ラングにおける主体

F. deソシュールの理論は言語学の枠内にとどまらず、多様な学問分野に影響を与え、日本におけるそれも小さくないものであった。日本においては世界に先駆けて小林英夫の翻訳による『言語学原論』(1928)が岡書院より出版され、ソシュール理論は主に国語学者らによって受容されることとなった。日本の当時の国語学界はヨーロッパの歴史言語学により従来の伝統的国語学が上書きされ、それに対する国語学者らの反発が起こった時期であった。その中でヨーロッパの新たな言語理論として受け取られたソシュール理論は、前述の/後述の時枝論争に代表される批判的検討にさらされることとなる。しかしながらそこで行われた批判は翻訳に由来する誤読や謬見が散見し、原書に基づいた小林訳の批判なども行なわれ、結果としてソシュール理論の理解を深化させることに繋がった。

こうした背景を基に、次にソシュール受容がピークを迎えるのはヨーロッパ現代思想の影響の中で、丸山圭三郎を中心とした原資料研究が盛んとなった1980年代であった。丸山のソシュール研究はR.ゴデルやR.エングラーによって切り開かれた「ソシュール文献学」を踏まえたものであり、ソシュール自身によるテクストに拠ってソシュールを理解しようとする研究の発展である。というのも、周知のごとく『一般言語学講義』(『講義』、Cours de Linguistique Générale)はC.バイイとA.セシュエが、ソシュールのジュネーヴ大学における三回の一般言語学講義(1907年、1908-9年、1910-11年)に参加した学生のノート(特に第三回講義のE.コンスタンタンのノート)を基に編集し死後出版されたものである。そこには当然、編者らによる取捨選択があると考えられる。それゆえに、ゴデルとエングラーは『講義』自体とソシュールの思い描いたものとの異同を明らかにするために、実際の講義に参加した学生らのノートとソシュール自身によるごくわずかな講義メモに遡って『講義』を文献学的に批判した[1]。立川健二によれば丸山の仕事はその批判をさらに「ラディカルに」押し進め、「『講義』のソシュールはまったくの「虚像」にすぎないということをあきらかにし、原資料のテクスト・クリティックにもとづくソシュールの「実像」を描きだした」(立川, 1986: 19)のである。丸山によるソシュールの「実像」は言語学者ソシュールを思想家ソシュールとして読むということにつながった。

丸山圭三郎がこの書物[『ソシュールの思想』1981]の全編をつうじて、さらにそれ以後の著作をつうじて訴えてきたのは、ソシュールとは「言語学者」ではなく、「思想家」であるということ、それもマルクス、フロイト、ニーチェ、フッサールとともに、十九世紀までの認識論的枠組みそのものの組み替えをおこなったラディカルな「思想家」だということである。(ibid.:20)

日本のソシュール研究はゴデルやエングラーの文献学的成果を活用し、さらにそれを発展させるという意味で当時の最先端に位置していたと考えられる。その旗手であった丸山の『ソシュールの思想』は専門書としては珍しく広い読者を得ることにもなった。結果として、そこからソシュール理論は、国語研究者の枠を超えてさらに広く浸透すると同時にそれに対する新たな批判も現れた。たとえば言語の変化について、「ラング=パロールの弁証法」すなわち個人のパロールにおける創造的なラングの使用がラングに変革をもたらすという一見すると正しいように思われるものも、厳密にソシュールの理論に則して考えるならば、それは矛盾をはらんでいるということになる。

ここでは、この「ラング=パロールの弁証法」を足掛かりに、まずはソシュールにおいてパロールの個人的性質とそれに対置されるラング概念の社会性の内実を探る。従来ランガージュにおける個人性をもっぱらパロールの側に割り当てられてきたが、ラングにおける個人性もまた問題にされる可能性が指摘される。そこでは丸山の弟子のひとりである末永朱胤の個人ラング論を基に、ソシュール理論においては、ラングが社会的なるものとしてしか考慮されないことを指摘する。そしてその社会的なるものとしてのラングがソシュール理論においてラングの動態を考察することを困難にしていることを指摘しよう。また、そのラングの社会性が、ソシュール理論においては、「話す主体」の存在様態と不可分なものとなっていることを確認したい。

