに穏やかにしておくことという意味です。もしサマーディが超越状態などという特別で特殊な現象やイベントであったら、平和で穏やかな自分でいるということを維持することは難しくなってしまいます。ヨガや瞑想をしているときだけ、特別な意識状態になったときだけ穏やかな人になるということではありません。どんなときでも常に穏やかな自分自身であること。それがヨガの目的です。その意味から、サマーディがたった一度の悟りの体験であったら、あまり意味はありません。瞑想をし、ヨガをしているときだけ「考えが静かになっている」ということよりも、常に何をしていても、どこにいても、誰といても静かで穏やかな心である、冷静な知性であり続けることが本来のサマーディの意味です。
穏やかな知性でいるために、私たちは心を常に静かに穏やかにとどめるように毎日を丁寧に生きることができます。丁寧に自分を見つめ、他人と世界と調和する生き方が、ヨガの生き方です。そうすれば、私たちはいつでも本来の穏やかで、静かな自分でいることができます。インドの聖典は、人間の本性はやさしさそのものであり、慈悲深い存在だといいます。慈悲にあふれ、静かで、優しい存在。愛と慈悲と呼ばれるあまねく広がる意識の存在が、人間の正体です。仏教でも、この本来の私たちの姿を仏性という言葉で教えてくれています。本来のやさしさと慈悲そのものである自分を私たちは時々忘れてしまっているだけなのです。自分自身を思い、徹底して考え、本当の自分に戻るためにする努力がヨガです。
気高く、落ち着き、心静かで、優しい自分を忘れないためにヨガをすること、努力をすることの意味はあります。つぼみが花を咲かせるように、花の成長を、丁寧にケアして、見守る必要があるように、人は自分の花を咲かせるためにできる努力をして、花が咲くまで成熟を待つ必要があります。しかし、ヨガの可能性は、ただ待つだけではなく、よりたくさんの光があるところへ、成長させる水と栄養があるところへ自らの意志で選んでいくことにあります。自分を目覚めさせる明るい太陽の光とはなにか。心を豊かにする栄養とは何か。それを知り、それを求める生き方。丁寧に自分の花を育てるように心を見守り、扱えば、必ず自分の本当の姿を知り、自由に至ることができます。
穏やかに、途切れないように心をケアし続けることがヨガ。意識して自分を成長させるように毎日を大切に積み重ね、心を二ローダ(収める)すること、むやみに心を止めたり、自分の可能性を潰したり、自らを否定するような修行は本来のヨガの目的ではないようです。具体的に何を二ローダ(ケア)するのか?それは、チッタ ブルッティ(心の移り変わり)です。心は動き回ります。望むもの、望まないもの、外の物や対象に向かって動き、一瞬ごとに目まぐるしく変わります。ヨガの二ローダとは、忙しい心の変化を静かに穏やかに保つためにすることです。特に悩みや苦しみをもたらすような変化を避け、心と自分が混乱しないように、ケアすることの大事さをいいます。何をケアし、何を見極め、どう収めるべきか。私たちの苦悩の原因となる考え、収めるべき考えは、第一章5節目のスートラ(詩)から説明されています。
03 ヨガにおける心とは
経典には「心は動き回る物。本当の自分とは、心を観る存在。自分は観る存在であり、心という物ではない。」そう記されています。心は本当の自分じゃないということです。本当の自分とは、心が動くことを可能にしている意識の源。意識する感は絵の下になる根底にある意識のベース、意識の根源的な存在が私たちの本当の姿です。それは、変わることがない存在であり、聖典はアートマー(真我)という言葉を示しています。本当の自分、意識の源という存在があるからこそ、心が変わり、動き回ることができます。動き回り、変化する物である心がブルッティ(考えの動き)です。私たちの本質は、変わることがないにも関わらず、時々ヴルッティ(考えの動き)と共に変わっているように見えることがあります。自分の心の違いを見極められず、2つを混同して、考えの動きに翻弄され、心が捕まえていることに自分まで一緒になって悩み苦しむのが、人の苦悩の始まりです。ヨガは、苦悩の原因から自由になるために、自分自身と心の違いを見極める知恵を技術を教えてくれます。私たちの心は、いくつものヴルッティ(考えの動き)で作られています。ブルッティはその質によって、大きく三つにカテゴリー分けされています。
