悪について~仏教やヨガ、西洋哲学から考える(8)

01 ポリスへ

さて、アガメムノンとクリュタイメストラとオレステス、この三人は各々個人の対立ないし関係にあるのではない。だから前にも言ったように、心理学の問題ではなく、性格の問題でもない。それは男と女と世の中の対立ないし関係である。父(男)と母(女)と息子の関係であるが、父は公の、陽の当たるところにいて、秩序を原理とし、正義とするものである。が、母は、冥界の原理、大地の原理、すべてを生み出すが、全てを帰らせる原理である。息子はだが、この二つもの対立の場に期せずして投げ出されたものである。すでに早く、戦争の場としての世間に置かれている。だから、息子の場合、すでに早くそこに置かれているという意味で、果たすべき責は、自ら引き起こしたものではない。負わされた責任の場で、自ら選ぶより他ないところに立たされている。自ら発するのではないのに、引き受けることを余儀なくされる。これが世間である。世間とはそういう意味で、いつでも歴史的なものであり、土着のものである。人間がつくるものであるように見えながら、作られていく。

三人の人物を主題としたこの劇は、今述べた意味で、既にワインシュトックも言うように「世界詩」である。どれほどこれが複雑になり、いわゆる高度な意識に担われようとも、この原型は少なからず、現代に及んでいる。この原型は、悲劇という形で語られているのだが、そこには、ギリシア的色彩が強く塗られているにしても、それを世界大の形で提出した意義は、大きいと言わねばなるまい。そこに悪者アイスキュロスがいる。男と女の対立は、アポロンとエリーニュスとなっている。が、アポロンはポイボス・アプロンであるとされる。その意味は、デルフォイの神殿を、大地の神から力尽くで奪ったということであるとされる。これは、ポイボスについての一つの伝説であるが、そこに力の問題であることを言うものとして、意味がある。アイスキュロスは、地下の世界のポイペー(女神)が、誕生日の贈り物として、デルフォイをアポロンに譲り渡したものとしている。

アポロンは、この好意にちなんで、ポイボスと名乗ったことにしている。が、いずれにせよ、アポロンは、デロス島を出て、アテナイの濱を通り、デルフォイに移ったとされる。そのとき、鍛冶屋の神ヘパイトスも、後について移ったという。ここに工作者を従えて、大地に鋤をいれ、荒れ地を切り開くアポロンがいることになる。これは、つまり男の存在を物語るものに他ならない。大地は、母からそして女から、力尽くで男の手にとられる。ここに男がいる。母に守られている限り、生命は健やかであり、そこに安定したものがった。それは、同時に、母なる大地の懐に抱かれていたからである。その意味で、母と大地とはそのまま同じであった。大地は、消費されてもまたそれを取り返し、懐にいれる。だから、母なる大地の生命力は生み出しながらも、消耗し尽くされることなく、誕生と墓という周期の中に保たれ、汲み尽くされることはない。この母なる大地、母系社会に敢えて挑戦するものが、男、アポロンである。だから、エリーニュスは母なる大地を守るものとして、アポロン的原理に抵抗せざるをえない。そのため、アポロン、つまり男には、この母なる大地を犯したという不安がいつもつきまとっていることになる。

これがアガメムノンのためらいに出ている。エリーニュスは、ギリシア神話の中では、あらゆるおぞましいものの子であり、明るい神々の中にあって、外来者のような否定的な振る舞いをする。だが、そこには母なる大地を犯すものに対する怒りが、形をとっている。冥界を代表する復讐の女神たちの代名詞とされているけれども、もとは大地に根を下ろし、すべてを生み亡ぼしまた生む力である。この力に対するギリシア的畏敬が、ここに前提されていると言って、差し支えないように思われる。だから、クリュタイメストラは、母として、大地として、己が腹を痛めた娘が、公という名の男の原理によって、生け贄にされることに我慢がならないのである。法廷の場においても、エリーニュスは母殺しを責めはするが、夫殺しについて全く触れようともしない。

そこにある男と女の対立をもたらしたものの中に、期せずして入れられるのが、オレステスである。このことを前に述べたところから言えば、現に争いの巷である世の中にいるところから振り返って「原始」の世界に男と女の対立を、アポロンとエリーニュスの対立として思い描き、母なる大地の平和が、男の原理によって侵されたと考え及んだのかもしれない。つまり、人の世は、世であることにおいてすでに、悪の深く突き刺さったものだということである。そういう形で、人の世を受け止めざるを得ないという私が、そこにいること、これが諸々の発想の根源なのである。

