健康と緩和・浄化・瞑想のアーサナ
神が宿る神殿としての肉体
より厳格なヨガの流派は、肉体を腐敗した骨と腱と肉の塊とみなします。ですが、ヨガの権威たちはみんな肉体のある存在が尊いものであることを認めています。肉体があってこそ、私たちは悟りや解放の追及へ向かうきっかけとなる、様々な経験を得ることができるからです。ユダヤ教とキリスト教でいう天使たちに当たる神々でさえ、この点では不利だとされています。ひたすら喜びに満ち溢れている天上の生活が、真の自由と永遠の幸福を表す〈実在〉という無条件なる次元へと神々を投げ込むことはありません。彼らはまず物質的な世界を含む低位の世界に誕生しなければ成らず、そうした後に、条件付きの存在の循環(サンサーラ)から解放されるのです。
それゆえ、人間生活は極めて貴重だとヨガでは考えられています。タントラ教とそこから派生したハタ・ヨガでは不完全な肉体さえ神の宿る神殿(デーヴァ・アラヤ)とみなされます。17世紀のハタ・ヨガ教本「シヴァ・サンヒター」はこう記します。
創造主の手により5つの要素から形成され、ブラフマンの卵として知られるこの肉体(ガトゥラ)は、喜びと苦しみを経験するために創られた(1・95)。
意識〈自己〉は〈肉体という〉無意識のものと結びつくことによって、すべての人間の「喜びと苦しみという」経験において存在しつづける。カルマに縛られながら、魂(ジーヴァ)として知られるものが無意識から多様化してゆく。
経験を重ねることで、カルマはいわゆるブラフマンの卵として何度も生み出され、経験がカルマと共に終わるとき魂は消滅する(1・99~100)。
カルマに支配されていない肉体がニルヴァーナを得るための道具となるとき、肉体という媒体は価値あるものになるのであり、そうでなければ価値はない(2・52)
南インドの聖ヨギン、ティルムラーが旋律的なタミール語で著した「ティルマンディラム」に、次のような2つの詩節があります(ここではわかりやすい意訳を下に記載します)。
肉体が朽ちれば、生命の力(ブラーナ)は離れてゆき〈真実の光〉を得ることはできなくなる。私は自分の肉体を、そしてその中にある生命の力を維持する技を習得した。
かつて私は肉体を忌み嫌った。だがやがてその中に神を見、肉体が神の宿る神殿であることを悟った。こうして私は肉体を細心の注意を払って維持するようになった(第724~725節)
唯一の〈自己〉(アートマン)は、カルマとともに限定した肉体や有限の宇宙と結びついた事で多様化した魂となり、そのそれぞれが自身を孤島だと考えます。この錯覚によって喜びや苦しみを交互に経験することになるのですが、そもそもの誤った自己同一を補強するばかりであるそうした経験はすべて、束縛にしかなりません。カルマや限られた経験全てが超越されて初めて、人間の魂は、存在するあらゆるものの中に具現する唯一の〈自己〉としての本質を思い出すのです。
無知から自由な知へ、喜びと苦しみの分から光り輝く幸福の転換は、もっとも単純でありながら最も神秘的な存在のプロセスです。「シヴァ・サンヒター」やその他特にタントラ教の特徴を持つ文献では、このプロセスを推進するための巧みな方策を説きます。それは、たえず自分自身を〈自己〉として、〈神〉として意識をすることです。そうした経験的認識に還元させるやり方として、実際に人間の肉体を宇宙全体のレプリカとしてとらえる考え方があります。「シヴァ・サンヒター」の第二章冒頭の節では、人間の肉体の中に、壮大なメル山とそれを囲む7つの島、そこにある湖や川、丘や平地、それらを総括する神々や賢人たち、そして星々まですべてを見出す方法が述べられています。このことから肉体は、あらゆる喜びと苦しみが生まれる「宇宙の卵」あるいは「ブラフマンの卵」(ブラフマン・アマンダ)と呼ばれるのです。ヨガとはこの卵を割って、避けられないカルマから逃れる手段なのです。
しかし、卵を割るというのは霊妙なプロセスであり、肉体を殺すだけでは成就できません。肉体を殺しても、それは、別の肉体を新たに作り、より困難な経験をさせることにつながる、カルマ的な行為に過ぎないからです。ただ智慧だけが、カルマ的な自己再生産という悪循環を終わらせることができるのです。