(1)サットヴァ(純質)
調和し、澄んだ落ち着きのある考え。慈悲深く、他人を理解しようとする質。見通しと理解のある知性が働き、集中し、混乱や揺らぎがなく、定まった状態がサットヴァな心です。バランス、調和、善、純粋、普遍化、全体的、建設的、創造的、構築、前向きな姿勢、光輝、静寂、存在感、平和、美徳の質ともいわれます。
(2)ラジャス(動質、激質)
活動的で、野心的な心。嬉しかったら有頂天になり、あるときは悲しみ、怒り、落ち込んだりする激しく揺れ動く質。何かを手に入れたいという欲望、プレッシャー、ストレス、執着や不満。ラジャスな質が心を覆うとき、人は悩み、苦しみます。ときにラジャスは、アースラ(悪魔的、避けるべき質)とも呼ばれ、とりつかれたような強い思いをみせることもあります。ラジャスな色に心が染まることはよくあります。そんなときは、調和を意識的に守り、ヨガの実践をすることで、ラジャスをサットヴァに変化させることができます。「何が何でも、ほしい。嘘をついても盗んでも手に入れたい」という欲望にもしとりつかれてしまったら、そんな思いに自分が引きずられないように行いを正すことがヨガのテクニックです。心に浮かぶ考えに、好き勝手にさせないように。守るべき事を頭に意識し、暴れ馬を乗りこなすように、心の手綱をきちんとしま、目指すべきところへ進むことです。「チッタ ブルッティ 二ローダ(心の動きをケアすること)」。これがヨガの意味であり、定義となります。
(3)タマス(鈍質)
不活発、怠惰、何も気にしない、何もしたくないという質の考え。瞑想や集中を遠ざけるような考えは、自分を高めるヨガとは遠い考えです。眠気や怠惰で頭がいっぱいになってしまえば、ヨガはできません。ラジャスもタマスももちろん、必要であり、意味があるからであり、誰の心のも三つの質が備わっています。3つの質があるからこそ、考え、動き、休むということができるわけです。しかし、ヨガで避けるべきは、タマスやラジャスが過剰に心を覆ってしまう状態です。常に3つの質のバランスに気づき、早めに二ローダ(ケア)することが大事です。
心は特有のメカニズムで動いています。考えは、何もしなければ、自動的にどこまでも流れ、刺激があれば、自然と刺激に引きつけられます。いつまでも過去の体験にしがみついたり、未来を空想しているうちに、あっとういう間に1時間経ってしまっていたり、心の動きに任せて妄想し、無目的なおしゃべりをしていると頭が疲れ、多くの時間とエネルギーがどこかへ流れてしまいます。それは、考えの動きに自分が奪われてしまっていた証拠です。ヨガで心を収める練習は、心の動きを一つの対象に定め、意志で心を一つの方向に流し続けることです。心の動きを1つの対象に定め、意志で心を1つの方向に流し続けることです。心の動きに気づき、意志で心を扱います。その練習を普段からしていると、日常生活の場面で応用が利き、心が乱れ、暴れそうなときに冷静に対処することができるようになります。
自分の考えの流れを今いるべき処、やるべきことに集中することで、怒りや嫉妬、後悔や悲しみという激しい感情や過去や未来という実体のない物に自分を奪われることがなくなります。心を扱うためには、ある程度、決まった効率的なメソッドで練習することが必要です。パタンジャリは、『ヨーガスートラ』で上手に心を遣うための練習が瞑想であるといいます。瞑想をアッビャーサ(繰り返し練習)することで確実に心を収め、誰もが自分の心を道具として使えるようになるというのです。繰り返し練習し、揺るぎない心でいることがサマーディ(瞑想の深まり)。1つの対象に集中し、定まった心を「サンプラニャータ・サマーディ(物事のありのままを観る瞑想)」もしくは「サヴィカルパ・サマーディ(物事を分析する瞑想)といいます。心を静かに、安定している状態です。さらに、瞑想を続け、集中が深まると、心は流れを定めていた対象と一体化します。心の流れと対象が1つになることが「アサンプランンニャータ・サマーディ(対象と一体化した状態)」もしくは「ニルヴィカルパ・サマーディ(対象がない状態)」です。
