悪について~仏教やヨガ、西洋哲学から考える(2)
01 悪の始まり
恐らく、何か具合の悪いこと、何らかの形で違和感をもたらすもの、こわいものなどに対して、身を処したことが、悪と言われるものの始まりだろうと思われる。そういう形で、夜とか、暗いところとか、嵐とかいうようなものに対処したところが、ことの起こりだと思われる。そこに人格化が行われれば、悪という名で呼ばれるのも、そんなに時がかかったわけでもないと思われる。これが人間の間に移されるときに、何らかの形で、他人の生活をおびやかす人間に対し、悪人の名をつけたのだろうと思う。悪源太という名につけられた「悪」は、力強いという意味だけだといわれている。力が害(禍)を及ぼすと考えられるとき、それは「悪」とされるようになる。そういうものを、自然現象であれ、人間の起こすことであれ、排除すべきものとして、扱ったのだろうと思われる。そのとき、防衛すべきものがあるという自覚を呼び起こす。それが、善という形で定着していったものと思われる。だから、ことの起こりからすれば、出会った違和感、何かの形で見知らぬもの(das Fremde)が対象化されて悪とされたのだと思われる。その意味では、恐ろしくて、不快な自然現象と、そういう漢字を与える人間との間との区別は、初めのうち、なかったのではないかと考えられる。自然現象そのものに、善も悪もないと考えられるようになったのは、よほど後になってからであろう。はっきりした形では西欧近代に至ってからのことであろう。
このように説明すると、これは経験論的で、心理的だと批評するひともいるかと思われる。だが、そういうつもりで言っているのではない。前にも書いたように、ここでわれわれが言おうとしていることは、その出会いなのである。その出会いにおいて捉えられる身構えを、言っているのである。その出会いの身構えの在り方を言っているのである。問題は、その身構えの力学的構造であると言える。だから、経験論的とか心理的ということは当たらない。が、そういう形容詞で説明したからといって、別に事柄がはっきりするわけではない。大切なことは、経験論的とか心理的というような形で判断される現実が、そこにあるということであり、そのことの分析である。
そこで、さきほど言ったことからして、初めは、善悪を直ちに道徳現象として、他のことからはっきり区別するということは、なかったんではないかと思われる。日本語は、このことを最もよく言い表しているのではないだろうか。われわれの言葉で「よい」という場合には、必ずしも道徳的な意味ではない。よい机、悪い椅子とかいう場合、そのよいは使いやすいとか、悪いは使いにくいとか、形がきれいだとか、形がしっくりしないということを言っているのが普通である。うるわしいという場合、それは必ずしも道徳的ではない。またけがわらしいというとき、そのけがれは、道徳的でもあるけれど、美的感覚にそぐわないということでもある。ナホビというような言い方が、古代文献などで使われる場合、マガとと対比して使われるのだろうが、それらが、後になっていうほど、厳格に道徳的な意味で使われたようには思えない。むしろ、美的感覚が、いつも、そこに伴っているように思われる。それらを、きびしく扱っていないから、善悪を対決の形で考えることは、わが国の古い時代には、なかったようにも思われる。禍や災をもたらすものとして、忌み嫌われるものと、道徳的なものとの区別は、はっきしているとは言えないように思われる。
アラブルの神と言われる場合、恐ろしい神であるが、必ずしも、道徳的に悪いと言われているのではない。だから、スサノヲの命は道徳的にあいまいである。恐ろしいことや、ひとの忌み嫌うことをする神ではあるが、また人助けをする神でもある。その間の区別が、はっきりしていると言えない。ヨミのケガレといっても、そのヨミの国が、道徳的に悪いところと考えられているわけではない。アシキに対して、クラキが言われ、クラキ心とアカキ心が同列におかれる場合にも、そのことが言えるであろう。
善悪の区別が、必ずしもはっきりせず、道徳的なことと他のこととの限界もはっきりしていない。「要するに、道義的意義における悪の神は生ぜず、従ってまた善の神の現れなかったのである」ということになるようである。このために、アシキコトやマガゴトやケガレは、禍であるから、祓い清めればよいと、考えたのであろうと思われる。この点で連想されるのがギリシア人である。が、今ここでは、そのことに触れないことにする。