論述の順序については、まずは個人ラングとは何かについて末永(1988)を中心に確認していくことになる。そこでは末永が個人ラングという概念を導入する過程から、ソシュール理論において個人的ラングという概念が「隠蔽」され、ラング概念とは社会的なものでしかあり得ないような構成になっていることが明らかになるだろう。その「隠蔽」の理由を探るために、つづいて社会的ラングの社会性とは何かをドロシェフスキーによる社会学の概念との比較を基礎として考察し、最後にそこから引き出されるソシュールにおける「社会的なるもの」の特性を立川(1986)が展開したソシュールのラング理論における主体の議論と関連させて明らかにしていきたい。この過程によってソシュールのラング概念が何故に社会的なものでしかあり得ないのか、個人ラングが「隠蔽」された理由が明らかになることと思われる。

1. ソシュールにおける個人ラングの位置について

個人ラングについて、ソシュール理論におけるその位相の重要性を指摘する末永の論を参照しつつ確認していこう。後ろで見るように、『講義』はラングとパロールの区別の際に、前者に社会的、後者に個人的性質を割り当て、社会的側面は本質的であり、個人的側面は副次的・偶然的なものとした(cf. CLG(E): 41)。したがってラングに「個人(的)」の形容を与えることはソシュール理論においては自己矛盾に陥るものであるように見える。にもかかわらず、ソシュール研究者による個人ラングとはどのような要請のもと導入される概念であろうか。それについて考察するにはまず丸山の<ラング=パロールの弁証法>を理解する必要がある。ラングとパロールとの性質について確認しよう。ソシュールは言語現象の総体をランガージュとし、それをそのまま考察することの困難を次のように述べていた。

その全体においてとらえると、ランガージュlangageは多様な形をとり種々雑多である。すなわち複数の領域にまたがり、同時に物理的、生理的、かつ心的であって、個人的領域にも社会的領域にも属している。そしてそれは人間的事実faits humainsのどのカテゴリーにも分類できない、というのはその単位unitéをどう取り出すかが分からないからだ。(CLG(E) :32)

ランガージュを対象とすれば、それは音波でもあり、音声でもあり、いわゆる言語でもある。個人がそれを用いる場合もあれば、民族や文化と結び付けられる社会的側面もある。このランガージュから言語学が対象とするラングを引き出すことがソシュールの最初の目的であった。そこでソシュールが導入した装置が「パロールの回路」circuit de la paroleである。(先に見たように)この回路はランガージュにおける「個人的行為」にあたるとされ、話者Aの口から聴者Bの耳への言語記号の伝達を図式化したものである。それによれば、話者Aの脳内において概念と聴覚像が結びつき言語記号が想起される(心的過程)と、口腔から音声として発され(生理的過程)、音波として空間を通じ(物理的過程)、Bに聴取される(生理的過程)。Bにおいてその聴覚像が概念と結びつくこと(心的過程)により回路は完成する。この過程が繰り返されることによって最も単純なコミュニケーション行為が説明される。この回路において、ソシュールが「社会的事実」として着目する点が心的過程であった。「おなじ概念と結合したおなじ記号を再生する[2]」ためには近似的な値としての記号、平均値が必要であり、それをまずソシュールは「社会的事実」と呼んでいるのである。ただし、この心的過程もすべてが「社会的事実」とされるのではない。心的過程のうちでも「遂行的側面」すなわち話者の立場は個人的なものである(「遂行が大衆によってなされることは絶対にない」(ibid.: 40))ためにパロールに区分される。対して「受容的側面」すなわち聴者の立場においてラングとしての社会的結晶化がなされるのである。このようにしてランガージュのうちにラングとパロールとが区別されるのである。その区別は以下のようなものであった。

ラングをパロールから切りはなすことで、われわれは同時に次のものを切り離す。1.社会的なものを、個人的なものから。2.本質的なものを、副次的であり・多かれ少なかれ偶然的なものから。(ibid.: 41)

ここではラングは社会的[3]でありパロールは個人的であるというそれぞれの性質が対置されていることがわかる。この両者の関係についてソシュールは次のように述べている。

一旦この二重の分類原理[ラング/パロールと通時態/共時態]を手にすれば、ラングにおける通時的なもののすべてがパロールを通してのみそうなのだ、と付け加えることが出来よう。すべての変化の萌芽が見出されるのはまさにパロールにおいてなのだ。したがって、その[=変化の]どれもが、慣用[=ラング]に含まれる前に、まずある数の個人によって発されているのである。(ibid.: 223)