ヨガの最終段階は、瞑想しているという思いすら静まるほど深まり、観ている自分と観られている世界が完璧に一致する真実の境地に至ること。それが完全なチッタ(心)が二ローダ(収められた)な状態です。瞑想の対象も、瞑想の主体もただ1つの源、大いなる知=意識に収まることが最終的なサマーディ(瞑想状態)であり、集中した心が、集中の対象と一体化し、心と対象の本質である意識の源にとどまります。最後の瞑想状態に至るために、私たちは心を意志で収めることから始めます。もし心が晴れないと思うなら、苦悩を起こす原因となる考えを解放し、悩みに染まる考えを自分から放つことが、心をケアし、鎮める二ローダ(収める)となります。心を1点に集中させることで、心の勝手なささやきや本質を見えなくさせる雑多な動きを収めることができます。心の動きを収めたとき、穏やかな心で自分を知り、自由に至ることでサマーディはもたらされます。
04 ヨガの目的とは
サンスクリット語の原文では「タダー ドラシュトゥフ ソヴァルーペー アヴァスターナン」と書かれています。これは心が静まるとき、人は変化を観る存在である自分の真実に至る、という意味です。無知と混乱が収められ、心が静かになったとき初めて、私たちは自分自身の本当の姿を知り、そこにとどまることができるとパタンジャリは言いました。本当の自分とは、変わりゆく世界をどんなときも観ている存在です。心の動きに動かされず、すべてを静かに観る、変わることがない自由な存在が私たちの本当の姿だとインドの聖典は言います。苦悩から完全に自由で、どんな変化からも影響を受けない自分であり続けることがヨガのゴールです。何にも動かされず、変わらず、幸せと自由の意味である自分の源を知ることで、本来の自分とは苦悩と輪廻に縛られることがない存在である、ということに気づきます。それは、心のつぶやきが苦悩に結びつく考えの動きが静まるときに可能になります。何があっても自由であり、何に頼らなくても自分自身であることで大丈夫といえることが、自分の真の姿に至るということです。
このスートラは、自分自身であること、自由であることの意味を教えながら、本質を見極めることがヨガで可能になるということを教えてくれます。無数に変わり続ける物の中で、唯一変わらない存在が私たちの本来の姿。それが変わる物を観ている存在、ドラシュター(観る者)。ヨガと瞑想とによって、考えが静まるとき、自分の真実を見えなくさせるような、苦悩に染まる考えや間違え、無知、曖昧さから解法されます。そうして静寂そのものである自分の本質に人は戻ることができるのです。パタンジャリは、自由と解法のために必要なこととして、3つのポイントを教えます。
(1)自分を知ること
本当の自分自身が何者であるかを知ることで自分の意味、自由の意味に目覚めます。
(2)アッビャーサ(繰り返し練習)をすること
ヨガを繰り返し練習し、真実の自分から揺れないようにします。
(3)ヴァイラーギャ(見極め)をすること
本物を見る目を常に養い、磨き、持ち続けます。
自由と幸せの意味を知り、常に自分を確信することが、苦悩からの解放です。苦悩からの解放は、すべての生き物の望みであり、望むを果たすことが生きる目的であります。生きる目的を叶えることが本当のヨガである、とパタンジャリは教えてくれます。自分自身の本当の姿とは何か。「自分、私」という言葉は一体何を示しているのでしょうか。私たちは、この世界で生きるとき、たくさんの役割を持ち、いろいろな経験をします。起きて、立ち上がり、歩き、食べて、仕事をし、考えて、みて、聞いて、動いて、寝る。そのたび私たち「○○をする人である」と自分がする役割で自分を観ています。誰もがたくさんの経験をし、それぞれの経験ごとに相応しい役割を演じます。これらたくさんの役割の中で、唯一共通していることは何でしょうか。起きる人、食べる人、洗う人、寝る人、仕事をする人、歩く人、考える人、みる人、聞く人、動く人。どの体験の中心にもいる存在、それが「私」です。
体験の中にいる私が、経験や人との関わりを変えるたびに、違う役割を演じています。起きる、洗う、食べる。動作は変わります。すべての動作の中心に、「○○をする私」が共通して存在します。「○○する者」というのが「自分、私」という言葉が指す意味です。どんな経験にも役割にも「私自身」がいます。経験の中心にいつもいる「私自身」とは何者でしょうか。それは経験をしていることを知り、経験をすることを常に観ている存在です。それはサンスクリット語で「いる、在る」という意味である「サット(存在)」です。