ヨガ修行者は大きな絵を見ているのであり、この世の生だけでなく、未来のあらゆる具象にかんがみて自らの行為をとらえています。そうして、再生産のきりない循環を断ち切るべく、カルマの木を根元から刈り取ろうとします。一気に自由になろうと奮闘しているのです。
狩る後いう考え方と密接につながっている輪廻転生の概念は、ヨガやその他インドの解放の教えの基本です。ヨガを始めたばかりの人の中には、今の自分が一本の長い生命の鎖の一環に過ぎないことが、にわかに信じがたいという人もいるでしょう。判断を留保しておきたい向きでも、道徳的観点で因果の法則というものを理解していれば、ヨガの実践を成功させることができます。因果応報、種をまいたように収穫があるものなのです。
肉体浄化の基礎
ヨガの道は肉体的精神的浄化、つまりカタルシスの長い道のりだと考えられます。「ヨガ・スートラ」によると(3・55)、〈自己〉は心の最高局面、サットヴァが純粋な〈自己〉に最も近づいたときに輝きだします。それゆえヨガ修行者はゆがみのない〈自己〉の光を映すため、心の鏡を磨くあらゆる努力をします。ヨガの権威たちは、肉体と精神の密接な関係にずっと昔から気が付いていました。それゆえハタ・ヨガは修行者が瞑想し忘我になりきることによって自己浄化する内的修行をサポートするため、かなり複雑な肉体浄化(ショーダナ)プログラムを設けています。
「ゲーランダ・サヒター」には、肉体浄化の「6つの行為」(シャット・カルマ)が記されています。
1.ドーティ(「洗浄」は次の4つのやり方-内部洗浄(アンタール・ドーティ)、b.歯の清掃(ダンタ・ドーティ)、c.心臓の浄化(フリドゥ・ドーティ)、d.基部の浄化(ムーラ・ショーダナ))から成る。内部洗浄には次の4つの訓練が含まれる。-息を口から吸いこみ肛門から吐き出す、意を水で満たす、へそを背中に向けて繰り返し押し付けることで腹部内の「火」を刺激する、脱出した腸を洗う(これはかなり危険な訓練)。歯の清掃は歯、舌、耳、鼻孔前方の洗浄を含む。心臓の浄化はプランテーンの茎やウコン、トウの茎、あるいは布切れなどを使ったり、自分で嘔吐を起こしたりすることによって喉を洗浄することである。ここでいうフリドゥ(心臓)は胸を意味する。基部の洗浄は水やほかの天然物質を使い、手で肛門を洗浄することである。
2. ヴァスティ(嚢)とは括約筋の収縮と膨張の事であり、しばしば水中で立ったまま行う
3. ネーティとは長さ25センチほどの細い糸を鼻から口へ通す訓練の事である。このとても単純な訓練は粘液質を取り除き第三の目を開かせる、すなわち顔の真ん中にあるアージュナ・チャクラを活動させ、それによって千里眼を目覚めさせるといわれる。
4. ラウリ(前後運動)はナウリとも呼ばれ、腹部の筋肉を側面方向に回して胃腸やその他の内臓器官をマッサージさせることである。
5. トラタカは力を抜き、ろうそくの炎のような小さなものを涙が出るまでじっと見つめる事である。これは資力を向上させ千里眼を誘導すると考えられている。
6. カパーラ・パーティ(頭蓋の輝き)は、粘液質を減少させると言われる次の3つの訓練から成る。a.左のプロセス(ヴァーマ・クラーマ)は左の鼻孔から息を吸い右の鼻孔から吐く、そしてその逆を行う。b.逆さのプロセス(ヴュット・クラーマ)は鼻孔から水を吸い口から出す(ネーティの形)。c. シットのプロセス(シット・クラーマ)は口から水を吸い鼻から出す。このときシットという音が出るのでこの名が付いた。
これらの浄化については教本によってさまざまな説明がなされており、準備練習のやり方にもいろいろな訓練が加えられています。ほとんどのヨガ実践と同様、これらの訓練も優秀な教師から教わるのがベストです。これらの訓練によって肉体から不純なものが除かれ、体位(アーサナ)や瞑想などの修養の準備が整えられます。毒素のある肉体は内的な調和とバランスを妨げます。とりわけハタ・ヨガ(力強いヨガの意)では、肉体の浄化によって蛇の力、すなわちクンダリーニ・シャクティが活性化すると、神経系統に不快な症状を引き起こす場合があります。