「通時的なもの」すなわち言語の歴史的変遷のきっかけはパロールの内にのみ見いだされ、したがって言語変化は個人の発話から始まる。このように「パロールにおいて試みられることが無くラングの中に含まれるものは何もないし、すべての変化現象phénomènes évolutifsが個人の領域にその根を持つのである」(ibid.:383)。換言すれば、ラングに変化をもたらすものはパロールである。これらをまとめて丸山はラングとパロールの弁証法的関係として提示した。

すべての言語上の革新は、パロールによってのみ可能となり、パロールにおいて試みられずにラングに入るものはなく、あらゆる発展的現象は個人の領域にその源を有するというこの図式は、ラングによって規制されるパロールと、逆にパロールによって変革されるラングという弁証法を示唆している (丸山, 1981: 85)

以上が「ラング=パロールの弁証法」の概要である。

ラングは社会的でありパロールは個人的であるが故にこの弁証法が成り立つと確認したのだが、しかしながら、ソシュールの第一回一般言語学講義を受講した学生のノートにはパロールが社会的でラングが個人的であるとする記述が残っている。一見するとソシュールの思想の形成過程において相反する言語観があるかのように理解されるかもしれない。以下に見ておこう。

この二つの領域[=ラングとパロール]のうち、パロールの領域はより社会的であり、他方(ラングの領域)はより完全に個人的である。ラングは個人の貯蔵所である。そしてラング、つまり頭、に含まれる全ては個人的なのである。(Cours I :65)

これはソシュールにおいてラング/パロールの領域が定まっていなかったと理解されるべきではない。定まっていなかったのは社会/個人によって示されるものである。この箇所では、ラングは個人の脳内にあるという意味で個人的であり、対してパロールはコミュニケーションという他者を前提とした社会的活動を指して言われているため社会的だと理解できる。ここから、ソシュールにおける社会的/個人的の区別はラング/パロールに対応させるべきではなく、実際はラングもパロールも「両義性に開かれている」と考えたのが丸山の弟子のひとり、末永であった。末永は次のようにまとめている。

[ソシュールにおいて]パロールが社会的なのはディスクールという社会的活動だからであり、それが個人的なのは「個人の思想に基づいたラングというコードの個人的行使」だからである。また、ラングが社会的なのは、それが「社会契約」であり、「社会生活を通じてのみ容認される」からであり、個人的とは「個人の頭脳に寄託された貯蔵庫」だからである。(末永, 1988: 9-10)

「社会的活動」かつ「コードの個人的行使」としてのパロールと、「社会契約」かつ記号の個人的「貯蔵庫」たるラング、それぞれが社会的/個人的に両義性を示す。末永は、ラング=パロールの弁証法が「一見個人による制度変革の可能性に道が開かれているように思われる」(ibid.: 7)ものの、実際にはこの両義性によりその道が閉ざされることを示した。

社会生活を通じて容認され個人の頭脳に寄託されたラングは、この時すでに社会契約となっている。「個人は誰でも自分のうちに、あのラングという社会的産物をもっている。」つまり、集団のサンクションを経ることにより、ラングは社会的ラングとして“聖化”されている。パロールの社会的活動の中で、「同胞とのコミュニケーション」を保証するコードへと制度化されているのである。したがって、個人の頭脳に見出される“個人的ラング”はつねにすでに社会的なのであり、ソシュールのラング概念における社会的/個人的の両義性は、こうした抽象化したラング、コミュニケーション言語の一義性へと閉じている。(ibid.: 10)

つまりソシュールにおいては個人に見出される(貯蔵庫としての)ラング自体がそもそも社会的なラングであり、個人的ラングという考え方が介入し得ないほどに根本的に社会的なのである。というのも、「個人の頭脳に寄託されたラング」とは外部から得られるものであり、すなわち根本的に社会的なラングなのだから。したがって末永によれば、パロールによるラングの変革とは、個人的(個人の頭脳に見出される)ラングすなわち社会的ラングを用いたパロールによるラングの変革ということになり、つまりはラングによるラングの変革というトートロジーに陥っているとされるのだ。

しかし、本当にラングには個人という位相が介入する余地はないのであろうか。末永の答えは「ある」であった。そしてソシュールによって「隠蔽」された、ラングの個人的位相(個人ラング)から社会的位相(社会的ラング)への変革の場こそがスタティックで物的なラングというとらえ方に変化というディナミックな側面を導入する鍵となることを指摘した。

