悪について~仏教やヨガ、西洋哲学から考える(3)
01 禍と悪
よく知られているように、ギリシア神話によれば、プロメテウスは神々から火を盗んで人間に与えた。火を持てば、人間は神々のようになる。そこで、神々と人間の違いがなくなるのを恐れて、神々は人間の間にパンドラを送った。パンドラは人間の間に行くとき、一つの壺を抱えていった。この壺の中には、他のものと一緒に、すべての禍が閉じ込められたいた。人間の間に入っていったとき、好奇心からパンドラはこの壺の蓋を開けた。そのため、禍が人間の世界に飛び出したが、パンドラが慌てて蓋をしたため、一つの希望だけが残ったとされる。この話は、禍(ate)が神々によって人間の間にもたらされたとするところに重点がある。人間が自らの意志によって、禍を選んだとは説かれていない。だからそれは禍なのである。降って湧いたように起こるから禍なのである。それは人間の力の及ばないところから、予期しない形で、起こってくる。それに出会ったときには、いつも既に遅いのである。遅きに過ぎる人生がそこにある。悔やんでも、既に後の祭りであるよりほかない人生がそこにある。人間の側からすれば、運として諦め受け取るよりほかない人生がそこにある。それは、人間の責任からくることでないから、罪ではない。犯さざるをえないところに、期せずして不本意ながら追い込まれていた。
気づいてみると、そこに自分がいたという形になっている。苦と死はこういう形で受け取られている。恐らくこの場合も、出会っている「現」の禍から、ふりかえってその根拠に言い及んだものと思われる。そこに出てくるのが、運命に対する諦観であり、できるなら、この禍をなしですまそうとする知恵(sophia)への待望であったと思われる。ソクラテスのあの言動のなかに、この知恵とこの諦観がなかったとは言えないであろう。人生そのものの謎が、ダイモンという形で語られていることを思い起こせばいい。これは、積極的に何かをせよという声ではなく、踏み外してはならないという禁止を語りかける声であるとされている。禍は人間の行為に対する報いであるが、そうとわかっていれば、誰もあえて行為をするものではないだろう。「1番いいこと、生まれてこなかったことであり、次にいいことは、今すぐ生まれてきたところへ帰って行くことである」とする、シレノスの知恵が語られる所以であろう。
こうしてギリシア的には、悪は、ものごとが当然あるようにある、その本来にはずれることである。その当然と本来を見極めることが、知恵であるということだ。外れまいとする心とする人間の願いであるとすれば、現に余りに多く外れているとするのが、世の有様であるということになる。だから、重ねて言うが、禍の「現」から振り返って、禍なきものの根拠を尋ねているという形になる。禍多く、悪のはこびる人生を、経験し過ぎた人々がそこにいる。これこそ、釈迦の出発点となった生老病死、つまり業であろう。
02 業
根本仏教の教えとして伝えられるところによれば、一切皆苦、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静というのが、釈迦の説いたところであるという。ここに生老病死という業の「現」に出会って、これを超越することに腐心した人間がいる。これがやはり問題の発端であろう。業のないところ、その意味で、善悪無記のところに達しようとする人間がいたことになるが、このことは業、善悪の「現」に人間がいたことを証して余りある。生きることにすべてを賭けて、しかも、踏み外すされた人生がそこにあるという、その「現」が問題の発端であることになる。だから、仏教的には、善悪の対決は中心問題とならない。つまり、両方は根本的に曖昧とならざるを得ない。業からする悪の報いとして責め苦を描写するときには、極端と言ってもいいほどに克明に語られているが、それは対決さるべき世界であはなく、逃れられたら逃れたい世界である。業をなくすために、業と対決するとは言われない。業は、所詮、逃れられない人間の常ながら、これが問題にならぬ境地に達すること願われている。地上からみてどれほど厚い雲でも、一度その上で出れば青空であり、太陽はさんさんと輝いている。だから、まよいの雲の上に出ることである。そういう雲は本来のものではないと、見極めうる境地に立つことである。その境地に達すること、それに煩わされぬ場を我がうちに見付けること、もっと強く言えば、身や心を忘れて、この境地そのものになり切ることが説かれる。だから、業と対決し、これを戦って、亡ぼすというものではない。我らの出会う俗世は、業そのものにほかならない。この点で、どうにもならない禍の存在を見つめるギリシア的思考に、つらなるものがあると言える。
