悪について~仏教やヨガ、西洋哲学から考える(9)
01 アリストテレスへ
アリストテレスは、アレクサンドロスに警告して「哲学の研究をすることは、王者にとって必要でないだけではなく、妨げともなる。むしろ王たるものは、現実の哲学者たちに耳を傾け、従うべきである」と言ったと伝えられています。ここには、もはやプラトンの哲学王は影を潜めている。「思惟の思惟」に達したこの哲学者にとっては「死を想え」(memento mori)という、死すべきものへの警告などは、もはや問題にならない。「人ならば人のことを、死すべきものなれば死すべきもののことを、想い巡らすが良いという、よく知られた勧告には従うべきではない」。だから、もはや悲劇を理解することのできない人がここにいる。したがって、悲劇を論じて、「まず、立派な人間が幸福から不幸に転じる様が示されてはならない。なぜなら、そのような有様は恐れも同情も引き起こすのではなく、全く途方もないことだからである」。そう語る人にとっては、悲劇に陥るものは、ある過失のためということになる。だから、メソテース(中庸)の王道を歩くこの哲学者にとっては、深淵に恐れおののくのは、およそ理性の徒の在り方に反するものとなる。
ここには、ソクラテスの苦しみも、プラトンの悩みも影を潜め、「現実に目を向ける」ことによって、現実に目をつぶる「理性の徒」がいるだけである。「それぞれのものに本性的に固有なものが、それぞれのものにとって最も善く、そして最も快適なのである。ところで、人間に固有なのは、理性に即しての生活にほかならない。人間とは彼のうちにおける他のいかなる部分よりもこのものであるのだからーしたがってこの生活が、また最も幸福な生活たるものではなくてはならない。」。この「他のいかなる部分」が、何故重要ならぬものとして傍らによせられねばならないのか。それは、理性が「我々のうちにおける最善の部分」として卓越しているからである。この卓越したもの、理性に即して働くことが、幸福である所以だからであるという。この理性による観想(theoria)が幸福につながるということになる。そのためには、閑暇(schole)がなければならないとする。自足して閑があり、疲れなきこと、これが究極の幸福であるとする。ここに「現実」を観想していた人からすれば、既に悲劇は余計なものである。
「劇中の出来事の中には、何か不合理なことが少しでもあってはならない」と考えるから、骨肉相食むような出来事は、邪悪ではなく、無知から来る大きな失策によって起こるとする。だから、それは、不当な不幸であり、憐れむべき対象となる。だが、無知であるということは既に汚水の浄化がある。そこに悲劇的英雄に対する共感が観るものの側にも生じると考える。カタルシスは劇の進行の中と、観るものとの両方に起こることになる。
いずれにせよ大切なことは、理性的であることである。だから「詩作にとっては、可能だが進じ難いものよりも、不可能だが信じる得るもののほうが選ばれるべきだからである」。ここでいう信じるとは、理性に叶っているという意味であろう。だから、現にあることを論じているように見えながら、いつでも自分から観た在るべきものを考えている。アリストテレス的リアリズムというものは、そういうものである。だから、否定的なもの、悪は不足として、理性的なものへの欠如としてしか映らない。否定的なもの、非合理なもの、不気味なものに対し、全くといっていいほど拒否の態度をとったこの人は、悪の根深い強さなどは問題にならなかった。だから、東方に向かって、遠征の旅に出かけていったアレクサンドロスの意図など理解すべきもなかった。
ここからエピクロス的、ストア的合理主義へは一歩を余すのみといってもいい。こうして理性の場に立つことを志願した人々が、どうして、無感動や不動心や無関心や、そしてやがては判断中止へと向かっていかねばならなかったのだろうか。アレクサンドロスの東方への関心を理解できなかった人から、北方からの蛮族の侵入にも心を動かさぬ修養に逃げ込んでいった人々まで、いずれも、理性を信じる人々であった。その意味で、「自然に従って生きる」ひとたちであった。
「遠からず君はあらゆるものを忘れ、遠からずあらゆるものは君を忘れてしまうであろう」「なんとすべてのものはすみやかに消え失せてしまうことだろう」だから「今すぐにでも人生を去って行くことのできる者のごとくあらゆることをおこない、話し、考えるに如くに」はない。だから「山奥に生きよ」と考えるひとは「すでに死につつある人間として肉をさげすめ」ということになる。「私の考えでは、自己の(人格の)構成に従ってあるいは活動し、あるいは活動を控えること」が求められていたとする。