存在する者は、ただ存在するだけではなく、経験を知覚し、考えます。「知る、わかる」存在が、チット(意識の源)です。さらに、その存在、意識の源は、変わることなく、すべての経験の中に広がります。「限りなく広がる」がアーナンダ(無限、永遠)です。聖典は、人間の本質を変わりゆく世界の中にある唯一変わらない存在、サット・チット・アーナンダ(存在、知、限りなく満ちるもの)だといいます。人が知るべき本来の自分自身は、聖典が定義するサット・チット・アーナンダ(存在、知恵、限りなく満ちるもの)。ヨガは自分自身である意味を深く理解し、腑に落ちるまで徹底的に学び、自分の生きた知恵に変えるプロセスです。
05 ブルッティ(考え)について細かく観てみる
ヨガにおいて、心はブルッティ(考えの動き)が集まった物です。考えは無数にあり、常に流れ、動く物です。ブルッティ(考え)でできている心は、当然いつも動いています。心は考え、理解し、決断し、判断し、新しい情報を取り入れ、知覚し、迷い。過去を思い出し、未来を想像するための必要な道具です。自分が世界を経験するためにある心は、「内なる道具」といわれます。インドの経典は、その特性と働きを心によって、4つの側面で分けます。
(1)マナスー心の機能ー感情・迷い・揺れ動く想い
心は、悲しみ、怒り、喜び、落ち込み、さまざまな感情に揺れ動きます。外の世界の情報を映し、迷い、動き、流れ、揺れながら、自分と世界を繋ぎます。心の動きによって私たちは、世界を豊かな感情をもって楽しみ味わうことができます。この働きがマナス(感情・思い)です。
(2)ブッディー心の機能ー知性
外から得た情報を知覚するだけではなく、記憶と照合し、分析し、判断し、決断し、知り得た知識をはっきり理解することができる機能が心にはあります。これが、ブッディ(知性)の働きです。
(3)アンカーラー心の機能ー自我、自己意識
自分についてのアイデンティティー。「私は誰か?」と聞かれたとき、聞かれたとき、答える働きがエゴ、自己意識とアハンカーラ(自我)です。
(4)チンタラー心の機能ー記憶
記憶するという働きです。どんなに昔のことでも、最近のことでも私たが経験したことは必ず心の記憶倉庫にしまわれます。記憶し、記憶を呼び起こす機能がチッタン(記憶)です。
07 心を二ローダ(ケア)しないと苦悩する
もし、心に浮かぶブルッティ(考え動き)を二ローダ(ケア)することができなかったらどうなってしまうでしょうか?人は考えを観る存在である本来の自分自信と変化し動き回る考えとの違いを見極めることができずに、2つの混同してしまいます。落ち込み、怒り、悲しみ、喜ぶという考えの動きを自分だと思って、考えにはまり、流されてしまうのです。自分が考えなってしまったら、考えが動くたびに自分も働き、定まることができません。苦しみの考えがあれば、自分が苦しみとなり、悲しみが考えがあれば、自分に悲しみに染まります。苦悩する考えを、本当の自分だと思い込むと、苦悩に縛られます。これが混乱した考えであり、苦悩の原因です。考えは変わる物。まるで天気のように変わり、流れ動く物が考えです。しかし、考えがどんなに変わっても、考えを観る存在である私は変わることがありません。その証拠に、私たちは自分の考えをいつでも知っています。今自分の考えが何を映しているかわかります。観る存在である自分と、観られている考えは別。自分と考えの間に混同があるときだけ、人は苦悩するだけです。考えの動きが感情に染まると、自分と考えを混同し「なんて自分は怒りっぽいのだろう・・・」と自分を責め、「なんて悲しいんだ私は」と悲嘆にくれたりします。さらに、実体のない過去の後悔や悩み、未来の不安や心配にとわわれると、体も心も病み、ときには死に至るほど苦しんでしまうのです。自分自身と考え、この2つを混同することが、苦悩の原因です。自分とは、考えを観る存在。考えでは観られている物。考えが変わって私自身ではない。この見極めが、混乱からの解放です。
08 悩み、苦しみの原因とは?