これまでヘブライ-キリスト教的、ギリシア的、仏教的な考え方を述べてきたが、それぞれに特色があると言うものの、現に出会っている否定的なもの、悪が発端であって、これから遡って、その源に及ぶという点では同じである。これは問題の中心である。このことついては、ひとびとの間に反対があるかもしれないが、私は、そこがわれわれの人生の発端であると思っている。カントが、人類の歴史は悪の意識から始まること言っていることが、この場合にも意味を得てくる。この悪という否定の現に出会って、これに対応しようとするところ、そこに立てられるものが、肯定である。だから、否定に出会う肯定、これが有り様である。肯定を離れた否定、もしくはその逆があるというのではなく、否定に出会うことにおいて、今更のように、肯定を自らに言い聞かせられないということ、これが問題の重点であるといえる。否定があるということにおいて、出会われた肯定、そこに見付けられたものが、自己同一であろうとする自己である。自己の自覚といわれるものが、はじめからあったとは考えられない。そこに、自己同一なる自己が、まず初めに自覚されていたとは考えられない。自己同一を否定するものにおいて、逆に自己同一の自覚が求められるのである。いわゆる客観的な叙述からすれば、初めに自己同一があったことになるだろうが、この考えは、ことがらを無視した発想にほかならない。客観的態度においては、自己はいつでもそのことがらの外にしかいない。この場合には、そこに主体がいて、ことがらのなかで苦悩するということは、考えられていない。初めに自己同一(善)があったとする態度からすれば、苦悩する状態は、その自己同一が崩れたものだと考えることになる。その場合には、苦悩は凡そ他人ごとの如くに語られることになる。そうでなければ、客観的でありえないとされるのである。
03 客観的ということ、正邪善悪
だが、そのとき、そのように客観的であることは、「正しい」ことがらであるという前提がある。したがって、この正しい態度がとられるとき、人々は人生に対し、正しくないし、否定的であるとされる。この態度は、すでに、人間の在り方そのものに対する要求を含んでいる。この要求に背くものは、捨てられるべきであるとする態度がとられている。そこに、表には必ずしも現れないとしても、捨てられるべき態度に対して、「悪」を見ようとする傾きがあることを、否定することはできない。これが極端になるとき、「啓蒙主義」と呼ばれるあの態度となる。客観的に「科学」的態度をとらないことは、「悪」として捨てられるべきであるとする態度が、自覚的であるか否かは別として、そこにあることは否定できないであろう。
科学的、客観的態度とされるものは、もともと、道徳的に対しては無記であると考えられるのが普通である。だが、その起こりからするとき、迷妄を脱せよという呼びかけは、同時に道徳的ひびきをもっていたのである。真善美は、互いに侵さず侵されぬ独自の境位を自らに持つとする考えは、カントに発して近代において一応定着したものであるが、一層根本的に考えるとき疑わしくなる。科学的真は道徳に関係なく、それ自身で独立に存在しているかのように思われる。だが、科学的真を立てることが、そしてそれが何者にも邪魔されてはならないとすることが、すでに道徳的であると考えられているのであり、その形においてこれに反対する「旧道徳」は否定的に扱われていたのである。科学的態度を否定することは、やがて悪なのである。表向きは、真に対する偽とされる。その真偽には道徳の匂いさえも入ってはならないとされる。これが近代において確立され、科学者の「良心」となったとされる。はしなくも「良心」という言葉が使われる。「科学」のなかには、それ以外の他の要素を微塵だに入れてはならないという。だが、そのこと自身、すでに科学者の道徳ではないかと思われる。純粋なそれ自体に身を置こうとする態度は、それなりにうなづけないではないが、そのことはすでに、科学は、自ら良心の主体として、意識することなく、善の立場に立とうとしている。これは前にに述べたところによれば、一方の極、すなわち当為である。
一方の極に立つことが、それ自身すでに他方の極を前提しているが、この他方の極には、政治的に利用されること、特定の目的のために利用されることなどがある。かつてソ連の一物理学者が科学にイデオロギーを持ち込んだとして、西側の科学者から批判されたことがあった。かく非難しうるためには、その前提として政治的中立という自負がなければならない。だが、かく非難する人々はみな、西側諸国の学者であった。そこに、全く政治が入っていないという保証は、どこにあるのだろうか。良心、それ自身、科学それ自身という。それは純粋な世界である。前に述べたことからすれば、これは当為の世界である。ここに当為的純粋が保たれているかの如くである。だが、果たして艘であろうか。その科学者は例えば「自由社会」アメリカの経済によって、支えられた人々ではないのだろうか。そのアメリカ経済がいかなるものであるかを考えるとき、科学者の言う純粋さや独立を額面通りに受け取ることができない何かがあることを、否定することはできない。だが、もちろん、このことによって、当の科学者諸氏の「良心」に疑を容れるつもりはないが、人々の意図にも拘わらず、動いて行く事態の大きく深い方向は、何人にも見透かすことはできえないはずである。このことは、ギリシア人の知恵がすでに早く示してくれたことではないか。初めから言っているように、純粋をいい、当為を主張することの無意味を言うつもりはない。だが、問題はそれにもっかあわらず、当為を包み込む歴史があるということである。宇宙船と称せられる科学者的当為が、軍事目的と全く関わりが無いと誰が保障しているわけでもあるまい。問題はなかなかに困難である。