ここで、特に注意しなければならないことは、後の世の西欧人がいうような、肉と魂の対立という形で感覚的欲望の存在を悪とみるような形で、物語が扱われていないということである。性的存在としての母に、特別な意識は差し挟まれていないからである。むしろ、父と母と息子の存在そのものが既に禍であることを大きく躍動的に描いている。それがこの劇の特徴である。ただおぞましいとされているのは、習俗を破壊する血なまぐさい行為だけである。この習俗の中にいるということは、同時にそれが人間存在にとって、抜きがたいものであるからである。ここにこの劇の優れた性格がある。

さて、アテネ神の計らいによって、すべての争いは法廷に持ち込まれ、そこで市民によって、裁判にかけられなければならないことになったとされている。こうしてポリスが生まれたと語られている。翻って望み託された形で、ポリスの使命が語られたものに他ならないと言えよう。つまり、すでに世の中にいるオレステスが、ことの始まりであるが、それを収める責任がポリスにあるとされたものであろう。いわゆるギリシア的民主主義というものが崩壊していく過程は、人々のよく知るところである。民主主義が衆愚政治に陥ることのもっている、根本的性格、それこそ人間存在が負い目をおってここにあるということを、語っているものといえるだろう。禍という形では言われているが、そこに悪無しには有り得ない人間がいること、それが問題のもとである。

これまで述べたところから分かるように、ここまでは個別的人間というものは存在しない。王であり、女王であるという形で、原男、原女という形で、また息子であるという形でしか、人間は存在していない。死んでしまったアガメムノン、死んでしまったクリュタイメストラは、死ぬことにおいて個別的になるけれども、そうなったときには、いわば自然に帰ったのであって、習俗の中にいるわけではない。これに対して葬式という形がとられるならば、死者は習俗のなかにいる(アンティゴネ-)。だから、習俗社会としてのそこには個人はいない。ヘーゲルは「個別的人間は市民として現実的であり、主体的なのだから、市民では無く、家族の一員であるような個別的人間は非現実的な無力な影に過ぎない」と言っている。これは『アンティゴネー』に関していっているのだけれども、このアイスキュロスの場合にも、アガメムノン、クリュタイメストラ、オレステスは近代的な個人ではない。王、男であり、女王、女であり、息子ではあるが個人ではない。だからこれを近代社会に於ける個人の類比から考えることは誤りである。

02 ポリスの市民

アテナによる裁判の結果、今後、ポリスの市民は自らの共同体を自ら治めなければならないことになる。だが、アポロンとエリーニュスの対立に基づく、この争いを、神々自身でさえも裁くことができなかったこの争いを、人間の手に委ねることになったといえる。神々から人間へと言うこの図式を、いろいろに説明することはできるであろう。だが、大切なことは、骨肉相食み、近親相姦し、互いに騙し騙される現に生きている人間が、ここにいるという事実、この原体験がすべての出発点であるということである。このことはこれまで重ねて言ってきたことだが、この場合にも言えるであろう。だから、習俗的共同体からポリスへという道がここにあるといえるが、諸々の困難に出会った後に、この市民による裁判という形に行き着いたこと、それがこの場合にも考えらるべきであろう。