『ヴェーダ(聖典)』の最終章『ウパニシャッド(聖典の最終章)』は、人の本当の姿はアートマー(真我)とは「私が今ここにいる」とはっきりいえる根源的な存在。それは命の根源であり、考えたり、感じたりする意識するチット(意識の根源)。聖典が教える本当の自分を理解していなければ、自分自身とブルッティ(考えの動き)をサールピャ(混同)してしまいます。変わりゆく物でしかない自分と思い込むことが苦悩を生むのです。「(私は)悲しい」「(私は)怒っている」「(私は)なんて不幸なのだ」というのは、考えの混同。パタンジャリは、「本当の自分と考えを区別できず、苦しみや悩み、悲しみ、怒りが自分と思い込んで絶望してしまうのは、勝手な思い込みにすぎない。心はどんな風にも変わり、どこへでも流れる物。喜怒哀楽に染まり、過去未来に動き、いつも揺れている物。そんな物は自分自身とはいえない。自分の考えがわかる、ということは心を観ている存在がいるということの証。そして、心を観る存在とは、自分自身に他ならない。苦悩は単なる一つの考え。悩みや苦しみは考えの癖であり、とらわれに過ぎない」と言っています。
考えに染まる心を二ローダ(きちんとケアする)ことによって、私たちは自分自身を見失うことがなくなり、簡単に考えに流されなくなります。パタンジャリは、苦悩から自由になるための生き方であるヨガの秘訣をこんんあ風に教えます。「自分と考えを見極めるように。もし考えが感情に荒れ狂うなら、まず考えの波を鎮めて落ち着こう。そうして考えを自分で二ローダ(ケア)して、穏やかな心で自分を知れば、自分自身であることの意味を知る者となる。自由の意味である者となるのだ。」と。本当の自分自身とは何か?それを知り、そこに足をつけ、揺れずにいるためにどうすればいいのか。
自分自身であることをいつも意識し、静かに慎重にしていれば、感情と考えを混同せず、自分の中心に常にいることができるようになります。心の変化を楽しむゆとりが、人を苦悩から自由にするのです。考えと感情の後ろにいるのが、本当の自分。本当の自分自身でいることで、私たちは絶望したり、暗くなったり、意気消沈したり、怒りや悲しみ、憎しみや嫉妬などですり切れてしまうことがなくなります。自分自身と考えに対する見方を、正しい認識で変えることによって、苦悩にとらわれず、悩みを引きづらなくなります。それがヨガ的な苦悩解消の方法です。
パタンジャリはこう言います。「苦悩から自由になる方法は、悩む考えと、考えを観る自分に向き合い、苦悩に主導権を握られないようにしておくこと。自分は考えを使うことができる王様なのか?それとも考えに流され、使われる奴隷なのか?自分と心を見極め、心を二ローダ(ケア)すること。そうやって、真実の自分自身に定まり、考えの奴隷ではなく、考えの王である自分を知り、流れ動く考えを見極めること。その方法がヨガなのだ」と。
こうして、苦悩から自由になる術を、このスートラでパタンジャリは教えてくれているのです。では、実際、心はどんな風に動き、どんな風に私たちを捉え、苦悩させるのでしょうか。また、苦悩から自由になるヨガのために、考えの性質を知り、どんな考えを避けるようにすればいいのか。心にアプローチすることで、苦悩の原因は私たちを悩ませるチカラを失います。パタンジャリが示す苦悩の原因となる考えの見分け方を、次のスートラからみてみましょう。
09 苦悩になる考え、苦悩にならない考え
「ブルッタヤハ パンチャタイヤハ クリシュタ・アクシュターハ」。これは、「ブルッティは、5つの機能があります。この5つは、クリシュタ(苦悩になる考え)とアクリシュタ(苦悩にならない考え)に分かれます。」という意味です。ブルッティ、即ち考えの動きには、5つあります。この5つの考えを、パタンジャリは、まず大きく2つに分けます。1つは、クリシュター、もう一つは、アクリシュターです。
(1)アクリシュター(苦悩に繋がらない考え)
アクリシュターとは、「なるほど!」「わかった!」といったひらめきです。新しいアイデアや楽しいこと、前向きなことを映す考えは、私たちを苦しめません。無知の闇や混乱に覆われることなく、輝く意識の源である自分自身の姿をそのまま映しだす晴れやかな考えです。外の世界を知覚し、正しい理解と知識をもたらす考えは、アクリシュターとして、苦悩をもたらさない考え、悩まない考えと呼ばれます。
(2)クリシュター(苦悩をもたらす考え)
混乱し、迷い、苦悩し、恐れ、嫉妬し、憎む。こういう考えは私たちを悩まし、苦しませます。こうした苦しみをもたらす考えがクリシュターです。