04 同一なるものそれ自身
さて前に帰るとして、問題は見知らぬものにーそれはおそろしいものであったり、不気味なものであったりするだろうがー違和感を与えるものに出会うことにおいて、自己に帰るという形で自己同一があったのである、ということであった。そういう異質的と思われるもの、つまり否定的なものにおいて、肯定されるべき自己に更めて出会うということであった。いわゆる客観的には、始めに自己同一なる自己があって、それが否定的なものに出会うとされる。だが、そう言われる客観的ということも、客観的なものを客観的とする主体がいる。このことなしに、客観的なものそれ自身などがあるわけではない。だから、前にのべたことを、そこにいる主体を抜きににして扱うことから、客観的態度というものが生まれるのである。自己同一なる人間が、それをおびやかすものとしての客体に出会う形になる。それはあたかも独立に存在する二つのものが出会うような形で扱われるのである。だから、そういう形扱われるとき、そこには主体がいないかのような形になる。独立名物と物が出会うのと同じ扱いをうけることになる。
したがって、違和感を与える何かに出会うという形での、主体の出会いは姿を消してしまうのである。つまり、客観的といわれるそのときさえ、すでにそれは主観における客観なのである。この主観を無視して、それ自身にことがらが客観的にあるかのように考えるのは、間違いと言わねばならない。客観は主観において始めて客観なのである。客観的対象をそれ自身に自己同一なものとして、他から独立に扱うという科学的態度は自ら自己自身で、つまり自己同一であろうとする主体(観)の前提において始めて、そう有り得る。だから、その態度とは、自己同一であろうとする主体に支えられているのである。それ自身で独立に存在する客観的なるものがあると、考えられるところ、そこにすでに主観(体)がいるのである。それは、恐ろしいとか、気味が悪いとかいう形で言われることのそこに、そういう形で対象に出会っている主観がいる、という形に通じている。つまり、その出会いにおいて、振り返って見付けられ、気づかれるものが自己同一なる自己なのである。
客観的にというときには、その出会いの場における自己が捨象されているのである。だから、それ自身独立なる主観と、それ自身に独立なる客観との関係という形で考えるのは、この出会いの関係を捨象してしまっていることになる。言い換えれば、それ自身言っているところ、そこに、主観がすでにいることを捨象してしまっているのである。最も客観的な態度をとろうと積極的に主張する啓蒙主義的態度が、実はそうあることの正しさを、他から独立させようとする主観的意図に担われて、はじめてありえるのである。そういう形で、啓蒙主義を主張する主体の自己同一が保たれているのである。迷妄に出会うことにおいて、啓かれた自己の同一に帰る主体がそこにいることになる。このことを前に述べたことからいえば、次の通りになる。
否定的なものに出会うことにおいて、振り返って自己同一につきあたる。そういう形で否定的なものに対して肯定的なもの、つまり、自己同一を保とうとする自己につきあたるのである。客観的と言われる態度は、この関係を捨象して、この関係をいってみれば結果から受け取って、そこに主客関係が、つまり相互に独立な二つのものが関係あるとするところから、始めるのである。だが、私が言おうとしていることは、そういう、いわば静的な関係の手間に違和感を与えるものに出会って、驚きその他を感じ、改めて自己に帰っている関係が、すでにあったのだということである。善悪の関係を考えるとき、このことは極めて重要なことである。つまり、善と悪という二つのものが初めから独立にあって、それが相会う関係なのではない。まず、何らかの形で、おびやかすものに出会って、自らを守ろうとするところで突き当たるところ、そこに自己同一(善)が気づかれるのである。
否定的なもの、つまり悪に出会うことにおいて、更めて自己同一なるもの、善を自覚させられるのである。だからこの場合に言えることは、自己同一を保とうとするところに、つれて行かれるということである。だが、このことは、まず始めに悪があって、善が後から出てきたという意味ではない。違和感を与えるものにおいて出会われ、ぶつかったところに、それに対して自らを保とうとする働きが同時に行われているということである。悪の方が比較的に言って根本的であるとするのは、この関係を言い表した物にほかならない。肯定的なもの善と否定的なもの悪が、対立の形で独立に存在するのではないということである。否定的なものに出会うそのことによって、肯定的な自己に帰り、つきあたるというべきである。ここに出てくるのが自己同一なる主体としての自己である。それが善の主体とされるものである。その意味で悪が言われるところ、そこには、いつでもそしてすでに、善が居るということである。
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【監修者】 | 宮川涼 |
プロフィール | 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。 |