弛緩は解放
弛緩はヨガの最も重要な部分です。なぜでしょうか。それはヨガの世界観では、喜びと苦しみの経験の蓄積を中心に動いている日々の生活とは、意識が収縮した結果です。超越的な〈自己〉のような純粋な状態であれば、意識は完全に制限なく自由です。ですが、精神と肉体の誤った自己認識によって、ゆったりとした〈自己〉意識は魂(ジーヴァ)の限られた自覚を生み出すために収縮してしまうように思えます。ただ実際は、〈自己〉は決して収縮したりはしません。収縮の錯覚が問題なのです。ヨガは啓発されていな人たちを縛り付けるこの錯覚を徐々になくそうとするものなのです。錯覚を維持させようとするあらゆる束縛を体系的に取り除くのです。この試みは解放や浄化、弛緩など広範なプロセスに表れています。
広い意味で言えば、弛緩とは自我を持つ分離した個体という錯覚を生じさせる緊張をほぐすことであり、単なる肉体の弛緩だけでなく意見や関心、希望、態度といった精神の弛緩をも意味します。これはヨガのレベルにおいても重要なカギとなります。とはいっても、ほとんどの人にとって身体の弛緩はさらなる総合的な弛緩プロセスの素晴らしいスタート地点となります。
おもしろいことに、「ヨガ・スートラ」のなかでパタンジャリは弛緩をまさにヨガの体位(アーサナ)の本質として記しています。弛緩を意味する「シャイティルヤ」という語を用いて、こう説明しています。
体位は安定して快適[であるべきだ]。
緊張の弛緩(プラーヤートゥナ)と無限[意識宇宙]との一致によって[なされるべきである](2.45~46)
体位を正しく習得すると、身体(あるいはそう感じているイメージ)が弛緩し拡大しているような独特の感覚が生じます。パタンジャリは意識と無限(アーナンタ)の一致に触れることで、真の自己同一つまり〈自己〉に近づくにつれて意識の無限の広がりが目の前に開かれるということを言わんとしたのでしょう。アーサナ(ヨガの体位)とは体操やアクロバットなどとは全く違う、瞑想そしてそれ以上のもの、といってもよい弛緩の芸術なのです。アーサナの習得に成功すれば、皮膚を超えて広がっていき、周りと自然に溶け込む振動エネルギーになるという感覚が得られるはずです。
紀元2世紀に生きた(研究者によっては紀元前という説もありますが)とされるパタンジャリにとって、アーサナとは瞑想の体位を意味していましたが、ハタ・ヨガの出現で体位に肉体的な健康の回復や維持という付加機能が与えられました。この新しいアプローチの背景には、「肉体が神の宿る神殿であり解放に到達する唯一の機会であるならば、私たちは肉体を清潔かつ最高の状態に保つべく最善の努力を尽くさなければならない」という考えがあります。ハタ・ヨガには膨大な数の肉体洗浄法とエネルギー浄化法がありますが、そのどれもが、前述した広い意味での弛緩を促進させ、悟りへと至らしめるためのものなのです。
サンスクリット語の「アーサナ」は元々「座」を意味します。実際にはその意味通りに使われることもあるのですが、ヨガにおいては主に基本的なヨガの体位を表す語として使われます。ヨガの体位が単なる体のポーズ以上の意味を持つことは、教本で他に「ピタ」という言葉が使われていることからも分かります。通常「ピタ」は、青銅や神聖な場所を指す言葉で、ヨガの体位が肉体を内的礼拝のための青銅へと変化させる神聖な行為であることを示しています。ルーマニア出身の宗教学者で宗教史家、民俗学者、歴史哲学者、そして作家でもある、ミルチャ・エリアーデは次のように記しています。
アーサナは人間が有する形式を廃棄するための、確固たる第一歩である。確かなことは、感情を抑制した動きのない姿勢が、人間以外の状態を模倣していると言うことだ。アーサナにある修行者の形は、植物や神聖なる彫像に相応する。
つまりアーサナとは、神の体を構築する、あるいは神の宿る神殿としての肉体を尊重するための最初の試みなのだ。こうした精神的態度がなければ、ヨガの体位が肉体―スリ・アウロボインドの言う、「踏みとどまることをせず、普遍的な〈命の海〉から流れ込む活力を絶えず動きながら消費していくことしかできない、落ち着きのない」肉体―を癒やすことはないのである。