このように、考えは大きく、2つに分かれ、さらに具体的に5つの考えにカテゴライズされていきます。それは、(1)プラマーナ、(2)ヴィパルヤヤ、(3)ヴィカルパ、(4)ニッドラー、(5)スムルティで、この5つがブルッティです。一つずつ観ていきましょう。
まず、プラマーナは、知覚や認識を意味し、たとえば落ちているロープを観て、「あ、ロープが落ちているな」とありのままをそのまま知ることを意味します。知覚、認識、理解を助けるのが、このプラマーナです。次に、ヴィパルヤヤは、間違いを意味し、それは落ちているロープを観て、間違えて「あ、へびだ。」「怖い、蛇がいる」と間違えたり、恐れたり、不安になったりすることです。ヴィカルパは、迷い、不確かな情報に迷うことで、たとえば「鍵を閉めたかな?鍵を閉め忘れたかも」と迷ったり、不確かな情報に不安になったりすることです。そして、ニッドラーは眠りを意味し、考えが動いていない状態のことをしまします。5つ目のスムルティは、覚えや思い出す考えの機能です。それでは以下にそれぞれについて詳しく解説していきましょう。
(1)知覚について
サンスクリットでは、「プラッティヤクシャ アヌマーナ アーガマーハ プラマーナーニー」と書かれており、これはプラティヤクシャ(知覚)、アヌマーナー(推測)、アーガマ(聖典や経典)が正しい知識を得るためののプラーマーナ(知るプロセス)である、という意味です。五感で確かめた情報によって知ることが、プラッティヤクシャナ(知覚)。推測することによって知ることができるのは、アヌナーナ(推測)。そして、聖典や経典に記された言葉によって知ることが、アーガマ。これらをプラマーナ(知るためのプロセス)といいます。人が何かを知ることができるのは、この知るためのプロセスであるプラマーナがあるからです。知るためのプロセスについてもう少し詳しく観てみましょう。
(a) プラッティヤクシャ(知覚)
自分の五感で知り、認識したこと。たとえば机の上に置いてある赤い、丸い物をみて、「あ、りんごだ」といえるのは目で見て確かめた認識だからです。これがプラッティヤクシャです。
(b) アムナーナ(推測)
五感で確認した情報をもとに、推測してわかる知識がアムナーナです。たとれば、山から煙が出ていたら、「煙があるのは、そこに火があるからだ」と山火事を推測できます。この推測によって知ることができるのがアヌマーナです。
(c) アーガマ(聖典や経典に記された知識)
人の近くや推測では知ることのできない範囲にある知識を教えるのが聖典や経典に記される知識アーガマです。たとえば、カルマ(行い)とその結果の因果関係や、死後の世界、生まれ変わり、輪廻などについては聖典によってのみ知ることができる知識です。
(2)間違いについて
サンスクリット語では、「ヴィパルヤヤ ミッティヤー・ニーナン アタッドルーパ プラティシュタン」と書いてあります。これは、ヴィパルヤヤ(間違った知識)は、在る物の本質を捉えずに、決めつけた間違った結論が原因となります、という意味です。パタンジャリは、苦悩の原因になるバルッティの1つは、間違えであるといいます。たとえば、薄暗がりで落ちているロープを見た人が、視界に入った長くうねりのある紐状の形をみて「あ、蛇だ。蛇がいる」と間違え。そこから「怖い。どうしよう。家に入れない。きっと毒蛇だ。困った。ああ、どうしよう」と恐れ、冷や汗をかいて困り果てているとします。でも、蛇を見て怖がっているのはその人だけです。なぜなら実際にはただのロープだからです。その人だけが、ロープをみているはずのない蛇に見間違え、「蛇がいる」と間違った思い込みをし、一人で勝手におびえているのです。
これが苦悩の原因となる間違った知識ヴィパルヤヤ(間違い、嘘の情報)の例です。自分だけの主観で判断し、間違った結論を物事の上にのせてみる。実体のない蛇におびえ、恐れ、心配し、不安になったり、振動の鼓動を早めたり、手に汗をかき、鳥肌をたて。、間違った情報や幻想に対してリアルな出来事でるかのように反応するのです。人間は、心の中だけで起こる間違った認識や嘘の情報にとらわれ、心を動かしリアクションすることがあります。主観、想像でしかない幻想や妄想が、深刻な悩み、おびえ、不安、苦しみを作り出してしまうのです。これが私たちの苦悩の原因だとパタンジャリは言います。苦悩はまるで自作自演の悲劇のようなものなのです。