このように善悪の区別、道徳的現象と他の現象の区別は、必ずしも明瞭ではない。だが、やがて国家が形態を整え、統治の自覚が強まるにつれて、その間の区別はつけられるようになるのだが、その場合でも、西欧の場合と違う。いずれにせよ、ここでこのことをとりあげられたのは、初めにあったのが、そういう形での、いわば漠とした出会いであり、その時驚き、いぶかしく思い、またおそれることであったと思われる。だが、そのことと前に述べた当為の在り方との間には、大きな隔たりがあるように見える。それはその通りといって良い。だが、それにしても、驚かれ、いずかしがれ、忌み嫌うということとの出会いが、その反対を考えさせるようになっていたということは、言っても差し支えないだろう。その形で、つきあたったものに対する身構えが、固定した形に転化するときに、善悪の区別が、他の現象と違った形で、考えられるようなると言いうるであろう。相対的ということを前に言ったが、古代日本人の考えは、そういう意味で、相対的で曖昧であったと言えるであろう。が、そう考えるにしても、いぶかしきことの出会いがなければ、これまで言ったことも成り立たないだろう。そこで、はっきりと言われる場合の対決の仕方、その場合の身構えにおいて、悪がどのような扱いを受けるかを次に見ていくことにしよう。
02 罪と悪
『創世記』のしるすところによれば、アダムとエヴァは禁断の木の実を食べた結果、善悪の区別を知るようになり、永遠に生きないようにされた。これを、キリスト教では、罪の報いは死であるという形で言い表す。この場合、重点となるのは、命令(禁止)に背いたことである。蛇に誘惑されたとなっているけれども、食べないでいられたのに、敢えて食べたというところに、重点をおかれている。その結果がどうなるかを全く知らずに、あえて食べる方を選んだということである。知に基づく行動ではなく、自ら決定する態度に基づく行為であるという点が、この場合の重点である。つまり、知にではなく、意志の行動の中心を置いていることである。木の実を食べて知った結果、「人はわれわれひとりのようになり、善悪を知るようになった」と書かれているが、これは結果なのであって、因ではない。だから行為の発端は知におかれていない。むしろ知をもつこと排する意味において、人間の未来が知にあるのではないとする点において、特徴があると言ってよい。
もちろん、この物語りにも伏線がおかれてはいる。蛇がいるということもそれである。もっと根本的なことは、食べてはならないと言っているのであって、食べることができないとは言っていないことである。食べれば食べられるのだが、食べてはいけないとなっている。これは考え方によっては、神の奸計であるとも言える。蛇の存在を認めているのも、見せびらかしをするのも、初めから、神が誘惑の種を仕組んで置いたと考えることもできる。だが、そう考えるのは物語の本筋ではない。本筋からすれば、命令に背いてあえて行ったというところに重点がある。罪があるというのは、人間自身の責任に基づくことであって、そのかぎりでは、神の関知するところではない、とする考え方がそこにある。もちろん、背いたのだから、その限りで、神の関心事であることは言うまでも無いが、背いたのは人間であるから、そのかぎりで、神に責任はないとするのである。だから、背いたという意味で、罪の主体は人間であることになる。神の完全に対する人間の不完全がここにいわれる。その場合の不完全は知の不完全ではない。背くというような形でしか、自己を選び得ないとする点で、不完全なのである。これは後にキリスト教で言われる永遠と時の関係となる。
ここに罪から悪への問題がある。罪という表現は、この場合、神と人間の関係において言われるが、悪は人間の場において起こることである。そう考えるかぎり、罪と悪は区別されなければならないことになる。人間において悪であることは、神に対して罪であるが、神に対する罪は、必ずしも人間において悪とされるわけではない。ここにパリサイ人の問題がある。これについては、いずれふれるが、ここでは簡単に触れておくことにする。パリ才人というのは、自らが道徳的に正しいことを自認し、他に向かってこれを誇る人々である。十戒を、形の上で、守ったと自認する人々である。が、イエスは、十戒に対する形式的服従の無意味を主張する。この場合、イエスの目は神に向けられているが、パリサイ人の目は人間に向けられている。だがこのことは、パリサイ人が神の前に義であることの保証にはならない。だから、人間の間で、道徳的には善であるかもしれないが、神の前でも義人であるかどうかは保証の限りではない。