瞑想の体位
瞑想では長時間じっと座り続けることが要求されているため、内的修行を支える快適な姿勢を見付けなければなりません。おそらく最も快適な姿勢は、一連の体位を締めくくることの多い「屍のポーズ」(シャヴァ・アーサナ)でしょう。「死人の体位」として知られるこのアーサナには優れた弛緩効果がありますが、瞑想に特別適しているポーズというわけでもありません。なぜなら、シャヴァ・アーサナは、ある程度瞑想を極めていないうちは、霊的光明を得ると言うより眠気を催してしまうからです。
大部分のハタ・ヨガの教本では、瞑想に適したアーサナとして次の二つをあげています。
1. シッダ・アーサナ(達人座)
左足のかかとを会陰に押しつけ、右足のかかとを世紀の上に置きます。この形を教本によってはヴィジュラ・アーサナとも呼びます。「ハタ・ヨガ・プラディーピカ」は、「シッダ・アーサナを習得したのなら、他の色々な体位は何の役に立つのか」(1・41)と問うているほどで、達人座がハタ・ヨガにおいていかに高い評価を得ているか分かります。
2. パドマ・アーサナ(蓮華座)
右足を左腿の上に、左足を右腿の上にのせる。古典的な教本では両腕を後ろに回して交差させ、左手で左足のつま先を、右手で右足のつま先を掴むよう指示しています。この変化形は「締め付けた蓮華座」(バッダ・パドマ・アーサナ)とも呼ばれます。「最初の膝の痛みを克服できれば、パドマ・アーサナは最もリラックスした体位の一つだ」とアイアンガー・ヨガの創始者アイアンガー氏は述べています。蓮華座は長時間の瞑想に非常に適した体位である上に、様々な病を取り除くともいわれます。このことは、悟りを開いただけでなく偉大な瞑想の師でもあったブッダの描写に頻繁に見られます。
3つ目のアーサナはスカ・アーサナ(安楽座)です。これは「仕立て屋の椅子」の名でも知られていますが、この体位はひざに無理がありませんが、長時間の瞑想には安定せずあまり適しません。
ここで注意しておくべきことは、サンスクリット語文献では同じ訓練につねに同じ名前が使われているとは限らないため、しばしアバ生徒たちが混乱してしまうことがあることです。例えば、ある教本ではスカ・アーサナをスヴァースティカ・アーサナと呼び、別の教本ではシッダ・アーサナをヴァジュラ・アーサナや、ムクタ・アーサナ(解脱の体位)、あるいはグプタ・アーサナ(庇護の体位)と呼んだりします。更には、同じ体位であっても、流派によってわずかではあるが重要な違いがみられることもあります。このことから、教本や教師による説明には注意を払うことが大切になります。
健康維持と治療のための古典的体位(アーサナ)
ハタ・ヨガの処分権では自然な姿勢が八十四万種あると記されています。このうち八十四種がのちの教本で解説される一連の伝統的なアーサナを構成しています。何世紀にも及ぶ集中的な実践的実験を経て、この複雑な一連の体位が形成されたのです。
17世紀後半の「ゲーランダ・サンヒター」に描かれている体位は三十二種にすぎません。これに対して現代の文献には二百以上のアーサナを挙げるものもあります。西洋のヨガ教師たちは生徒たちの特別なニーズは能力に合わせて古典的な体位に手を加えることによって、ヨガ伝統に多大な貢献をしてきました。しかし体位ばかりに重点を置いて、伝統的な精神的価値体系を重視しないため、西洋のハタ・ヨガはインド・ヨガにある深みを書いている場合が多いと言えます。しかし、インド・ヨガでさえ、一部の実践者はヨガをフィットメスやアクロバットと取り違えています。
ですが、健康維持や回復のための体位(アーサナ)もありますので、比較的よく知られたものを下に記載します。
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【監修者】 | 宮川涼 |
プロフィール | 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。 |