それならば、ソシュール的な個人の頭脳にあるという意味での個人ラングではない、末永的個人ラングとはいかなるものであろうか。以下、引き続き末永の論を参照していきたい。

2. 個人ラングとは何か末永の理論による

末永は丸山によるラングの6つのカテゴリーを下地にその原理性/事実性の位相差に基づいてラング概念を3つに区分する。すなわち原理ラング、共同体ラング、個人ラングの3つである。

原理ラングとは「記号学の原理である差異の体系としてのラング」とされる。これは言語一般に限らずあらゆる記号体系に一般的な原理としてのラングを指す。ソシュールは言語学が記号学という一般的学問の一部でありながら、様々な記号体系の中でラングを特別な体系であるとした。それを受けたここでのラングとは、記号体系の一般化としての純粋な抽象と考えられ、原理性のもっとも高いラングである。共同体ラングは「諸言語の原理としてのラングであるとともに、[…]すべてのレベルの共同体の内部で共有される固有の言語までを適用対象とする原理を指す」(ibid.: 22)ものである。原理的でありながら実際の諸言語に適用される場合は具体性を持つという意味で原理ラングより事実性が高いと考えられる。それでは三位相の中で最も事実性の高い位相である個人ラングはどのように設定されるのか。そもそも個人ラングとは設定可能な位相なのか。

まず共同体ラングのはらむ背理から否定的に個人ラングの可能性は指摘される。共同体ラングはその定義から、それが存在するのであれば同一の言語共同体の成員はみな同じラングを用いているということになる。しかし、そもそも言語記号は、恣意性の原理から体系外に絶対的な基準を持たず、差異の網目によって体系内的にそれぞれの価値が定まる。全体としての体系は比較できないものである以上、共同体の成員間での同一性の証明は不可能であり、またコミュニケーションの成立にしても末永によれば「事後的には主体間の対話の場でお互いの言表が了解されるであろう。そしてラングとはこのように事後的に見出されるものであり、しかもその都度でしかない」(ibid.: 25)という理由で共同体ラングの成員間におけるラングの部分的同一性が検証されるのは永遠に対話の事後のみであり、それは共同体ラングの共有を検証することの永遠の先延ばしを意味する。すなわち方法論的に共同体ラングは検証不可能なのであって、それは共同体の成員のラングが個々人で異なるかもしれないものとして、「“消極的に”」個人ラングの可能性を意味するのである。

対して個人ラングは“積極的”にもその可能性が示される。末永は、前項におけるソシュール理論からの帰結(ラングは社会的でしかない)に反し、個人ラングの可能性を示そうとするのである。その考察は「パロールを通じてラングが寄託される歴史性」と「社会的/個人的の規定」との二点からなる。第一に、「パロールを通じてラングが寄託される歴史性」によって共同体ラングの自己同一性が否定される。末永はソシュール理論では「ラングとは個人がそれまでにパロールにおいて経験した差異の集積であり、いわば語る主体の個人史にほかならない」(ibid.: 26)のであり、個人史である以上は各人がそれぞれ全く同じものを経験するという可能性は限りなくゼロであるとする。それはすなわち同一のラングが生じ得ないと主張するに等しい。つまり個々人のラングには偏差が生じるはずなのである。第二に、「社会的/個人的の規定」による共同体ラングが否定される。それは社会的ラングが抽象であるということに由来する。ソシュールは、ラングとは言語活動によって結ばれた個々人の間に成立した一種の平均であり、その個々人は「おなじ概念と結合したおなじ記号を再生する」のではあるが、それは「正確に」ではなくあくまで「近似的」なものであるとした(cf. CLG(E):39)。したがって社会的ラングが平均であるという裏に、近似的ではあるが偏差を具える個人的ラングがあるということが暗に示されていると考えられるのである。またソシュールにおいては個人もすでに定冠詞単数の総称的個人となっていることが指摘される。つまりソシュール理論の個人とは抽象された平均的ラングを備えた個人であり、個人自体が抽象なのである。

ソシュールが出発する個人ははじめから単数であり、それはサンプル=モデルとしてすでに全体化された個人である。抽象化された個人から出発し、ラングという抽象を導き出しているソシュールのこの操作はいわばトートロジーである。(末永, 1988: 30)