恐れなすものの源となるものを

ゆめ町の外に追い放つことなかれ

いかで法を守ることあらんや

御身らが震えつつ

畏敬の念を正しく保つとき

御身等は郷土の誇り、 国の塁壁を持つ

これぞいかなる人間も

かつてなしえざりしこと

アテナ神のこの宣言こそ、生まれ出べき新たなるポリスに求められた最高の警めである。だが、この警めの底にあるのは、言い知れぬ不安である。恐れを成すものをポリスの外に出さず、市民各々が責任を感じ、畏敬の念をもって、法を守り、身の程を分かることを求めるのは、容易には果たし得ない課題である。これよりほかにおぞましい禍から身を守るすべはない。ここには、進んで何かを建設し、戦い取れとは一言も語られていない。「おお、知恵が何の役にもたたないときに、知恵をもっていることは、なんと恐ろしいことであることか」という言葉、あるいは「ギリシア人は知った。そこで行うことに吐き気をもようした」というニーチェの言葉が、ここに思い出される。ニーチェは、それをハムレットに似ているともいっている。だが、そこい語られているのは、性格の弱さ、あるいは曖昧な在り方ではない。存在の根本にある不気味なものに対する不安、存在そのものが禍であることに対する不安が語られているのであって、性格の弱さが語られているのではない。それを受け止め、それに耐えようとした精神は、ソクラテスにも顕れているように、むしろ雄渾ですらある。こうしてそこに求められているのは、神々を恐れることである。

だが、神を畏れたからと言って、そのためにすぐ、不安がなくなるわけではない。畏敬が幸いをもたらすという保証はない。「神託からそもそもどんな吉報が人の世におくられようか。さまざまな不幸の知らせにたくさんのことばを用いる占い師らの術というのは、人に恐れを教えてもたらすものなのだから」という根底にある不安に答えるすべはない。そこには、人間の本源にまつわりつく負い目peccatum originaleがある。これに気がつくこと、それこそが賢き人間が、しかもなお、無知であるということの告白であろう。ここにアイスキュロスがいるというべきであろう。ここに「死すべきもの」人間が語られている。人間は死すべきものであるとは、ギリシア人がよく使った言葉である。ここに思い知るべき、人間の有限な姿が語られている。最大の禍を知って、なすすべを知らぬ無知の知こそ、ギリシア人の到達した極限であるといってもよいであろう。だから、死すべきものの運命を知り、予言しえたからといって、その場から逃れうるわけではない。だからといって、責任を放棄することは赦されない。これが人間に課せられた道だとする。禍と呼ばれる「悪」は人間存在と共にあり、逃れ得ぬ負い目であるのだ。

「ここに一匹の馬があるとして、それは素性のよい、大きな馬なのですが、大きいために、かえって普通より鈍いところがあって、目を覚ましているのに、なにかあぶのようなものが必要だという」。そういう場にいるあぶとして、私がこのアテナイというポリスに神によって付着させられたのではないか。こう語るとき、ソクラテスは最大の反語を語っているのである。ポリスの見張り役であるはずの裁判官たちは、この反語の意味を理解しえなかった。市民のなかで、もっとも目を覚ましているべき人々と裁判官が眠りこけているため、あぶが何を言っているかわからなかったからである。ここに法を守るべき当の人々が、法の根本にあるものに気づいていない。警告は何のために発せられるべきかわかっていない。民主的な法の番人であるべき人々が、もっとも非民主的であるということ、法によって守られるべきポリスが、自ら法を知らないということ、この反語はそう語りかけている。

学ぶことは知ることである。すべてを学んでも、人間とは何者かということになれば、もはや何もわかりはしない。人々は、死について何も知らないはずなのに、知っているかのように死を恐れる。死はもっともいいものであるかもしれないのに。そう語るとき、ソクラテスは、一番根本的なものについて、何も知り得ない自分に突き当たる。そういうものとして人間がここにいるということ、そこで人間の知は止まってしまう。「人間は万物の尺度である」というのは、短絡的に考えれば、人間の傲慢を言ったものとなる。だが、人間は万物の尺度でしか有り得ないと考えるとき、別の意味をもってくる。すべてを知り尽くしたと、自ら認めるそのことにおいて、知り得ない自らに出会う。そこにある限界に気づくこと、そこにこそ人間がいる。そうだとすれば、万物の尺度たり得ないことが万物の尺度となる。その尺度を辨える限りで、人間は尺度でしか有り得ない。

このことは何を意味するか。人間にとってもっとも問題となるのは人間だということになる。人間は自らを問うものだと定義するとして、そう言って問うている自分に突き当たって、挫折するより他はない。人間にとって人間は謎である。月に達し、火星の土を分析する人間は、つまり、万能であるかに見える人間は悩み多き自らがここにいるという事実を、どうすることもできない。人間とは不思議なものである。「不思議なものは数多あるが、人間以上の不思議はあるまい」。そこにある、その限界を超えようとして、神を設定する。しかもなお、その神においてすら、自らの姿しか見えない。だが、このことは、神を語ることが無意味だということにはならない。神を語るということは、人間の限界を知る人間がいる、ということを意味している限り、決して無意味ではない。その意味で、全てを知っているとする人間が、実は何も知っていないという意味で、人間が謎であると考える。そう語る人を理解出来なかった裁判官たち、当代の師表であるべき人々、目を覚まして警告を発すべき人々は、アテナイ市民の思い上がりに対する警告を発せられたとき、それを理解し得なかった。このことこそ、ソクラテスの反語は、言っているものにほかならない。自ら招く禍に気づかない人間がいる、ということの禍(悪)が、そういう形で指摘されている。