間違って知識ヴィパルヤヤは心の中の蛇を退治することでは解決しません。本当には何があるのか。その物の実体は何か。真実を知ることによってのみ、間違いを正し、幻想の苦悩を解決することができるのです。蛇からの恐れから自由になるためには、本当は古くて短いロープが落ちているだけ、というありのままの事実を知ること。間違った幻想を持ったまま、恐れがなくなることではなりません。実際にあるのはロープ、真実の知恵で、間違った情報を改めることで、恐れや心配から人は自由になるのです。
普段、私たちが苦しんでいることも、殆どが主観的な思い込みだとパタンジャリは言います。悩みをよくみればそこに実体などないのです。実体のない過去への後悔、未来への不安、誰かの批判や評価という想像。そんな物に恐れ、主観的にみた世界に怯え、とらわれた狭い世界で窮屈に不自由になっているだけです。そこから自由になるためには、真実を知ること、物事の本質を観ることしかありません。
(3)想像や迷うについて
サンスクリット語では、「シャブダ・ニャーナー アヌパーティー ヴァストゥ・スーンニャハ ヴィカルパハ」と書いてあります。これは言葉だけの考えはあるけれど、実体がない物がヴィカルパ(想像、迷い)です、という意味です。ヴィカルパハは、言葉はあるけれど、実体がない物を意味します。あり得ない物の喩えとして、「亀毛兎角」という言葉がありますが、亀のさらさらした長い髪というのは、言葉はあっても、実際にはそんな亀も髪も存在しません。ウサギの角というのも言葉だけがあって、実際にそんな物は存在しません。私たちを苦悩に捉える考えの1つが、言葉があっても実体のないヴィカルパハ(想像)なのです。想像、妄想が疑惑を生み、迷いと葛藤を生んでいるとパタンジャリはいいます。
たとえば、聖典(ヴェーダ)には私たちの本質を明らかにする言葉があります。それは「あなたはアートマー(真実)、ブラフマン(普遍の存在)」です。この意味を、「本当の私は無限だ」と表現しても、実体が伴いません。なぜなら私たちのいる限りある世界からは無限は想像することしかできないからです。言葉はあっても、無限というイメージだけでは、実体はつかめないまま、浅い言葉の記憶が残るだけです。理解も知恵も生まれません。だから真実を示す言葉は理解されないまま、人は変わらず不自由さと苦悩にとらわれ続けることになります。
しかし、「本当の私は計り知れない存在だ」という表現には実体があります。「私がいる。過去・現在・未来という時間の流れに、物事の変化の中に、変化しない存在として。時間と空間に限定されることがない存在が自分自身なのだ」。これは、事実です。実体に基づいた言葉は、人に深い理解を示し、知恵を呼び起こします。自分を知ったとき、人は初めて想像の限界と、迷いや葛藤、苦悩を突き抜けることができるのです。
ヴィカルパハ(想像)に過ぎない物が、真実と信じられていることをヴィパルヤヤ(間違い)といいます。そして、ヴィパルヤヤは時々、ヴィカルパハと呼ばれます。ヴィカルヤヤは無知とヴィカルパハから生まれます。真実を知らない無知の上に、想像した自分の主観が投影され、混乱が生まれます。覆われた真実の上に、狭い想像をのせて、人は自らをゆがめ、世界を誤訳し、悩み苦しむことがあるのです。私たちを悩ませる後悔、卑下、批判、不安、恐れ、怒り、心配、悲しみ、企み、妬み、憎しみは、本当の自分を狭め、本質を覆う考えに過ぎません。こんな考えは心の中でわきあがり、動き変わり続けるものです。変わらない本当の自分の上で、心を染める感情や想像、そんなふわふわとしたものに囚われ、深刻に悩んでしまっても小がありません。感情や思いは、秋の空のように次々に色を変え、やがて通り過ぎていきます。空の色は変わるけど、空自体は変わりません。同じように、どんな考えの後ろにも、自分自身だけは変わらずに存在します。本当の自分とは、あらゆる感情の色を映し出す大きな空のようだと聖典はいいます。
空は特別な色を持たず、動かず、変化しないからこそ、変化を映すことhができます。動かぬ空のような存在が自分。自分を知り、そこに留まれば、自分という存在の上で、感情や考えだけが流れている、と変化を楽しむ自由さえわいてくるでしょう。まるえ空の色や雲の流れを観るように、どんな感情も考えものんびりとやり過ごしていれば、考えと自分を混同して悩み苦しむことはありません。もし自分を知らなければ、考えや感情を自分と思い込み、無知と想像で混乱し、人は苦悩するのです。
