悪について~仏教やヨガ、西洋哲学から考える(5)
01 止揚するわけではない
だが、このことは、性悪説というようなものを意味するわけではない。このことはもし、ギリシア的に言うとするならば、つまりキリスト教神の前提なし考えるとすれば、人間が存在するということの負っているものを語っていることになる。悪そのものが、人間の本性だというようなことを語っているわけではない。悪の無いところに人間はいないということを言っているのだが、このことは、逆に善の無いところにには、人間はいないと言い換えることもできるからだ。「悪は善から全く別れているとすれば、もはや悪としてあるのではない。悪が働き得るのは、実は(誤用された)善によるのであるが、この善(悪)は自らに意識されない形で、善の内にあったものなのである」善において悪に出会う。前に述べたところによれば、善は善であることにおいて、自らを押しとどめようとする悪に出会うのである。われわれが前に述べたところによれば、悪に出会うことにおいて善にかえるのである。シェリング的にいえば、善は自らの根底において悪に出会う。そういう形で善は自らがあることを確認することになる。そういう形でしか善で有り得ないというところに、人間の負い目がある。その何故は、もはや誰にもわからない。シェリングは、悪があるということに迫ろうとしたが、結果は悪を負って人間がここにいるということに出会ったのに他ならなかった。以上述べたところでわかると網が、一見神秘的思弁を弄しているに過ぎないようにみえるが、よく考えてみれば、人間が現にいるということの根本に触れようとした試みであったということが理解出来るだろう。
先程、ヘーゲルのことに触れたが、ヘーゲルならば、この矛盾において同時にそれを弁証法的に止揚(放棄)するものをいうであろうが、シェリングはそうは言わない。以上のことをシェリングも弁証法的と呼んでいるが、そのために対立の両者を包む(止揚する)というようなものを説くわけではない。善悪が止揚されて破棄されるということはないのだ。ここに両者の違いがある。両者が根本的に極めて近いところに立っていながら、結局は別れるのも、そういう経緯からである。
02 当為は顛倒する
さて、人間が人間であることに食い込んでいる悪は、ことのほか根本的で或る。人間存在の負い目というようなものがそこにある。前に私が述べたことは、悪において、自らを否定するものに出会い、自己に帰るということであった。悪という根拠において自己に帰る。そこに見付けられ、求められる自己同一、これが善で或る。この自己同一をそれ自身として立て、固定させること、これが当為である。自己がいる(悪がある)ことの根底において出会ったものが、それ自身独立に主張され、固定されるとき、それが当為である。普通、善なる自己同一から出発するとき、これが表であって、悪は裏であるとされる。だが、根本的には、むしろその逆であるというべきである。自らを否定し、逆らうものに出会うことにおいて始めて、自己同一に帰るのであるから、その出会いに先立つものは無記でなければならない。この出会い以前を善として、それに対するものという形で、悪を二次的に扱うとすれば、善それ自身の独立存在を認めることになる。だが、そうなれば、当為の独立存在を認めることになる。これに対し、当為にしても、循環をそのうちに含むことについては既に述べたとおりで或る。
このように循環に陥りながらも、なお要請とか公準とかいう名において、それ自身なる当為を立てようとする主体が現にいること、これは否定できない。そうなってくると、中心は、シェリングの場合にもそうであったように、当為を立てざるをえないほどに、否定的なものが深く突き刺さっていることを意味するものに他ならない。そういう形で自己同一(同一律)がそれ自身で独立にあるかのように言われる。だが、この自己同一は、それ自身で立てられるとき、抽象であることをまぬがれない。この抽象が固定されるとき、命令の形において悪と対決することになる。そのとき、悪を亡ぼそうとする力になる。こうなれば、それは既に悪に転化しているのである。この意味で、当為が力となって命令するとき、それは悪となり得るのである。こういう例を我々は当為と権力・権威(力)が結びつく形において幾度も経験してきた。権力がそれ自身当為となって命令するとき、それは力をもつだけそれだけ、怖れを呼び起こす。それだけですでに、当為は悪となっている。
対立の両極が媒介成しに立てられるとき、一方から他方への顛倒(Umschlag)の可能性があることについても既にヘーゲルが指摘していたところである。本来善で或るはずべきの当為が、強制となって独善を欲しいままにするとき、それは悪で或る。この意味では、「権力は悪である」といえる。悪に対決するはずであった善も、それ自身なる独立存在の同一を極度に主張するとき、それは既に悪で或る。悪を亡ぼして善を確立したとするそのことにおいて、この善が独立であると自負するとき、既にそれは力としての悪に転化しているのである。これは世界の歴史において、数多く我々が出会ってきた現象である。権力は、正義の名において、どれほど多くの暴虐をほしいままにしてきてか。これについては特に例をあげて説明する必要も無いはずである。ただこの場合、すでに権力で或るという理由だけで、権力が権力であるという自覚もなく、当然のこととして振る舞うことが時にはその主体が善を行使していると自覚しながらも、結果において悪に陥りざるを得ないこともある。そこに歴史を動かしている何かがあることを我々は否定することができないであろう。いずれにせよ、悪に対抗する善は、自らの同一を維持しようとして、極の一方に立つとき、すでにそのことにおいて抽象になり、悪に転化する可能性を孕んでいるのである。