だから、人間にとってもっとも問わまほしきものは人間である。人間がいるということの底にあるものは、火山なのである。アテナの裁判は、エリーニュスを慈しみの神に格上げすることによって結審する。だが、エリーニュスはもと地下の神、復讐の神である。格上げされたからといって、地下に眠るこののろいがいつ爆発してくるか。それは誰にもわからない。その意味で、いつ噴き出してくるかわからない禍の上に建てられたポリスがそこにあることになる。ポリスによって人々は、それを支えるものが神々では無くて、人間であるという自覚に達した。市民による裁判という形で、法を守り、禍をポリスの外に出すまいと誓ったのであった。人間のことは人間が責任を負うべきだとした。だが、そのことに含まれる、人間の思い上がりを指摘した人は、殺されてしまった。こうしてソクラテスは悲劇の主人とされた。このことは、ポリスが、いつでも、自らを否定する火山の上に立っているということの昇明である。

ソクラテスを悲劇的人間にしてしまったこと、これは、人間の世の中というものが背負っている禍である。気づかないでやっている。裁判官たちは決して悪いことをしたとは思っていない。アリストファネスの『雲』が人々に語りかけているように、ソクラテスは、時のアテナイ人にとっては、黒を白と言いくるめる術を心得た人間、三百代言なのである。そうだとすれば、これは危険人物、即ち悪人である。だから、これを罪人として処刑することは当然であったのである。

「優れた弁舌の道を見いだす、そのわきまえを皆がもつなら、これらの恐ろしい形相のものたちからして、大きな利得がこの町の市民等にはもたらされよう」この弁舌が「永劫の末々までの、裁きの庭を設けるであろう」と言われる。しかし、この弁舌こそが、実は禍をもたらしめるところとなっている。善の極まるところ、そこにこそ顛倒の危険がある。このことを身を以て示したのが民主社会アテナイなのである。反語は不気味に笑いかけるのみである。アリストファネスは『騎士』のなかで、一煽動家「裁判官殿、お前さんが被告を罰しないと、お前さんは自分で自分の食う道を断つことになるんですぜ」と言わせている。これこそ反語そのものではないか。世の中で悪とされていることは、実はさかしまになっているかもしれない。そうでないという保証のないところに我々はいる。見透かすことのできない人生がそこにある。悪といわれるものがあるとすれば、人間の知恵の不足に基づくという考えは、こうして生まれたのであろうか。

さて、よく知られているように、プラトンに「洞窟の比喩」と呼ばれる話がある。これについては、色々な節があり、専門家の間では難しいことになっているらしい。それだけでなく、この話を判読することさえも難しい。だが、問題の中心は、人間の観ているものが、影ではないかというところにあるように、私には思われる。だから、人々に向かって、お前たちの観ているのは影であって、ものごとの真実の姿では無いのだ、と言って聞かせる人がいなければならないということになる。真実の姿を見た人は、まぶしさのあまり、目がくらんでしまうかもしれないが、なれると、そこに真実があるとわかるようになる。この人が、人々の間に入り込み、改めて、真実を語り聞かせるとき、人々はお前の目がかすんでいるといって、笑うに違いない。このとき、明るいところから、急に暗いところにきたままで、人々に自分が観た真実を語って聞かせても、人々を納得させることはできないであろう。というのも、そのままでは、人々をよく見分けることもできないだろうから。人々に話しかけるためには明るい光になれた目をもう一度暗きに耐えうるようにしなければならない。そのためには時が必要である。そうすることによって初めて「魂を、いわば、夜のような昼から真の昼へ無記を変えさせることだ。そして、この真の昼というのは有るものへの登り道で、これこそ真の愛知だとわれわれは主張する」ことができるようになる。