理性の命ずる通りに、自然に従って生きようとするところに生まれた合理主義が、処世訓となるとき、余計なことには手を出さず、魂のことに思いを潜めて、悪事関わらない態度を生み出す。これは文字通り、ローマのホモサピエンス(賢者)の願いであったろう。マルクス・アウレリウスという人は学問好きで、物静かな生活を好んだといわれているが、同時に皇帝として幾度かの戦争に出陣し、陣中で没したと伝えられている。この『自省録』に盛られた思想の持ち主と、皇帝として戦陣の間を往来した人はどういう形で交わるのか。アリストテレス以来、求められた閑暇に於ける観想から、この『自省録』に及ぶところ、そこには、道が通じている。ストア派となり、エピクロス派となるとき、それらを哲学史家は亜流派と呼ぶ。だが、ここに通ずるものは理性に従うことである。こうしてソクラテスやプラトンが進んで時代と対決しようとした姿は、影を潜めてしまっている。
静かに清く生きることを願ったこれらの人々から、やがて「賢者は鎖につながれていても自由」であると告白する人に、時代は移って行かざるを得ない。退いて小善に生きる人々は、悪を見過ごす人々となっていく。悪に目を覆って、善に退いた人々は、期せずして自ら悪に味方する結果となっていく。アウレリウスを遡ること、約百年前に、既にネロの暴虐に逆らうことのできないローマの賢者が、生まれていたのである。以上のことは、ひとり、ローマに留まることではない。
善を欲して悪をなさざるを得ないということの含む、大いなる必然、合理的必然によって分別しえない必然、これはアリストテレスのよく理解しうることではなかった。崩壊すべきものを前にして、怒りをもってこれに立ち向かったソクラテスやプラトンの後、ギリシア的民主政治は衰退の方向に動いていった。亜流派哲学の栄えるところでは、権力は逆に大きくなっていったと、大体想像できるであろう。ここで改めて問題になるのが、「権力は悪である」というあの命題である。「さればだ、いったん国が支配者を選んだならば、事の大小を問わず、また正しかろうと、なかろうと拘わらず、これに服従するのが当然である」というクレオンの言葉が生きてくる。
02 権力
「革命は絹の手袋ではできない」、これはスターリンが言ったと伝えられる言葉である。革命家としては、当然のことと言えるかもしれない。この独裁者が演じたと伝えられる数々の権力悪をここにとりあげる必要はない。革命における権力奪取の過程は、必ずしも悪とは言われない。既成権力の悪に挑戦するとき、むしろそれは、善の旗印をかかげるのが普通である。革命と呼ばれるものはいつもそうであった。だが、革命の進行は、やがて乱暴狼藉になっていく。これはやむを得ないことと言えるかもしれない。産業革命もこの例から漏れるわけではないけれど、そうなることの持つ必然、これこそは、根本にある問題であり、そこにいる人間の有限を暴露して余すところがない。権力悪の問題は洋の東西、時の古今を問わない。それが和楽においても数多く指摘しうることである。
我が国の古代文献がはっきり伝えているように、古代王朝はその成立の過程においても、成立以後においても、骨肉相食む修羅場であった。古代王朝が固まって、いわゆる貴族社会が出現した以後、そこは、権謀術数の場となっていく。王朝文化が作り出した数多くの「美」にも拘わらず、そのうちに広げられるものは、術策そのものであった。美しき衣服をまとい、優雅と言われる宮廷の生活にしても、そこに簾や几帳は、この術策を覆い隠す垂れ幕に他ならなかったとも言えよう。幾多の美しく優れた文化芸術を生み出したと言われる生活の影で、行われていたことは、嘘偽りの手練手管であったといえば、言い過ぎであろうか。
悪について~仏教やヨガ、西洋哲学から考える(10)
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バガヴァッド・ギーターの教え(ヨガの古典の経典を通してヨガを学ぶ)
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お勧めのヨガスタジオ
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【監修者】 | 宮川涼 |
プロフィール | 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。 |