パタンジャリは、苦悩から自由になる方法として、「ヨガ」を教えました。ヨガでは、自分の真実をしっかりと定め、考えや感情は観ていること。受け入れ、受け流すことが大事だとされます。動かぬ存在である自分であり続けるために、まずはヨガで体と心を落ち着け、観る者、観られる物との混同を見極めるようにしていきましょう。真実の見極めがあれば、もう迷わず、悩むこともありません。苦しむ理由がなくなってしまうからだとパタンジャリはいいます。苦しみの解放です。真実を知らない無知の上に起こるヴィカルパ(想像、迷い)とヴィパルヤヤ(間違い》が苦悩の原因なら、苦悩から自由になる方法は一つだけです。ヴィカルパとヴィパルヤヤの正体を見破り、無知と混乱を知恵の地仮で放つこと。真実を知ること。これがパタンジャリの告げる、苦悩からの完全な解放カイヴァリヤ(完全な自由)に生きるヨガのメソッドです。
(4)眠りについて
サンスクリット語では「アヴァーヴァ・プラッティヤ・アーランバナー タモーヴルッティヒ ニッドラー」と書かれています。これは特別な認識は映さずに、タマス(鈍い状態)に基づいたヴルッティがニッドラーです、という意味です。知覚、考え、意志、表現、夢という世界すら映さず、特別な考えが何も浮かんでない考えの状態がニッドラー(眠り)です。それは、ヴルッティ(考えの動き)がタマス(鈍い質)に覆われた状態です。ニッドラーは、深い眠り、熟睡の熟睡の状態で、夢を見ている浅い眠りは含まれません。夢をみるということは、過去、潜在意識の記憶が映ったヴルッティが動いているということです。外の世界と接触はないけれど、過去の記憶をベースにした自分の主観的な世界を経験している状態が夢です。
深い眠りは、記憶も含め、どんな形の考えも映っていないタマスという深い闇に覆われたヴルッティが流れています。寝ている間、自分自身の存在が消えて、いなくなっているわけではありません。朝起きたら「ああ、よく寝た」という自分がいます。寝ている、という状態を経験した自分が、何も映していない考えがあったこと知っています。だから、目覚めた時に、特別な経験をしていなくても「いい眠りだったなあ」といえるのです。
『ヨーガスートラ』は、外の世界とのつながりを解いて、五感を休ませ、寝ているという状態を起こすのも、考えの1つの機能だといいます。眠りは人を悩ませることがありません。苦悩の原因にならない考えの一つがニッドラーです。外の世界で演じている役割をすべて解き放ち、深く眠るときに、私たちは何にも頼らず、依存せず、ただ自分でいるだけでとても幸せです・熟睡している間、苦悩から自由な本来の意識の源である自分自身に戻っているからです。『ヨーガスートラ』は意識の根源である自分自身こそが幸せの意味であり、満ち足りていることの意味であるといいます。私たちは深く眠り、自分のままでいるとき、満ち足りた経験をたっぷり味わうことができるのです。
(5)記憶について
サンスクリット語では「アヌブータ・ヴィシャヤー アサンプラモーシャ スムルティヒ」と書いてあります。これは、以前に経験したことの対象が、失われるに心に残る考えがスムルティ(記憶)です。過去にした経験が忘れずに残っていることをスムルティ(記憶)といいます。スムルティは、5つ目のヴルッティです。『ヨーガスートラ』は、私たちが夜見る夢は、スムルティ(記憶)をベースにしているといいます。過去に経験したことが、夢の形になって現れ、再体験することで、過去には消化しきれないカルマ(行いの結果)を夢でも消化しているのです。過去に経験したスムルティの中には、間違って覚えていることも、想像しただけの考えで心に残っているものもあります。聖典や新しい経験という正しい知識によって、間違った結論や記憶を正しく改めることを、ヨガでは心を浄化すると表現します。
間違いを正すヨガの教えは、聞いただけ、知っただけのままでは私たちを変えることはできません。意味を理解せず、言葉だけを繰り返しても、教えはチカラと効果を発揮しません。知識を自分の理解に落とし、知恵にまで深めることでヨガの教えは私たちの心を浄化し、大きく成長させるチカラを持ちます。そのため、難度も繰り返し学び、自らヨガを実践することで、初めて教えが自分を変える力を発揮するのです。
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【監修者】 | 宮川涼 |
プロフィール | 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。 |