そうなると権力の対象となったもの、悪は、逆に善に転化する可能性を持つということだろうか。権力に対抗する形で自己を主張せざるをえないもの(権力によって悪とされるもの)は善となる。この場合の例を、やはり我々は歴史の中に数多く持っているだろう。始めに挙げた親鸞の例もその一つであるが、政治的現象において、特にその例がはっきりしていると言えよう。歴史自身がその例証であるといえよう。治乱興亡常なしということ自身が、善と悪の相互顛倒を証してうむところを知らないと言えるほどであろう。結局の所は、悪に出会って自らに帰ること、そこに見付けられた自己同一という形で、善悪が対立することから由来する。悪がその底において対立者善に出会うという形になる。その場合、両極に善悪があって、すべての個々の善悪はその間に配列されると考えるならば、それは始めに危惧したように相対論に陥ることになる。この考えは、帰するところ、善も悪もないという考え方に収斂していくことになるであろう。そこには、この相対を支えるものがないからである。もちろん、だからといって、両者を支えるのが何かとして底にあるということはない。そういうものがあれば、それはまたやはり対立を呼び起こすことになるからで或る。この意味において、帰するところは、無底(Ungrund)と言うほかない。そうだとすれば、無底のなかに相対が宙に浮かぶように浮遊しているということになるのだろうか。
その場合、ヘブライーキリスト教的な考えにあっては、決定的な根拠として絶対なる神をおいて、毅然と善悪のけじめをつけようとする。当為を主張するこの考えは、これの近代化に他ならない。だが、そのキリスト教の場合でも、異端が時至って正統とされることは起こる。神の絶対を主張するにしても、その絶対は所詮何かとして、特定の形において定立されざるを得ない。そうなれば、当然そこに対立が生まれ、正統と異端の形も出てくる。だから異端が正統となる可能性があることもやはり否定できない。こうしてここに、またしても循環がでてくることになる。だから、無底といっても、この循環を指すに他ならない。だが、循環が循環であるのは、この循環を断ち切ろうとする主体が、同時にそこにいることにおいてである。そこに現に主体がいるということがなければ循環もまた循環では有り得ない。循環が、この主体と関わりなく、それ自身であるのだとすれば、それ自身また一方の項となって、無駄ではなくなってしまう。このことを最もよく物語っているのが、ギリシア悲劇である。循環も無底も同時に、そこにそれを受け止める主体がいることによって、意味を得てくる。それは常に同時にという形で、説明されるような関係である。いずれかを優先するとき、それは固定する。
善悪とは言うけれども、我々が人間で或る限り、或る一定の歴史的状況において言うことである。一定の世界史的状況において、一定の国家ないし民族的状況において、この私がある一点においてそれを受け止めるということが、常にそして同時にある。そこに私が居るということにおいて受け止められるのである。その一点の絶対性なしに善も悪も現実とはなり得ない。これを客観化するとき、相対ということが出てくる。だが、そこにはもはや、この私は居ない。この私は、だが、この点において、常にそれを超えて初めて私で或る。つまり、私は同時に自己否定であるとき、この私なのである。そのことにおいて、循環にいる自らに気づきかされるのである。善悪といっても、一定の歴史的状況において私が渡しを選ぶことなしにはありえないが、そのことにおいて私は循環という在り方に包み込まれていくのである。このことを更に言い換えるならば、この私の有限性の自覚である。有限性を自覚することは、すでにこれを超えることであるが、そうすることによって、循環があったのだという自覚に出会うのである。こうして、無底を有底たらしめ、それを止めようとすること、無底を有底という形でわがものとしようとすること、それが悪で或る。キルケゴール的表現を使えば、無底の深淵におののいて、眩暈をおこし、有限にしがみつくということであるといえるだろう。
こうして人間が自己を固定させようとして有限を掴むこと、それが悪であり、悪の方が根本的であると言えるわけである。この悪において自己に帰り、これに対立する形で自己同一を取り戻そうとすることが善で或る。共に自己同一を保とうとする、そのことにおいて、対立に陥る。その対立の一方をそれ自体あるもとして当為とする。だが、そのことにおいて悪は他方においてすでに立てられているということになるのだ。
悪について~仏教やヨガ、西洋哲学から考える(6)
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【監修者】 | 宮川涼 |
プロフィール | 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。 |