だが、そのためには、苦痛を得なければならないし、「たといどんな目にでも、遭うことの方を望む」のでなければならない。物笑いの種になろうと、眼を台無しにするかもしれないと言われようと、やっぱり光の所へ出て行かねばならない。この話は何を言おうとしているのであろうか。諸人の愚かしさを笑って一人自ら高しとする哲学者の孤独を、語ったものであろうか。哲学者であることは、世の笑いものとなることであろうと、言おうとしたものであろうか。高く聳える「象牙の塔」を言ったものであろうか。だが、光をみて人々の間に帰ったとき、人々の姿が見分けられるまで、暫くまつといっているのは、つまりいきなりよく慣れぬ目で語りかけることをしないといっているのは何を意味するのか。この限りでも「象牙の塔」のなかにこもろうとしたのではないと、言ってもいいと思われる。

教養ある人々は、「まだ生きているうちから、幸福な人々の島に移住してしまった」と思うから、人々の間に入って政治に関わり、洞窟の暗さで自分たちの思想を汚れさせたりはしない。だが、ソクラテスが対話のなかに呼び入れたのは、靴屋、料理人、船大工、医者、体育教師など、教養の士から観るとき、いわゆる俗人どもである。それほどまでして、真理の国からやってきながら、暗きに自分を慣れさせる努力をしたにも拘わらず、ソクラテスはあの運命を辿らねばならなかった。

ここに思い起こされるのは『パイドロス』に出てくる譬え話である。一台の場所に駿馬と駑馬がつながれている。これを操る御者、これが精神であり、ロゴスである。駿馬は、まっしぐらに走って、目標に達しようとするが、駑馬がそのたびに邪魔をする。車は動くけれども、目標には着かない。御者の目は遠く高く目標に向けられている。しかも、この二頭だての馬車を御して行かねばならない。このもどかしさ、ここに我々がいる。だから所詮「聖なる真理はただほんの一瞬、人間のものになるだけ」という方かない。こうしてプラトンもまた「ほとんどすべてのものがそれぞれ持って生まれた悪いものや病気を持っている」と言わざるをえない。

「台無しにするものはすべて悪いもの、しかし救い、益するものは善いものである」と割り切ってみても台無しにすることが逆をもたらすかもしれないし、台無しにせざるを得ないものが、そこにあることも確かである。救い、益するという形において、かえってその逆を行っていることも、いくらでもある。「私が祖国にやってきたのは遅すぎた。民衆はもはや年を取り過ぎ、ずっと以前から慣らされていたため。私の忠告に反することばかりやっている」と嘆くことになる。

道徳とは所詮、反抗する奴隷の武器に過ぎず、同情という形で生命に背くのだろうか。ルサンチマンから生まれたものにほかならないのか。善悪の彼岸が現に我々の人生なのか。道徳とは「それがなければ、特定の生物は生きていけない一種の誤謬」なのか。イエスは、ソクラテスは、転換を敢えて行ったのではなかったか。そのことにおいて滅びなければならなかったが、そのことにおいて生き返った。これらのことは何を意味しているのか。これまで書いてきたことは何を語っているのか。人間にとって人間は謎である。それが結論なのか。悪とは何か。

悪について~仏教やヨガ、西洋哲学から考える(9)

立川で学ぶ「ヨガの思想」

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(1)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(2)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(3)

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『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(6)

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『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(8)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(9)

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『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(14)

『ヨーガ・スートラ』を学んでヨガを深く知る(15)

バガヴァッド・ギーターの教え(ヨガの古典の経典を通してヨガを学ぶ)

バガヴァッド・ギーターの教え(ヨガの古典の経典を通してヨガを学ぶ)(2)

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バガヴァッド・ギーターの教え(ヨガの古典の経典を通してヨガを学ぶ)(4)

バガヴァッド・ギーターの教え(ヨガの古典の経典を通してヨガを学ぶ)(5)

バガヴァッド・ギーターの教え(ヨガの古典の経典を通してヨガを学ぶ)(6)

バガヴァッド・ギーターの教え(ヨガの古典の経典を通してヨガを学ぶ)(7)

バガヴァッド・ギーターの教え(ヨガの古典の経典を通してヨガを学ぶ)(8)

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【監修者】宮川涼
プロフィール早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。

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