『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(15)

01 心のざわめきが抑えられないときは

続いて、第四節を読んでみましょう。そこには、

vrttisarupyamitaratra ヴリッティサールーピャミタラトラ

と書かれています。「vrtti」は女性名詞で「転がること、活動、在り方、生起、働き」を意味する言葉で、「sarupyam」は中性名詞で「外観の一致、類似、酷似、相似」を意味する主格です。そして、「itaratra」は副詞で「そうでなければ、一方」を意味します。原文の語順で直訳すると、「働き・相似である。そうでなければ」となります。つまり、心が二ローダ(止滅)されていなければ、「そうでなければ、(プルシャである真我は)働きと相似している」ということになります。これはどういうことかというと、心が止滅されていなければ、プルシャはchitta(心)に色々な働きが起きては消えていく、そういう心がざわついた状態にあるということです。難しいことではなく、通常の心理状態にあるということですね。怒りや悲しみ、喜びや楽しみ、そういう喜怒哀楽がある状態です。

『インテグラル・ヨーガ』からの解説を加えますね。「たとえば、私があなたに『君は誰か?』と訊ねたとしよう。もしあなあが、『私は男です』と答えるならば、あなたは自分自身を男性の身体と同一視している。また、『私は教授です』と答えるならば、あまたは自分自身を、自分の脳に蓄積してきた観念と同一視している。『私は資産家だ』なら銀行の口座と、『母です』なら子供と、『夫です』なら妻と。『私は背が高い』『私は白人である』『私は黒人である』という答えは、肉体の色や姿との同一視を表している。しかし、いかなる同一視も取り去ってしまったなら、自分はいったい何者なのだろうか?」と。確かに、あなたは「日本人」で「背が高く」「スポーツが得意な男性」かもしれません。しかし、「日本人で背が高くスポーツが得意な男性」はあなたに限らず五万と居るでしょうし、それがあなたの本質でも、あなたそのものでもないことは直ぐに理解出来ることかもしれません。それらはあなただけではなく、その他の誰にでも使える総称に過ぎないわけです。貴方自身とは異なるものです。そのように心が止滅されず、「私は金持だ」とか「私は短気な人間だ」と思っている間は、あなたはそれぞれの働きと貴方自身を誤って同一視しし、貴方自身ではなく、それぞれの働きをあなた自身だと思い込んでいるに過ぎないというわけですね。

続いて、次の節で、その働きにはどのようなものがあるのか示されます。

vrttyah pancatayyah klistaklistah ブリッタヤハ パンチャタッヤハ クリシュターリシュターハ

とあります。これは、「pancatayyah」が形容詞で「五種類の」ということを意味しており、「klista」が「悩まされた、苦しめられた」を意味し、「aklistah」がその否定で「悩まされない、苦しめられない」を意味しており、原文の語順で直訳すると「働きは、五種類あり、悩まされるものと悩まされないものがある」となります。「悩まされる」と訳しましたが、一般的には「煩悩(性)」と訳されるのが普通で、反対に「悩まされない」は「非煩悩(性)」と訳されるので、「(その心の)働きには、煩悩性のものと非煩悩性のもおがある」と訳されるのが一般的です。要するに、心の働きには、5種類のものがあるが、それは、悩まされる煩悩に基づくものと、悩まされない非煩悩のものがあるというわけですね。では、その5種類のものはは何であるのか次に書かれています。

ちなみに、パタンジャリは、次から始まる五つのものを煩悩性のものか非煩悩性のものかは指し示してくれていませんが、ここで大事なのは、煩悩性、即ち、悩まされ、苦しめられるものと、非煩悩性、即ち悩ませられず、苦しめられないものと区別したところにあります。つまり、苦楽というような、苦しいものと楽しいもののような陰と陽に分けたのではなく、悩まされるものか悩まされないもののというように、一方は苦痛(マイナス)をもたらすものであるのに対して、もう一方は苦痛がないだけで、決してプラスではないということです。それはいわゆるプラスのものと考えられるような、たとえば楽しいものや喜ばしいものも、最終的には苦をもたらすものになるからです。たとえば、お金がたくさん手に入って嬉しいとしても、それは失えば苦しみにしかなりませんし、容姿が幾ら美しくそれが喜ばしいことでも老い衰えればその美しさには陰りが見え、昔はあんなに美しかったのにと悲しむことになるかもしれないからです。