したがって、末永によれば実際上は個々人のラングが全く同じであることの方が想定され得ないのであってそこにソシュール理論における飛躍が存在することも明らかとされるのだ。しかしソシュールがラングにおける個人的なるものが理論上想定され得ないような社会的なラングを想定したのはなぜだったのか。その原因はソシュールにおける話す主体の設定にあると考えられる。次に、立川健二の議論を基にソシュール理論で想定される主体について分析していきたい。

3. ソシュールのラング理論における主体=聴く主体

立川健二はその著書『≪力≫の思想家ソシュール』の中で、ソシュール言語学が共時的言語体系の在り処とする<語る主体>[4]が、実際は<聴く主体>であることを指摘した。立川によればソシュールの言語分析の手法が常にある与えられた言表の分析からなるのであって、それはソシュールが話し手の立場にはない[5]ことを示すものだと指摘される。

この分析を立川は主観的分析と呼ぶ。この主観的分析においては、言表のなかから聴き手が聴き取ることのできるものは表意的単位しかないということ、また自分の所有するラングしか聴き分けられないということの二点が前提となっている。つまり、言表をなす音連鎖は、単なる音調としてみれば連続体なのだから、それを切り分ける方法は無限にあるはずなのだが、聴き手はそれを意味のある言表として聴き取ろうとするとき、自身の持つラングが定める表意的単位にしか切り分けられないのだ。

<聴く主体>が聴く――了解する――のは、他人が発する言表の<意味>であり、この<意味>に関与しない差異は聴きとることができないということである。かれの意識はつねに<意味>の聴取に集中しており、ことばのなかでも<意味>にかかわりのないさまざまな差異――発音の微妙なずれ、声の高低・強弱、あるいはロラン・バルトのいう「声の肌ざわり」(grain de la voix)――は意識しないし、意識することもできない。(立川, 1986: 88)

ここで表意的単位とは何かを考えてみよう。それが実体的、あるいは実定的(positif)な何かではないということは言うまでもないだろう。というのもソシュールの定義からすれば、「言語のうちには差異しかなく、実定的辞項は無い」(III C 403, 1940, CLG(E): 270)のだ。ということは、<語る主体=聴く主体>が意識できるのは差異だけということになる。ここには言語記号の恣意性が関わっている。概念面の価値が隣接する辞項との差異により定まることを確認した後、音声面に関しても同様のことが言えることを指摘しつつ、ソシュールは次のように述べる。

[音そのものではなくその差異が意味作用を支えるという]この事実はおそらく意外に思われるだろう。しかし実を言ってどこに反対の可能性があるだろうか。なぜなら、別の音声映像が言うことを引き受けたところのものに、それ以上に答える音声映像image vocaleは全くないのだから、ラングの一断片は結局のところそれ以外のものとの不一致以外には決して基づき得ないであろうことが、アプリオリにすら、明白なのである。恣意的差異的とは二つの相関的性質である。(Cours 169(163), 1906-1908, CLG(E): 265)

すでに見たように、言語記号の恣意性は、シニフィアンとシニフィエの絆が無動機的なものであることを意味している。それではその絆は何を基準に単位を成すのか。「それ以外のものとの不一致」すなわち差異によってである。言語記号は恣意的[6]であるがゆえに、共に体系を構成し、共存している他の記号との差異においてしか単位を成せない。この差異の体系における単位の位置をソシュールは価値と呼んだのであった。それゆえに、むしろ差異こそが記号としての本質を成すものである。したがってこの差異そのものを有意味単位としてとらえることができる。こうした考察から、立川は共時態を「表意的差異の戯れ」からなるとし、それを言語学の具体的対象だと見なしている。

あるいは、その差異そのものが有意味単位なのだと考えてもよい。すると、語る主体[=聴く主体]の意識に問うことで得られる言語学の対象としての言語状態=共時態とは、≪意味≫と≪差異≫によって織りなされているということができるだろう。(立川, 1986 : 75)

語る主体[=聴く主体]の意識に問うという方法、すなわち「主観的分析」ないし「現在的分析」によって獲得される<共時態>という対象を構成するのは、差異であり、表意的単位であり、究極的には「表意的差異の戯れ」(jeu des différences significatives)である。つまり、言語学における「現実」、すなわち具体的な対象=単位とは、結局のところ意味をになう差異、もしくは意味の区別にやくだつ差異にほかならないのである。(ibid.:76-77)

以上、ソシュールの<語る主体>とは実は<聴く主体>なのであり、ソシュール言語学の共時的対象としての体系すなわち「表意的差異の戯れ」は、聴く主体の意識を基準とした「主観的分析」によって得られる、という立川の理論を確認した。

