通説に従って、一元的内在制約説に立つとしても、より具体的な判断基準は必要になります。そこで、やはり初期(1960年代)の判例が用いたのが、比較衡量論であるといわれています。これは、「人権を制限することによって得られる利益」と「それを制限することによって失われる利益」を比較衡量し、得られる利益が大きい場合には合憲とする合憲性(違憲性)審査基準です。 ※「考量」「較量」と書いても同じ
比較衡量論の特徴として、メリットとしては、「公共の福祉」という抽象的な原理と異なり、妥当性に優れる一方、デメリットとして、国家と個人の対立の場面では、どうしても数に勝る国家が優先されやすく、人権保障に悖るとされます。そこで、こうした考えは、同程度に重要な二つの権利を調整する場面に限るべきと考えます。具体的には、表現の自由とプライバシー権の衝突の場面や私人間効力に限ると考えるのが有力です。
03 二重の基準論
憲法学にいう二重の基準(doublestandard)論とは、「精神的自由を制約する立法の合憲性審査基準は経済的自由を制約する立法の合憲性審査基準よりも厳格な基準でなければならない」とする理論です。具体的に2つの基準を要件としています。1つは「精神的自由の優越性」(必要性)で、民主制の過程を支える精神的自由は、これが不当に制限されると、議会でこれれを是正することは困難であるので、民主制の外にある裁判所が判断すべきと考えます。次に、「裁判所の判断能力の限界」(許容性)として、経済的自由の規制の合憲性については経済政策について裁判所は判断能力が十分ではなく、立法府の判断を尊重すべき、と考えます。その結果、精神的自由については、厳格な審査基準(必要最小限を超えたら違憲を直ちに判断する)を取り、経済的自由については緩やかな審査基準(明らかにおかしい場合ゐがいは違憲判断はしない)という風に考えます。
04 パターナリズム
パターナリズムとは、国が親の代わりになって、判断能力の未発達な未成年を自己加害から保護してあげるべきだという考え方です。 →公共の福祉が「他者との関係での人権制約」であったのに対して、パターナリズムは「自己加害から守る」ものである点が異なる、と考えます。「他者との関係での人権制約」であったのに対し、パターナリズムは「自己加害から守る」ものである点が異なる、と考えられます。具体的な例としては、未成年者は、心身の成長途上にあるためタバコやお酒を禁止するというような、このような制約のことを、パターナリズムに基づく制約を「パターナリスティックな制約」と呼びます。
但し、パターナリスティックな制約には限界があります。というのも、パターナリズムは、国家が国民の判断に介入していくわけであるから、できる限り行わないのが本来望ましいと考えられるからです。そこで、限定されたパターナリズムとして、こうした制約は、国家が介入しないと、本人の人格的自律そのものが回復不可能なほど永続的に害される場合のみ、介入が許されると解すべきと考えます。
05 国民の義務
憲法には「国民の義務」の定めもいくつかあります。しかし、もともと近代憲法の人権保障は国家が国民を支配する限界を画するものだから、国民の義務は議会が制定する法律で定めれば十分だと考えます。たとえば、まず憲法12条「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う」とあります。これは国民の義務の一般論を述べたものと理解します。次に、26条2項「すべての国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。」とあり、これは教育の義務を定めています。そして、27条では「すべての国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ」とありますが、これは勤労は権利なだけではなく、義務でもあると言われています。そして、30条「国民は、法律のさだめるところにより、納税の義務をふ」とあり、納税の義務もあります。憲法にこうした明文で国民の義務が規定されていることも知っておきましょう。