pramanaviparyayavikalpanidrasmrtayah プラマーナヴィパリャヤヴィルカルパニドラースムリタヤハ

これは、「pramana」というのが中性名詞で「量、標準、広さ、大きさ、正しい量、基準、証明、真実の概念、正しい概念」という意味で、「viparyaya」が男性名詞で「置換、交換、変化、顛倒、反対、悪化すること、不幸、災害、誤り、誤解、誤った意見や考え」という意味です。そして、「vikalpa」というのが男性名詞で「二者択一、選択、結合、工夫、躊躇、ためらい、疑惑、空想、無知」という意味で、「nidra」が「睡眠、仮眠、眠いこと、怠惰」を意味しており、「smrtayah」が「記憶、想起」を意味しています。原文の語順に基づいた直訳をすると、「(5つの心の働きは)プラマーナ、ヴィパリャ、ヴィカルパ、ニドラー、スムリティである」とされているわけですね。敢えて訳さず片仮名表記しましたが、一般的には「正しい概念、誤解、選択、怠惰、記憶」と訳されます。もちろん、仏語や漢語を使って「正知、誤謬、分別知、怠惰、記憶」と訳される場合もありますが、これらの言葉についての詳しい解説は次の節から一つずつ説明されていくので、その説明を読んでみましょう。

pratyaksanumanagamah pramanani プラティヤクシャーヌマーナーガマーハ プラマーナーニ

「pratyaksa」が「知覚、感覚を通じた理解、認知」を意味し、「anumana」は「推論、類推、論証」で、「agamah」は「到着、出現、起源、由来、教本、聖典」、「pramani」が「量、重さ、正しい量、証言、証明、正しい認識の手段、真実の概念、正しい概念」です。つまり、前述した五つの心の働きのうち、「認知、類推、聖典が、プラマーナである」と書かれているわけですね。先程も申し上げましたように、このプラマーナは一般的には「正知」と訳されることが多いですが、これだけだと分かりづらかったですが、今の原文の訳から考えていくと、「自分が直接、知覚・認識したこと」や「事実に基づいた推論や類推」、それと「古代から伝わる聖典」の3つが「プラマーナ」、即ち「正しい概念、認識、真実の概念」であるというわけです。

ここで、ふと疑問が湧くのは、後者の二つ「事実に基づいた推論や類推」や「古代から伝わる聖典」(とりわけ、「古代から伝わる聖典」が正しいとするところは、宗教的で、違和感を覚える方もいるかもしれませんが、ヨーガ思想の成り立ちを考えるとこれは「まあ、仕方ないよね」と受け入れられることであるとも思います)が「正しい概念」であるのは理解しやすいですが、「自分が直接、知覚・認識したこと」が正しいというのは、少し乱暴に見えるかもしれません。この記事でも紹介したように、ロープを蛇と見間違えたりするのが自分が直接、知覚したり認識したりすることであるので、たとえば伝聞ではなく、自分が直接見聞きしたことでも見間違いなどがあるように、「正しい概念」とはいえないのではないか、という疑問が湧いてきます。

しかし、西洋哲学史の観点から言えば、これはイギリス経験論といわれるような系譜にある考え方、つまり、観念の作り方を自分たちの経験を頼りに作りあげていく考え方ですね。たとえばジョン・ロックの『人間知性論』にあるような考え方、心は本来「タブラ・ラーサ(白紙)」であって、そこに何らかの生得観念(経験に先立って何らかの観念があるという考え)はなく、あらゆる観念は人間が何らかの道筋を経て作りあげていったものに他ならないという考え方で、「そこで、心は、言ってみれば、文字をまったく欠いた白紙で観念は少しもないと想定しよう。どのようにして心は観念を備えるようになるか。人間の忙しく果てしない心が殆ど限りなく心を多様に描いてきた。あの膨大な蓄えを心はどのようにして得るのか。どこから心は、理性的推理と知識の材料をわがものにするのか。これに対して、私は一語で経験からと答える」(ロック『人間知性論』)と考えた彼の考えに近いと理解してもいいかもしれません。もちろん、感覚は外界の事物の知覚を私たちにもたらし、事物についての観念をもたらすというわけです。

さらに、ロックからバークリに進むと、「知覚されることと何の関係もない思考ないし事物の絶対的存在についていわれること、そうしたことは私には全く不可解である。そうした事物の存在するとは知覚されることである。」(『人知原理論』)というように、「ある」ものは「知覚されてある」ものであり、直接の知覚を離れて抽象的一般者があると考えたり、客観的物質があると考えるのは誤りであると主張されるようになります。たとえば、花は紅いと知覚されるままに紅いのであり、素朴にその実在を認めるという一種の素朴実在論のような主張がされ、知覚する働きや意志する働きが、私の存在根拠となると考えられています。その意味で、ヨーガ(ヨガ)思想的には、いわゆるイギリス経験論のような形は最終的にとっていくわけではないものの、少なくとも正しい概念の在り方の一つとして経験論(知覚を重視する立場)を認めていると理解すると、ヨーガ(ヨガ)思想の懐の広さが感じられる一句であるといえるかもしれません。