続いて立川は聴く主体とはどのレベルでの存在なのかという問いに着手する。言い換えれば、「その主体が個人的存在か、集団的存在か」という問いである。この問題について、立川は「語る主体」という語に用いられる定冠詞に着目している。

もちろん、「語る主体」のこの複数形の用法には例外がないわけではないが、それでも八割ほどの比率でソシュールが総称的意味をあらわす定冠詞複数形をつかっているということには、意味がないとはいえまい。つまり、かれが、言語学の一時的対象を獲得するさいに問題にしているのは、それぞれ個別的なズレをふくむ個々人の意識ではなく、ある言語を話す個人たちの総体、すなわち集団の意識ではないだろうか。(ibid.: 98)

ソシュールが「語る主体」=聴く主体について何かを言う場合、ほとんどの場合で複数形定冠詞les付きで語を用いており、したがって聴く主体とは集合的なものとして考えられる。この点については先にみたドロシェフスキーのラングは集合意識であるとの指摘とも一致するところであろう。

立川はさらにここから論を発展させ、ソシュールのラングが存在するためには語る大衆(masse parlante)が必要であること(cf. III C 324, 1285; CLG(E):172)と、静態言語学すなわち共時言語学の対象たる体系を認識する集合意識(conscience collective)が個人の意識においてもその「イマージュ(似姿)」を呈している(cf. III C 362, 1660; CLG(E):227)という第三回講義のくだりから、両者がソシュール理論においては同質的であることを指摘する。

この一節[III C 362, 1660]では、集団の意識と個人の意識が対立するどころか、むしろ同質的なものであることが示唆されている。「個人の意識」は、「集合意識」のイマージュ(似姿)を呈しているというのだから。(立川, 1986: 99)

立川は、彼の見出した「個人の意識が集団の意識と基本的に一致するというこの[ソシュールの]認識」(ibid.:100)を、言語の均質性の要因とすることで、ソシュールのラング概念の社会性が、<聴く>という行為そのものの性質に基づいているということを明らかにしたと言える。

ようするに、<語る>というのは、私ひとりのことばを語るということなのだ。それにたいして、<聴く>というのは、私以外の(あるいは私をふくめて)すべての不特定の他者たちのことばを理解するという営為なのである。だから、個人は、種々雑多な他人たちのパロールを理解するためには、そこにあって自己同一的なもの、すなわち共同体の全成員によって暗黙裡に承認されている有意味単位を分析することが必要なのだ。つまり<語る>という行為がつねに<差異>の体験であるのにたいして、<聴く>という行為は、<同一性=社会性>の体験なのである。(ibid.:100)

<聴く主体>とは<聴く>という行為を行う限り、常に共同体を代表する立場で表意的差異のみを意識するのであり、これはすなわち、<聴く>という行為が「社会集団に媒介された社会的行為たらざるをえない」(ibid.:103)ということなのである。つまりは、聴く主体の意識こそが、それが集団的であれ個人的であれ、言語の社会性を規定しているのだ。言い換えれば、有意味として聴き取れる=了解できるものは社会的であり、聴き取れない=了解できないものは社会的ではないのだと考えられる。

したがってソシュール理論においては、ラングは社会的である、そして社会的でしかあり得ないのである。なぜなら、ラング理論において前提とされる主体がすでに抽象された集合的な聴き手、聴く大衆だからである。この人間の受動性に基づく社会性はデュルケムにもタルドにも共通する特徴である。そしてその社会性の登場は、それまでの自然に対する社会から個人に対する社会への転換を背景としていることを確認したい。

4.「社会」観の変化について

菊谷(2011)はトクヴィルの時代、フランス革命以前の社会が、神という超越性によるひとつのまとまりとしての世界に包含され、人間のまとまりという意味では存在していなかった(cf. 菊谷, 2011: 23-24)のに対し、二月革命がそこから社会を切り離したことを指摘する。

トクヴィルにとって二月革命の意味は、単なる政治的変動、すなわち七月王制の崩壊と第二共和制の成立には留まらなかった。それは、[中略]神の摂理から独立した人間の世界としての「社会それ自体」が発見されたということであり、またこの社会の中では、人間の平等性はもはや神的超越的本質によって――現世における平等・不平等を不問に付しつつ――規定されるのではなく、それまでは「自ら働いて生活」せねばならない貧しい下層階級に過ぎなかった人民(peuple)の名において規定されるということであった。(ibid.: 35)