ここで、イエスが問いかけているのは、神の前に自らを主張して、なおかつ義人たりうるものがいるか、ということである。人間の間で善とされることが、神の前にも善とされるかどうかは、簡単に決められない。この意味からすると、すべての人間は神の前では罪人であrが、人間の間では、それでもなお、善人として扱われることになる。この意味で言えば、罪と悪とは区別されねばならない。だが、このことは、自らも善なりと主張し、人々の間でも善なりと認められる場合があるにしても、しかもなお、神の完全性を前にして、自らの内に一点のやましさもない(完全)と言いうるのか、という問題につらなる。この点からすれば、世に一人も義人なし、という罪の立場となる。だが、世の中で、普通善悪を言うときは、それほど厳しく言っているのではない。それでも、世の中で善人だと言われる人が、全く善であるかどうかは、外からはわからない。
そのとき、そのひとが真に善人であるならば、神や仏の前に自ら恥じて。罪ありとしているかもしれないし、そうでないかもしれない。だから、その間の微妙な違いは、簡単に決められ得るものではない。だから、罪と悪の限界はそれほど明瞭なことではない。もともと、人間の悪が初めに問題になるとき、これを究極まで押し詰めて考えるとき、全き善というものが、世にはあり得ないと自覚に達するのは当然のことと考えられる。そこで、完全なものの主体として神を考える。この完全からみるとき、人間は到底、完全ではありえないことになる。その意味で、完全なものからすれば、人間は罪あるものとなる。だが、そのことは、人と人との間では違う。この場合、神に対しては不完全ながら、世の常の道徳においては、善であり得る。ここで、罪と悪の違いがあると言われる。一応もっともである。けれども、そういう形で罪を言うのは、人間の間で悪いことをする人間がいるという「現」から、悪のない完全を想定したことによる。だから、罪と悪とは、別のものとは言いがたい。いずれにせよ、道徳的悪と宗教的罪の限界は、それほど定かなものではないと言える。このことをここで各員しておこう。
ルターに関係する免罪符の問題は、本来的には宗教の問題であり、神と人との間のことであるはずだが、同時にそれは道徳の問題、その意味で人間の間の問題となる。だから、ルターのとった態度は、同時に社会問題、政治問題たり得たのである。これは親鸞の場合にも当てはまる。法然の場合と同じように、純粋に信の問題として出発したにも拘わらず、時の政治権力からすれば、明らかに道徳問題であると共に、より強い意味において政治問題である。だから、信から出て、この世の問題に移行することもあれば、この世の問題から出て、神と人の関係の問題に移行することがある。どちらが先であるかということを、最終的に決めることは出来ない。信の立場からすれば、罪から悪へであろうけれど、我らの世俗生活からすれば逆である。その上、聖俗の境界をどこにおくかも、推し進めて考えれば、普通に言われるほど明らかではない。だから、ここでは、罪から悪への流れ、もしくはその逆の流れにおいて、罪と悪の間に明らかな境界をもうけることはできないとする立場をとることにする。
さて、前に帰って『創世記』の記すところによれば、人間が神から独立になろうとする(意志する)ことが罪であった。食べないですませればすませうるのに、あえて食べたその人間の自発意志、これが罪のあり場所であった。その結果が苦であり、死であると記されている。これは神の側からの記述という形になっている。が、これを人間の側からする思考に変えるならば、聖書の場合でも、まず苦と死の世界に人間がいて、そこから、それらのないところを類推したのだと、考える事も出来る。この方向からすれば、現に苦と死の世界にいるということが、どうしても否定することのできない事実となる。現にここに、そういう状態で生きているということ、それが根本の問題である。『創世記』はこの堕罪の物語のすぐ後に、カインの話をおいている。だからむしろ、カインこそ、人間の姿であるとする現実意識が、まずあったのではないかと想像することもできる。カインの在り方は、同時に世の中での悪である。そこから翻って、『創世記』の物語が作り出されたと考える事もできる。
現に出会っているところ、それは苦であり、死であり、やがて悪であるとすることがまずあったのではないか、そう考えても、あながち無理とはいえないように思われる。そう考えるとき、生老病死を脱することから出発したとされる釈迦の場合が浮かび上がってくる。だが、これに触れる前に、ギリシアのことに触れておく。
悪について~仏教やヨガ、西洋哲学から考える(3)
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バガヴァッド・ギーターの教え(ヨガの古典の経典を通してヨガを学ぶ)
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【監修者】 | 宮川涼 |
プロフィール | 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。 |