また、もしかしたら、「推論や類推」も「正しい概念」であるというところに違和感を覚える方も知るかもしれません。確かに、「推論」や「類推」というのは、得てして間違うことがあるものです。ただ、実際、同時代のプラトンは洞窟の比喩や太陽の比喩、線分の比喩などを用いてアナロジー、つまり推論、類推を用いて善のイデアを論証していこうと試みているわけですが、現代人の我々からすると、そんな荒唐無稽な譬えはなしをだされてもねえ、と苦笑してしまうことはあります。しかし、個別的なことを説明するのに抽象的な例を用いたり、逆に抽象的なことを説明するのに具体的な例を用いるという説明方法であるアナロジーというのは、それこそ本記事でも多用しておりますし、抽象と具体、具体と抽象と説明を深めていく際に用いるロジックとしては決して奇異なものではなく、むしろオーソドックスなものでしょう。なので、ここで『ヨーガ・スートラ』において、そのアナロジーの結果はともかく、アナロジーを用いることは正しい概念に結びつくと説明しているのは、至極まっとうなことであると思います。

また、「古代から伝わる聖典」についても、少し解説を付け加えておきましょう。ヨーガ(ヨガ)だから、仕方がないよね、と済ませてしまっても良いと言いましたが、スワミ・サッチダーナンダはこう語っています。

「それが普通に言う聖典、つまり、権者、聖者、予言者たちのことばであるがゆえに、我々が信ずる聖典である。彼らは真理を見、それを説いた。だからわれわれはそれらを信ずる。東洋では、『これこれの修練をせよ』といわれたら、聖典もやはりそのように勧めていかなければならないとされる。ただ私がそういうからそうする、というのではだめなのだ。おなじみ道を行った誰もがそれを承認し、古い聖典もまた、それを承認していかなければならない。真理は同じはずだから。それは新しく発見されるものではない。この、われわれの時代の発明は、すべて簡単に反故になる。今日は最高を最先端をゆくものが、明日になれば最低・最悪だ。それらはまだ最終的な完成に至っていないのだ。だが、聖典を通じて示される預言者たちのことばは、最終的なものだ。それらは簡単には修正され得ない。だがそこでもわれわれは、根本の真理とそれの呈示をとの違いを見極めなければならない。真理は、何らかの形や表象を通じてしか示され得ない。つまり、<真我>という真理は同じだが、ことばや様式、そして作法を介して表されるとき、それは故人や時代の要請に応じてさまざまな現れ方をするということを、われわれはいつも忘れてはならない。それは、儀式は修正を受ける、言い回しも変化する、ということだ。しかし、中味の真理が変化することはあり得ないー真理というのは常に同じはずだから。儀式というのはただ、ビルの外面を支える骨格なのだ。だからそれらすべての儀式の土台は、同じでなければならない。だから、それがどういう聖典であろうと、また、東洋、西洋、南方、北方、どこに発祥したものであろうと、それらの根本的な真理は、一致して当然である。それは、時と場合によって服装を変えはするが、けっして中味の変わらない人間のようなものだ。スキーに行くときは、ビジネススーツは着ない。会社に行くのだったら、スキーブーツを履いては行かない。優雅な結婚式ならどちらの服装も役に立たないし、海水浴にいくなら三つとも全部失格だ。だが、そういうふうにいろいろな服を着る当の本人は、同じままだ。それと同じで、すべての聖典の中にある真理は同じなのだ。ただその表現が違うだけである。(中略)もし私が『ヨーガ(ヨガ)の名において、あなたは一日に十の嘘を言って宜しい。それが現代のヨーガ(ヨガ)だ。いいから私を信じて』といったら、いつでも『で、その根拠は?』と問い返すべきだ。その時、私はその聖典的根拠を示すことができなければならないわけで、もしそれができないのなら私はどこかで間違っている。だから、ある人やあるものを頭から信じて、盲目的についていく必要はない。『どこかおかしい』と思ったら、どんな聖典でもいい、それで調べてみる。』(『インテグラル・ヨーガ』

と。聖典だから、それを鵜呑みにしろとか、先生のいうことろそのまま信じろといっているわけじゃないというわけですね。しかも、聖典の種類も問うているわけではないとスワミ・サッチダーナンダは解釈しています。奇しくも同時代のプラトン思想との類似なども考えると、『ヨーガ・スートラ』だけではなく、古くから読まれている古典から学べという姿勢として、この聖典を理解しろというと我々現代人にもより親しみやすく、また良い意味でも(あるいは悪い意味であると考える方もいるかもしれませんが)宗教色がなく、『ヨーガ・スートラ』を理解することもできるのではないでしょうか。

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(16)

【目次】

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(1)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(2)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(3)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(4)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(5)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(6)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(7)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(8)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(9)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(10)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(11)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(12)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(13)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(14)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(15)

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【監修者】宮川涼
プロフィール早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。

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