こうして世界から超越性が排除され世俗的社会が登場することになるのであるが、そこにおいて必要とされたのはその社会がいかにしてまとまりを維持されるかということであった。神的超越性なしに一全体としての社会をとらえること、その「近代社会の根本問題」に対して共和制における世界解釈の枠組みを打ち立てたのがデュルケムなのである。

そしてこの歴史的課題に対しデュルケームは、先に見た通りに答えたのだ。すなわち、歴史的現実として――既にトクヴィルの時代から、いや、実際にはそのはるか以前から――カトリシズムによって代表され、社会学史的先行研究としてコントとスペンサーの「形而上学的社会学」によって代表されていた超越的なものが持つ「真理性」を、社会的事実の可感的な「事実性」として、人間たちの生きる世俗世界=社会の中に見出し、もって超越性を失った世界=社会の内的な完結性・自己充足性を根拠付けたのである。かくて「社会それ自体」は根拠付けられ、その輪郭、その外延は明確なものとなる。そして、まさしく「それ自体」として対象化/客体化し(objectiver)操作可能な「物」となる。(ibid.: 73)

デュルケムは超越的真理性に対し、それを世俗的事実性によって代行させることによって、その第三共和制期の超越性欠落による社会の完結性・自己充足性を支えた。結果として超越的世界観の中では世界に内包されていた社会が、社会それ自体として明確な輪郭を持つ全体としての世界になったのである。

もし神的超越性のもとの平等が社会契約説における自然状態からの契約の条件とみることが許されるならば、この超越的世界から世俗的社会への転換は、神的超越性のもとで平等でありながら世俗(社会)的に不平等な存在であった人間の、世俗的存在としても人民peupleとして平等な存在への転換でもあるということができるだろう。そして神的超越性すなわち自然に対する世俗的存在としての社会(自然/社会)の対立関係が、社会/個人の対立関係へと転換したとも言えるのではないだろうか。伊藤(2012)によればソシュール、デュルケム、タルドが活躍した19世紀後半は「「私的領域」と「公的領域」という二つの領域が分離することで、社会の基本的な秩序を編成することが試みられた近代社会の形成期」(伊藤, 2012: 142)であったという。こうした背景のもと、「集団や制度を担うための役割や価値観を内面化した男女それぞれの主体の編成が進行」(ibid.: 142)していた。私的領域が個々人に属する領域であるとすれば、公的領域とは諸個人すなわち集合的な主体たちに属するものであって、そこでは個々人の意志は「基本的秩序」によってある程度制限され妥協せねばならない。

そしてこの転換は、諸言語に対する進化論的見解を否定し、言語と方言の間に優劣を見ることにすら批判的であったソシュールにもまた同様に生じ得たものであると考えられる。言語を社会(文明)と自然(野蛮)とを両端とする直線上に置こうとする類型論や系統樹説に対し、ソシュールはラングの社会性を集合的主体に結び付けることで、ラングを個々人に観察される社会学的な対象、社会的事実として新たに意味づけるのである。自然/社会から社会/個人へと転換されて初めて諸個人の連帯としての社会的事実あるいはラングが研究の対象となり得たのである。ラングの主体が聴く主体という受動性を基礎とすることは、主体たちにとって社会それ自体が受動的に受け入れざるを得ない事実であって、社会性とはこの主体の受動性と表裏一体となると考えられる。

5. 小結

以上、末永の論からラング=パロールの弁証法について検討すると、ソシュールがラングに「個人的」という形容詞を用いても、それは結局、社会的ラングを個人の頭脳に保持しているという意味においてでしかないことが確認され、ソシュール理論においてはラングもパロールもともに社会的ラングの枠組みを脱することができない、すなわち社会的ラングしか存在し得ないことが指摘された。その閉塞を脱するためには末永の「個人ラング」という位相を導入することが可能性としてあり得たのだが、ソシュールはその位相を「隠蔽」していた。ソシュールはなぜ個人ラングを「隠蔽」したのか、すなわち社会的ラングのみしかない原因はどこにあるのか。その問題について、立川によるソシュールのラング理論の主体が聴く主体でありかつそれはすでに集合的な主体を前提とした主体であることが確認した。このことによりソシュールには社会的ラングしかあり得ないということの理由が、言語活動の主体に起因することが明らかとなった。つまり集団的な聴く主体が基体かつ支えとして君臨するラング理論においては、ラングとは常に社会的かつ静的な共同体ラングとして受け取られ、変化という動態的な相は扱い得ないということである。

そしてラングがそのように主体に受動的に引き受けられる原因として、菊谷の論を軸として社会という概念の転換がソシュールの思想の背景にも見られることを指摘した。社会的事実は神的超越性がなくなった世界において個々人に具体的なかたちでまとまりを持たせる。その意味で、社会は個人に対立する概念とみなすことができるのであり、これは自然対社会から個人対社会へとその用法が変化していることを示していると考えられる。この「近代社会の形成期」において変化した社会性は、ある秩序としてそれを引き受ける集合的主体の受動性に結び付いているのである。

さて、ソシュールのラングが変化を扱い得ないと指摘したが、精確に言うならば、扱う必要がない、ということになろう。というのも、変化それ自体は社会的ラングに由来するものではなく、純粋なパロールに由来するものなのだ。しかし、末永の理論でパロールは社会的なラングを超えることは無いとも指摘されたのであった。それに対して、実際に言語は変化するものであることは疑い得ない事実である。ソシュール自身、言語の可易性と不易性として、変化の問題を考察しているのではなかったか。

ソシュールの言う変化とは音変化と類推変化の二通りであり、前者は原因が言語学的に説明することは困難であって、後者は言語学的に説明が可能なものである。ラングの創造の原理として指摘されるのも類推作用である。類推作用が既存の諸要素の応用であるとするならば、パロールが社会的ラングの枠内に収まると言うこともできるかもしれない。それは裏返せば、完全な刷新が想定されないことを意味する。それに対して言語の創造性に着目し、個々人において、それも共同体ではなく、あらゆる個人つまり人類全体における言語の共通性を主張がアメリカから登場した。すなわちN.チョムスキーの生成文法である。

チョムスキーは人間に備わった特性として言語を考えた。それは上述のソシュール理論と相反するもののように聞こえるかもしれないが、ソシュール研究の視点から生成文法を理解するならば、それは必ずしもソシュールと矛盾するものではなく、むしろソシュール理論に欠けた部分を補い得るものであるはずなのだ。議論を先取りするならば、それは思考に対応する文を創造するための理論、パロールの理論として見るべきものであると思われる。しかし、ソシュールとチョムスキーは、言語学において非常に大きな革新を成した両者でありながら、両理論を正当に比較検討した例はあまりにも少ないように思われる。それゆえに以下においてはチョムスキーの生成文法をソシュール理論と並べた場合に、それがソシュール理論に対してどのような点で異同があるのか/何を補うことができるのかを考察していこう。

参考文献表

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[1] 例えばエングラーの校訂版は『講義』を3281の断片に分割し、それぞれに対応する資料を並置したものである。

[2] ここでの「記号signe」と「概念concept」は言葉(記号)が思考を表すという伝統的な用法が残ったものであり、それぞれが「シニフィアン」と「シニフィエ」に対応する。

[3] ここでの社会的とは、個人的という性質がラングの本質には関連しない(副次的な)多様さ(偶発性)を持つことに対して、集団的な同一性をもつということで理解される。

[4] ソシュールは、<語る主体>の意識に問うという主観的分析を用いて言語学の具体的対象としての共時的ラングを獲得した。

[5] 「ところで、ソシュールのいう「語る主体」なるものは、このような能動的作用[「諸単位の「結合」」や「新たなパロールの「創造」」]を知らず、ただ他人の送ってくる言表のなかに表意的単位=差異を感じ(ressentir)たり、意識し(avoir conscience)たりすることしかしない。したがって、かれが言語理論の出発点にすえているのは、じつは<語る主体>ではなく、あくまでも<聴く主体>だということがわかるのである。」(立川, 1986: 82-83)

この聴く主体という観点を、さらにディスクールの理論と合わせてソシュールの理論がパロールの理論と表裏一体をなしていると指摘したのが末永である。cf. 末永(1998)

[6] ソシュール理論において言語記号の恣意性の内実は聴覚映像(シニフィアン)が概念(シニフィエ)に対して自然的な結び付きを持たない、すなわちその結合が無動機的immotivéであるということで説明される。「それ[記号]は概念との関係において、その記号のうちにはその概念にそれを個別的に結びつけるものが何もないという意味で、恣意的である」(III C 282, 1143-1144; CLG(E):155)。

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